――アンディさん、あれから一言も喋らなかったな。
会談の部屋を出たアランは眉を下げた。差しこむ昼間の陽光は屋敷の廊下を美しく照らしていたが、アランの心は晴れなかった。
「さすがに、今すぐ出かけるほど考えなしの人じゃないと思うけれど……」
宿に戻ったら、ドラきちかコドランに様子を見てもらった方が良いかも知れない。そうアランは考えていた。
深い絨毯の上をゆっくりと歩く。そういえば足裏から伝わる感触がラインハットのものとそっくりだ。城の物品もルドマンが手配しているのだろうかと思うと、改めて、これから話をしようとする相手の偉大さに体が緊張する。
邪悪な魔物相手に戦うこととは、まったく違った緊張感だった。
だがこれは自分にとって必要なことなのだ。きっと――
「きゃっ!?」
「あ! すみません、大丈夫ですか」
ちょうど廊下の角から出てきたメイドと鉢合わせる。会談の時に用意されていた飲み物を片付けているのだろう。銀色のトレイには容器が山積みになっていた。
アランが支え、何とか崩れることを防ぐ。メイドが頭を下げた。
「も、申し訳ありません。周りをよく見ていなくて」
「いえ、こちらこそ。不注意だったのは僕の方ですし」
言いながら、アランは気づく。目の前の人物は会談の部屋まで案内してくれたあのメイドだ。女性の細腕には少々重いのか、トレイを持つ両手がわずかに震えている。アランは思わず申し出た。
「手伝いましょうか?」
「いえ、結構です! お客様にそのようなことはさせられませんし、これくらい、お屋敷付きのメイドとして当然――わ、わ、わっ!?」
言っているそばから転びそうになる。アランは容器の数々をトレイごと彼女から取り上げた。
「あ、あ!」
わたわたと慌てるメイド。そうしていると、初対面で見たときのような刺々しさ、冷たさが感じられない。そうか、こちらが素の表情なんだなと安心したアランは、ふと、彼女の顔色の悪さに気がついた。
屋敷に来た当初は気づかなかったが、彼女の目元には隈(くま)がある。だいぶ疲労が溜まっているように見えた。どうりでふらふらと足元が覚束ないはずだ。
「このトレイはどこに持っていけばいいですか?」
「お、お客様!」
「お節介かもしれませんけど、さすがにそんなに疲れている様子なのを放っておくわけにはいかないですよ」
メイドの動きがぴたりと止まる。
「えと……そんなにヘロヘロに見えますか、私? やっぱり?」
「ええ。まるで長旅をしたのに全然眠れていないときのような」
「うぐ」
どうやら図星を指してしまったらしい。アランは苦笑を浮かべ、それ以上は何も言わずにトレイを運んだ。メイドと共に厨房へと運び終わると、メイドは深々と頭を下げた。
「重ね重ね、申し訳ありません。お客様にこのようなお手間をとらせて」
「気にしないで下さい。それより、体調には気をつけた方が良いですよ。休めるときには休まないと」
そうアランが言うと、メイドは肩の力を抜いた。
「お客様は、まるでフローラお嬢様と同じようなことをおっしゃるのですね」
「え?」
「お嬢様はとてもお優しい御方です。私たち御付の者に対してもお気遣いをしてくださる。だからこそ私たちも、誠心誠意お仕えしようと思うのです」
胸に手を当て、深く感じ入ったように言う。「本当に大切に想われているのですね」とアランが言うと、彼女は大きくうなずいた。
「ですから、この度フローラお嬢様がご結婚されると聞いて、少し動揺してしまって……なかなか普段通りの仕事ができずにいたのです。お客様にも冷たい態度を取ってしまい、何だか申し訳なくて」
「それで眠れなかった、と」
「すみません。でももう大丈夫です。お手間を取らせて申し訳ありません。えっと……」
「僕はアランといいます」
「アラン様、ですか」
メイドの動きが再び止まる。アンディのときの反応と一緒だなとアランは思った。
「申し遅れました。私はルドマン様とそのご家族に使えるメイド、メルフェと申します」
以後お見知りおきを、と頭を下げるメルフェ。それから彼女はアランにこう言った。
「ところでアラン様はもしかして、ルドマン様とのご会談をお望みで屋敷に残っていらっしゃるのでしょうか」
「そうですね……できれば、これから会ってお話がしたいのですが」
「わかりました。私がご案内いたしますので、少々お待ち下さい」
手早く食器類を片付け、新たに二人分の紅茶を淹れた容器を持ってメルフェはアランの前に立った。
「ちょうどお飲み物をお持ちするところです。どうぞこちらへ」
その言葉に従い、アランは彼女に付いて廊下へと出る。二階へ上がり、奥の角部屋へとやってきた。重厚な扉を前に、メルフェが恭しく声をかける。
「ご主人様。お客様をお連れいたしました」
「客?」
扉の向こうで怪訝そうな声がする。やがて「入って頂きなさい」と告げられ、メルフェはゆっくりと扉を開けた。
執務室特有の本とインクの香りがアランの鼻腔をわずかに撫でた。メルフェの後ろから部屋に足を踏み入れたアランは、窓を背に書き物をしているルドマンの姿を見た。真剣に書類に目を向ける彼の姿は、まさしく豪商の勇名どおりの雰囲気を醸し出していた。
ペンを走らせる手を止め、ルドマンが顔を上げた。目が合ったアランは若干たじろぎながらも、しっかりと声を出して名乗った。
「お久しぶりです、ルドマンさん。覚えていらっしゃいますか? 僕はアランです。パパスの息子、アランです」
「アラン……」
記憶を探るようにつぶやいたのも束の間、ルドマンは目を大きく上げて立ち上がった。
「おお! あのパパス殿のご子息か! 覚えているとも! 確か、ラインハットで会って以来だったね。いや、久しぶりだなあ!」
「はい。お元気そうで何よりです」
「ははは。君のお父上には負けるが、商人も体が資本だからね」
一転して朗らかな笑みを浮かべるルドマン。こういうところは変わっていないのだなと思うと、アランは何だか嬉しくなった。
持参した紅茶を執務机に置いたメルフェが静かに退室する。それを見届けて、ルドマンはアランに近くの長椅子に座るよう促した。自らはアランの対面に座る。手にした二つの紅茶のうちひとつをアランの前の平机に置き、残ったひとつをすする。
高価な品なのだろう。白磁の美しい器に手を伸ばしたとき、ふと、アランは意味ありげな視線を感じて顔を上げた。
ルドマンがじっとアランを見つめていた。