コールズとラズリに別れの挨拶をしてアンディ宅を出たアランは、白壁に背を預けしばらく庭の樹を眺めていた。風に揺られる梢の音を聞きながら、しばらく自分の心と向き合う。
フローラは優しい。だからこそ彼女の一言が胸に突き刺さる。あのまま、彼女を連れて旅に出ていれば――
「それだけ、僕にとって彼女は大きな存在なのだろうな。きっと」
憂鬱と言うには甘酸っぱく、幸せと言うには切ない。これまで生きてきて、初めての感覚だった。
瞑目し、気持ちを切り替えたアランは再びルドマン邸へと向かった。火山洞窟で手に入れた『炎のリング』を渡すためである。
ルドマン邸の扉を叩くとすぐにメルフェが出迎えてくれた。彼女はアランが何かを言う前に「お待ちしておりました」と頭を下げ、そのままルドマンの執務室へと案内する。昨日のうちに話が伝わったのかもしれないとアランは思った。
執務室に入ると、ルドマンはソファーに座ってゆっくりと紅茶を楽しんでいた。実にくつろいだ様子である。見ると、目の前のテーブルにはささやかだが色鮮やかな菓子が並べられていた。
「甘いものは好きかね」
ソファーに座るようアランを促しながらルドマンが言う。どういった風向きか読めず、アランは曖昧に笑った。ルドマンは自分の顎を撫でる。
「こんなナリだが、私は結構甘いものが好物でね。ずっと書き物ばかりしていると、時々無性にこういうものが食べたくなるのだよ」
そう言って焼き菓子のひとつを口に運び、幸せそうに食べる。好奇心が湧いたアランもひとつ口に放り込むと、その瞬間に上品な甘さが口内に広がり、思わずほっと息をはいてしまう。
「おいしいですね」
「だろう?」
どうやらルドマンは上機嫌のようだった。その笑顔につられ、先ほどまで感じていたささいな心のわだかまりが解けていく感覚を抱く。
ひとつ息を吐いて、アランは表情を改めた。今日は大事な報告をしなければならない。
そしてアランは――頭を深く下げた。
「申し訳ありませんでした、ルドマンさん」
この態度は予想外だったのだろう。ルドマンは目を丸くした。
「はて。私は何か謝られるようなことをされたかな? 今日はてっきり朗報が聞けると思っていたのだが」
「フローラと、デボラのことで。彼女たちを危険な旅に連れ出てしまいました。特にフローラは、僕の願いで一緒に火山洞窟の奥まで赴き、そこで強敵と戦うことになりました」
頭を下げたまま、アランは続ける。
「フローラが帰ってきたとき、きっと驚かれたと思います。彼女も無傷とはいきませんでしたから……ですが、彼女の力がなければ、僕はこうしてルドマンさんに五体満足のままご報告もできなかったでしょう。ですからこの場でお礼と謝罪を――」
「ふっ、ふはははっ」
こらえきれない、といった感じで笑うルドマンにアランは顔をあげた。そこには苦笑を浮かべる豪商の姿があった。
「君はまったく、これでもかというほどお父上にそっくりなのだな。いや、あの方より真面目なのか。だが、あまり堅物すぎてはうまく回るものも回らなくなるぞ?」
「そ、そう……なのですか?」
「君がここを発つ前、私は言っただろう。たまには無茶も必要だと」
ルドマンは紅茶をすすった。どことなく感慨深げな口調になる。
「フローラの姿には確かに驚いたが、それ以上にあの子の目つきに驚いたよ。まあ、箱入りと言っても構わないほど大事に大事に育ててきた娘だ。どこか世離れした大らかさ、とでも言うのかな、そういうところがフローラにはあったと承知している。だがどうだ。昨日、君と一緒に帰ってきたとき、とても強い瞳をしていたよ。あれは修羅場をくぐってきた者の目だ。そう、ちょうど君のように」
「それは、ですが」
「怪我をしてもかまわない、とはさすがに言えないが、君がそこまで気に病むようなことはないさ。あの子は無事に帰ってきたし、得るものも大きかったようだ。思うに、アラン君。君が護ってくれたのではないかな?」
アランは口をつぐみ、首を横に振った。
確かに護った。けれど、護られたのも事実なのだ。彼女は仲間だから。
「フローラは、強い女です」
気づけばそう口走っていた。ルドマンは小さく微笑んだ。実に美味そうに菓子を口にした後、「そう言ってくれるか」とフローラの父親は言った。
菓子をすべて胃に収めると、ルドマンは話題を変えた。
「さて。それでは本題に入ろうか。君の報告を聞こう」
「はい」
アランは道具袋から炎のリングを取り出す。丁寧に布で包んだそれを、ルドマンの前で広げて見せた。
宝石の中心でかすかな赤い輝きを放つ炎のリングを、ルドマンは一転して真剣な顔つきで見つめ、手に取り、観察した。宝石部を長い間見つめ、そして自ら手拭きを取り出し、リングを包んだ。
「結構。確かに炎のリングだ。第一の条件を君が見事乗り越えたことを認めよう」
ありがとうございます、とアランは頭を下げた。
「でも僕一人ではとうてい手に入れることはできなかったものです。フローラや仲間がいたから――」
「そう言うだろうと思っていたよ。君ならな」
立ち上がったルドマンはアランの肩を親しげに叩いた。それから壁際まで歩き、そこでアランを呼ぶ。壁には近隣の地図がかけられていた。
「それでは約束通り、水のリングの場所を教えよう。地図を見たまえ」
ルドマンは中心を指さす。そこにはサラボナの町が描かれている。彼の指はサラボナの付近を流れる川に移り、そこから北へとずらし、川の上流にある湖で止まった。
「この湖には巨大な滝が存在する。水のリングは、その滝裏の洞窟にあるという」
アランは目を凝らす。手書きの地図だが、湖の周辺は山で囲まれているようだ。陸づたいに洞窟を探すことは難しいように思われた。懸念を伝えるとルドマンはうなずく。
「見ての通り、洞窟へは水路を行かねばならぬ。そこで私が所有する船を一艘、君たちに与えよう。外洋船ではないので大きくないが、旅の仲間を乗せて川を上る分には十分だろう。この川の流れは緩やかだから、操船についてもそう心配する事はない。すぐに手配させる」
「ありがとうございます」
「湖の手前には水門がある。そこを通らねば洞窟へは行けないが、まあ心配することはない。水門から東に進んだ山の中に小さな村がある。水門の管理はその村の人間に任せているから、事情を話せば門を開放してくれるはずだ。何なら私の名前を出してくれてかまわないよ」
アランは再び頭を下げ、礼を言った。するとルドマンはまた肩を叩いてきた。
「私は君が気に入ったのだ。このくらいどうということはない。吉報を待っているよ。アラン君」