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「じゃぁ、行ってくるね」
許宮ことりが広い玄関でスニーカーをはいてから祖父に挨拶をすると、祖父は心配そうに表情を硬くしていた。
「どうしたの、おじいちゃん?」
「いや、まぁ、なぁ。ことりは道に迷いやすいからなぁ」
「大丈夫だよ、おじいちゃんに地図描いてもらったし」
「わしも用事がなければ一緒に行くんだが……一人で本当に行けるかい? 知らない人に声を掛けられても、ついていったりしてはいけないよ」
「私だってもう中学生になるんだから、そのくらい分かってます。お昼は叔母さんのところでいただいてくるから」
「ああ、気をつけるんだよ。それから……」
いつまでもくどくどと心配する祖父に笑顔で応えて、ことりはもう一度「行ってきます」と言って玄関を出た。
空気はまだ冷たいが、穏やかに降り注ぐ日の光が心地よい。
ことりは玄関で見送る祖父に手を振ってから、踊りたくなる陽気さに歩幅をあわせて歩き出した。
長い髪の毛が歩調にあわせて左右に揺れるのが面白くて、体を大げさに振ってぴょんぴょんと歩く。
小学校生活も残り一週間となった三月のある日曜日、ことりは土曜日から祖父の家に泊まっていた。
来年度からこの町の中学に通うことが決まったため、その下見にやってきたのだ。
ことりの実家からは電車で二時間以上かかる、海と山に面した小さな町だ。
この町には祖父母だけでなく、ことりの母親の妹、つまり叔母も住んでいる。
叔母は、祖父の所有するアパートを住み込みで管理している。
その叔母さんに会うため、こうして散歩がてら出かけることにした。
海と山に押し込まれたようなこの町は、漁業・工業ではなく、貿易と観光に力を注いで発展してきた。
開発の進んだ海沿いは異国情緒の溢れる町並みになっており、電車を降りて駅を出れば石畳が広がっていたり洋館風のお店が並んでいたりする。
小学校低学年くらいまで、この町はすでに日本ではなく別の国だと本気で思っていたほどだ。
臨海住宅地も建物が欧州風に規格統一されていて、派手さはないが、古都のような落ち着いた風合いがある。
一方ことりが今いる山間部となると、とたんに日本の色合いを増し、純和風邸宅なども多く残っている。
昔建てられた洋館もいくつか残っているので、明治時代のような奇妙なバランスが保たれていた。
海沿いに比べ、昔から代々続いている家族が多く、先祖から受け継いだ土地が大切に守られているため、自然が色濃い。
つまり田舎。
祖父の家も昔ながらの日本家屋で、時代劇に出てくる武家屋敷みたいに広い。
家の周りは樫木をはじめとした広葉樹に囲まれており、車の音も人の声も聞こえない。
ことりは自動車が走れるように砂利でならされた道を下っていった。
祖父の家は木々に隠され、あっという間に見えなくなる。
しばらく行くと、近所のおばさんが落ち葉を掃き集めていた。
「こんにちは」
おばさんと目のあったことりは、足を止めておじぎをした。
「こんにちは。見ない子だけど、下の街に住んでるのかい?」
「下?」
「ごめんね。海側の街のことよ。ついつい癖で言っちゃったわ」
おばさんは手を口に当て、嫌だわと笑った。
「そうなんですか。私、春からこっちに住むことになって……あ」
冬の残り風が、おばさんが集めた落ち葉をさらっていく。
ことりは掃除を手伝いながら、しばらくおばさんと話をした。子どもが中学生だということで、ことりが知りたがっていた中学校の様子についても詳しい。
時間が経つのも忘れて、ことりは掃除と情報収集に励んだ。
「叔母さんの家に行かないと!」
二十分後、竹箒を握りしめ、はたと気付く。
「ありがとね、掃除はもういいから。叔母さんの家は遠いのかい?」
「歩いて三十分くらいだって……これ、地図です」
「それなら、この先の神社を下りていった方が早いね。鉛筆もってる?」
ことりがボールペンを出すと、おばさんは地図にいくつか道を足して、近道を教えてくれた。
土地勘のないことりには判断しがたいが、地図だけ見るからには二十分くらいで行けそうだ。
ことりはおばさんにお礼を言って、再び歩き出した。
道を数回折れ、おばさんが言っていた神社の鳥居をくぐる。
何年か前に来たことのある神社だ。小さな池があって、たしか何とか天っていう女性の神様が奉られていたはずだ。
「えっと、横道があるんだよね」
広くもない神社の境内をきょろきょろと見回す。
裏に回ると、小さな鳥居が立っていた。その向こう側に、階段が下へと続いている。
「こんな道あったんだ」
杉の木々に隠されて階段の向こうは見えない。
祖父が描いた地図に従うか、それともおばさんが教えてくれた近道をいこうか少しのあいだ迷い、結局近道を選択した。
折角教えてくれた近道を使わないのはおばさんに悪い気がしたし、何よりこういう探検じみた遊びは好きなのだ。
散歩日和に後押しされて、ことりは石階段を下りた。