小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 *

柳達が体育館へ着いた頃には、コートの周りはすでに人垣が出来ており、入り込む隙間がなかった。
3人は2階のアリーナへ上り、転落防止の柵に寄りかかりながらコートを見下ろす。
準備運動をしている選手たちの中から、柳は真っ先に神那を見つける。準備を終えて、各々、ボールをいじっている。

…昼飯も満足に食べられなくて、不憫なことだわ。

他の選手と何か話し込んでいる兄の横顔を見て、柳はそんなことを考える。

不意に上を向いた神那と目が合う。
神那の顔に『何してるんだお前』と書いてあるのが柳にはわかる。ついでに『見なかったことにしたい』と書いてあるのもわかる。
わかっていて、柳は、神那に親指を立てて見せる。

グッドラック!

神那はため息をついて、やれやれとでもいう感じで頭を振った。そしてそのまま柳に背を向けてどこかへ行ってしまう。

「つまらないなあ」

八重子はにこにこしたまま「え? 何かいった?」と柳に問いかけた。

「何も……」

柵に肘をついてため息をつく柳の肩を、アンナが揺さぶる。

「柳、柳! 柳のお兄さんあれでしょ、あの5番付けてる人」

「そう」

「前から思ってたけど、柳の兄ちゃんなだけあって男前だよねー!」

「神那は財布にはなれないよ。バイトしてるけど全部見事に使いきってるし」

「やっだなあ、そういう意味じゃないって。だいたい、柳の兄ちゃんって時点で付き合うとかそういう対象じゃなくなるよねー」

「何故?」

「なんていうかねえ、なかなかどうして、立派に兄妹すぎるんだもん、あんたら」

「だって本当に兄妹だもの」

「こうやって見てみると似てるんだよねー顔が。顔っていうか目付きが! きっとあの兄ちゃんと付き合っても、あんなことやこんなことをしてる最中に柳の顔が思い浮かぶんだわ……
うへへ、ヤる気も失せるってもんよ!」

「あっそう……」

八重子は落ち着きなく辺りを見回している。しばらくして、コートのわきのベンチから片桐が出てきた。
片桐は軽く何本かシュートしたり、柔軟したりして試合前のウォームアップしている。
そんな片桐を見つめる八重子を見て、私もこの中に好きな男でもいたら少しは楽しいんだろうな、と柳は思う。

…かといって、ここに大和がいたら何か楽しいのかと聞かれたら、特に楽しくもないような気がする。

「…柳」

アンナが今度は小声で囁く。にやにや笑っているところを見ると、何を言いたいのか、柳にはだいたい想像がついた。

「あのさ――」

「そう、9番が片桐(カタギリ)よ。確か」

「ああん、もう、なんでいう前にわかっちゃうのかなあ!」

「私もあまりまじまじと見たことがなかったの。なんだかステレオタイプな顔してるわ」

「まあ、典型的な爽やかスポーツマンっつー感じね。髪がサラッてなって、歯がキラッて光るみたいな。八重子ってこういう男が好みだとは思えないんだけどなぁ。
ところであの爽やかくんは2年生なの?」

「そう。代表のほとんどが3年生だとすると、2年生で選ばれてるからにはきっと上手なのね」

「あたし、小学生の頃さあ、男子とドッジボールやると、よくああいうツラしたやつにぶつけてたよ。あのすかしたツラがもう今にも泣きそうになって面白いったらないのよ!
一撃で仕留めようとすると、キャッチされちゃうから、まずは外野にオーバーで軽くパスを2、3回、足をもつれさせてるところを狙って足下に2発、そして、バランスを崩して背を見せたところですかさずバシッとよ、バシッと!」

「なんか嫌な話……」

ねえ、アンナってば、えげつないの、と柳が八重子のほうを見ると、八重子は相変わらずぼんやりと片桐を眺めている。

「…なんだなんだ、完全に自分の世界だな、ありゃ」

あはぁ? とアンナはにやにや笑って八重子を指差した。

「妬けるでしょうよ、柳?」

「ええ。片桐に嫉妬せずにはおれないわ」

「いうねえ!」

確かにアンナの言う通り、八重子の視線は片桐ただ一人にそそがれていたが、その横顔にどこか憂いが潜んでいるのを柳は見る。盲目的な恋の視線というよりは、何かもっと別の、鬱気とでも表現するべき重く暗い影がその視線に含まれていた。

「…ねえ、八重子、」

柳の呟きを切り裂いて、試合開始のホイッスルが鳴った。飛び交う様々な声の中で、選手たちは踊るようにコートを駆け回る。
木の床とゴムのボールが弾け合う音がして、その音にすがるようにバスケットシューズがキュッと鳴る。体育館に満ちる独特の湿っぽい匂いと、人いきれで空気は熱を帯びてくる。

選手はみな真剣そのものだ。
神那が黒いユニフォームを着ているところをみると、代表選手は黒のチームで、もう一方の白のチームは選考からもれた部員らしかった。今更ながらそんなことに気がついて、柳は自分の無関心ぶりに失笑する。

「…あ、あーっ! あぶなっ、ねえ、柳の兄ちゃんのポジションってなんか危うくない!!? あっ、ほらまた、あんなさあ、ゴールの真ん前なんてみんな突っ込んでくんじゃん!
あそこ危険だよ、絶対怪我する! おおっ! また入った! また入れた! 忙しいな、右に左にって! ねえねえ、柳、ちょっと、見てる!!? 聞いてる!!?」

ゆさゆさと肩を揺すられて、柳は少々あきれた。アンナは興奮ぎみにコートを指差したり柳の肩を叩いたりと忙しい。

「え、ええ……見てるし、聞いてる」

「嘘いえ、全然見てないじゃん!」

「アンナこそ、さっきまでスポーツバカなんていってたくせに、そんなに熱くなっちゃって、まあ」

「さっきはさっき、今は今! この場にきちゃったからには楽しまなきゃ損ってもんよ!」

「いい性格してるわ、本当に……」

これといっておもしろくもないな、と柳は思いながらも惰性でボールの行方を目で追い続けていた。

「…ねえ柳、柳」

今度はしかめっ面でアンナが柳の袖を引いた。同じように柳も顔をしかめて答える。

「なんなのよさっきから……」

「ねえ、あそこ、あいつ、誰よ? あの32番つけてるやつ」

「32? そんなのどこにいるの?」

「コートの中じゃなくてさ、外側よ。補欠かなんか? さっきからあの32番がずっとガンつけてくんのよね。気に食わなーい」

「気のせいよ」

「気のせいなんかじゃないんだってばっ! ほら、みてみて!」

「32……」

忌々しげにため息を吐いてから柳は視線を巡らせる。確かに、コートの隅に32番のナンバリングを付けた男子生徒が立っていた。

「ねえっ、見た? ほら、超ガンつけてくんじゃん、なんだあれ、感じ悪いったらない、ねえ……柳? 柳ってば」

32番の男の表情は憎悪で溢れていた。歪んだ顔には言い知れない怨念がこもっているようにも見える。
鋭い視線は、そのまままっすぐ柳の瞳を射抜いていた。
歩けばドロドロと流れ落ちそうな憎悪を身にまとったその男子生徒と、柳の視線がぶつかり合う。

…何故、今まで視界に入ってこなかったのか。

そう思って柳は自分に首を傾げた。

「おーい、柳ぃ、ねえってば。もしかして知り合い?」

柳は視線を逸らそうともせず、逆に32番の男の瞳をねめつけた。自然、握った手に力がこもる。

「知り合いじゃないわ」

絞り出すように答える。

「昔の同級生よ」

「それ知り合いっていうんじゃね?」

「誰が!!? あんなの、知り合いなんかじゃない。私には何の関係もないわ!」

「ど、怒鳴らなくてもいいじゃない……なんだか知らないけどあの目付き、尋常じゃないと思うんだけど……なんか怨まれるようなことでもしたの?」

「してない」

「で、でもさ」

「してない」

「そ、そんなぁ、般若みたいな顔しなくてもぉ……」

「とにかく、怨みたいのはこっちのほうなのよ!」

そう叫ぶなり柳は八重子のすぐそばまで歩いていって、ぐいと腕を引いた。

「八重子」

「…あっ、柳……ごめんなさい、私、1人で夢中になっちゃったみたいで」

「構わない。でも、そろそろ帰らないと。時間がないから」

曖昧に微笑む柳を見て、八重子も笑みをこぼす。

「うん、わかった。でも、そんなに焦ってどうしたの?」

八重子がコートを振り返ろうとする。柳はもう一度八重子の腕を引いて、にっこり笑って見せる。少し困ったような笑顔だったが、それがむしろどこか哀愁を漂わせる要素となって、柳の美しさをなお一層強調していた。
八重子ははっとした表情のまま、呆けたように柳を見つめる。

「ううん、焦ってなんかない。ただ、少し心配になっただけ」

「そうだね、うんうん。じゃあ、帰ろうね」

八重子の返事を聞くと、柳はそのまま八重子の手を引っ張って足早に体育館を出ていった。


「――えっ、あたし放置!!? あんたらナチュラルにひどくね!!?」

ちょっと待ちなさいよ! とアンナも叫んで2人の後を追った。

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