小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 (2)
 
あと10分で目覚まし時計が鳴る。

眠っていても柳にはそれがわかる。
アラームが鳴り出す前に、殴るようにスイッチを押してアラームを止める。大きく伸びをして、ベッドから抜け出す。
カーテンを開ける。今日は晴れ。朝日が射し込む。窓を開けると、爽やかな新緑の香りが風と共に部屋に入ってくる。
早朝、まだ世間の大半が眠っているであろう時間の空気はどの季節であっても澄んでいる。

庭に植えられた大きな木は、朝日を受けて葉を輝かせている。
二階にある柳の部屋の窓とちょうど同じ高さまで成長したこの木が、窓を開けるたび柳に季節を教えてくれた。

クローゼットを開けて高校の制服を取り出す。ブレザーとブラウスとスカート。
冬服はブレザー、夏服がセーラーであることに柳は不満を持っている。
このままセーラー服の季節にならなければいいのになあ、と柳は思いながらブラウスに手をかけた。
セーターは黒かアイボリーか悩んで、アイボリーにした。
タンスを開けて、また悩む。ハイソックスか、タイツか、どっちにしよう。考えるのが面倒になって、手前にあったほうを取る。黒のタイツ。
ネクタイかリボンか。昨日、リボンだったから今日はネクタイ。鏡を見ながらスカートの長さを調節する。

倉田柳(クラタ ヤナギ)。高校2年生。いつも通りの朝。

着替えを終えて部屋を出る。ちょうど同じタイミングで、兄も隣の部屋から出てきた。
兄の神那(カナ)は黒のズボンに白いシャツという出で立ちだった。手には詰襟の上着を持っている。いつも険しい神那の目元は、起き抜けであっても常に気を張りつめている印象がある。
それは昔から変わらず、それどころか近頃では幼少の時分よりも目に殺気じみたものが宿っているようにも見えた。
鋭い眼光、無愛想な面構え、それから眉間に刻まれた皺が、見るものに威圧感を与える。

「おはよう神那」

「おはよう」

少し掠れた低い声で神那が答える。神那は「ネクタイ、曲がってる」といって僅かに相好を崩す。

「お前のネクタイの結び方は適当すぎるな。リボンにすればいいのに」

「自分こそ、頭の寝癖どうにかしたら」

「…これから直す」

そんな話をしながら、2人で一階のリビングへ降りて行く。

途中、一階の廊下の一番奥にある部屋のドアが開いて、女が顔を出した。30代後半か40代そこらかの、艶かしい雰囲気の女である。
一瞬で場の空気に緊張が走る。神那は女を睨み付け、柳は黙ったまま神那の背後に控えている。
女は、ちら、と柳を見てから、ドアを閉めて部屋に引っ込んでしまった。

柳が安堵したようにため息をつく。神那はそれに気付かないふりをしながら、洗面所を指差して「俺が先でいい?」と聞いた。
一緒に起き出してくると、だいたいは神那が最初に洗面所を使う。どうせ神那は5分もしないで出てくるし、柳は5分以上出てこない。

「どうぞ。朝ごはん、トーストと、あとは適当なものでいいななら、私がやっておくけど」

「よろしく」

神那はあくびを1つして洗面所に入る。
柳はキッチンで朝食の用意をする。食パンを4枚、トースターに放り込む。柳の分が1枚、神那が3枚。
朝っぱらからよく食べるな、と柳は思う。おそらく、パン3枚でも足りていないはずだ。
神那は大喰いだ。そのうちぶよぶよにふとっても知らないんから、と柳がいっても食べる量を減らそうとしない。
これから朝練だからとか、成長期だからとか、男だからとか、何かと理由をつけて柳の言葉を適当にかわす。

兄は理屈っぽくていかんと柳は常々思っていた。何かいうと、必ず生真面目な理屈と共に返事が返ってくる。

柳は冷蔵庫から玉子を2つと、レタスを取り出す。
フライパンにバターを落としてから、ボールに玉子を割ってよくかき混ぜる。フライパンが温まったところで火を弱めて玉子を流し込む。

ここでトースターがパンの焼き上がりを告げる。パンを皿に乗せて、テーブルに並べる。
玉子を焦がさないように、フライパンのほうへ気を配りながら、柳は洗ったレタスを無造作にちぎってサラダボールに詰め込んだ。

「――牛乳は?」

柳が振り向くと、神那が頭を冷蔵庫に突っ込んでいた。
先ほど柳が指摘した寝癖は、周りの髪もワックスで散らして誤魔化してあった。
内心、適当だな、と思ったが口には出さなかった。

「牛乳なら少ししか残っていなかったから、スクランブルエッグ焼くのに使ったわ」

神那は「そう」と答えて、牛乳の代わりにオレンジジュースをグラスに注いだ。

「じゃあ、あとはよろしく」

柳は兄にそう言い残して洗面所に向かう。

胸の辺りまで伸びた髪を適当にまとめて、顔を洗う。顔から滴り落ちる水をタオルで拭いながら、柳は鏡を覗き込む。

青みがかった白眼と琥珀色の瞳、漆黒の長い睫毛。絹糸のような繊細さをもつ黒髪は毛先にいくに従って緩くウェーブがかかっている。
白磁の肌に、真っ赤な唇がやけに目立っていた。
年々、“あの女”の面差しに近づいていく自分の顔の中でも、柳は特にこの唇が嫌いだった。薄い唇はあまり可愛らしさもなく、口紅を塗らずともぬらぬらと輝き、血をすすったような赤で他人の目を引く。
“あの女”と同じだった。

あの女と異なっていたのは目で、あの女は目尻の垂れた大きな瞳であったのに、柳はつり目がちな、はっきりとした切れ長の二重だった。
あの女とは似ても似つかない凛々しい目元だけは柳も気に入っていた。

昔から柳はよく「まるで人形のようにきれいな顔だ」と褒められた。
ビスクドールのような顔立ちはどこか薄気味悪く、それでいて神秘的な雰囲気が漂っている。
顔だけではない。脚にしたって、身長が170cm近くあるせいですらりと長く、ふくらはぎが描く曲線や、細く引き締まった足首は人工的に作られたものではないかと勘ぐりたくなるほど完璧な造型であった。
細身ながら女性らしい膨らみもあり、どこをとっても美意識に訴えかけてくるバランスを有するその身体は、まさに“人形”だった。

「人形のようにきれい」という“褒め言葉”には何か裏があると柳は幼いながらに勘づいていた。ただの褒め言葉にしてはどこかに違和感があった。
その違和感がなんなのか、かつては言い表せなかったが、今なら言葉にできる。

…一言でいうなら、私の顔は「不気味」なのだ。

幼い頃が人形なら、さしずめ今はマネキンか、と柳は自嘲する。あの女に似ているが故に、気味が悪いほどの美貌であるという事実が、吐き気がするほどの嫌悪感を柳に抱かせていた。



身支度を済ませてキッチンに戻ると、神那がさっさと1人で朝食をとっていた。柳も向かいの席につく。
柳が焼いていたスクランブルエッグには、入れた覚えのないベーコンが入っていた。サラダには茹でたブロッコリーとトマトがのっていた。トーストの横には紅茶まで置いてある。

「ずいぶん凝ったね」

柳が神那に声をかけると、神那は柳のほうを見ようともせずに「料理は見た目も含めて味わうものだろ」とそっけなく答えた。
お前の料理には彩りがない、と兄は言いたいのだろうと柳は考えて思わず微苦笑をもらした。

…面倒な男だ。

同じ高校に通う兄妹の胸元には、揃いの校章が光っている。その校章の隣りに、柳は「2」の襟章、神那は「3」の襟章を付けていた。
加えて柳はト音記号を型どった学科章も付けている。

詰襟をしっかり上まで閉めている神那に対して、柳はブレザーも羽織らずセーターだけの姿だったし、ブラウスのボタンは第二ボタンまではずされ、それに合わせて緩められたネクタイが、全体的にしどけない印象を与えていた。

神那の肌は白く、髪は漆黒の短髪、鼻筋の通った精悍な顔立ちで目元は柳よりも険しかった。だいたいいつも眉間にしわを寄せている。律義にかっちりと着こなされた制服といい、表情といい、神那の姿には一分の隙もなかった。
柳は向かい側に座る兄をじろじろと見て、ネクタイをきつく締め直した。

涼しい顔でトーストをかじっていた神那は顔を上げて柳を見据えると「なんだ」といって小首を傾げた。

「暑くないのかと思って」

「別に」

一言答えて、神那は朝食を平らげることに専念しようとトーストをかじったが、柳は神那の顔を見つめたままじっとしていた。
なかなか視線を外そうとしない妹に、神那はややあきれた表情で「…なんだよ」と問い返した。

「神那、またピアス増やしてる」

「よくわかるな、そんなこと」

耳たぶの辺りに2つ、軟骨に3つ、両耳合わせて計5つ。
ピアスをしている人間は高校に何人もいたが、開けている数なら自分の兄が一番だろうなと柳は思った。くだらなすぎてなんの自慢にもならない。

「そのピアスはなんなの? 戦闘機の撃墜マークみたいなものなの? 何かの数?」

「失恋した数」

「………」

「………」

真顔でいう神那を見て、柳は頬をひきつらせる。

「…寒いくらい悪趣味」

「嘘に決まってるだろ」

「嘘にしろ本当にしろナンセンス……」

「………」

神那は何も答えないまま、からになった皿を持って立ち上がった。
柳がまだ飲みかけにしていた紅茶だけをテーブルに残して、食器をすべてさげ「行くぞ」と声をかけた。いうが早いか、神那は部活で使う黒い大きなスポーツバッグを背負い、更には、通学用に指定されている黒革の鞄を片手に持って足早にリビングを出た。
柳は一息に紅茶を飲み干して手早くグラスを洗うと、床に投げ捨てていた黒いエナメルのメッセンジャーバッグを背負って神那のあとに続いた。

リビングを出たところで柳は「あ、楽譜忘れてた」と独りでつぶやいて、一度足を止めると、静かに階段を上り、自室に戻った。
部屋の片隅に楽譜が置いてある。これを忘れてしまっては高校へ行く意味がなくなる。
部屋を出ようとして、もう1つ忘れ物があったことを思い出した。

…今日は“あれ”と約束してたんだった。

柳はバッグを開けると、隙間に私服を詰め込んだ。黒いパンツと白いカットソー。

素早く、それでいて静かに柳は階段を駆け下りる。廊下の奥の部屋の扉が開いていないことを確認してから玄関に向かう。

ローファーと、編み上げのショートブーツが並んでいる。柳は少し考えて、ショートブーツを履く。
学校指定のそのブーツは「袴姿の女学生じゃあるまいし、今時、制服に編み上げのショートブーツなんて」と多くの女子生徒に敬遠されていたが、柳はそれなりに気に入っていた。
単純に、ローファーよりも歩きやすい。

ブーツ紐をきつく結び直してから外に出ると、神那が自転車をガレージから引っ張り出しているところだった。
詰襟の上着は自転車のかごに入れられている。シャツのそでを捲っていた神那を見て柳が口を開きかけた時、神那が「お前の言う通りだった」と先につぶやいた。

「…だから、学ランなんか着て暑くないのか聞いたのに」

「暑くないと思ったんだよ。まだ早いし」

神那は腕時計に視線を落とす。針は午前6時30分を指していた。

「帰り、いつも通りだから」

頷く柳を一瞥して、神那は自転車を走らせた。神那の後ろ姿を見送った後、柳も駅に向かって歩き出した。


 *

毎日、早朝の電車に乗る柳にとって、満員電車はまったく無縁の存在だった。
当たり前のように空いている座席に座る。乗客は数えるほどしかおらず、皆、眠るか本を読むかしている為、車内は静まり返っている。柳はイヤホンを付けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

バスケ部の朝練がある神那に合わせて、柳も早朝に家を出る。何の部活にも所属していなかった柳は、早朝に学校へ行ったところですることなど何もなかったが、とにかく一分一秒でも早く家から出る必要があった。

兄妹の通う高校は、市街地から遠く離れた丘の上にある。辺鄙な場所に建つ高校まで電車で通う柳は、乗り換えを繰り返さなくてはならず、それを煩わしく感じていた。
バイクの通学も認められていた為、柳は常々バイクの免許を取ってしまおうかと考えていたが、そうなるとバイクを買わなければならず、あまり現実的な発想だとはいえなかった。
家には、すでに普通自動二輪の免許を持っていた兄のバイクが一台あったが、スクーターでもなんでもなく、純粋に400ccのバイクだったので、さすがにスカートでそれにまたがって高校まで行くのは憚られた。

それ以前に、神那は自分にバイクを貸してはくれないだろうことも柳にはわかっていた。
神那は「バイクなんて危ないからだめだ」と、自分のことは棚上げにしてもっともらしいことをいっていたが、本当のところは、妹の事故の心配よりもバイクに傷を付けられやしないか心配しているのだ。
柳は神那の他にもう1人、バイクにかまけている男を知っている。その男にしても自分の兄にしても、柳からしてみれば笑えるほどバイクに心酔していた。
彼らをそこまで惹き付けてやまないバイクとはいったい何者なのか、一生かかっても理解できそうにないなと柳は思った。


しばらくして、電車は高速道路と線路が交差する込み合った市街地の中心にある駅へと到着する。
その駅から一度電車を乗り換える。
網の目のように張り巡らされている電線や濁った川や排気ガスで黒ずんだ植物を眼下に望みながら、電車は市街地を駆け抜ける。景観も色調も、何もかもが無計画としかいいようのない街の、灰色のビルと灰色の空が柳を見送る。
少し時間が経つと、電車の窓の外の景色は、灰色から緑へと変わっていった。
高校へ近付けば近付くほど、降車駅は時代に取り残されてしまったかのような様相のものになってくる。改札が数えるほどしかない、駅舎がない、駅員がいない、そもそも改札がない。

「次は終点――、終点――、お降りの際はお忘れ物のないようお願い致します。本日は……」

もう何度聞いたのかよくわからないアナウンスがはいる。
柳は荷物をまとめて、席から立ち上がった。忘れ物がないか席を見回した後、ポケットに手をいれて、定期券があるかどうか確認した。

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