小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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* * *

あれでもないこれでもないと、柳は自室のクローゼットをあさりながら何を着ていこうか考えていた。
クローゼットの中には何着かのワンピースがぶら下がっていた。数はあまり多くない。
そのほとんどが黒色で、まるで喪服しか入っていないようにも見えた。
下にはプレゼント用の箱がいくつか積み重なっている。
その箱の1つから臙脂色のワンピースの裾がはみ出ていた。光沢のあるなめらかな生地に、凝ったレースが付けられた見るからに高級そうなワンピースだったが、柳はそのワンピースを無造作に鷲掴みすると、そのまま箱の中へ突っ込んだ。

ハンガーから黒いワンピースを一着外す。
サーキュラースカートのシンプルなワンピースだった。
身体のラインを強調するように、ウエストの部分が細くなっており、逆にスカートは裾に向かってふんわりと広がっている。胸元に飾られた大きなリボンが特徴といえば特徴であったが、それ以外には特筆すべき点もないワンピースである。
しかし、その質素な雰囲気がかえって柳の美しさを際立たせていた。黒いワンピースに対して柳の雪のように白い肌がまぶしく光る。デザインはシンプルでも、身体の線を美しく見せるように裁断されていて、柳のスタイルの良さが余すことなく披露されている。
それでも、色のことを考えると春に着るには似つかわしくない服だといえたが、春めいた色の服を持っていない柳には他に選択肢がなかった。
さすがにこれだけではさみしいだろうと考えた柳は、部屋の隅に置かれたアップライトピアノの上から、カメオのペンダントを取って身に付けた。
その上からライトベージュのコートを羽織る。春物で薄手のコートとはいえさすがに鬱陶しいかしら、とも思ったがなんとなく着てしまった以上、脱ぐ気もせずそのまま着ていくことにした。
鞄は最近ずっと使っている飴色のドクターズバッグを持つことにした。まるで昭和初期から使い続けているかのようなデザインと古ぼけた雰囲気を醸し出している鞄だが、誰からのお下がりというわけでもなく、柳が自発的に購入した物である。
そもそもの発端は大和が使っていた革の財布で、それがちょうどこの鞄と同じような使い込まれた飴色をしていた。その飴色が大層気に入った柳は、「革は長く使えるし、愛着もわく」という大和の言葉もあって、革の鞄を買うことにした。
大和には「おい、お前、そりゃ先祖の形見の鞄か? それとも往診に来た医者か?」と茶化されたが、柳はこの古臭いデザインの鞄が好きだった。
大和が使っているオイルやワックスを借りて手入れをしているうちに鞄はどんどん深みのある光沢を帯びてゆき、今では大和の財布と同じようなとろりとした輝きと質感をもつようになった。鞄を撫でているうちに自然と口元が緩んでくる。柳は慌てて首を振った。

…いけない、これじゃバイクを撫でてにやにやしてる大和を笑えないわ。

顔を引き締めて、部屋を出る。玄関に神那の靴がなかった。バイトか部活か、はたまた女とでも会っているのか柳にはわからないが、神那が休日に家にいることは滅多になかった。それは柳も同様だったが。
外に出ると、清々しい春の風が柳の頬を撫でる。柔らかく包み込むような風を受けて柳は歩き出す。
八重子との待ち合わせの時間までにはまだ時間に余裕がある。のんびりと時間をかけて駅までの道を歩いていたが、八重子のことだからもう駅に着いているかもしれないな、と考えて少しだけ足を速めた。

案の定、すでに八重子は待ち合わせ場所である駅前の時計台の下に立っていた。柳は遠目から素早く八重子の姿を見つけたが、八重子はまだ柳に気が付いていないようだった。
今日の八重子は薄手のカーディガンとブラウスに、小花柄のシフォンスカートという装いだった。いかにも春めいているし、八重子らしいやと柳は思って微笑んだ。

「八重子」

柳が声をかけると八重子はぱっと顔を輝かせて「おはよう!」といつものように元気よく返事を返した。

「ごめん、待たせてしまって」

「ううん、そんなに待ってないし、私が早く来すぎただけだから」

それから八重子はほう……と深くため息をついて柳の顔を見つめた。

「何?」

「やっぱり柳は綺麗だなあ。私、こんな子供っぽい格好してくるんじゃなかったな……なんか、恥ずかしい」

「ふふ、どうして恥ずかしがるの? 子供っぽくなんてないし、八重子の今日の服、春らしくてとても可愛いよ。私はだめね、年がら年中、喪中みたいな服ばかり選んでしまうもの」

「だめなんてことないよ! 柳は黒が似合うし、ううん、なんでもきっと似合うんだろうけど! それに、柳の格好っていつも昔のお嬢様みたいでお上品っていうか、レトロで個性的だし、柳によく似合ってるし、本当に、うらやましいっていうか……」

しどろもどろになってまくしたてる八重子を見て、柳は、これが大和ならきっと「おいおい、お前は昭和の銀幕スターかなんかか?」と冷やかしの一言もいうところだろうなぁ、などと考えていた。あの男は基本的に茶化すようなことしかいわない。

「ありがとう八重子、八重子に褒めてもらえると嬉しいよ」

八重子は頬を紅潮させて「私も柳に褒めてもらえると嬉しい」とつぶやく。2人は顔を見合わせてひとしきり笑うと、どちらからともなく歩き出した。



2人が辿り着いたのは簡単にいえば大衆食堂で、もう少し厳密に分類するなら中華料理屋だった。個人経営にしては店の規模が大きく、このあたりのサラリーマンや学生には名の知れた中華料理屋である。
ただ、中華料理屋といっても本格的な中華を提供しているわけではなく、“どちらかといえば中華風な料理を出す店”だからやはり大衆食堂といったほうが近いのかもしれない。
店の扉には準備中の札がかかっている。柳は一瞬躊躇したが、やや勢いよく扉を開けた。

「ごめんください」

店内に人の姿はなく、椅子とテーブルだけが並んでいる。掃除中だったのか、いくつかの椅子はフロアの片隅に寄せられていた。柳と八重子は顔を見合わせる。

「誰もいないのかな」

「まさか」

柳がもう一度声をかけようとした時、店のどこからか「今行きますからねー」と威勢の良い女性の声が飛んできた。
2人がしばらく待っていると、店の奥からほうきとちりとりを抱えた中年の女性が姿を現した。女性は柳と八重子の姿を見るなりすぐさま顔をほころばせて「あらあ、柳ちゃん、八重ちゃんいらっしゃい!」と快活に笑って見せる。

「おばさま、おはようございます」

柳と八重子が揃って頭を下げると女性は「まああ」と感慨深げにもらし「やだわあ、おばさまだなんて……やっぱり娘はいいわねえ、うちのバカにも見習ってほしいわあ」といってまた笑った。

「私のことは幸(サチ)でもおばちゃんでもなんでも、呼びやすいように呼んでちょうだいねえ。今、主人と真之(サネユキ)連れてくるから! あ、座って座って、待っててね!」

ほどなくして、どやどやと体格の良い男が2人連れ立ってやってきた。
主人は「おお! 2人とも朝早くから悪いねえ!」といいながら角刈りの頭をわしわしと撫でた。真之は眠そうな顔で「早かったなあ」とのんきにつぶやいた。
今にもあくびを漏らしそうな真之を睨みつけて、柳は「あら、そんなに眠いの? なんだか溺れたトドみたいな顔してるわよ、真之くん」と嫌みったらしく笑った。
真之はム、と口をとがらせ「なんだよ柳、お前、トドが溺れてるとこ見たことあんのかよ」などとどうでもいい反論を繰り出した。

「いや、違う違う、トドはどうでもいいんだ。お前、真之くんって何よ?」

「たまには橘先輩じゃなくて真之くんって呼ぶのもいいかと思って」

「いいかと思ってじゃないだろが。よくねーよ。普通に――」

「ねえ八重子、たまには真之っていうのもいいわよね」

柳が八重子のほうを見て微笑むと、八重子も微笑んで「うん、真之先輩」といいながらくすくす笑った。
橘は喉にもちでも詰まらせたような顔をして「…まあ、たまにならいいかもな!」と叫んだ。

…馬鹿が。これで神那にも隠し通せていると思ってるんだから救えない。

あからさまに顔を紅潮させて八重子と話し込んでいる橘を見て、柳はどうしようもなく馬鹿馬鹿しい思いに駆られた。この2人は小学生の頃からさっぱり変わっていない。
橘夫妻と、橘、それに八重子。小学生の頃はこの中に神那がいた。しょっちゅう一緒に遊んでいた4人を、橘夫妻はよくこの店に招いてくれた。

「…でも、ねえ、八重ちゃんも柳ちゃんも本当にこんな店でよかったの?」

心配そうな表情で幸夫人が尋ねる。主人が横から「こんな店とはなんだ」と声を荒らげた。夫人は無視して話を続ける。

「女の子ならもっといい匂いのするおしゃれなお店でバイトしてみたかったんじゃない? 気を使わせたみたいでなんだか悪いわ」

「いいんです。私でよければいくらでも働きます」

柳に続けて八重子も「幸おばさまには私たち、昔からとてもお世話になったし」と明るく答えた。幸夫人はまた「まああ!」と感極まった声を上げて、

「八重ちゃんも柳ちゃんも、昔からいい子だったけど、今もこんなにいい子だなんて、おばさん……おばさん嬉しい!」

と泣きださんばかりに表情を崩して柳と八重子の手を握った。橘が横でぼそりと「柳は昔からいい子じゃなかっただろ」とつぶやいたので、柳は橘の足を踏みつける。ちょっと! 暴力反対なんですけど! と橘が騒ぐ。

「なんだか、こうしてると昔に戻ったみたいねえ。柳ちゃん、今度はお兄ちゃんも一緒に連れて遊びにおいで」

幸夫人の言葉にはい、と頷いて、柳は考える。昔に戻ったみたい。そうか。昔に――

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