小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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小高い緑の丘の上、鬱蒼と繁る木々の中に建つ白亜の建物が、柳の通う帝海(テイカイ)高校だった。広大な敷地内には高校と並立して大学がある。
ずり落ちそうになっていたメッセンジャーバッグを背負い直して、柳は校舎まで続く坂を登る。
校庭では運動部が朝練に精を出していたが、早朝の校舎に人影はない。
快晴の空の下、長い坂を登りきった柳の額にはじんわりと汗が滲んでいた。息も荒い。運動不足だな、と柳は自分で自分に呆れた。
上靴に履き替え、階段を上る。3階までのぼったところで、分岐している廊下を曲がる。

11の教室が廊下に立ち並んでいる。
柳が所属している音楽科の教室は1組から3組まで、普通科の教室は4組から11組までだった。
普通科の教室の前はあまり片付けや掃除が行き届いておらず、廊下に雑然と積まれた生徒の私物が見えていた。
同じ場所にある以上、学校特有のほこり臭さは変わらなかったが、音楽科の教室の前は全体的に清潔感があり整然としていた。

教室の扉をあける。当然、まだ誰も登校していなかった。
柳はバッグから楽譜だけを取り出して教室を出た。

少し歩くと、音楽科の使用する練習室が並ぶ棟にたどり着く。
練習室といっても、そんなおおげさなものではなく、狭い防音室にピアノだけがぽつんと置いてあるような部屋だった。柳はいつもこの練習室に刑務所を連想していた。

授業が始まるまでの間は練習室で時間をつぶす。ピアノを専攻していた柳は、他の生徒達が登校してくるまで無心でピアノを叩く。
時折、練習室の前で教師に遭遇すると「練習熱心なのね」といわれたが、本当のところは練習熱心でもなんでもなく、単なる暇つぶしのつもりだった。
神那に合わせて家を出る為、学校で暇をつぶす必要があるだけで、身を入れて練習しているわけではない。
だから、“練習熱心”な割には柳の専攻実技の成績はさほどよろしくない。

音楽科のクラスは3クラス、普通科は8クラス、全部合わせて11クラスで1学年が構成されている。
音楽科の3クラスは基本的に成績順で振り分けられており、1組が成績上位者、2組が中位者、3組が下位者となっている。
柳は2組に所属しており、レベルでいうなら中位者、可もなく不可もなくといったところだった。

1組に所属する生徒達は、いわばプロを目指しているような連中ばかりで、2、3組の生徒とは一線を画していた。

自分には非凡な才能があるのではないか、と根拠もない思い込みを胸に入学してきた生徒は、このクラス分けで自らは凡人に過ぎないということを嫌でも思い知らされることとなる。
柳自身は自分の能力を過信していたわけではなかった為、何故自分が2組なのかと憤るよりも「よく入学できたな、あの頃の私」となんとなく消極的な気分になったりしていた。

来年あたりは3組に降格してもおかしくない、と柳は思いながらピアノを弾いていた。
取り柄といえるほどの取り柄でもないピアノを、今まで続けてきたのは所詮、惰性であり、1組に昇格しようと意気込むほどの熱意が柳にはなかった。

4月に行われた新入生歓迎会では、音楽科の成績上位者がその腕前を披露していた。
歓迎会で演奏するにあたり、選抜対象になる音楽科の2、3年生は約150名、その生徒の中から代表となったのはたったの2名、いうまでもなくどちらも1組の生徒だった。
音楽科に入学してきた生徒は大抵、自分も選抜されてステージの上で喝采を浴びたら……とよくわからない夢物語を抱くが、そんなものは夢物語のままで終わるのである。

例年、代表者はどちらも3年生だが、今年は3年生と2年生が選抜されていた。両者共、専攻はピアノだといい、聴衆が舌を巻くような演奏を披露した。
新入生歓迎会の為に強制的にホールへ集められた普通科の2、3年生達は「音楽科の演奏なんて興味ないし」とでもいいたげな様子で斜に構えていたが、2人の演奏が終わる頃にはぽかんと口を開けて拍手を送っていた。

まずこの4月の新入生歓迎会で、生徒達は自分とは違う次元にいる天才、ないしは秀才の存在を知るのである。

柳の隣に座って演奏を聴いていたアンナは、「普通科があんなにたくさんいるのは、聴衆役にするためだって聞いたことあるわ。音楽科の生徒に、大勢の聴衆の前で演奏する度胸をつけさせるためなんだって」とくだらなそうにつぶやいた。

「普通科って、320人だかいるんだっけ? それが3学年で960人……観客に最適って感じ。みーんな1組の引き立て役よ、引き立て役」

「いくらなんでも言い過ぎだと思うけど……」とアンナをいさめたのは八重子だった。柳はあながち嘘ではないかもしれないと思っていた。
この高校において、ヒエラルキーの頂点に君臨し続けているのは1組であり、その1組の生徒は皆、非凡な才能の持ち主だった。特別に優遇されてもおかしくはない。
本来ならば入試で1組の生徒だけを合格させたかったところ、おまけで2、3組の生徒も合格させたのではないかと勘ぐってしまうほど、1組の生徒は精鋭揃いだったのである。
この4月の歓迎演奏会にしても、2、3組の新入生に「所詮、君たちはおまけなんだよ」と理解させる為にやっているのではないかと思ったほどだ。



そろそろ予鈴がなるかという時間に、柳は楽譜を片付けて練習室を出た。
柳が来た頃には閑散としていた廊下も、今ではすっかり人で溢れかえっていた。

教室へ戻ると、入り口のそばで話をしていた男子生徒達が喋るのを止めて何か言いたげな視線を柳に向けてきた。
柳と目が合うと、どこか照れ臭そうに視線を逸らす。

「おはよう」

柳が挨拶すると、男子生徒の1人が「あ……おはよ」と今にも消えそうな声で答えた。
柳が所属する音楽科の生徒達はおしなべて、温室で育てられた観葉植物のようだった。特に、男子生徒はその傾向が顕著で、普通科の男子生徒に比べ、風が吹いたらたちどころに折れてしまうのではないかと柳は思っていた。
柳は挨拶したことを後悔しながら席につく。

柳の前の席に座っていた八重子(ヤエコ)は、柳の姿を見ると、目を輝かせて「おはよう!」と元気よく挨拶した。柳も微笑みながら「おはよう」と返す。
柳は八重子の手元に視線を落として「宿題?」と尋ねた。八重子は広げてあった教科書とノートを片付けながら苦笑いを浮かべる。

「うん。家に帰るとどうしてもやる気なくなっちゃって……ピアノの練習してるうちに宿題のことなんて忘れちゃうみたい」

八重子が笑う度、ポニーテールにした茶髪が揺れる。楽しそうに話をする八重子の顔を見ながら、柳は相づちを打つ。
八重子の笑顔はいつも柳の心を和ませた。この無垢で素直な笑顔は八重子にしかできない表情だと柳は思っている。
薔薇色の頬や、ぷっくり膨れた唇は健康的で可愛らしく、顔にかかる濃い茶色の髪も、優しい八重子の雰囲気によく似合っていた。

…できることなら、自分もこんな笑顔が似合う少女になりたかった。

八重子の顔を見る度に柳はそう思った。柔らかで清らかで優しい、健康的で、子供と大人の中間だからこそできる、その笑顔。
八重子にそれをいうと、八重子は決まって「柳のほうがずっと美人なんだから、私には柳が羨ましい」といった。
自分の美しさにまるで自覚がない、と言いきれるほど柳は無垢でも無邪気でもない。柳自身は嫌っている自分の顔も、他人からすれば思わず見とれるほど美しいのだ。
ナルシシズムに溺れているわけではないが、そんなことは柳だって自覚している。

「私なんて、別に可愛くもなんともないし、なれるなら柳みたいに、大人っぽくてかっこいい美人になりたいよ」

謙遜でもなんでもなく、八重子は真顔でそういったものだ。柳にしたって、嫌味のつもりでいっているわけでもなく、本気でそう思っているのだ。
年々“あの女”に近づいていく自分の顔なんて、柳にしてみれば見たくもなかったし、妙に淫靡で病的な美しさなんて、汚らわしいだけだった。
真っ白い肌に真っ黒い髪だなんて、そんな強烈なコントラストを持つ組み合わせではなく、もっと柔和な雰囲気が欲しかった。

柳にとっては、自分の美しさは神からの贈り物ではなく、“あの女”からの呪いだった。

…所詮はお互い、無い物ねだりか。

そう思って柳は自嘲する。

「そういえばアンナは? 休み?」

「ううん、柳が来るちょっと前に来てたんだけど、どこか行っちゃった」

「落ち着きないからね」

「ふふっ! そんな言い方しなくても」

八重子と一緒になって柳も笑った。

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