小説『Hate“S” ―悪夢の戯曲―』
作者:結城紅()

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 ――僕を見据えていた。

 途端、先般に増して歯の根が合わなくなる。
 地につく足がなく、浮揚するソレは、死屍累々の死体を築いた鋭利な歯をこちらに向けニタリと嗤ったように見えた。ソレに実際表情があるのかどうか定かではないが、僕はその瞬間生きることを放棄した。

 幽明の境界の向こう側へ逝ってしまった両親に、直ぐ顔を会わせることになるだろう。何を言われるだろう。妹を救おうとして、竦んだことを論わられるのか。はたまた意気充溢と登校させたことを後悔するのか。慰めてくれるのか。

 ならば、結花はどうだろう。
 この先生き続けたとして、彼女に幸福な未来が訪れるとは到底思えない。もしかすると、火柱の上がる境界線の向こう、業火に焼かれて焼死体になっているかもしれない。いや、そうに違いない。この火災の中、扉以外脱出口のない状況じゃ死からは逃れられない。だとしたら、きっと彼女は僕を恨んだだろう。千の怨嗟を込め、万の呪詛を吐いたに違いない。

 だが、それら全てはこれから死にゆく僕になんら関係ない。
 終わりが訪れる。終焉が。僕の人生のエピローグ。

「グルルル……」

 魔眼が僕を睨めつける。
 やがてソレと僕が目と鼻の距離まで詰められた時、ブシュッと音をたて血が空に迸った。ワイシャツが血に濡れる。


 ――黒い血に。


「グギャアアアァァアアアァァア!!」

 僕の眼前でソレが悲痛な悲鳴を上げていた。転瞬、かまびすしい大音声に人心地ついた僕は息を吹き返したように荒い喘鳴を上げていた。
 ソレを凝視すると、無窮の闇のような体から煙が上がっていることに気付く。ソレは体積の半分を焼き切られていた。

「気分はどうかな、少年」

 俄かに、ソレの横に一人の男がいたことに気付く。男は痩身痩躯な肉体の上に、熱気が充満しているにも関わらずぬばたまの闇のような黒いロングコートを羽織っていた。黒髪の下に覗く気味の悪い仮面が真っ直ぐ僕を見つめる。    

「先ほどまで少年を威圧していた化け物が、目の前で悲鳴を上げている。再度問おう。気分はどうかな?」

 忽然と現れた仮面の男が手を掲げる。すると、男の右手からあろうことか黒い炎が現出した。
 目前の情景に総毛立つ。
 何も変わりはしない。恐怖の対象がすり替わっただけだ。この男も、ソレも、両方化物に違いない。

「……最低だ」

 ソレの金切り声が響く中、呟く。

「僕は結花も、父さんも、母さんも。誰ひとりとして救えなかった。僕に生きる価値はない。殺せ」

 男は靴で二度床面をタップすると、嬉々踊る表情を見せた。

「それだよ。私が欲しいのは。その顔、その瞳。深い絶望に沈んだその心こそ私が求めるものだ。ただひたすら助けを乞うた君の妹とは違うね」

 ――今、なんて?
 僕を助けたのに、結花は……。

「見捨てたのか……?」

「ああ、いらないからね」

 言って、男が腕を水平に振り切る。ソレが闇色の炎に焼かれ、泣き叫ぶ。

「彼女も同様に絶望していたね。最期の最後で兄に裏切られ、死を意識したんだから。君に私を責める権利はないだろう? 違うかい?」

 僕は反駁することなくうなだれる。この男の言う通りだ。僕にとやかく言う権利などない。

「少年。君に二つの選択肢を与えよう」

 男がこちらに向き直る。威厳をただした男の無機質な仮面の奥から注がれる、冷血な視線が僕の肌を粟立たせる。

「一つは、私を憎み生きるか」

 憎いよ。憎いさ。結花を見殺しにしたんだから。だけど、口に出すのも憚れるようなことを言った瞬間、僕の生命は保証されかねない。殺せなんて叩いた口が、今じゃ命を保とうと必死になっている。まったくもって遣る瀬無い。

「それとも、ここで死ぬか」

 瞬間、部屋の温度が一気に下がった。滴る汗は熱気によるものか、それとも生命を脅かす恐怖からか。日常の中に生き、平和ボケした頭が答えを弾き出そうとフル回転する。

「このまま火に炙られるか。もしくは私の手に掛かり息絶えるか。死にたいのなら選ばせてあげよう」

 理知的な思考が出来なくなった頭が。脳漿をぶちまける勢いで回転していた頭が。本能に任せて渇いた口を開く。


「僕は……

       生きたい」

 途端、男が宙を仰いで哄笑を上げた。

「ハハハハ!! そうか、ならばそうしよう」

 恐怖と熱気にやられた頭は、答えを紡いだ瞬間前のめりに倒れた。
 意識が遠のく。
 頽れるようにして倒れる最中、僕は狂ったように快哉を叫ぶ男を垣間見た。
 
 この日から僕、桜庭亜希(さくらばあき)の人生は狂い始めた。歯の合わなくなった歯車のように、歪な音をたてて回り始める。
 それはまさに、悪夢の戯曲の始まりだった。

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