小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 * * *

夢を見ていた。

柳はかつて自分が通っていた小学校の校舎を背にして立っている。校舎に人気はなく、もう何十年も無人であったかのように朽ち果て、廃虚と化している。
柳の膝下まで、真っ赤な水が溢れている。まるで海のように波が静かに校舎に向かって打ち寄せる。
ざぶざぶ、と水を掻き分けながら、柳は校舎へと足を進める。ふと見上げた空は焼けただれたように真っ赤に染まり、太陽は黒く焦げている。
校舎はところどころ壁が崩れて鉄筋がむき出しになっており、どこからでも入ることが出きた。ぽっかり開いた壁の穴の中へ、柳は吸い込まれていく。

入った先は教室だった。

相変わらず、足元は赤い水で満たされている。教室にはオルガンが置いてある。ところどころ音の鳴らない小さなオルガンだ。
オルガンのそばでは、楽譜が水に浸かっていた。柳はその楽譜を拾い上げる。赤い水を吸ったその楽譜はすっかりふやけていて、柳が持ち上げた途端、ぐずぐずと崩れて溶けた。
手についた紙の破片を水で流し、柳が顔を上げると、目の前に“落書きのようなもの”が立っていた。
黒いクレヨンで書かれたような“それ”は、なんとなく人の形をしており、顔はへのへのもへじを多少ましにしたものに見えた。
柳の胸のあたりまでしか身長のない“それ”は、椅子に座ってオルガンを弾いている。

柳はその場を後にした。

廊下では、さきほどの落書きのようなものよりはいくらか大きな、“黒い人”が立っていた。
“黒い人”は手にブリキのバケツを持っていて、無言のまま柳に歩み寄ってくる。口元だけはやけにニヤニヤとしまりなかった。
柳は走る。水しぶきをあげながら、黒い人から逃げる。
黒い人がバケツを振り上げる。バケツから“何か”が飛び出す。
どろどろと粘つくそれは柳の手足に絡み付き軟体動物のように柳を捕らえて離さない。粘液に足をとられながら、なおも柳は走る。

『柳ちゃん』

低い男の声で“黒い人”が柳の名を呼ぶ。

『柳ちゃん』

かと思えば、今度は高い女の声。
走っても走っても遅々として足は進まなかった。泥の中でも歩いているかのような足の重さを感じながら、それでも柳は走った。
あてなどなかった。でも逃げたい。
黒い人が後ろから柳を追いかけてきて、足をもたつかせる粘液をバケツでぶちまけ続けていた。

柳の身体に絡まる液体は、それ自体が意思を持っているかのように柳の脚を這い上がってきた。
よくよくみれば、それは白い寄生虫のようで、細長い体をくねらせながらふくらはぎを、太ももを這いずりまわる。
妙に柔らかく、生ぬるく、湿った感触に、柳は悲鳴を上げた。
おぞましい光景だった。つるり、とした白い回虫が各々蠢いているために、柳の皮膚が波打っているようにも見えた。
回虫たちに目はなく、ただ茶色い口らしきものがあるだけで、脳をはじめとしたいかなる器官もないようだったが、何か信念でもあるかのように柳の身体を上る。
口の中へ虫が侵入しようとする。半狂乱になって柳は虫を振り払う。

『やめて』

柳は叫ぶ。

『やめて!』

その時、柳の視界に光が差した。ぼんやりとした光は徐々に少年の形を形成する。少年が柳に手を差し伸べる。

『柳』

おそらく少年のものと思われるその声は曖昧だった。高くもなく低くもない不思議な声で少年は柳を呼ぶ。
柳が突っ立っていると、少年が半ば強引に柳の手を掴んだ。

『柳っ!』

「――誰!!?」

途端、柳は急速に覚醒した。

自分の声に驚いて、柳は呆然と周囲を見回す。いつもと変わらない自室だった。思わずベッドから飛び起きた以外は、普段と変わらない目覚めだった。
時計、目覚ましのアラームが鳴る10分前。何も変わらない、同じ、朝。



「――変な夢?」

おかしな夢をみた、という柳に、神那はどうでもよさそうに相槌を打った。
その日もいつも通り、兄妹は揃って2人きりの朝食をとっていた。メニューも代わり映えせず、トーストとサラダとスープだった。
神那は妹の話に興味も示さず、ただ黙って手元の牛乳を一息に飲み干した。どうせそんな反応をされるだろうと考えていた柳は、予想通りの兄の反応にやや呆れる。

柳の話よりも朝食に関心があるらしい神那は無表情のままトーストをかじっていた。構わずに柳は話を続ける。

「小学校が出てきた夢だった」

そこで、神那が手を止めた。
柳は奇妙な夢を回想する。廃墟のような学舎、足下を流れる赤い水、黒い人、蛆虫のような粘液、やけにリアルで不気味な感触は、思い出すだけで背筋を冷たくさせる。

「…お前」

神那は相変わらず眉ひとつ動かしてはいなかったが、柳はその兄の瞳の奥に焦燥の色がにじんでいるのを見た。

「もし、何かあったら、言えよ」

それだけいうと、神那はさっさと朝食を片付けて、リビングから出ていった。柳も後を追う。

支度を終えて柳が外へ出てみると、いつものように神那がガレージから自転車を引っ張り出しているところだった。
シャツの袖をまくっている神那を横目で眺めながら、柳は同じくガレージに並んでいるバイクを軽く撫でた。

「バイクで行けばすぐなのにね」

神那の答えは素早かった。

「行けたって行かない」

じゃあ私が行こうかしら、と尋ねてみたくなったが、鼻で笑われるのがオチだろうと予想してやめた。
バイクに乗れたら、たまには私がバイクで大和を迎えに行ってもいいかもしれない、とも考えたが、それも即座に却下した。
きっと大和のことだから、初めて自転車の補助輪をはずして走行できた幼児を見るような目でバイクに乗る柳を眺めることだろう。
大和に爆笑される自分の姿が見えた気がして、柳は気分が悪くなった。

「これに乗って学校まで行けば、きっと目立つでしょうね。学ランでバイク、スポーツネイキッド、400cc、水冷直列、4気筒。
そして『なんだあいつ』といいたげな周囲の眼差し」

「誰が学校なんかに乗って行くか。…ところでお前、水冷なんてそんな言葉どこで覚えたんだ」

「大和が読んでた雑誌にそんなようなことが細かく書いてあったの。大和の部屋にある雑誌っていったら、バイクとかそんなのばっかりだから、嫌でも目につくし。
読んでみたところで、いっかな私には理解できないけれど」

神那は僅かに目を細めて「ふうん……」とつぶやいた。

「ねえ、神那は半端不良だもの、バイクで学校に行くなんて、そういう派手な真似はしないでしょう?」

「俺は不良じゃない。素行良好だ」

「それで髪を黒から金に変えたら完璧なのに」

「ピアスを開けたら不良、バイクに乗ったら不良ってお前、考え方がオヤジ臭いな」

「3年生にいるよね。神那みたいな半端不良じゃあなくて、もう少し不良に近い集団」

「上原たちか」

「あの人たちは嫌いよ。そもそもバイクじゃなくて原付に乗ってるし、身長が低いからあまり迫力もないし。ミニチュア不良って感じ。
どうして原付に乗ってあんなに格好つけていられるのかしら。原付なんて、原動機の付いた自転車なのに、格好つけてる場合じゃないと思う」

「そんなこといってやるなよ」

「私、橘(タチバナ)先輩も半端不良だから好きよ。神那もこのまま半端不良でいてね」

「お前は一体何をいってるんだ……」

神那は馬鹿にしたような顔で柳を一瞥してから「帰りはいつも通りだ」と声をかけて自転車を走らせた。
柳は神那の背が遠ざかっていくのをしばらく見ていたが、やがて駅に向かってのたのたと歩き出した。



バイクといえば、と柳は神那がバイクを買ってきた夜のことを思い出す。

――そのバイクは神那が中古で手に入れてきたバイクで、購入した時点で既に相当な走行距離を稼いでいた。
年式も古く、店の片隅で叩き売りされていたオンボロバイクだった。
あまりの安値ぶりに、むしろ客のほうが悲しくなってしまうほどだったそのバイクを、神那はいたく気に入っていて、ガラスでできているかのように、大切に扱っていた。
人によっては大した値段でもないようなバイクだったが、学業と部活とで日常の大半が埋められ、バイトをする暇もないような神那にしてみれば十分高価な品だった。

このバイクと免許を手に入れるため、神那は時間が許す限りバイトに励み、寝る間も惜しんで学校と部活とバイトの間を駆けずり回っていた。それこそ端で見ていた柳も気の毒に感じてしまうほどの働きぶりだった。
だから、ついに神那がバイクと免許を手に入れてきた時には思わず柳も両手を挙げて喜んでしまった。

その日の晩、柳は近所のケーキ屋からラズベリーのムースを2つ買ってきて神那に贈った。

「バイク買えてよかったね。おめでとう」とぶっきらぼうな調子で柳がいうと、神那は珍しく驚いたような顔をして、柳の顔とケーキ屋の箱を見比べていた。
「どうしてそうまでしてバイクが欲しいの?」といつもぶつくさいっていた妹がそんな行動にでるとは思わなかったのだろう。

兄妹は揃って2階のベランダに出て、ケーキの箱を開けた。丸いドーム型をしたラズベリーのムースは表面を真っ赤なゼリーで覆われていて、夜の闇の中でもツヤツヤと輝いていた。

「うまそうだな」

神那はひょいとムースを手に取ると、スプーンも使わずにそのままかぶりついた。

「ねえ」

「何だ」

「このムースね」

「うん」

「神那のバイクに似てるんじゃあないかと思って買ってきたの」

神那は開きかけていた口を閉じてまじまじとムースを見つめていた。

「ほら、あそこ」

柳はベランダの柵から身を乗り出して、ガレージに停めてあるバイクを指差した。柳が示していたのは、バイクの燃料タンクだった。
ガンメタリックの赤で塗装されたタンクとラズベリーのムースを交互に指差しながら、柳は兄を見上げる。
神那はしばらくのあいだポカンと口を開けていたが、やがて「そう」と一言つぶやいた。それから目元を緩めて微笑んだかと思ったら、完全に相好を崩して大声で笑い出した。
珍しく大笑いする兄に、柳はそんなに可笑しいこといったかしら、と首を傾げたが、その柳の姿が更に神那の笑いを誘ったらしく、神那は目尻ににじむ涙を指先で拭っていた。


――あの時、神那はどうしてあんなに笑ったんだろう。さすがに燃料タンクとムースをかけて語るのには無理があったのか。
兄が何を考えているのか、時々わからなくなる。

そんなことを思いながら、柳は教師の話を半分以上聞き流していた。

授業を受け持っていた老年の国語教師は、淡々と授業を続けている。その声は授業をしているというよりかは読経でもしているかのようで、いかにも退屈だった。

睡魔はどうにも抗いがたい力で柳を眠りのふちまで誘いだす。眠らないようにしようと柳が教室の中を見回すと、生徒の半分以上が机に突っ伏して寝ていた。
音楽科の生徒にまでなめられているなら、きっと普通科の授業では寝られるどころか存在自体無視されているんだろうな、と柳は思った。

教師が黒板に書き連ねる字は白いミミズが這っているようにしか見えない。白いミミズ、と考えて、柳は今朝の夢を連想する。
ぬるぬると湿った醜い寄生虫に身体を這われる感触を思い出して、小さく身震いする。

「ねえ、柳、柳」

柳の前に座っている八重子が振り向いた。

「あそこの漢字、なんて書いてあるのかな?」

崩しすぎて、もはや原型を留めていない漢字を指差しながら八重子が尋ねる。ぱっと見た感じでは、数字の“2”の隣にカタカナの“ム”が書いてあるように見える。

「職、だと思う」

「あー、そっかぁ……職かぁ」

どうしてあれが“職”なんだろうと柳も疑問に思っていたが、確かにあの漢字は“職”なのだ。

「あの先生、もう少し読みやすく書いてくれればいいのにね」

「きっと生徒は寝ててノートなんてとってないと思ってるんだよ」

「あはは、確かにみんな、寝てるもんねえ……」

私も眠い、と柳はあくびを1つして、目を閉じた。眠っているのか起きているのか、柳自身にもよくわからなくなってきた。頭はもうほとんど働いていなかった。
目は教室の授業風景を捉えているのような気がするのだが、授業風景の夢をみているような気もする。
そのうち足下が泥沼のようにぬるぬるとぬかるみだした。

もちろんそんなことはありえないわけで、柳は半分眠りに落ちているのだが、寝ぼけた頭では何が現実で何が夢なのか判断することができなかった。

泥沼は生ぬるい。気色悪い温度を持って柳の足首を掴んでくる。
足を見ると、今朝の夢に出てきた白い虫が這っている。虫は図々しくも柳の大理石のような肌をなめるようにして上へ上へと登ってくる。

『いや』
『助けて誰か』

目だけが黒板に向いている。金縛りにかけられたように身体が動かない。
教師の書くミミズのような字が、あとからあとから本物の虫のようになってずるずると黒板から這い出てくる。白いチョークの軌跡は回虫へと姿を変えて、まっすぐ柳に向かって這ってくる。
四方八方、どこを見ても回虫の海だった。つるりとした白い虫が、つややかな身体をくねらせ、身悶えするように頭をもたげ、あるいは柳を捜し求めているかのように這う。
足下の虫は人肌ほどの温かさを持っていた。這いずりまわるその動きはまるで柳の足を撫でているようだった。

『気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!』

それでも目は黒板に釘付けになっていた。手はノートをとり続けている。
異様な虫に身体を支配されようとしているその瞬間ですら、柳は表情一つ変えずに、いつも通りノートをとる。

『いやだ、やめて、やめてっ!』

平穏を装うその下で、白い虫が這い回る。どこが平穏だ、何が平穏だ。

『私は異常の中で生きている』

…昔も今も、これからも?

そう思った瞬間、ずるり、と虫が床に落ちた。虫は白い腹を見せながら、うぞうぞと身体をくねらせている。

『柳』

男の声が聞こえた。低くて優しいその声を、柳は確かに聞いた。くせ毛がちな茶髪が、ふわふわと柔らかく揺れるのを見た。

『僕が一緒にいてあげる』

「――柳?」

カチン、と硬質な音がして、柳は急速に頭が冴え渡ってゆくのを感じた。手に持っていたシャープペンを落としたらしい。
床に落ちたペンを拾って顔をあげると、八重子が苦笑していた。八重子が笑うたびに、くせ毛がちな茶髪がふわふわと揺れている。

「ふふ、寝てたよ、柳」

「…起きてたつもりだったんだけど」

さっき見たのは八重子だったのか。そう思って柳はじっと八重子の顔を見る。

いや、違う。

寝ぼけていたけれど、八重子じゃない。八重子のように柔和な茶色の髪の、“あの人”を見た。
しかし、いや、でもまさか。“あの人”、“あの人”だったのだろうか。

「…なあに、柳、どうかしたの?」

「いや、なんでも」

ちょうどその時、授業終了の鐘が鳴った。ぼそぼそとつぶやくように教師が締めて、教室に喧騒が満ちる。

「ああ、ようやく昼休みだねえ。柳、お昼、購買でしょ」

「うん。何か買ってくるから先に行って待ってて」

「じゃあアンナちゃん呼んでくるね!」

早く来てね、と微笑む八重子に柳も微笑み返す。鞄から財布を取り出して、柳は足早に購買部へと向かう。

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