(3)
駅前の商店街はもう夜だというのに仕事終わりのサラリーマンや学生達で賑わっている。
夜の商店街の人波を、柳はかきわけ避けながらふらりふらりとさまよっていた。
…あ、安くなってる。
一軒のドラッグストアの前で足を止める。「最安!」と書かれた派手なポップが店頭を彩っていた。
段ボール箱がいくつか山積みになっていて、その上にうがい薬が陳列されていた。隣にはマスクもある。
買い物カゴを手にとって、うがい薬を放り込む。1個、2個、3個、……
一体何個買ったのか数えていなかった。
どうせいずれは使いきるものだし、何個買おうが関係ない。そう思って手当たり次第にうがい薬を買い込む。ついでに消毒用のアルコールスプレーを取ってレジに向かう。
次々にレジスターを通るうがい薬を見て柳は唸った。
…さすがに7個は買いすぎだったかしら。
そう思ったが今更キャンセルするのも煩わしく、7個のうがい薬とアルコールスプレーを持って店を出た。なかなか大荷物だった。
最後に買うべきだったわ、ともう遅い後悔の念を胸ににじませながら柳はその後も店を梯子した。
――長谷川大和の家に柳が着いたのは、最初にうがい薬を買ってからずいぶん時間が経過した後だった。
アパートの外階段の電球が切れかかって点滅を繰り返していた。柳は荷物を地面に下ろして、大和の部屋の前で呼び鈴を3回鳴らした。
呼び鈴は3回鳴らすこと。大和と柳の間で決めた合図だった。
少し間をおいてから扉が開く。
「よう、早かったじゃねえか……」
げんなりした顔で大和は柳に中へ入るよう促す。大和は柳の足元の荷物を持ち上げて、不思議そうな顔をした。
「あ? なんだこれ? すげえ量のうがい薬だなあ、おい。飲むつもりかよ」
物がないことが特徴のような大和の部屋が、珍しく紙と本で散らかっていた。あちらこちらに積まれた本を避けて、柳は鞄をおろす。
「何をしてたの?」
パソコンの電源がついている。画面を覗き込むと、柳には内容の知れない文章とグラフが踊っていた。
少なくとも、バイクに関する話ではないらしいことはわかる。
「どうしたのこれ」
「明日提出期限の課題が3つ。バイト終わってからずっとやってんのに片付かねえ」
「まるで夏休み最終日の小学生ね……」
「ほっとけ……」
やってらんねえ、と大和はつぶやいてパソコンを睨む。
難しい顔をしている大和の横顔を見やって、柳は台所に向かった。せわしなく本とパソコンを交互に見ている大和の姿に少しだけ笑って、夕飯は何にしようか考えていた。
――結局、柳が夕飯を用意し終わっても、大和の“宿題”は終わっていなかった。
「大和」
「あ? なんだ」
「ご飯、食べてしまったら?」
大和はテーブルに並べられた料理を見て、少々ばつの悪そうな顔をした。
「悪いな、飯炊きのために呼んだわけじゃなかったんだけどよ」
「構わないわ。私も、まだ夜ご飯食べていなかったから、あわよくばお相伴に預かろうと思ってたのよ」
そういいながら柳は皿に料理を取って「どうぞ」と大和に勧める。
「お、うめえな! なんだこれ」
「シャリアピンチキンステーキ」
「なんだ? シャア……なんだって?」
「おろした玉ねぎのタレかけた鶏肉」
「そんな身も蓋もねえような言い方すんなよ……」
「そういわなきゃわからないのは自分でしょ……」
はあ、なるほど、玉ねぎなぁ、と大和は何に感心したのかしきりに唸ってチキンステーキを満足そうに平らげた。
「本当は牛肉で作るらしいのよ。でも別に牛肉じゃなくてもいいのかと思って」
「それでさっき電話で、この間買った鶏肉がどうのこうのっていってたのか」
「そうよ。玉ねぎのおかげで、冷凍してた特売の鶏肉だってなかなか柔らかく仕上がるでしょう」
「特売の鶏肉とかいうなよ、悲しくなるだろうが……」
「だって実際そうなんだから仕方ないじゃない……」
ささやかな晩餐を済ませた後、大和は再びパソコンを睨んでいた。
柳はそんな大和の姿を横目に見ながら、ソファに腰かけて本を読むことにした。柳が持ってきていた小説は読み終わってしまっていた為に、仕方なく大和の本棚から本を物色した。
本棚をあさりながら、柳はこの本棚の有り様をアンナに見せてやりたいと思っていた。
もっと心が潤うような物語の1つでも読んだらどうだ、というのがアンナの主張だったが、それは柳ではなく大和のような人間にこそ向けられるべきではないのか。
大和の蔵書はバイクだ機械だ船だ飛行機だと、ものの見事に片寄っていた。心が潤うというより、油臭くなりそうである。
柳はその中から大和が乗っているバイクに関する解説書のような一冊を手にとった。
そのバイクの歴史やパーツ、カスタマイズについてこと細かに書かれていたが、何がなんだか理解できなかったし、理解する気も起きなかった。
ただ1つなんとなく理解できたことがある。どうやら大和のバイクは直線を走るのに向いていて、カーブでの身軽な方向転換は期待しないほうがいいらしい。
大和が直線より曲がりくねった峠道を走るのが好きだったことを思い出した。2人で走る時は、街中の直線道路を通ることが多いが、大和は時々1人で人通りの少ない山道にふらっと出掛けていくことがあった。
柳は、なんだ、じゃあ峠を走るのには向かないバイクでわざわざ峠を走っているのか、とそんなふうに感じた。本を読んでの感想といえばそんな程度だった。
「…ねえ大和」
大和は手をせわしなく動かしてキーボードを打ちながら「なんだよ」と生返事をよこした。
「私ね、バイトしようかと思って」
これもあまりおもしろくないな、と柳が本を捲っていると、大和が素っ頓狂な声を上げた。驚いて柳も大和を見る。
「はぁあ!!? お前がバイト!!? おい、つまんねえ冗談よせよ」
「冗談なんかじゃないわ。なんなのよ、その顔は。別に、バイトするっていってるだけじゃないの」
「いったいなんのバイトだよ。客引きでもすんのか? いくら金がねえからっつって、犯罪の片棒担ぐようなのはやめとけよ」
「そんなことしないわ……」
「じゃあなんだよ」
「中華料理屋さんのバイト」
「…何考えてんだお前!」
心底呆れた様子で大和がため息をついた。
「なんでよりによって俺と同……いや、お前、やめとけよ。つまんねえし、無駄に忙しいわ、火傷するわ、油臭くなるわ、疲れるわで」
「そうかしら。大和がやってるバイトの話の中では一番楽しそうだったわ」
「そりゃまあ他が他だからな……」
「私ね、料理がうまくなれればいいと思っていたの。私も、大和みたいに魚捌けるようになりたい」
「俺が魚捌けるのは魚屋でもバイトしてるからで、中華料理屋のバイトは関係ねえぞ」
「いいのよ。なんでもいいから私、大和より料理上手になりたい」
「んなこと張り合ってどうすんだよ」
「張り合いたい」
「お前なあ……だいたいお前、厨房なのかよ」
「ううん」
「意味ねえじゃん」
それはもっともなのだが、この話を持ってきた橘が付けた条件だから柳にはどうしようもない。
「しかし、お前さあ、どうにも似合わねえ気がするんだけどよぉ、やめといたほうがいいんじゃねえのか?」
呆れているような、馬鹿にしているような、嘲笑しているような大和の言い様に、柳も少しムッとして口を尖らせた。
確かにアルバイトなんて柄ではないことは柳もわかっていた。だからといって、無条件に否定されるのも癪に触った。
兄といい大和といい、どうも彼らは柳に否定的だった。
「…向き不向きなんて、やってみなければわからないじゃない。
だいたい、私に何が向いてるのかなんて、どうして大和にわかるの? 大和は私のことなんてわかっていないのに」
八つ当たりまぎれにつぶやいてから、まずいことをいってしまったと柳は後悔した。
貴方に私の何がわかるの、なんてセリフがあまりに陳腐過ぎて、柳も内心失笑した。
しかし、大和は笑いもしなければ怒鳴りもしなかった。
こういうつまらない言葉を静かに受け止められると、どうにも自分がガキ臭いことをいってしまったようで、いたたまれない気分になる。
そう、いつぞや屋上から見下ろしていたときもそうだった。確かに、ふらっと上を向いた大和の目は柳を捉えていた。
それなのに、大和は顔色ひとつ変えなかった。
柳の言葉など歯牙にもかけない大和の横顔を見て、柳はそっと目を伏せる。
「…まあ、そりゃ確かによ」
大和が口を開いた。
「俺はお前のことなんてわかんねえな。でもよ、お前だって俺のことなんてなんもわかってねえだろ。どっちもどっちじゃねえか」
なあ、違うのかよ? と借問して大和は鼻で笑った。
「その通りね」とも「いいえ、わかっているわ」とも柳は答えることができなかった。
確かに柳には長谷川大和という男についてわかっていない部分が多い。
長谷川大和が何を考えているのか、何故そんな言動をするのか柳には想像もつかないことのほうがほとんどだった。
しかし、かといって何もわかっていないのかといえばそうでもない。多少なれど、柳は大和の人間性や大和が生きてきた道筋について知っているつもりだった。理解もしていた。
それをどうだろう、この男は「何もわかっていない」という。
「…そうね、私、何もわかってないわ。大和が私のことをわからないのと同じように。
いやだな、こんなの、独りよがりで気持ち悪い。私が悪かったわ。ごめんなさい、変なこといって」
大和はずいぶん長い間柳を見つめていたが、やがて不機嫌そうに鼻を鳴らして、ガシガシと頭をかいた。
「そういえばお前、この間の昼、アンナと一緒に屋上にいたろ」
「? ええ……」
何故よりによって触れられたくないことを掘り返して話すのだろうと柳は陰鬱な表情を浮かべたが、大和は無視して話を続けた。
「思ったんだよ」
「何を」
「あの時。思った。俺、お前についてよくわかってねえんだなって。お前もあんなふうに、ぎゃーぎゃー騒ぐんだなって思ったんだ。見たことねえ顔してたんだよお前」
「…馬鹿みたいだったって、そういいたいの」
「そうじゃねえよ。単にお前もあんなふうに騒いだりすんだなってだけの話だ。しないのかと思ってた」
「あれは、たまたま、アンナがうるさかったから……」
「考えてみりゃ、お前、高校生なんだよな。17? いや、お前は16歳か? 信じらんねえ、普段のお前見てると、そんなこと忘れちまうよ」
それだけいって、大和は話を打ち切った。
再びパソコンに向かって難しい顔をする大和の横顔を見ていた柳は「何を考えているか、一字一句もらさず教えて」と、大和の腕にすがりつきたい衝動を必死で抑えた。
…私が高校生だと、どうなの? 見たことがない私の姿を見てどう思ったの? 結局、大和は私のことを理解したいの、したくないの、どっちなの?
少なくとも私は大和のことを知ってみたい、と柳は思った。
脳がドロドロに溶けて、大和の意識と混ざりあうことができたら、どんな心地がするだろうかと柳は天井を見つめながら考えた。
自分の考えに吐き気がしそうだった。