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柳、アンナ、八重子の3人は揃って屋上に昇る。
いつもなら弁当を持ってきているはずのアンナも今日は食堂でパンを買ってきていた。
「いやぁ、昼休みっていいよね! あたしゃ昼休みのために学校に来てるようなもんだよ」
アンナはコンクリートの床に大の字になって寝そべると、そのままパンをかじりはじめた。
「行儀が悪いわねえ……」と柳に蔑んだ目で見られてもしれっとしている。
「柳と八重子しかいないのにさぁ、下品も上品もあるかっつーの!」
暖かくて気持ちいいんだからぁ! とアンナが叫んで八重子が笑う。
「アンナちゃんの気持ちわかるなぁ。すごくぽかぽかしてていい天気だよね」
「そうそう、こんないい天気の日には虫干ししなきゃ」
「虫って……」
アンナの相手なんてまともにするものじゃないわ、と柳は八重子を諭し、それから本を取り出す。
隣に座っていた八重子が「なんの本?」と小声で囁いた。
「小説よ」
微笑んで柳も答える。
「一緒に見せてもらっても、いいかな」
「ええ、もちろんよ」
八重子は柳の肩に寄りかかると、僅かに首を傾げて手元を覗きこんだ。
寄り添う八重子の体温を心地よく感じながら柳はのんびりと本を読んだ。ついでに、買ってきたコッペパンを取り出してかじる。
しばらくは静かだったが、昼食を食べ終えて暇になったらしいアンナによって静寂は破られた。
アンナは柳から本を取り上げると、ページに目を通して顔をしかめた。
「字ばっかり」
「何いってるのよ……小説だもの、当たり前じゃない」
「しかも暗っ!
『ごく普通で真面目な少年達は何故、殺人鬼となったのか。
少年達を取り巻く人間関係、日常に潜む狂気、少年達の葛藤、心の闇を描く群像劇』……
重いよー内容が! こんな爽やかな昼休みに読むような話じゃないでしょ、これ」
「いいじゃない」
「柳はさあ、いっつもこんなのばっかり読んでるわけ? もっとラブ! みたいなのとか、感動! みたいなのを読んで少しは潤えば?」
「大きなお世話よ……ラブなんて、劇的でもなんでもないんだもの、おもしろくないわ」
「なによぉ、好きな男と両思いになれるって、十分ドラマチックじゃん。好きな人にさあ、好きになってもらうのって、大変じゃん。そんな簡単になんていかないじゃん!」
「アンナちゃん、珍しいんじゃない、そんなこというなんて」
八重子がくすくす笑った。アンナはむっと顔をしかめたが、しかし何も言わない。
「好きなのに好きになってもらえなかったり、辛かったり苦しかったり、そんなの今更文章にして読まなくたっていいじゃない。
だってわかってるんだもの。昔々から変わらない事実よ。
当たり前の事実を聞いて、誰が喜ぶっていうの? 私には、それと同じよ」
「ふん、柳のいうことは極端なのよ。
人はいずれ死ぬ。だったら同じことだから今すぐ死ねっていってるように聞こえるね、あたしには!」
「そうかしら。なんだか変な例えね……」
「無意味だっていってるように聞こえるってことよ」
「やあね、無意味だからなんて思ってないわ。ううん、無意味なのは知ってるけど、結局、また恋だのなんだのって私もやってしまう。
馬鹿馬鹿しいって思ってるのに繰り返す。
どうせ、私の人生自体、全体的に馬鹿馬鹿しいんだから、馬鹿みたいに繰り返すしかないのよ」
返して頂戴、といって柳はアンナの手から本を奪い返した。
「つまんないのー」とアンナはつぶやいてフェンスに駆け寄り、真下に広がる広場を見下ろしていた。
大学と高校の校舎の中央にあるその広場は、両校の共有スペースということもあり、昼休みになると、大学生も高校生も入り交じる憩いの場と化す。
学生達が談笑している以外に特に珍しい光景があるわけでもない。
「見てたってつまらないでしょう、眺めているぐらいならアンナも混ざってくれば?」と柳は一度提案したことがある。
「いやぁよ、あんなにごちゃごちゃしてるの」とアンナは顔をしかめただけだったが。
そのごちゃごちゃを眺めて何が楽しいんだか、と柳はやや呆れながら本を読んでいた。
味気ないコッペパンをかじって本のページをめくった時、アンナが「おっ」と声を上げた。ガシャッ、とフェンスが揺れる。
「…長谷川だっ! 長谷川ーっ」
叫ぶアンナに、柳は食べていたパンを喉につまらせそうになった。むせる柳の背中をさすって八重子が心配そうに声をかける。
「や、柳、大丈夫!!? 私のでよかったらジュースあるよ、あげようか」
ありがとう、平気、と柳は苦笑いで答える。
「ちょっと柳、むせてないであんたもこっちおいでよ! ああ、ほら、早くしないと行っちゃうよ!」
「嫌よ……どうして今、大和を見なくちゃならないの?」
「あのね、今ね、男3人だよ、女の影はなし!」
「だからなんなの……」
「え? 女と一緒にいるとこみせたらかわいそーかなぁって思っただけ。
だって長谷川ってタラシっつーか節操ないよねー。あっちにホイホイ、こっちにホイホイってお前は犬かっつーの!」
きゃはははは! とアンナが楽しそうに甲高い笑い声を上げたが、何が面白いのか柳にはさっぱり理解できなかった。
むしろアンナが声高に笑えば笑うほど、柳の気分は急降下していくのである。
「ちょっとアンナちゃん」
咎めるように八重子が険しい顔を見せる。
「えっ? 何?」
「柳の前で長谷川さんのことそんなふうにいわなくてもいいんじゃない?」
「え、あ、あはは、いやぁ……」
「いいのよ八重子。アンナのいってることは合ってると思うし……」
「ほ、ほら柳もそういってるんだしさ! 八重子ぉ、そんなに怒らないでよぉ。
そもそもさ、柳のタイプって、こう、穏やかっつーか、知的っつーか、中性的っつーか、線の細い感じの男じゃなかったっけか?」
「ああ……そういわれればそうね。今でもそうよ。ふふっ、もの静かで、バイオリンを弾くような人。好きよ……」
「バイオリンて、どこの坊っちゃんだっつーの。あ、いや、うちの学校なら別に珍しくもないか。どう? バイオリン専攻の男、連れてこようか!」
「アンナの紹介はもう結構よ。それに、バイオリン専攻の男が好きなわけでもないし」
「しかしさあ、それで長谷川なんて、あんなサメみたいな刺々しい男、よく付き合おうと思ったね」
「サメねえ」
「…長谷川って実はインテリな優男だったりするの?」
「まさか……あれで裏表あるように見える?」
「見えない……」
「しかも柳にしてはずいぶん長持ちしてるみたいだし? 長谷川からしてもまあ、長持ちしてるほうだし」
「ひねくれ者同士だから相性がいいのかもしれないわ。性格だけじゃなく、いろいろと」
わからない、わからないなぁ、などとつぶやくアンナに、八重子が笑う。
「やだ、アンナちゃんってば、前に自分でいってたじゃない。理想と現実は違うんだーって。柳もそうなんでしょ、そんなに不思議がらなくてもいいようなものじゃない?」
「そりゃ確かにいったけどぉ」
おい、お前は見た目通り野蛮なんだろ長谷川! とアンナがフェンス越しに叫んだ。
柳は慌てて立ち上がるとアンナの背中にしがみつく。
「アンナ、やめなさい、後で大和に文句いわれるのは私なのよ」
「いいじゃんいいじゃん」
「よくない!」
思わず柳が悲鳴のような叫び声を上げた時、大和がふらりと上を向いた。
「やっべ、気付かれた?」
とアンナが苦笑混じりに柳を見た。柳は大和の目を見つめたまま固まってしまっていた。
猛禽類を思わせる大和の瞳はまっすぐに柳の目を射抜いていた。その顔にはこれといって表情がない。
怒っているわけではなさそうだったが笑っているわけでもなかった。
…ああ、このまま溶けてしまいたい。
恥ずかしさのあまり身体が燃えるのではないかと柳は思った。まるで馬鹿な子供のように騒ぐ姿など、長谷川大和に見られたくなかった。
そうでなくとも、大和のほうが年上で、自分は子供だということを意識してしまうのに。
大和はいつもと変わらぬ鋭い瞳をギョロリと動かしただけで、柳のほうには露ほども関心を寄せていないようだった。
それが尚更、柳をみじめな気分にさせた。
…あの男にとって私っていったいなんなのかしら? 風? 空気?
馬鹿馬鹿しくなって、柳はしがみついていたアンナの背中にくたりと頭を乗せて脱力した。
アンナはといえば、手近なところに落ちていた大きなコンクリート片を掴んで「あいつの頭に落としてやろうか?」などといってせせら笑っていた。