小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 * * *

エス、というのは、柳が“交換日記”を行なっている相手の名前である。
交換日記といっても、直にノートのやり取りをしているわけではなく、一日の出来事を書いたメールを送り合うといったものである。
2人は友人と呼びあえるほど仲が良いわけではなく、まめにメールのやり取りをしているわけでもなかった。
気が向いたときに、交換日記のごとく、一日の出来事を互いに送り合って、終わりだ。

柳は、エスの本名はおろか、性別や年齢すら知らない。ただ、メールの内容から、おそらくエスは自分と同い年ぐらいの女ではないかと柳は推測している。
もうずいぶん長くメールを送りあっているが、互いの素性に関しては一切触れたことがない。
柳が唯一知っているエスの個人情報といえば、本名のイニシャルがSだということぐらいであった。個人情報かどうかすらも怪しい、些細な情報である。


――その日、エスからのメールが届いたのは、夜の12時過ぎだった。
早くベッドに入ったものの、なかなか寝付けずにいた柳は、メールの受信を知らせるランプの点滅に、すぐさま気がついた。

送信者はエス、件名はエゴへ。
エスとのメールにおいては、柳も本名ではなく、“エゴイスト”というハンドルネームを使用している。エスは縮めて“エゴ”と呼ぶ。
いつも「エゴへ」というおかしな件名で届くメールにも、自分が「エゴ」と呼ばれることにも、柳はもうすっかり慣れていた。


 件名:エゴへ
 本文:今日も教室では私の存在は空気のようで、時に注目の的でした。
 私のノートは定期的になくなります。
 ですから、授業中にノートを取っても無駄なんです。
 教科書はなくなったことがありません。
 教科書は高いし、なくなると買えなくて困るから、それはありがたいです。
 私のノートがなくなって、私が呆然としていても、誰も私を見ようとはしない。
 笑いもしない。
 今朝、私の机の上に花束が置いてありました。
 といっても花屋で買ったような花じゃなくて、その辺りに生えてるような雑草ね。
 よくあることなので、私はいつものように花を窓から下に捨てる。
 私がクラスの皆に背を向けているその間だけ、クラス中の全員が私を見る。
 なんでわかるかっていうと、窓ガラスに皆の顔が映ってるの。
 それに、誰もしゃべらなくなるからなんとなくわかる。
 私が振り向くと、皆は何事もなかったようにおしゃべりを再開する。
 息が詰まる思いでした。
 エゴは、死にたいと思ったことある?


柳は少しだけ考えてから、メールを打つ。


 件名:エスへ
 本文:死にたいと思ったことはないけど死ねと思ったことはある。
 でも一緒に死んでほしいと思ったこともある。


そこまで打って手を止めた。
時々、考えることがある。このエスという人物は本当に実在している人間なのだろうか。
どこかにメールを返信するプログラムがあって、それが適当な返事を寄越しているのではないのかと。

…馬鹿馬鹿しいや。そんなの、なんのメリットがある。

柳は鼻で笑ってメールの続きを打った。


――例えば私がエスと同じような状況にいたと仮定しても、私は死ねない。
どんなに尊厳を傷つけられても、結局、相手も自分も殺せないまま、いつものように食べて寝て、食べて寝てを繰り返す。

そんな毎日がいつまで続くのかなんてわからないけれど、それでも馬鹿みたいに続けていくと思う。

殺すか殺されるか、それ以外にも道はあるはずなのにね。
いくらでも方法はあるけど、でも、私なら、相手を殺すか自分を殺すかで決着をつけたいと思う。


すぐさまエスから返事が届く。

『そうだね。いくらでも脱出する方法はあるのに、私はいつも死を考えています。
憎らしいから相手を殺したいし、陳腐だけど私にもプライドがあるから、プライドが傷つけば死にたくもなる。
ただ単に学校から逃げ出しただけじゃ、私は私自身にけりがつけられないと思います。
さっさと逃げて、忘れてしまった方が自分の為になることはわかっているけど、どうしても割りきれない部分があります。』

――いつでも感情に矛盾がなくて、すんなり割りきれるなんてことはあるわけがない。

『うん。そうなんだよね。合理的じゃないってわかっていても、やっぱり私は自分に従わずにはおれないのです。』

――ある意味で、なにもしないで現状のままでいるのが最も合理的だとはいえない?

『それもそうかもしれない。だから私はこうしているのかも。私にとって他の選択肢は自殺するか相手を殺すかだから。なにもしないことが一番損がないの。
やっぱりなんだかんだいって、私も無意識のうちに自分にとって最善の選択をして生きてるみたいです。』

――結局、何も解決しないね。

『うん。いつも私はこうだね。ごめんね、ありがとうエゴ。』

――私もエスと一緒だから。状況こそ違うけれど、現状から抜け出せずに、今までずるずる生きている。
いつ折れるかはわからないけれど。

いつも話は堂々巡りだ。どんなに話を詰めたところで、柳にエスを救う手だてはない。それはエスも同じだ。
だから堂々巡りでも構わなかった。
それでも、この世のどこかにいるはずの、Sというイニシャルを持つ人間、それが今の柳にとって唯一の理解者で秘密の共有者だ。
顔も、実在しているのかすらわからないSが、柳と実際に接している人間より彼女を理解しているというのはある意味で皮肉な話であった。
暗闇の中で、ぼんやりと携帯の明かりを灯してメールを打っているエスの姿が柳の頭によぎる。
そのエスは深海魚の姿をしていて、透ける体や銀の鱗を光らせて、青く、暗く、深い海の底から柳にメッセージを送っていた。

…我ながら変なイメージだ。

そう思って柳は笑った。メールの受信を告げる青いランプが2回、点滅した。


 件名:エゴへ
 本文:ねえ、エゴには辛いことがあったとき、支えになってくれる人がいますか?
 惰性で生きていても、その中で、折れてしまわないように、自分を補ってくれる人。
 エゴが付き合ってる男、その人がそう?


――わからない。あの人が私にとってなんなのか、よくわからない。

『好きじゃないの?』

――わからない。「自分の恋人なのに、好きかもわからないなんて変だ」ってよくいわれる。
エスはわかってくれる? それともやっぱり変だと思う?

『私の聞き方が悪かったかもしれません。私は、そもそも“好き”っていうのがなんなのかよくわかりません。
だから、恋人の男が好きなのかがわからないエゴが変だとも思いません。
愛情って一体なんでしょう。嫌いじゃなければ好きってこと?』

――たぶん、そんなにマイナスな定義ではないと思う。

『じゃあどういうこと?』

――わからない。私もそれがわからないから、あの人のことを好きなのかがわからないのかもしれない。
誰かを好きになったり、好きになってもらったりするということがよくわからない。
愛されてるっていうのはどういうことをいうのかもわからない。


柳は文字を打つ手を止める。

「…私、あれもわからないこれもわからないって」

ため息をついて、携帯を置いた。携帯の画面には送信完了のメッセージが現れる。

「これじゃあ自分が自分ではないようだわ」

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