五十二話
キンジ達のカジノ警備の当日、マリアはパトラと合流していた。
カジノそのものであるピラミッドの力を使い、無限に増幅する魔力で作り上げた船を水中に潜ませ、その中で悠々と過ごしていたのだ。
「それにしても遅いの、妾を待たせるとはナマイキなことよ」
「おかしいのは・・・たしかですね」
既に待ち合わせの時間を過ぎて一時間を経過している。
だからと言って、今回はそもそもパトラ一人いれば事足りるのだから、これといって不都合はないのだが。
それでも、最後の一人が時間を疎かにするとは思えなかった。
「・・・・仮定ですが、リシアの処置に慣れてしまったのが原因かも知れません」
「ふむ、それは考えられるのう」
最後の一人―――――金一についての見解を述べる。
彼はここ最近、カナになった後の回復をリシアに頼りっぱなしだった。
ただの予想だが、脳がそれに依存するようになって、休眠による自然な回復にズレが生じたのかもしれない。
いつも目覚まし時計で起きている人間が、たまにかけ忘れると致命的な寝坊をする図式だ。
だとすれば今もホテルで眠っている可能性が大きく、このまま今日は起きてこないなんて事態もなきにしもあらずだった。
先も言ったようにそれで困ることはない、少なくともパトラだけは。
「様子を見てきます」
「なに? いく必要があるのか、やつは今回はいらぬであろう?」
案の定、疑問符を浮かべるパトラ。
純粋な疑問が四割、二人の時間が終わることへの不満が六割。
しかしマリアはそうもいかない。
なにせ今日は、キンジにとって大切な登龍門になる。
そこに待ち受けなければならないのが金一であり、彼なくしてキンジの覚醒はありえない。
アリアがそうであるように、彼もまた重要なキーなのだから。
フードを被って仮面を付け、マリアは出口へと向かう。
「必要なんですよ、私の計画のためには・・・ね」
「またそれか。おぬしはいつも二言目にはけいかくけいかくと、変わらんのう」
「あなたに言われたくないですよ」
白昼堂々と自分が覇王だと声高々に叫ぶ人間に言えたセリフではない。
口を尖らせてふてくされるパトラを背に、マリアは金一のいるホテルへと向かうのだった。
ここ最近、決まって見る夢がある。
リシアに任せてばかりで眠りが浅いせいか、起きた後もハッキリと覚えている。
武偵として、今までくぐり抜けてきた死線の数々。
捨て駒にされた武偵を救い、見捨てられた被害者達を導いた。
周りにどれだけ呆れられ、揶揄されようとも、俺は義を貫き続けてきた。
そんな生き方を後悔したことはない、今も自信をもって断言出来る。
義に生きて殉職した父、移り行く世で義を重んじてきた先祖達。
物心ついた時より、俺は彼らの生き様に魅了されていた。
武偵を目指す事に欠片の迷いも持たず、ひたすら己を鍛え上げてきた。
父も母も死に、遠山の看板を背負って活動し始めた後もひたすらに義を通して来た。
世界の現実を、裏の世界を知って、挫折しかけた時もあった。
いまだ未熟な弟に頼ることなど出来ない、故に一人で立ち向かうしかなかった。
そんな時、出会ったのが彼女だった。
弟と同じ歳で、しかしただならぬ雰囲気を纏った少女。
かけられた言葉は、常人が聞けば胡散臭いと切り捨てられてもおかしくないようなものだった。
しかし彼女の言葉は、不思議なくらいに心に染み渡って来たんだ。
体が、心が、とても軽くなったのを覚えている。
彼女は共感も激励もしてはこなかったが、そっと背中を押してくれた。
本当に、世界は広いと痛感させられたものだ。
まさか年下の少女に救われる事になるとはな。
それから何度か会って話をしたが、やはりとても不思議な子だった。
歳不相応なほどの視野の広さに加え、本当に学生かと思うほどの見識の深さ。
会えば会うほど興味を抱いて、家に帰る時の楽しみにすらなるほどだった。
キンジがたまに下らない邪推をしてきて、少し仕置きをしたのも一度や二度ではなかったな。
残念ながら中学を卒業と同時に海外へ留学してしまい、それから会っていない。
まぁ、その時期からイ・ウーを追い始めていたから、どの道すぐに会えなくなっていただろうな。
そしてイ・ウーに入り、俺は変わってしまった。
キンジにすら拒絶される程に、道を違えてしまったんだ。
かつて背中を押されたはず、必ず貫いてみせると誓ったはずだ。
それを、俺は捻じ曲げた。
・・・・だが、仕方のないことだ。
何千何万と繰り返し考えた。これ以外の、もっとより良き道はないのかと。
大を救うために小を切り捨てる。
それは、まさに俺が認められなかった最たる理論だったというのに。
悩み考え、しかし直後に・・・現実を叩きつけられた。
お前に、そんな力はないと。
これ以上ないほどに痛烈に、抗いようのない暴力で。
あの時俺は、ただの一人も救えなかった。
全てを救うどころか、助けられたはずの命さえ、俺の身勝手で殺してしまった。
そんな貴様に何が出来ると――――黒い仮面が嘲笑う。
ああそうだ、何も出来ない・・・俺には無理だった。
ドス黒いものが心を侵し、後悔の念ばかりが渦巻いていく。
仕方のないこと、やむを得ないことだと囁きが聞こえる。
多くの命を救うため、巨悪を討つために必要なことなのだと。
ああ、分かっている・・・これはただの逃避だと。
理性的、論理的な判断だとは言われるだろうが、俺のような人間が述べれば負け犬の言い訳でしかない。
そして最後には、弟と彼女の姿がチラついていく。
俺に憧れを抱き、目指していたキンジが。
俺の信を正面から受け止め、包んでくれた少女が。
何を言うでもなく、ただひたすらに俺を見ている。
蔑むでもなく哀れむでもなく、怒りも失望も感じられない瞳で。
そんな視線に、どうしようもなく叫んでしまう。
罵られた方が千倍ましだ、見放された方が万倍ましだ。
慟哭する俺を、二人はジッと見据えるのみ。
―――やめてくれ、そんな目で見るな!
―――他にどうしろと言うんだ! これ以外に手はないんだ!
そう叫び倒していると、やがて二人は背を向けて歩き出す。
それを望んでいたはずだ、あんなふうに見られるよりはと思っていたはずなのに。
―――まて・・・・・待ってくれ!!
俺は必死に手を伸ばす。
どれだけ走っても、歩いているだけの背中に届かない。
何度も何度も繰り返し見ている夢。
それでも無様に足掻こうとする自分。
とことん嫌になる。
このまま二人が闇に消えていくのを、指をくわえて見ていることしか出来ないんだ。
だが、今回は少し違った。
走っているはずなのに、誰かに肩を掴まれる。
何だ、誰だ、邪魔をするな。
そう言おうとして振り向き、俺は戦慄する。
そこにいたのは、全てが闇に溶け込むような黒い仮面。
紅い三日月が四半回転したような、この世の全てを嘲笑するかのような不気味な模様。
走馬灯のように、頭を駆け巡る血色の光景。
俺のせいで死んだ、生き残れるはずだった者達。
そのあまりの悽惨で酷い死に様が、罪過となって俺の心に杭を打ち立てる。
―――うああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁーーーー!!!!
叫び、抗い、藻掻くほどに肩を掴む力が強くなる。
やめろ、離せ、触らないでくれ。
みっともなく暴れる俺を、しかし仮面は手を離さない。
むしろ俺を押さえつけるかのように力を込め、足掻くことすら禁じると言わんばかりに捕らえようとしてくる。
こんな時に考えるのも可笑しな話だが、やはりその感触は存外に細かった。
このような華奢な体のどこからそんな力が出るのだと聞きたくなるほどに力強い手は、容赦なく俺を拘束せんと動く。
例えようのない恐怖が心を満たし、必死に掴まれた腕を振り回す。
今まで培ってきた技や経験などかなぐり捨てて、子供の駄々のように暴れた。
―――やめろっ! やめろぉぉぉぉぉーーー!!
感情の赴くがまま、俺は仮面を振り払う。
夢だと分かっているのに冷静な判断が出来ない。
目の前の幻影を消し去りたい一心で、俺は力の限り殴りつけた。
『ぐぅっ!?』
「な・・・」
・・・・そして、手の甲に伝わった感触に唖然とした。
金一がハッと正気を取り戻した時、そこはもう悪夢の空間ではなかった。
清潔感漂う白い部屋、高級感のある家具の数々。
自身の尻や足の下に感じる柔らかいベッドの感触。
紛れもなく、休息のために取ったホテルの一室だった。
荒い呼吸が静かな室内に響き、上半身だけを起こした状態でしばし沈黙する。
「げっほ・・・げほ」
不意に聞こえた咳き込むような音に、金一はバッと顔を向けた。
反射的に枕元に置いていた銃を手に取り、声のした方へと向ける。
だが、そこには予想外の客の姿があった。
「ふぅ・・・・いや〜、調子はいい様でなによりですよ」
「お・・・お前は」
そこには他でもない、つい今しがた夢に出てきたフリッグ・・・・の、後ろ姿があった。
こちらに背を向けて話すその声に、妙な違和感があった。
人を食ったような話し方は変わらないが、何処かおかしい。
眉を寄せてそれを探ろうとする金一の視界に、あるものが映った。
こちらを向こうとしないフリッグ・・・・その足下。
そこに、これ以上ないほどに見覚えのある仮面が落ちていたのだ。
それを認識した瞬間、金一の体が驚きに固まる。
何故だか知らないが、今フリッグは仮面を付けていないのだ。
つまりそこには、もちろん彼の素顔があるわけで・・・。
違和感の正体が判明した。
つまり、声にエコーがかかってないのだ。
それでも声は本来のものではないだろうが、それだけで一気に人間味を帯びた気がする。
「・・・お前、ここで何をしている」
「何って・・・お寝坊さんの様子を身に来てあげたんじゃないですか」
「な・・・に・・?」
チラリと時計に目をやって、またも硬直する。
いっそ清々しいほどの大遅刻だ、怒りを通り越して呆れられるくらいの。
「返事がないので勝手に入ってみれば、お寝坊さんはぐっすりと寝ているし、かと思えば急にうなされ始めるじゃないですか」
「そ、それは・・・」
見られていた、という事実に羞恥を覚えずにはいられない。
よりにもよってとんでもない奴に知られたものだ。
寝起きなせいもあってか、思うように頭が回らない。
「終いには暴れ出して、起こそうとして裏拳かまされるとは・・・・・いやはや、中々どうして元気がいいですねぇ」
「・・・」
内心で、裏拳をかませた事にスカッとしたのは本人だけの秘密だ。
どうやら夢の最後の方は現実が入り混じっていたらしい。
出来ればその瞬間を覚えておきたかったと強く思う金一だった。
ついでに言えば、無意識にフリッグの顔を拝もうと体が傾いてしまうのは罪ではないだろう。
無論それくらいで見えるような立ち位置ではないが、人の性というのは抗いがたい。
そんな金一の内心を知ってか知らずか、かがんで仮面を広い上げるフリッグ。
仮面を付けて振り返り、そこには当然いつもと変わらぬ姿がある。
溜め息をつきそうなのを必死に堪え、キツイ視線でフリッグを見据える金一。
「遅れた事は詫びよう。だが呼ぶならパトラのゴレムでも事足りただろう」
『おや、せっかく起こしに来てあげたのにヒドイ言い草だ。峰理子の言葉で言えば、これはいわゆるイベントシーンというものでしょう?』
「・・・・男に起こされて何がイベントシーンだ」
『ほぅ? 貴方は私を男と解釈しているわけだ』
「・・・・」
思うがまま口に出していた金一だが、そう言えばと閉口する。
目の前の仮面は男か女か、老人か子供かも不明な謎の塊。
ヨボヨボの老齢者かも知れないし、幼年の少女である可能性も捨てきれないのだ。
唯一、華奢な体つきであることは知っているが、決定打にはならない。
いつもなら足音などの何気ない情報から読み取る事が出来るのだが、この人物はそれすら巧妙に誤魔化している。
踏み込み加減を常にバラバラに変動させたり、時には足音そのものを消したりと。
嫌味なくらいに何も読み取らせない。
そんな所も含めて、金一はフリッグという存在を心の底から嫌悪していた。
「貴様の中身がなんであれ、起き抜けに見たのがお前なら気分は最悪だ」
『あっはっは、これは嫌われたものだ』
「必然だろう」
当たり前と吐き捨てた金一に、苦笑のような音が室内に洩れる。
あの日の過ちは金一のものであっても、その原因がフリッグである事もまた事実。
どのような理由があれ、最初から逃がすつもりなど毛頭なかったのだ。
それをわざわざ弄ぶように殺した人間を、どうして好きになれようか。
会うたびにフワフワと落ち着かない気分になる、出来れば視界に入れたくもない。
生まれてこのかた、自身がこれほどまで嫌悪を抱いた個人はいないだろうと金一は思う。
武偵時代、幾度となく聞かされたフリッグの話は的を射ていた。
ある者は実体のない亡霊だと言って、ある者は掴みどころのない道化だと言った。
またある者は男のように単純で、しかし女のように複雑だとも言った。
全てが合っていて合ってない、だからこそ誰も何も分からない。
不気味とも煩わしいとも鬱陶しいとも言い表せるやかましさは、容易く人の精神をすり減らせる。
ある意味ではとてつもなく恐ろしいスキルだが、常人の世には決して適合出来ないだろう。
『まぁそれは置いておいて、シャワーでも浴びたらどうです? 汗でぐっしょりですよ』
「・・・ああ」
言われて、体につく不快感に初めて気付く。
下着も髪もベッタリで、とてもこのままにしておく気分にはなれない。
着替えを荷物から取り出し、備え付けのバスルームへと向かう金一。
『あ、それともう一つ』
不意に呼び止められ、仕方なしに耳を傾ける。
もはや顔を合わせることすら御免だと言わんばかりの様子に、しかしフリッグに気にする様子は一片もない。
懐から取り出した黒い携帯をカチャリと開いて、その表示された画面を金一の顔の前へと差し出した。
『寝顔、けっこう可愛かったですよ?』
「っ!?」
視界に広がった光景に、目を丸くして言葉を失う。
そこには、うなされる直前だろうか・・・安らかな顔で眠りにつく金一の顔が見事にドアップで映し出されていた。
『いやーこれは世の女性達にバカ売れしそうですね。さしずめ眠れる森の王子様ってところでしょうかねぇ?』
「きっさま!!」
咄嗟に手を伸ばすも、ヒラリと避けて距離を取られる。
『え〜っと、とりあえず教授とリシアと理子とジャンヌに送り付けてぇ。金一は今日も元気にやってます、ハート・・・って感じでどうです?』
「このっ!!」
HSSもかくやという動きで襲いかかるが、どれも紙一重で躱され、携帯を操作する手は一秒たりとも止まらない。
どうも先程のより長い文章を打ち込んでいるようだが、内容を想像するだけで背筋が凍りそうな金一だった。
ドタン! バタン! ガシャーン! と、初めてホテルに泊まった子供ですら真っ青なくらいに暴れ回る二人。
その日、ホテルのカウンターでは三つの部屋から隣の、または上の部屋が騒がしいうるさいと再三に渡って苦情が殺到したらしい。
そして、その騒ぎが収まる頃―――――
先程まで感じていた暗鬱な気分が綺麗サッパリと消えていた事に、本人は気付かなかった。