九十五話
朝霧が僅かに視界を塗る森の中を、一人の少女が歩いていた。
歳は十にも満たないであろう少女は、短い黒髪を揺らしつつ早足に進んでいた。
「で、出ちゃった・・・・・ほんとに出ちゃった・・・・」
自分以外誰もいない場所で、繰り返し呟く。
まるでとんでもない事をやらかしたかのような顔でいる少女だったが、事実、そう言って差し支えない状況だったのだ。
少女が生まれた場所は、多少・・・・・・というよりかなり外界との接触を拒む、森の奥地の集落であった。
物心ついた時から、集落をぐるりと囲むように木に刻まれた目印を越えてはならないと言いつけられ、その向こうに行けるのも、またその向こうからやって来るのも、限られた者のみだった。
森の向こうに行ってみたい――――などと、まるで御伽噺の住人のような想いを子供が抱くのは、必然だっただろう。
無論、それで出られるならば苦労はなく、たくさんの子供達が幼い知恵を絞って突破を試みて、失敗し、親にこってりと叱られるなどというのは日常茶飯事だった。
だがどういうわけか、少女は今こうして印の向こうへと足を踏み出している。
きっかけと言えば、前日から大人達が妙に浮き足立っているのを感じた事から始まった。
穏やかな日々を過ごす中で、子供はその変化を敏感に感じ取る。
普通ならそこでお終い、よくて何事かと訊ねるくらいだろうが、少女はこの機に乗じて抜け出せるかも、と考えた。みんな忙しそうだから、朝早くだったら誰も見ていないかも・・・・・という感じだ。
かくして、読みが当たっていたかどうかはともかく、少女は生まれて初めて未開の奥地へと踏み出した。
「・・・・・・どうしよう」
とはいえ、出たら出たらでこの有り様である。
別に何がしたかったわけでもなく、ただ漠然とした好奇心で飛び出した身。迷うのは当然の流れだ。
四方八方、見渡す限りの木、木、木。
冬の肌寒さと、降り積もった雪が気の上から落っこちる音を除けば、普段から見慣れた森の景色だった。
―――ただ一つ、自分が来た方向さえも見失わなければ、だったが。
「お母さん・・・・・お姉ちゃん・・・・」
むくむくと沸き上がる不安に苛まれ、少女は目の端に涙を浮かべる。
未知の世界に踏み出した興奮などとうに消え去り、言いつけを破った後悔が心を支配する。
あと数分もすれば、不気味なほど静かな森の中に少女のすすり泣きの声が響くであろう――――そんな時だった。
「―――、――――」
「っ――――」
「え・・・・・?」
遠く、どこからか聞こえた人の声に、少女は目を丸くした。
聞き取れたのが奇跡と思えるほどに微かなそれは、少女の前方から風によって運ばれていた。
安堵から、特に考えもなく声の主を求めて歩く。
もし外の人間と会うことがあれば―――と聞かされていた里の大人達の話など綺麗に忘れ、木の影からひょっこりと顔を出した。
「・・・ふむ、どうやらまた帰ってきてしまったようだ」
「ううぅ〜・・・・・十五回目です」
そこにいたのは、穏やかな笑みを浮かべた長身の男と、男と手を繋いで唸る金髪の女の子だった。
顎に手をあてて考え事をしているらしい女の子は、何故かとても悔しげに顔を歪めている。
「さて、時間も残り少ない。次で最後といこう」
「えっ、そんな・・・・難しいですよぉ・・・」
楽しげに笑う男とは対照的に、金髪の女の子は意地悪をされたように情けない声を上げた。
そんな二人を見ていた少女は、初めて遭遇した里の外の人間を見て、今更ながらに声をかけようか迷っていた。
外の世界はとても危険と、耳にタコが出来るほど聞かされてきたからだ。
どうしようかと逡巡する少女は、いったん離れようかと考えたのだが―――――
「ううぅ・・・・」
「ふふ、考えるのは結構なことだが、教えた事を忘れてはいけないよ。外にいるときは常に―――周囲の気配に気をつけなければ」
「っ―――!」
「えっ?」
思わず息を呑んだ少女の耳に、金髪の子の戸惑ったような声が聞こえた。
「危害をくわえる気はない、出てきてくれないかい?」
警戒した様子のない、あくまで優しい声を投げかけてくる男。
逃げる、抵抗する、という類の考えは浮かんでこなかった。
元々自分から声をかけようか迷っていたし、所詮は子供、初対面の人間を怪しむなどという思考がまともに発達しているわけもない。
少女は大人しく、ゆっくりと木の影から出た。
「あー、まあその・・・なんだ、緊張する必要はないんだぞ黒村。大した用事でもないだろう」
「ご心配、ありがとうございます。緊張はそれほどしていません」
「そ、そうか・・・・」
むしろ先生の方が緊張しているのでは? というのは、聞くだけ野暮でしょう。
リシアから里への招待を言い渡されて一週間。手筈通りに武偵校へと張り出された依頼を、素早く受けたのがつい昨日のことだった。
現在、私はクラスの担任・・・・村田という男性教師と共に、教務課の中のエレベーターに乗っている。
ホームルームの後に呼び出され、用事も告げられぬまま後を付いて来たのがここだった。
名前は元より、この村田という人物は非常に珍しい凡人である。
能力は相応に優れ、教師としての手腕も申し分ない。彼の凡庸さとは、一重にその人間性のこと。
強襲科の蘭豹先生然り、尋問科の綴先生然り、一癖どころか五癖も六癖もあるような変態的教務員勢の中で、彼という人間は希少種とも言える凡人性を有する、ある意味でとても貴重な人材。
ジョークで教室の温度を下げる事もしばしばあるけれど、なんだかんだと生徒に親しまれている。
・・・・そして、そんな彼だからこそ伝わってくる緊張が、これからの展開をより正確に推理する材料となっている。
たどり着いた教務課の五階。そこにどんな部屋があるのか、黒村里香として入学する際に記憶した情報の中から引き出す。
(・・・・まあ、想定の範囲内です)
歩けば歩くほど、村田先生の緊張が高まっているのが分かる。
それほどまでに、これから会う人物を苦手としているのか、それとも立場に臆病な性分なのか。
「さ、さあ、ここだ」
木製の扉の前で立ち止まり、深呼吸をする。私ではなく先生が。
「―――校長、失礼します、村田です。黒村さんをお連れしました」
と、先生が『校長室』というプレートのかかった扉の向こうに声をかけた。
「はい、はい。どうぞ」
返ってきたのは、男性の声。なんとも形容し難い、印象の薄い声音。
扉を開いた先生の後に続いて部屋に入り、「失礼します」と言って軽く頭を下げた。
「はい、はい。ようこそ、緑松です」
パッと見では穏やかで好意的、しかしその実、まるで絵か写真でも見ているかのように現実味のない笑顔。
東京武偵校の校長、緑松武尊を前に、私は久方ぶりの戦意を心の奥でくすぶらせた。
「黒村里香です。用事があるとだけ聞いて来たのですが」
「はい、はい。突然お呼びして申し訳ありません、黒村さん」
仮にも自身の学校の校長を前にしても眉一つ動かさない里香に、緑松は気にした様子もなく謝罪を口にした。
ニコニコと柔和な笑みを浮かべる見覚えのない男を見て、里香の目が僅かに細められた。
緑松武尊。
武偵校の校長で、それはつまり色々な行事や朝礼などで挨拶し、普通校とは違っても話の一つや二つを語る機会はあるだろう立場の男。
もちろん里香・・・・マリアも当然、彼を遠巻きにでも見た事は何度もあるし、武偵校の調査をする上で十二分に情報を集めた――――が。
それが目の前の男であったかと問われれば、答える事は出来ない。
覚えていない、印象に残っていない、上手く思い出せない。
誰もが幾度か会っている。しかし誰もが緑松という人間を語れない。
―――見える透明人間。
通説によると、彼という人間は容姿は元より、あらゆる動作、身長や体重までもが日本人の平均を取っているから、と言われている。
覚えられるのは名前と性別だけ。それ以外のありとあらゆる特徴を持たない、平凡の極みと言っていい存在なのだ。
だからこそ、彼に狙われれば命はないと恐れられる。
認識出来ないから、例え視界に入っても警戒できない。地に伏した時にこそ、自分が彼にやられたのだと自覚する。
仮に相手が格上だったとしても不意を打てる、驚異的な人物。それが緑松武尊だ。
「さっそくで悪いのですが、村田先生」
「はい」
切り出すかと思われた彼の言葉は、里香の隣に経つ教師へと向けられた。
「大変失礼ですが、彼女と二人で話がしたいので、席を外していただけないでしょうか」
「え、それは・・・・・はい、わかりました」
戸惑いの表所を浮かべ、しかし即座に引き下がった。
お願いの体を装っているが、実質、村田に拒否権はない。絶対的な命令なのだ。
村田が退出し、扉が閉まる音がやけに室内に響いた。
・・・・ほんの数秒、二人は無言で視線を交差させる。
「・・・・さて、長話もなんでしょうから、本題に入りましょうか」
「はい」
口火を切った緑松が、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「これを」
差し出されたそれを受け取るため、里香は緑松の元へと歩く。
机を挟んで対面し、渡された書類にさっと目を通す。・・・・・最も、里香にはそこに何が書かれているのか、予め分かっていた。
「ご覧の通り、黒村さんがつい昨日受けた海外出張の依頼についてです」
「・・・何か不備でもあったのでしょうか?」
あるはずがないのも分かっている。これはあくまで、形式的な会話だということも。
「いえいえ、そういう訳ではありません」
そもそも、こんな用件で一生徒を校長室に呼ぶ筈もない。
依頼の難易度がランクに不相応だったとしても、そんなものは自己責任だ。
「むしろ意欲的で大変感心です。ええ、ですから――――」
つまり、この男は――――
「―――そろそろ少し、手の内を明かしてもらおうと思ってね」
直後、緑松の気配が変化した。
敵意、殺意、ほんの刹那だけ里香に向けられていた意志が、認識から外れる。
朧気に、曖昧に、在るような無いような、どちらとも言えない物へと変貌する。
単純に見失うのとは違う、まるで脳を強制的に混乱状態に追いやられたかのような気分になる。
確かに対峙していた筈なのに、目の前にいた筈なのに。
こんなふうに、多くの人間達が彼の足下に這い蹲らされたのだろう。訳も分からぬうちに。
そして今回も、緑松を認識し損ねている少女を屈服させ――――
「・・・・・ほう」
静まり返った校長室に、感心したような声が上がる。
それは、いつの間にか里香の真横に移動していた緑松の出したものであり、その顔は先程までとは違い、微かに本物の混じった笑みが浮かんでいる。
視線は里香ではなく・・・・・緑松の眉間へと突きつけられた、銃口へと向いていた。
これまたいつの間に抜いたのか分からないベレッタは、今にも火を拭いて彼の頭を撃ち抜いてしまいそうだ。
そして現に、引き金にかけられた指がゆっくりと折り曲げられていた。
「おっと、降参です」
そっと里香の手を握って静止させ、気配を元に戻した。
その時になってようやく、里香の視線が緑松へと向いた。
そう、里香は緑松が移動しても、自分の真横に来ても、視線を全く動かさなかった。
見ないままベレッタを引き抜いて、見ないまま緑松の額に当てていた。
「とても面白いやり方だ。その歳で、かなり磨かれていますね」
「たまたま相性が良かっただけです」
控えめだが確かな賛辞に、里香の返しは端的だった。
誰もが恐れる緑松の透明人間を見破ったトリックは、むしろ里香・・・マリアからすれば息をするに等しい行為だった。
緑松の透明化現象は、つまるところ心理学的な技術を使ったもので、当たり前だが実際に消えている訳じゃない。
もちろん彼の姿はマリアにだって見えなかったし、気配も感じ取れてはいなかった。
もしマリアが緑松に狙われる機会があったとしたら、他の幾百の者達と同様の末路を辿るかもしれない。
だが、例えそうだとしても今は違う。少なくとも近くにいて、危険だという事さえ分かっているなら対処できる。
超能力ではない彼の能力は、物理法則という束縛からは逃れられない。
緑松が席を立ち、歩いて、マリアの横に来るまでのほんの数秒。それまでに彼が起こす事象を辿ればいい。
例えば靴裏が床につくとき、体が動いて服が擦れる時、口や鼻で呼吸をする時。
物が物に当たれば振動が起き、物が動けば大気が流れる。
生きている以上、絶対に消し去る事のできない命の脈動を感知し、それらの情報を統合する。
緑松武尊という個人ではなく、そこに在る何かとして認識し、その何かがある場所に銃を向けた。
「実に合理的ですね。しかし、なかなか出来ることではない」
心理的な技術で存在をぼかした緑松を、合理の枠に捕えた。
なんてことはない、マリアにとって、呼吸や瞬きのごとくやってきた事をしただけだ。
「いえ、ハンデをもらえたからこそ出来たようなものです」
そして緑松も、これくらいでどうにかなる相手ではない。
彼の本領は最初から認識させずに標的を仕留める事にあり、わざわざ相手に姿を見せてから消えるなんて真似はしない。
対峙し、敵意を向けられたからこそ、マリアは『緑松を合理的に捉える』という戦法を取れたのだ。
「そう謙遜することもありませんよ。あと十年・・・・いえ、五年もしたら手に負えなくなっているかもしれませんねぇ」
ははは、と笑う緑松は、実際に危惧しているのか怪しいところだった。
「それで、ご期待には沿えたでしょうか?」
「ええ、ええ。思ったより見せて貰えたので満足です。浴を言えばもう少し引き出したいのですが・・・・・・これ以上やると、我慢が効かなくなりそうなので」
笑顔のままそう言い放たれた言葉により、室内の空気がまた少し締められる。
じっと視線を向けていたマリアだったが、やがてそっとベレッタをしまった。
「依頼についてはなにか?」
「いえ、詮索するつもりはありませんよ。気にならないと言えば嘘になりますが、こちらの不利益に繋がらなければ文句はありません」
もしそうでなければ・・・・などと、わざわざ言葉にするまでもない。
「わかりました。それでは校長先生、失礼します」
「はい、はい。心配無用でしょうが、依頼、頑張ってください」
「はい」
軽く会釈し、背を向けて校長室を後にするマリア。
終始笑みを絶やさない緑松の視線は、閉じられた扉に注がれていた。
「――――食えない女だ。あまり長く泳がせると面倒だな」
聞こえる者のいない独白は、静かに溶けて消えた。
「悪いが、それはできない」
きっぱりと告げられた拒否宣言に、マリアは思わず半眼になるのを抑えられなかった。
「ですが、招かれたのは私だけです。例え一緒に行ったとしても、許される可能性は―――」
「それならそれで、俺は里の外で待たせてもらう」
「・・・・・・」
「あわわわ、ああ、あの・・・・えっと・・・」
マリアの横でリシアがおろおろとしている中、マリアと金一はジッと互いを見据えていた。
昼下がりの不人気なカフェ、少し奥まった場所に三人はいた。
四人がけのテーブルにマリアとリシアが隣り合って座り、マリアの向かいで金一が腕を組んでいる形だ。
・・・ことの発端は、マリアが海外へ出向くことをめざとく嗅ぎつけた金一が問い詰めたところから始まった。
下手に離れるのを良しとしない金一が同行を申し出て、マリアがにべもなく却下することによって言い合いとなったのだ。
慎重に事を進めたいマリアとしては、不確定要素を増やすような真似はしたくない。かといって実力行使に及んで禍根を残すのも後に影響を与えかねない。
なるべく穏便に話し合いで解決しようとしたのだが、思った以上に金一が頑なだった。
正直、聡明で理性的、人に頼られ敬われる出来た大人、という印象を金一に抱いていたマリアだったが、ここ最近のコミュニケーションで徐々にそれが崩れつつあるのは本人だけの秘密であったりする。
「そもそもパトラはどうするおつもりですか。あなたが居なければ彼女はまともな生活を送れないはずです」
「遠回しにとてもだらしない人間だと言っているようなものだが・・・・・その件は問題ないだろう。最近では三食しっかり栄養のある食事を取るようになったからな」
「食事だけで終わる問題ではないでしょう。衣服や洗濯に掃除、トイレやお風呂、ゴレムではカバーしきれない衛生管理は山ほどあります」
「半端に綺麗好きであるから風呂やトイレは心配ない。掃除は・・・・なんといったか、最近テレビで言っていた全自動掃除機を買った。衣服は使い終わった物をカゴに入れておくように言えば大丈夫だろう。月単位で家を空けるのなら問題だろうが、今回は一週間もかからないはずだ」
「そう言ったものは覚えられる内にちゃんとさせておくべきでは? 楽なやり方にばかり頼ってそれに慣れてしまえば、さらにだらしなくなる一方です」
「しかしそれでも――――」
「うるせぇぇええぇぇぇぇええッッ!!!」
段々とエスカレートしてきた二人の論説戦に終止符を打ったのは、突如として店に響きわたった絶叫だった。
ビックリした三人が声の方へと目を向ければ、そこには髪をウネウネと蠢かせてズンズンと近寄ってくる理子の姿があった。
「さっきから聞いてりゃなんだ貴様らはぁ! 子供の教育方針で食い違う夫婦かっ! 別居秒読み状態か!? ていうか今すぐ離れろぉ!!」
半泣きで叫んでいた理子が、いきなり駆け出して金一に飛び蹴りをかました。
「ぐはっ!」
唖然としていて反応できなかった金一が、そのまま壁に叩きつけられた。
ちょうど壁にかけられていた絵画が外れ、四角い額縁の角が脳天にゴツンと当たった。
「りっりりり、理子さん・・・なななんてことを・・・・」
あまりの所業に震えるリシアを、理子はギラリと睨んだ。
ひぃ! とか細い悲鳴を上げるリシアを、咄嗟にマリアが背に隠した。
「理子、いったいどうしたというのですか? 少し・・・・いえ、かなり情緒不安定な様子ですが」
「・・・・どうした? どうしたって? 自分の胸に聞いてみてよ!」
珍しいことに、理子がマリアに対して大声を上げた。
よほどの事があったのかと記憶を掘り返してみるマリアだったが、特に理子を怒らせるような事をした覚えはない。
「・・・・申し訳ないのですが、覚えがありません」
「はは・・・ははは。そう、そうなんだ・・・・わかんないか。もういいよ、言えばいいんでしょ言えば!」
やけくそ気味に叫ぶ理子は、もはや普段のキャラを完全に脱ぎ捨てている。
いくら客足の少ない店とはいえ、さすがに迷惑だと思ったらしい店員が注意を促そうとしていたが、理子の眼力によって退散していた。
「あたしたちが修学旅行に言ってる間に里帰り同伴ってなによ! 両親にご挨拶とか! 抜け駆けとかそんな次元じゃないよ! そんなイベント理子には一生回収できないってのにさぁ!!」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
絶句である。
特に金一とリシアは「何を言ってるんだこいつ・・・・」といった風に白い目を向けていた。
さりげなく重いカミングアウトだったのだが、理子のテンションが全てを帳消しにしていた。
話を聞いていたようで聞いていない、なんとも中途半端な情報収集だった。金一にいたっては蹴られ損ではないか。
「せっかくジャンヌやランディを騙して一人だけ尾行したのにっ、途中でリシアや金一と合流するし、聞き覚えのない話持ち出すし、慌てて校内ネット探ったら海外出張の依頼受けてるし、しかもイギリスだしっ、挙句の果てに痴話喧嘩みたいな雰囲気醸し出しやがるし! もう横槍以外に選択肢がなかったっつうのぉっ!!」
その後も、自分もついて行くだの金一が一緒なのは断じて許せないだの、子供じみた主張を繰り返す返す理子。
が、金一が同行することに反対だったマリアにとっては好都合な展開となり、上手くそれを利用するという結論になっていた。
「理子には修学旅行?があるのですから無理でしょう。そして金一さん、理子のように行きたくとも行けない人がいるのですから、わがままを言っては困ります」
「わがまま・・・・・」
果てしなく不栄誉な表現をされて、金一はなんとも微妙な顔になった。まるで自分が全面的に悪いような言い回しに不満を覚える。
「だがなマリア、そんなふうに言って、君はなぜ理子が一緒に行きたがっているのか、本当に理解しているのか?」
「・・・? それは――――」
「はいブッブー、不正解」
答えようとしたマリアを遮るように、理子は両手で大きくバッテンをつくった。
「・・・・まだ答えていません」
「どうせ言わなくても分かるもんね。もうワンパターンすぎて笑いが取れないレベルだもんね」
「そうだな。正直、問う必要はなかった」
一部始終を静かに見聞きしていたリシアには、段々と険悪な空気になっていく様がよく感じられた。
マリアはともかく、理子と金一は今回だけは譲らぬとばかりに鋭い目をしている。了承しなければ梃子でも動かんという意思がひしひしと伝わってくるほどだ。
「俺は言ったはずだぞ、絶対に逃がしはしないと」
「ですから、用さえ終われば帰ってくると何度も言っているではないですか」
「それが嘘であるかどうか、見極める術を俺は持たない。君は必要と判断すれば嘘も罠も裏切りも、あらゆる手段を厭わないだろう」
責めるような言葉でありながら、悲しそうな表情をしたのは言った本人だった。
わかっていても、そんな事をして欲しくないと思っているのだろう。誰もが敏感に感じ取った。
「早く終わらせれば修学旅行?には途中参加できるし、理子も絶対に行くからね」
「っ・・・・」
理子の断固とした言葉に、初めてマリアの表情が崩れた。
苦虫を噛み潰したような・・・という表現すら生温い。まるで何かとんでもないアクシデントが発生したような、あってはならない事態に陥ったかのような、筆舌しがたい感情が瞳の奥で渦巻いているようだった。
「・・・あ、あの、マリアさん。里の皆には私がどうにかお願いしてみますから・・・・それでは、ダメでしょうか?」
口を挟むべきではないと思いながらも提案してみたリシアだったが、マリアは視線をテーブルの上に固定したまま微動だにしなかった。
十秒、二十秒と時間が過ぎていく。
「・・・・・・はぁ」
やがて、大きく溜め息をついたマリアが顔を上げた。
ほんの僅かに怒ったような、呆れたような表情を滲ませて。
「わかりました。ですがそれぞれ自己責任でお願いしますよ、あそこは私も、何が起こるか予測しかねるので」