柳の子供の頃の記憶の中に、1つ、薄いセロファンを貼ったような部分がある。古い記憶はやけに鮮明に、時に抽象画のように、柳の脳裏に、夢に広がる。しかしその“ある一点”だけ、薄く膜が張ったように靄がかかり、ぼんやりと、つかもうとすれば、たちまち、霧散する。
これはいったい何だろう。これは“記憶”か、それとも幼き日の“夢”か。
「…あ、そうだ。おい、柳、ちょっと」
おいでおいで、と橘が手招きする。橘夫妻と八重子が話をしているうちに、2人は店の外へ出た。
「何? わざわざ」
「いってただろ。きっとお前が驚くことがあるって」
「ああ。ねえ、なんなのそれ。橘先輩、神那にも教えなかったでしょう。『口が軽いって言われた』って、神那、怒ってたわよ」
「ほーらな、それみろ、倉田にいうと全部お前に筒抜けになるじゃん」
「………」
なるほど、確かにそうだ。橘もたまには的を射たことをいうじゃないかと柳は感心した。
「とにかくいいことだよ。きっとお前は喜ぶね!」
「わかったから、もったいぶらないでさっさと教えて頂戴」
「俺の口から聞くより、直接会ったほうが早いと思う」
「会う……? 誰と」
「だから、そろそろ来る頃なんだって」
――すう、と、セロファンが剥がれる音がした。
「あ、ほら、きた――桜澤(サクラザワ)先輩!」
柳の、丁度正面の通りから、青年が1人、歩いてくる。
青年は柳の姿を認めると一瞬足を止め、それからまた、ゆっくり、歩き出した。ゆっくりではなかったのかもしれないが、柳には、青年の歩みがとても、とても遅く感じられた。
今すぐ駆け寄りたいのに、柳は青年のゆっくりとした歩みを待つことしかできない。
「な。驚いたろ」
隣で橘が笑っている。青年の髪が、くせ毛がちの、柔らかそうな茶髪がふわふわと揺れている。春の日差しの中で、青年の頬が薔薇色に色づく。
青年がもう一度、立ち止った。その場に立ち尽くす青年に引き寄せられるように柳は駆けだした。引き寄せ合うが当然、磁石のごとく、2人はお互いのそばへ駆け寄った。
「――桜(サクラ)……!」
名を呼んだ。青年は――桜澤は、腕を伸ばして、柳の手を握った。
「柳……」
その瞬間、柳の中で、夢とも現実ともつかなかった記憶に色がついた。記憶は湧水のように吹き出して、曖昧の膜を溶かしてゆく。何故、どうして、こんなに大切な人を夢だなんて思っていたのだろう。
桜は柳の記憶の中の少年の姿から、立派な青年へと成長していた。しかしそれでも、繊細で、優美な雰囲気は損なわれておらず、目元に影を落とす長いまつげや、氷を溶かす日差しのような、甘くとろける眼差しはかつてのままであった。
「――驚いたよ」
そういって、桜澤瑠輝(サクラザワ リュウキ)は笑った。
「忘れられたものかと思ってた」
柳は否定も肯定もしなかった。
ただ、桜澤を見つめて、自身の胸の内に浮かぶ、なんとも甘美な幸福感を噛み締めていた。
「ねえ……いつ、いつ戻ってきていたの?」
「つい最近だよ。っていっても、もう2年か。帝海大に入学するためにこっちに帰ってきたんだ。まさか柳まで帝海高校にいるなんて、思いもしなかった」
ああ、なんて嬉しいことだろう。
もう何度も反芻した言葉を飽きずに頭に響かせて、柳は微笑した。
「覚えてるかな?
この間、柳が練習室の場所を尋ねてきた時、『あっ』と思ったんだけど、結局、俺からは声もかけられずじまいだった」
「覚えているわ。
あの時声をかけたのは本当に偶然だったの。忘れていたっていったらそうなのかもしれないけれど……あのね、変なこといってもいい?」
「うん。いってみてよ」
「私、“桜”は実在していなかったんじゃあないかって思っていたの。昔は、嫌なことばかりで、桜との“楽しい思い出”は私の空想の産物だったんじゃないかって……」
自嘲気味に柳は漏らしたが、桜澤は瞳に穏やかな光を宿したままゆったりと微笑んだ。
その視線に包まれると、柳はなんとなしに安堵してしまう。
「でも、俺は柳の空想なんかじゃないよ。本当に、いるんだよここに」
「嬉しい……すごく、すごく!」
こぼれ、あふれる笑みを隠そうともせずに、柳は無邪気な笑顔を桜に向けた。桜澤も甘くとろけるような笑顔を返す。
柳の胸裏の追想はいつまでも絶えなかった。懐かしい桜澤との思い出が湧き水のごとくあとからあとからあふれてきて、柳の頬をゆるめた。
「――なんだよ。2人とも、久しぶりの再会じゃねえの?」
後ろから不思議そうに尋ねる橘に柳は首を振った。
「いいえ、久しぶりの再会よ」
そうだよね、と柳が微笑むと桜澤も笑って「今の今まで、会ったことなんてなかったよ」と答えた。それから「まあ、今の今までって言い方ではちょっと語弊があるけど」と付け加える。
「そのわりに、なんか……ずいぶん自然じゃねえ? ブランクとかないの? お2人さん」
桜と柳は顔を見合わせて笑う。
「ないわ」「ないよ」
*
桜澤の姿を見るなり、八重子は瞳を目一杯開いて「うそ……本当に桜ちゃんなの!!?」と叫んだ。
「あ……ご、ごめんなさい、“桜ちゃん”なんて、今考えると、失礼な呼び方だったよね、じゃなくて、失礼、失礼な、えーっと、呼び方でしたね」
八重子は橘の腕を掴んで小声で「どうしよう、どうやって話せばいいのかな!」としどろもどろしていた。桜澤は微笑んで「昔と同じでいいよ。よければ俺も昔と同じように呼ばせてもらうし」そう言って八重子に手を差し出した。
八重子はその手を両手で握ると何度も上下させて笑った。
「もちろん私のことは八重子って呼んで下さい! じゃあ、私も桜ちゃんって呼ぶね!」
ふふふ、嬉しい! といって無邪気に笑う八重子に桜澤も笑って答えた。はたで見ていた橘は少々不服そうな顔で「おーおー、なんだぁ八重子、すんげー嬉しそうじゃんか」とつぶやいた。
「橘先輩は嬉しくないの? どうせならもっと早くに教えてくれればよかったのに」
「いや、嬉しいけど、八重子は特に嬉しそうだなってことを俺は言いたくてだな……」
「うん、すごく嬉しいんだもん! 久しぶりに桜ちゃんに会えたのも嬉しいし……だって、桜ちゃんがいなくなってから、柳、すごく落ち込んでたから」
後ろで傍観していた柳は急に話を振られて思わず「えっ」と声を上げた。
「桜ちゃんが転校してから柳、ずっと元気なかったもんね。よかったね、柳……これからはまた桜ちゃんと会えるよ」
「ちょ、ちょっと八重子……!」
「ふふふ、柳、照れてる」
何気なく触れた自分の顔の温度に柳は驚き、八重子や橘から顔を隠そうとじたばたしてみたが余計に気があせるばかりであった。
ふと、桜澤と目が合う。桜が、私を見ている。私は、桜を見ている。
それだけの事実が柳に何とも言えない甘美な幸福感を味わわせる。
柳の心臓の中に埋もれていた蝋燭に、淡い青の炎が灯った。
【第壱話 利己主義者の世界――了】