小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 * * *

放課後、ピアノの練習をして帰ろうかと高校の練習室に立ち寄ってみたが、あいにく全て使用中だった。
仕方なく近くにいた教師に相談してみたら、大学の練習室を借りてくれるという。

「空きができるときなら、大学の練習室使ってもいいことになってるのよ。知らなかった?」

じゃあ行ってみます、と教師に告げて、同じ敷地内に隣接して建っている大学へと足を踏み入れる。
軽い気持ちでやって来たものの、大学の練習室というのがどこにあるのか、柳にはよくわからなかった。
柳の他にも施設を借りにきたらしい高校生が何人か周りにいたが、皆、目的地がわかっているらしく、慣れた足取りで建物内へ消えて行く。

私服を着ている大学生達の中で制服姿の柳はどう考えても浮いていた。
心細さを感じながら柳は大学の広いキャンパス内をうろうろしてまわっているが、1号館、2号館、3号館と似たような建物がいくつもあり、練習室がどこにあるのかがわからない。

…電話して聞いてみようかな。

携帯電話を取り出し、番号を入力したところで、柳はため息を吐いて携帯を閉じた。やっぱりやめよう。
“あれ”は恐らく今の時間は暇にしているはずだったが、電話したところで出るような気もしないし、あまり頼りたくもなかった。

仕方なく1人で探し回っていると、どこかでチャイムが鳴った。授業が始まるらしく、学生達も足早に建物へ戻っていく。
とうとう柳の周りには高校生どころか大学生までいなくなってしまった。

コンクリートの真ん中で、柳は迷子になっていた。

どうしようもなくなって、柳は一番近くにあった建物に飛び込んだ。入口から入ってすぐ、広いフロアにはエレベーターが1基備え付けられていた。
不思議なことに、その建物の中にはまるで人気がなかった。高校じゃあるまいし、みんな一斉に授業に出るわけではないから、授業のない学生がうろついているだろうと柳は考えていた。
しかし、誰もいないのである。

柳の足音だけがフロアに響く。
人のいない学校というのは何故こうも不気味なんだろう。この大学のように、歴史のある、悪く言えば古くさい校舎は尚更不気味だ。
1階に止まったまま稼働していないエレベーター、電気の消えたトイレ、鍵のかかった教室。蛍光灯が切れかかっているのか、階段の辺りは薄暗い。
その階段の下に、ベニヤ板で何重にも封鎖された部屋を見つけた時、柳はなんとなく背筋がうすら寒くなるのを感じた。
部屋の上には「ボイラー室」と木に墨で書かれた看板が付いていた。

もう何故かその古めかしい「ボイラー室」という看板すら不気味に感じられ、柳は素早く元居たフロアへ引き返した。

ちょうどその時、エレベーターがゴトン、と音を立てた。突然動き出したエレベーターに、柳は喫驚する。
エレベーターからは男子学生が2人降りてきた。談笑する学生を見て、柳は安堵したが、男子学生のほうはぎょっとした顔で柳を見ていた。

「…高校生だ」

2人の男子学生のうち、黒髪のほうがそう呟く。もう一方の茶髪の学生は僅かに首を傾げていた。

「あの……」

柳が声をかけると、黒髪のほうが「は、はい」と驚いたように答えた。

「練習室って、どこにありますか……?」

学生2人は顔を見合わせて、ほぼ同じタイミングで「練習室?」と声を上げた。

「なんだっけな、練習室って」

黒髪は「うーん」と唸りながら眉間に皺を寄せてしばらく考え込んでいた。黒髪を尻目に、茶髪のほうが「ああ、音楽科の練習室だよね?」と柳に尋ねた。
柳が頷くと、茶髪の学生は心得たように微笑んだ。
その学生の顔を見たとき、柳の中で何かが引っかかった。よくわからない違和感が柳の胸に渦巻く。

黒髪が「あ、何、わかっちゃったの」と素っ頓狂な声を上げた。

「うん。俺が説明しておくから、レポート出しに行っておいでよ。締め切り、今日の夕方までなんじゃなかった?」

黒髪は腕時計を見て目を丸くした。

「やべえ、そうだ、まだ残ってたんだった! 教授、帰ったかもしんねえ、どうしよう」

「帰ってないかもしれないじゃん。いいから行きなって」

お、おう、またな! といって黒髪は走って出ていった。黒髪がいなくなると、茶髪の学生は柳のほうを向いて「練習室だけど」と仕切り直した。

「確か、この棟の2階の連絡通路を渡って行けるんだ。案内しようか」

「あ……はい、お願いします」

まただ、と柳は思った。喉のすぐ下のあたりに何かが引っかかっているような感覚があった。
同時に匂いがした。桜の花の匂いだ。桜の匂いなんて建物の中でわかるわけがないし、第一、桜なんてもう葉桜になっている。
すべては気のせいだったが、何故、突然桜の匂いなんて思い出したのか、不思議だった。

「じゃあ、行こうか」

茶髪の学生は、エレベーターではなく、階段のほうへ向かって歩き出した。学生の後に続いて柳も階段を上る。
2階にもやはり人影はまるでといっていいほどなかった。
柱には「節電!」と書かれた紙が貼ってある。すっかり黄ばみ、セロテープが剥がれかけている。
何年前のものかもわからない書き付けを守っているのか、廊下の電気は消えていた。大学というのも結構みみっちいものだと柳は思う。

柳は学生の少し後ろを歩きながら、その横顔をそっと仰いだ。
柔らかそうな茶色の髪はくせ毛がちで、学生が歩く度に緩くカーブを描いた毛先がふわふわ揺れた。なんとなく、八重子と印象が被る。
長い睫毛が目元に影を落としていた。上品で温和そうな顔つきに柳はしばし見とれる。
まったくといっていいほど険のない目付きが、柳には物珍しかった。
柳が特に親しくしている男は大抵みんな目付きが悪かった。兄の神那もそうだし、“あれ”も眼光だけで人を殺せそうなほど目つきが鋭い。

「――いつも」

学生が呟く。柳は慌てて学生の横顔から目をそらした。

「放課後は練習してから帰るの?」

「はい。だいたいは、そうですけど……」

「へえ。音楽科って大変なんだね」

「いえ、大変ってほどでは……部活に入っているわけでもないので、これぐらいは、しないと」

「部活、入らないの? 音楽科ならオーケストラ部とか……高校にオーケストラはないか。吹奏楽部とか合唱部とか」

「入ってる人もいますが、ほとんどは何の部活にも入ってないですよ。普通科は強制的に部活に入らなくちゃならないらしいんですけど、音楽科はそうじゃないし……
だから時間が空いている分、自分の練習の為に時間を使うようにしてるんです」

「そうなんだ。偉いね」

「いいえ、偉いことなんて何も……」

不意に学生が笑った。何か可笑しいことでもいっただろうかと柳は首を傾げる。

「…なんですか」

「ずいぶん落ち着いたしゃべり方してるよね」

微笑む学生に、またか、と柳は思わず唸る。前々から言われていたのだ、「お前のしゃべり方は可愛くない」と。
気を付けているつもりでも、昔からぶっきらぼうな話し方しかしてこなかったものだから、癖がついてしまってなかなか抜けなかった。
加えて常人離れした美貌が更なるマイナスの効果をもたらして「高飛車」とかいわれたりもした。
そんなわけで一時期は極力愛想よく過ごしてみたが、すると今度は男受けがよくなったかわりに女からは「男に媚びてる」と言われ出す始末だった。

「一応、気を付けてるつもりなんですけど、うまくいかないものですから」

すると学生は少し驚いたような顔をして「悪い意味でいったんじゃないよ」と付け足した。

「気を付けてるならいいと思うし、それに、直す必要もないと思うけど」

怪訝な表情をする学生に、柳は顔をしかめた。

…じゃあなんでそんなことをいったんだ。

そう考えてから、柳はすぐに思い直した。ほら、私はそもそもこういうことを考えるところが可愛いげがないっていうんだ。

「俺の言い方が悪かったね。やっぱりしっかりしてるんだなって思ったんだよ」

そういって学生は笑った。

「ああ、練習室ってあそこだよ」

学生が廊下の先を指差した。

「あそこの角を曲がったら、すぐにわかるよ」

じゃあね、といって学生は踵を返す。柳は慌てて学生のほうに手を伸ばした。
思わず掴んでしまった腕を見て、驚いている学生を見て、柳は“穴があったら入りたい”と思った。

「あっ……あの、すみません、ありがとうございました」

学生は気にした様子もなく「どういたしまして。練習、頑張ってね!」と微笑むのだった。


 *

学校でのピアノの練習が終わると、柳は高校のすぐ近くにある公園で待ち合わせをして帰る。

公園に植えられた桜は、もうすでに葉桜になっていた。沈む夕陽に照らされて、桜の葉が燃えているように見える。
橙色の光の中を、柳はメッセンジャーバッグのストラップを握りしめて走っていた。服はあらかじめ持ってきていた私服に着替えている。

…きっと“あれ”は遅いと文句をいうに違いない。

そう思って、柳はため息をついた。

公園の入口に男が1人、立っていた。
癖のない柔らかな髪はミルクティーのような色合いの茶、とろりと伸ばされ耳のすぐ下のあたりで切られている。耳には無数のシルバーピアス。
目鼻立ちのはっきりした顔、すらりと細身で背が高い。顎のラインは実にシャープで、輪郭に無駄な肉付きがない。
全体的に、刺々しく鋭利な刃物を思わせる雰囲気の男だった。更には切れ長の三白眼と眉間に刻まれたしわが余計に人相を悪くしている。
おまけに、今日は着ているシャツの絵柄が虎と龍で、見ようによってはチンピラかヤクザだった。

男は柳のほうを見ると、鋭い目を細めて「おせえぞ倉田柳」と叫んだ。その見た目にふさわしく、品性に欠ける、いかにも不良じみた口調だった。

柳はあきれ顔で「遅くない。大和が早いだけでしょう」と男の肩を小突いた。
男も柳の肩を軽く叩いて「時間は無駄にしたくない主義なんだよ」とあっさりした口調で告げた。



夕暮れ時の公園は人気がない。たまに、散歩をしている老人とすれ違う。
長谷川大和(ハセガワ ヤマト)と倉田柳は並んで歩きながら、他愛もないような話をしていた。

長谷川大和は、チンピラでもヤクザでもなく、柳の高校が付属している大学の、至極真っ当な2年生だった。
大和と柳が付き合い始めてからずいぶん経つ。かつて、柳は付き合ったり別れたりを頻繁に繰り返していたが、この男とはなんだかんだでうまくやっている。
何故この男とは別れないのか、柳の周囲の人間は皆不思議がっていたが、それは柳自身にもよくわからなかった。

あまり人の良い男でないことは、柳も十分に理解している。
愛想笑いを浮かべ、尚且つ服装がヤクザ風でない時はかろうじて好青年のようにも見えなくもないが、中身は好青年と呼べるか甚だ疑問というような人物だった。

いかにも八重子が苦手としているタイプの男で、大和に話しかけられたら、八重子は卒倒してしまうかもしれない。
まるでリスのような八重子に、蛇のような大和が牙を向く姿がありありと脳裏に浮かんで、柳は胃のあたりに強烈な不快感を覚えた。
こんな毒気を放っている男、八重子に近づけたくない。

「――練習室? んなもんぐらいなら電話すりゃ教えてやったのに」

大和が眉を上げて、隣を歩く柳を見た。
本当は電話しようかと携帯を取り出すところまではした、とはいわなかった。できれば頼りたくないのに、いざとなると大和をあてにしてしまう自分自身を柳は呪った。

「電話したって出ないでしょうどうせ。誰と会ってるんだか知らないけど、いつも忙しそうにしてますものね」

「妬いてんのか?」

「強いていうならどうでもいい」

「つまんねぇやつだな。もっと、『私以外の女と会わないで!』とかいって騒ぐとか、なんかねぇのかよ」

「実際にそんなこといったらどう思うわけ?」

大和は答えないままそっぽを向いた。柳はため息を吐く。大和が何を考えているのかよくわからなかった。

…果たして大和は本当に、私のことが好きなのだろうか。
私に嫉妬させて、からかいたいだけなのか。そんなことして、何が楽しいんだろう。

もっと馬鹿みたいに盲目になれたら楽かもしれないなと柳は思った。
無駄に勘ぐったりしないでもっと素直に自分の気持ちをぶつけられたらいいだろうし、何の疑問も持たずに大和を好きになれればよかったのに。

「…可愛くないね、私」

「はあ? なんだよ、急に……」

大和にも散々いわれてきたことだし、柳本人もそう思っていた。

可愛くない。昔から。外見ばかりが人目を引いて、空洞化した中身に誰もが愛想を尽かして去ってゆく。
昔から。いつもそう。
美人だなんだとちやほやされて、いつも勝手に理想像で塗り固められて、そして最後は「つまんないし、可愛いげない」で終わり。

大和はにやにやと意地の悪そうな笑みを口許に浮かべ、柳の横顔を覗き込む。

「おい、そんなに暗くなんなよ。お前が可愛げないのなんて今更じゃねえか」

「フォローするとかなんとかないわけ……」

まさか大和が慰めるような言葉をかけてくるとは柳も思ってはいなかったが、いくらなんでも歯に衣着せなさすぎな答えに柳は顔をしかめる。
大和は柳を柳の肩に腕を回して無理矢理ぐいぐいと引っ張る。引きずられる格好で柳も歩く。

「辛気くせぇ顔すんじゃねぇよ、おら、さっさと行くぞ」

公園を抜けると大学の裏手の駐車場に出る。
大和は何台か並んでいるバイクの中から自分のバイクに近寄った。
大和が執着してやまないそのバイクは、カウル全体に銀の塗装が施され、鈍い輝きを放っていた。タンクに書かれた真っ赤なロゴが目を引く。
4本の集合管から伸びる2本のマフラーは艶やかな黒。執拗に磨かれていることが柳にもわかるほど光っている。
鋭利な刃物の切っ先を思わせる形をしたフロントカウルに、僅かながら傷がついていた。

大和と付き合うようになってから、柳も頻繁にこのバイクに乗っていたが、大和が何を思ってこのバイクに執着しているのか未だによくわからなかった。
他人の趣味とはつくづく理解できない。そう柳は思う。

大和はベルトループに引っ掛けていた鍵を外しエンジンをかける。それから柳にヘルメットを渡し、自分もヘルメットをかぶってバイクにまたがる。
ヘルメットを被ろうとした柳の目に、テールカウルに貼られたステッカーが映った。紺の塗装にいかつい顔の銀の般若がよく映えている。

柳は顔をしかめて言う。

「この般若、まだ貼ってたの? なんだか暴走族みたいだわ」

「まだ、って、はがす予定もねえよ。別にいいじゃねえか、お前にそっくりだぜ、それ」

「…自分に、の間違いじゃないの」

「俺、女じゃねえし」

柳は聞えよがしにため息をついてから、バッグのストラップをかけなおすと、バイクの後席に座った。

『運動部でもないのに、どうしてそんな鞄使ってるの?』とは柳がよく言われる言葉だが、バイクに乗る時には非常に重宝するからというのが理由だった。
「彼氏のバイクに乗せてもらうときに便利なんだよね!」などと明け透けに語れるほど柳は開けっ広げな性格ではなかった為、その理由を明かしたためしはなかったが。

「大丈夫か?」

前を向いたまま大和が問いかける。

「大丈夫」

柳が答えたのとほぼ同時に大和はバイクを発車させた。

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