小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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その夜、柳はエスの夢を見た。
やはりエスは海にいた。柳の想像と違っていた点は、エスが深海魚ではなく髪の長い女の姿をしていたことだ。
黒い髪が頭部に絡まっていて、顔まではうかがい知ることができない。

エスは、海溝に吸い込まれるかのように深海へと落ちていく。
最初のうちは太陽光を透かしたクリアブルーだった海も、シアン、ネイビーブルー、インディゴブルー、そして黒へと変わってゆく。本来ならば生身の人間など水圧で潰れてしまう暗黒の深海。
エスの身体はゆっくりと、沈没した船の上へ横たわった。
船の回りには朽ち果てた戦闘機の残骸が散らばっている。キャノピーとエンジン部分だけが砂から顔を出しているもの、しっぽの方向舵と昇降舵だけなってしまっているもの、補助翼だけのもの、形はそれぞれ様々だが、当然のことながら一機として完全な姿を留めるものはなかった。

そこでエスが何か言葉を発する度、それは空気の泡となって、海面へと上っていく。泡は途切れることなく海中を漂う。
時折エスのそばを巨大な影が横切る。
それは深海のサメだったり、死んで海底に沈もうとしているクジラだったりした。巨大な魚たちはエスに目を向けて、それから何事もなかったかのように通りすぎて行く。

口だけが不格好に大きく発達したウナギがエスの隣でゲラゲラ笑っている。頭の先端近くにある目は小さく、三角形の大きな口だけがそのウナギのすべてだった。
暗闇の中にあっても、笑うウナギの真っ赤な口腔が際立っていた。

派手な紅色のヒレを持つ白銀の魚がやって来て、エスの周りを漂う。帯のように長い体の魚を、エスは追い払うように手を緩慢に動かしてみるが、魚は一向に逃げようとはしない。
マリンスノーがエスに降り注ぐ。
しんしんと降るマリンスノーにエスは空を見上げるが、光も届かない深海では何も見えない。ただ蒼黒の闇が延々と続いている。

また一つ、巨大なクジラの死骸が落ちてきた。

ここにあるものといえば、生き物の死骸と人工物の残骸だけだ。完全な形のものなどない。皆、どこかが欠け落ちている。

サメがやってきた。サメはエスの身体に鼻先を押し付けて、じゃれるようにエスの身体をもてあそんだ。
撫でてくれといわんばかりに頭をエスの顔に擦り寄せる。
しばらくそうやって遊んでいたサメが、突然、エスの腹に噛みついた。サメが頭を離そうとすると、しかしエスはサメの頭を抱え込んで、何故か離さない。

エスの顔を覆っていた髪が横に流れる。あらわになったエスの顔は、柳の顔だった。
柳の身体はサメに食いちぎられてバラバラになる。
それでも柳はサメに手を伸ばす。サメのほうも柳のそばを離れようとしない。
伸ばした手がサメではない、硬質な何かに触れた。そのまま指先に力を入れる。

――カチン。

手は意識せずとも勝手に目覚まし時計のアラームを止めてしまう。

いつも通り、目覚まし時計、アラームが鳴る10分前。
鳴り出す前にスイッチを止めてしまうものだから、柳はもうずいぶん長い間この目覚まし時計の音を聞いていない。どんな音だったのかも忘れた。
柳はのそりと布団から身体を起こす。カーテンを開ける。窓を開ける。
澄んだ早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、代わりにほこりっぽくざらついた息を吐き出す。
何度か繰り返しているうち、それは深呼吸から次第にため息へと変化した。

…ああ、なんて気だるいんだろう。

今日もいつも通りの朝が始まる。



 *

「おはよう」

キッチンではすでに神那が朝食を用意していた。
神那は僅かに視線をよこして「おはよう」そっけなく返した。
神那の後ろ姿を見ていた柳は、また寝癖直さないでごまかしてる、と思ったが口には出さなかった。
生真面目の堅物で通っている神那、柳も兄をそう評していたが、案外、ずぼらなところもあるものだ。それも、思っただけで、もちろん口には出さない。

「飯」

ん、と神那は柳に皿を渡す。

「ありがとう」

神那も席につく。兄妹は揃って「いただきます」と手を合わせた。

「…そういえば」

トーストをかじりながら神那が柳に目を向ける。柳も手を止めないまま顔を上げる。

「橘んとこでバイト始めるんだって?」

ほぼ無表情の兄の顔に、僅かではあるが訝しげな色が差していることに柳は気がつく。

「なんだ、橘先輩に聞いたの? 私からいおうと思ったのに」

「まさかお前が接客業につくとは思わなかった。調理場じゃないんだろ?」

「ええ。注文をとって回るわ」

「大丈夫なのか」

隠そうともせず、思い切り怪訝な顔をする兄に柳は苦笑した。
兄の顔には『お前がにやにや笑いながら客の間を歩くなんて信じられない』と書いてあった。それは柳自身も同意見である。

「橘先輩には調理場で働けるように頼んだんだけれど、『フロアに華が欲しいから』っていって、渋るのよ」

「屈強そうな男しかいないからな、あの店。橘はじめ」

「ふふ。中華料理屋だし……っていうと言葉が悪いけれど、あまり女の子が好き好んで働きたがる雰囲気でもないものね」

「暑苦しいしむさくるしいからな」

そうね、と柳も同意して視線を下げた。
しばらく兄妹は黙ってトーストをかじっていたが、

「…益々もって大丈夫なのか? お前」

腑に落ちない様子の神那によって沈黙は破られた。
これ以上はない、というほど神那は顔をしかめている。心配しているのではない。柳が信用できないのだ。
神那は、何か胡散臭いものでも見るような目付きをしていた。

『お前、絶対向いてないだろう』

今度は顔にそう書いてある。

「どうにかするわ。八重子も一緒だし」

「八重子まで?」

「ええ。聞かなかった?」

「聞いてない」

「そう……何考えてるのかしら、橘先輩」

「手前、俺にはいいにくかったんだろう」

「変なところで鈍いし小心者よね、橘先輩って。でかい図体して。空手部主将の肩書きが泣くわ」

「まあ、そういうなよ」

「ねえ、話がそれたけれど、だから近々行ってくるわ」

「頑張れよ。適当に」

「ふふ、ありがとう」

いつものように兄妹は2人揃って家を出る。神那はガレージから自転車を引っ張り出して、カゴに荷物を放り投げた。

「帰りはいつも通りだから」

「ええ」

そのまま自転車に乗るのかと思いきや、神那は改めて柳のほうを振り向いた。

「そうだ、まだあった」

「何が?」

「橘が、きっとお前が喜ぶようなことがあるっていってたぞ」

「ああ、私もいわれたけど、具体的に何があるのかは聞いてないの。一体何?」

「知らん。お前を驚かせたいんだと。俺には教えないんだそうだ。橘がいうには『倉田は口が軽いから』」

何が口が軽いだ、と神那はぶつくさ文句をいってから自転車を走らせた。
柳も、兄の姿に少し笑って駅に向かって歩き出した。

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