その夜。
久しぶりに柔らかな寝台に身を委ねていたアランは、ふと目を開けた。目線だけで辺りをうかがい、それからゆっくりと枕元に手を伸ばす。立てかけてあったパパスの剣を手に取り、いつでも抜き放てるように構える。ただし、体は横たえたままだ。
すでにピエールとサイモンは動き出している。寝具の中から小さく手を出して彼らを制し、アランはじっと様子をうかがった。
やがて聞こえてくる梢の音。何者かが敷地内の樹から宿の屋根に乗り移った。こつ、こつとやけに高い音を立ててアランの部屋の真上に来る。直後、何のためらいもなく窓から部屋の中に躍り込んできた。
アランが動く。寝具を跳ね上げ、同時に抜剣し、その勢いのまま侵入者へと突きつけた。刀身が空気を切る音が、まるで金属楽器のように涼やかに響く。
パパスの剣は、侵入者の首筋ぎりぎりで止まっていた。
「何よ。危ないわね」
平然と声を出した侵入者にアランの体から力が抜ける。驚きのあまり、剣を納めることも忘れてアランは問いかけた。
「……もしかしてデボラ?」
「へえ、ちゃんと覚えてたのね。小魚にしてはよい心がけよ。偉いわ、アラン」
月の光が窓から差しこみ、暗闇に慣れてきた目がその姿を浮かび上がらせる。
ポートセルミで見かけた派手で華やかな衣装そのままの姿で、黒髪の美女デボラがアランの前に仁王立ちしていた。怖れ、遠慮、一切ない。十年前の自信に溢れた表情はいまだ健在だった。
ルドマンの娘、フローラの姉デボラ。かつてラインハットで再会して以来、言葉を交わすのは十年ぶりのことだった。うっすらと浮かべた微笑みと漆黒の瞳に見据えられ、アランの心臓がひとつ大きく鳴る。
とりあえず部屋に灯りを灯し、アランは座るようデボラに言った。すると彼女は何のためらいもなくアランが寝ていた寝台に腰を下ろす。両足まで寝台の上に上げ、実に寛いだ仕草で体を伸ばしていた。
「あー、やっぱり外はいいわ。このまま寝ていい?」
「事情を話してもらわないことにはとても許可できないんだけど。どうして僕の部屋に?」
ちらとアランを見たデボラは、次いで部屋の中を見回した。部屋の中に集まった仲間モンスターをじっくりと検分する。彼女は大きくうなずいた。
「うん。これだけ子分がいれば文句はないわね」
「子分?」
その言葉の響きにアランが眉をしかめる。するとデボラは笑った。
「アラン、あんたもずいぶんと力をつけたみたいだし。さっきの一撃、このあたしですら対応できなかったわよ」
「当然です。市井の者に、我が主が後れを取るはずがありません」
若干の不快感を滲ませて、ピエールが言った。デボラの方は気分を害した様子もなく、むしろ面白そうに魔物の騎士を見ている。
「あんた、もしかしてあんときの? へえ、今はアランと一緒にいるんだ。面白いじゃない」
「デボラ」
わずかに語気を強めてアランが問い詰める。このまま話をはぐらかされたらいつ本題に入れるかわからなかった。デボラが肩をすくめる。
「あたしがここに来たのは、まあ、下調べって感じかな」
「下調べ? 何の」
「フローラのお相手探し」
彼女の答えに、ますます何のことか理解ができなくなる。
「夕方、フローラから聞いたのよ。アランがこっちに来てるって。でもあの子のことだから、自分から確かめようとしなかったのよね。アランだって確信してたくせに、『十年も経ってるから、きっと忘れてるだろう』って。まったく、気になって仕方がないって顔してたのに、我が妹ながら強情よね。アランがあたしのことを忘れるはずがないじゃない。同じように、フローラのことを忘れるはずもないわ。そうでしょ?」
自信満々に断言され、アランはようやく肩の力を抜いた。苦笑しながらうなずく。
「僕はむしろ、二人の方が僕のことを忘れていると思ってたよ」
「まあ、それはないわね。あたし、約束を破った男はだいたい覚えてるもの」
「……もしかして、あのときの言葉はまだ生きてるのかい」
「ふふふ」
と、妖しげに笑われては何も言えない。何とも恐ろしい女性に成長したものだとアランは思った。
「それにしてもあんた、またもの凄い時に現れたわね。正直感心するわ」
「どういうことさ」
「さっきも言ったでしょ。フローラのお相手探し。少し前からパパが正式にあの子の結婚相手を募り始めたのよ。で、そいつら集めてパパ自ら結婚について話をするのが、明日ってわけ」
悪戯を思いついた猫のような目で、デボラがアランを見る。
ピエールが一歩前に進み出た。
「デボラと言いましたか。貴女が言うその事情と、貴女が盗賊まがいの侵入を試みたことと、いったい何の関係があるのです」
「あら、わかんない? あたしね、弱い男が子分なのは嫌なの」
「答えになっていません」
「ふ……ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ! こりゃまいったの! 何とも面白いお嬢さんだ!」
突然マーリンが笑い出した。その目にはデボラそっくりの悪戯っぽい色が浮かんでいる。デボラは手を叩いた。
「そっちの爺さんはあたしの言いたいことがわかったみたいね。うん、カタブツばっかりじゃないのも得点高いよ」
「そりゃ光栄じゃわい。アラン殿、つまりですじゃ。デボラ嬢はこう仰っておるのじゃよ。『アランなら子分として認めるから、あんたがフローラと結婚しろ』とのう! 結婚すればデボラ嬢とも身内の関係、やりたい放題というわけじゃ。今日の侵入は、その判断をするためといったところじゃろうて!」
アランは本気で凍りついた。その様子がおかしかったのか、デボラとマーリン、二人揃って腹を抱える。ピエールがただならぬ雰囲気をまとってマーリンに詰め寄った。
「爺。よもやあなたは、つい数日前の会話を忘れるほど惚けてしまっているのではないでしょうね」
「失敬な。ちゃんと覚えておるから面白いのではないか」
「爺……!」
「まあまあ。あんたら、ちょっと落ち着きなよ」
目元の涙を拭いながらデボラが取りなす。マーリンを除いた仲間モンスターが疑いの目で見詰める中、彼女は少し表情を改めた。
「真面目な話、あたしはアランを気に入ってるんだよ。あんたの力は本物だと思っているし、あたしの子分に相応しい人間だって気持ちもウソじゃない。こう見えて人を見る目はあるつもりだからね」
胸を張る。確かにそうなのだろうと思わせる何かが、彼女にはあった。
「ま、それ以上にね。ウチの困った妹を、あんたなら任せてもいいかなって思ったのさ。十年前、そして今日。あたしをこういう気持ちにさせたのは、後にも先にもあんただけだよ。誇りな」
「君の気持ちは嬉しい。けど具体的に、僕に何をさせたいんだい?」
アランは静かに問いかけた。デボラは寝台から立ち上がり、アランの前に立った。
「明日、婿に名乗りを上げた人間があたしの家に集まることになっている。あんたはフローラの婿に立候補し、他の連中と一緒にルドマン邸に来るんだよ。そしてあんた自身で、フローラの婿に自分が最も相応しいことをパパに認めさせな」
「我が主が行かなければどうするつもりです」
ピエールが慎重に問う。デボラは横目で騎士を見た。
「そのときはあたしからパパに口添えする。パパ、きっと十年前のこと覚えてるよ。あのおっさんの息子なら、パパも興味が湧くわ。絶対に。でも、あんたはそんな情けないことをしないわよね、アラン」
アランは黙った。デボラは彼の瞳をじっと見据える。アランが顔を逸らすこともしかめることもしなかったので、彼女は満面の笑みになった。
「さすがあたしの見込んだ男ね」
「君の話はわかったよ。だがデボラ、今日はもう遅い。騒ぎになる前に家に戻るんだ。いいね」
「パパみたいなこと言うのね。でも、まあいいわ」
にや、とデボラは笑った。
「もしフローラに振られても安心なさい。その時はあたしがもらってあげる」
片目をつむり、彼女は軽やかな仕草で窓から出て行った。「何でふつーに扉から出ないのよ……」とメタリンが呆れた声を出した。
何事か考え始めたアランの横で、ピエールとチロルが盛大なため息をつく。忠実な魔物の騎士はしみじみとつぶやいた。
「もはや時既に遅かったのかもしれません」