小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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昼休みの売店でたった1つのパンを買うために消費される労力は並大抵ではないと柳はいつも思っている。
早いうちに買いに来ればいいものを、後手後手にまわしているうち、結局昼休みに買いに来るはめを食らってしまっている。
尋常ではない混雑ぶりに、柳はどのパンを買うのか、品定めすらできないでいた。もうどれでもいいや、と思っているのに、人垣に阻まれて適当なパンすら掴むことができない。

「――見てるだけじゃパンは買えないだろ」

ぐい、と後ろから腕を引かれて、柳はよろめく。ほぼ睨み付けるように振り向くと、

「橘(タチバナ)先輩……」

案の定、橘が冷めた目で柳を見下ろしていた。

「パンも買えないとは情けねえなあ、柳よ」

「放っておいて、橘先輩に心配されなくても買えるわ……たぶん、そのうち」

空手部に所属している橘はがたいが良く、同時に力も強く、おまけに人を退けさせる威圧的なオーラでもって、人垣を苦にもせずパンを入手してきたらしい。
パンどころか弁当も2つほど抱えている。

「俺の弁当譲ってやろうかあ? 400円で」

「転売する気!!? しかもその弁当、300円じゃない」

「手数料だ。なんなら毎日俺がお前のパシりやってやろうか? 弁当1つ400円で」

癪に触るがちょっといいかもしれない、と柳が思っていた時、背後からニュウと手が伸びてきた。手にはコッペパンが2つ握られている。

「――やる」

柳が何か言う前に、手はパンを手放す。落ちそうになったパンを、柳は慌てて受け止める。

「食う時間がないのに買いすぎた」

どこから現れたのか、神那はそっけなく柳にそう伝えて、立ち止まりもせずにさっさと出ていった。図らずもパンを譲られる格好になった柳は釈然としない顔で兄の後ろ姿を見送った。

「…じゃあ、後で食えってんだよなあ」

橘はあきれ返ったように苦笑して、コッペパンに目を落とす。

「橘先輩、これ、神那に渡しておいて」

パンの代金を出して見せると、橘は目を丸くした。

「なんだ、金払うのか。いいじゃねえか、兄妹なんだし」

「よくないわ」

「細かいねえ」

立ち去ろうとする柳に、橘がもう一度声をかけた。

「おい」

放り投げられたシュークリームに貼られた『100円』の値札を見て、柳は眉を寄せる。

「…200円で売り付ける気?」

「おごってやるよ。お前はもっと食って太くなれ」

じゃあな、と橘はおざなりに手を振って神那の後を追った。


 *

屋上で昼食を食べるのが柳と八重子、それからアンナの習慣になっていた。
本来なら立ち入り禁止であるはずの屋上の鍵をどこからか拾ってきたのは柳だった。屋上の鍵の他に、どこのものともしれない鍵もいくつか束ねられていた。

「屋上いいね!」とアンナは真っ先に同意し、八重子は「立ち入り禁止なのに大丈夫なの」と少しだけ心配そうな顔をした。しかし、いざ屋上にのぼってみると、一番はしゃいでいたのは八重子だった。

その日も3人はそろって屋上にのぼる。
転落防止のフェンスから下を覗くと、同じ敷地内に建つ大学との共有スペースになっている広場で昼食を食べる生徒と学生の姿が見えた。

柳が昼食のパンをかじっていると、アンナが昼食……ではなく財布を取り出して柳に突き付けてきた。
「彼氏に買ってもらったんだ」といいながらエナメルの財布を差し出してきたアンナに、柳は「ふうん」とも「へえ」ともつかない気のない返事をした。
軽くあしらった柳の代わりに八重子が「それ、前にアンナちゃんが欲しがってた財布だよね。よかったねえ」と会話を続ける。

やはり八重子は違うな、と柳は感心しながら横目で八重子を見る。
彩りよくおかずが盛られた小さな弁当に箸を伸ばす八重子が柳には非常に可愛らしく見えた。たまたま学内の購買部で遭遇した神那から譲ってもらった味気ないコッペパンをかじっている自分とは次元が違う。
アンナはすぐさまターゲットを八重子に変更し、言葉の雨を夏の夕立のごとく降らせた。


――柳が中学生だった頃、柳のすぐ前の席に座っていたのがアンナだった。
入学当初のまだ生徒同士が打ち解けていない空気の中、席が前後していたというだけの理由で柳はアンナに話しかけ、暇だったらしいアンナもそれに応じた。
アンナはなんとも透明感溢れる可愛らしい少女だった。輪郭線にそってきちんと切り揃えられた黒髪や、キラキラ輝く大きな双眸から、柳は最初、真面目な優等生らしいなと思っていた。

しかし、それにしてはどこか違和感があるというか、独特の癖のある雰囲気も持ち合わせていた。その違和感のわけはアンナと実際に話してみてすぐにわかった。
アンナは「柳なんて名前の女の子、見たことなかったよ」といい、柳はアンナに「アンナはずいぶんハイカラな名前ね」と答えた。
ハイカラ、という言い方がよほど可笑しかったのか、アンナはその可愛らしい顔を歪めてゲラゲラ笑い転げ、途切れ途切れに「うちのじいちゃんと同じこといってる」といった。

「あたしの名前ねえ、じいちゃんがつけたの。ハイカラじゃろ、とかいって」

それからアンナはまた笑いだした。別にそこまで可笑しいわけでもないだろう、と柳はすっかり呆れてしまった。
それで、柳のアンナに対する第一印象は、よく笑う人になった。アンナの顔を見るたび、名前よりも“よく笑う人”というイメージが先行した。


柳が「前の彼氏に買って貰った物はどうしているの?」と尋ねると、アンナは艶やかな黒髪を指に絡め、弄びながら何故そんなことを聞くのかがわからないとでも言いたげに首を傾げた。

「どうって、どうもしないよ?」

「元彼に買ってもらった物を所持し続けるの?」

「えー、何、柳、いちいちもらった物捨ててんの!!? 別れたからっていちいち捨ててなんかいられないよ。だって捨てちゃったらあたし、物なくなっちゃうもん!」

あっけらかんとした表情で哄笑するアンナに柳はため息を吐く。エコじゃんね? とアンナに同意を求められた八重子は微妙な苦笑いを見せる。
付き合うにつれて、真面目な優等生、というのはまったくの見当違いだったと柳は思い知らされることになった。透明感など、アンナとはまるで縁のない言葉だった。
アンナはその“清純”という仮面を使って、あらゆる男の間を渡り歩いていた。真面目そうで実は……というギャップがいいのかなんなのか、アンナの虜となった男はもれなくアンナの彼氏、ではなく財布になり、定期的に取り替えられた。

アンナは自分の髪を撫でながら「あ、そういえば、長谷川とは仲良くやってる?」とどうでもよさそうに柳に尋ねた。
長谷川、というのはもちろん大和のことを指していて、アンナは時々、大和と柳の関係を気にかけていた。

「まあ、それなりに」

「てゆうかさあ、あたしがいうのもなんだけど、長谷川ってあんまりいい奴じゃないじゃん」

「財布にならないから?」

「まあ、あいつなんてしがない貧乏大学生だからねー。いやいや、そうじゃなくてさ、中身の話」

「いい奴ではないとは私も思っている」

きっぱりと言い切った柳を、八重子が不安そうな表情で見つめる。八重子は「柳、虐められてない? 暴力とかふるわれてないよね?」と本気で心配しているようだった。
アンナは八重子の発言に爆笑する。

「ちょっとアンナちゃん、なんで笑うの!!?」

「だ、だってさあ、まさかそこで八重子がDVの心配するとは思わなくてさあ!」

「で、でも、だって! 私、柳が殴られたりしてたらどうしようかと思って!」

「あははははっ! 長谷川は外見があれだからね。その辺どうなのよ、柳?」

柳もわずかに微笑みを浮かべる。

「殴られたことはない。大和は殴るとかはしないよ。少なくとも私には、だけどね。確かに外見だけみたら、いかにも、だけど、タバコも酒も暴力も嫌いだから」

だから大丈夫、と柳が八重子にいうと、八重子は嬉しそうに笑って「よかった、でも、ちょっと意外」といった。
アンナは皮肉るような笑顔のまま柳を見た。

「でもさあ、あんなヤクザかっつーようななりで酒は飲まねータバコは吸わねーってんだから、ある意味笑っちゃうよねー。ねえ、あれのどこがいいわけ?」

不躾な気がする言葉にも、柳は眉一つ動かさずに少しだけ首を傾げた。
アンナは普段から誰に対しても愛想の安売りをしているような女で、とにかくいつも朗らかだったが、同時に誰に対しても平等に薄情だった。親しかろうが親しくなかろうが、時に鋭利な言葉で胸をえぐった。
馴れ初めの頃は柳もアンナの言葉に腹を立てたが、次第にどうでもよくなった。客観的に考えてみれば、アンナの辛辣な言葉はわりと筋が通っていたからだ。

柳もアンナと同じように、皮肉じみた笑顔を浮かべた。
常人離れした美貌が、酷くずる賢そうに歪む。人を誘惑する悪魔のように醜悪で、同時に、つい誘いに乗りたくなってしまうほど美しかった。
横に引いた真っ赤な唇からこぼれた声は、無感動で乾いていた。

「どこがいいってそれはもちろん、あのなりで酒は飲まないタバコは吸わないってところに決まってるじゃない」

アンナは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから苦笑した。

「うーん、もっと怒るかと思ったのに。あたし、柳のそういうところ大好き!」

「それはどうも」

「あたしもまだまだだなあ。もうちょっと切り返しができないようなことをいえるようにならなくちゃ」

「そんなややこしくなるようなことはやめて頂戴……」

アンナはゲラゲラ笑ってから、うつ伏せに寝そべった。そのままフェンスを掴んで校庭を見下ろす。
校庭ではサッカー部と野球部が練習している。アンナは鼻を鳴らして「昼休みだってのによくやるなー、スポーツバカは」と呟いた。
投げやりなアンナの態度に八重子が苦笑する。

「運動部は夏に大会があるし、3年生はそれが最後の大会だから今から気が抜けないんだよね」

「あー、運動部っていえば、さっき聞いたんだけどねぇ、バスケ部が今から体育館で練習試合やるんだって。どいつもこいつも熱いねー!」

ははっ、と乾いた笑い声をアンナがもらした時、急に八重子が立ち上がった。アンナも柳もぽかんとした表情で八重子を見上げる。

「何……何、どしたの」

「み、見に行こうよ!」

「何を」

「体育館……」

「バスケ部をってことー? やだよー、興味ないしどうでもいいし。てゆうか八重子、パンツ見えてるし。おほっ、ピンクのTバック」

「あっ、ちょ、ちょっとアンナちゃん! 覗くのやめてっ! しかも嘘つかないでよ、Tバックなんかはいてないでしょ私ーっ!!」

何やってんだか、と柳はため息を吐く。八重子はスカートのすそを押さえながら柳のほうを向いた。

「柳……」

「行かなくていいよ」

「どうして? 倉田先輩もでるんでしょ、行かなきゃだめだよ!」

「私に神那を見にいけっていうの……」

必死な八重子の顔を見ているうち、柳はふとあることを思い出す。

「…そうね、わかった。いいよ見に行こう」

「本当!!? ありがとう柳!」

アンナは「えーっ、本気で?」と呆れた様子。

「せっかくだからアンナも一緒に」

「あたしここで寝てるからいいよー、帰ってきたら起こして」

「片桐(カタギリ)、見なくていいの?」

「はあ? 誰よ? 片桐ってのは」

訝しげな顔をするアンナに対して、八重子が「や、柳っ!」と声を上げた。
「ははァ」とアンナが感心したように唸る。

「懸想かあ? 八重子ー」

「けっ……もお、国語の授業じゃないんだからぁ……別に、そういうわけじゃなくて」

「そうじゃないんならわざわざスポーツバカ見に行く必要ないでしょうよ」

「それは……」

「しかしねえ、八重子が男に惚れるとはねえ。八重子は柳一筋なのかと思ってたよ」

やれやれと首をふるアンナに、八重子は熟れたトマトのように顔を赤らめた。

「八重子にしてみりゃ柳が彼氏みたいなもんじゃん。てゆうかあたしにはそう見えるぅーうっうー」

「や、やだっ、アンナちゃん、そそそそんな、からかわないでっ!」

「いや、照れてないで否定しろって」

八重子がおずおずと柳に視線を向けると、柳も暖かな微笑みをもって答える。八重子はいっそう顔を紅潮させて、照れ笑いを浮かべる。
そうやって2人はしばらくの間、微笑み交わしていた。

「…え、何、あんたらマジなの?」

とアンナがあきれたようにつぶやいた。

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