小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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夕食を食べた後、2人は揃って他愛もないような話をしていたが、大和はふと時計を見上げて「泊まるだろ」と柳に尋ねた。
今さらいちいち尋ねるようなことでもないだろう、と柳は頭の片隅で思ったが、顔には出さずに返事をした。
柳が頷くのを見ると、大和はクローゼットから新しいシャツとタオルを引っ張り出して柳に放った。

「ありがとう」

「風呂、お前先に入れよ」

「大和が先で構わないよ」

大和が部屋からいなくなった隙に、柳は自分の鞄から携帯を取り出す。手早く「今日は帰らない」とメールを打って送信する。

大和と2人きりでいるときは、極力、携帯を使用しないよう柳は努めていた。
頻繁にメールをしている相手がいるわけでもなかったし、八重子からのメールでもない限り、即座に返事をしない柳にしてみれば、不必要に携帯を触る意味はほとんどなかった。
それに、大和のあの鷹のような鋭い三角の目で見られるのがなんとなく嫌だった。

「誰とメールしてるのか」などと大和はいちいち尋ねたりはしなかったが、柳が携帯を触っていると、大和は一瞬柳のほうへ目を向け、それから素知らぬ顔をした。

それが柳はどうも苦手で、しかも今しがたメールを送った相手が兄だと知れたら、どうせブラコンだなんだと散々馬鹿にされるだろうと予想していた。
メールを送ったところで神那から返事が返ってきたためしはなく、兄がメールを読んでいるのかは謎だったが、それでも一応報告しておかねば柳の気が晴れなかった。



大和が部屋に戻ってくると同時に、柳は鞄に携帯を突っ込んだ。
大和は不思議そうな顔をしていたが、特に何も言わずに風呂を指差す。それから手に持っていたミネラルウォーターを一息にあおった。
酒を一切飲まない大和は、大抵、水ばかり飲んでいる。
私がシャワーを浴びている間、大和は1人で何をしているのだろう、と柳は疑問に思ったことがあった。

酒も飲まず、水だけで過ごすには大和の部屋は寂しすぎた。
部屋には家具も家電もほとんどなく、テレビもなかった。本人いわく、テレビはパソコンで見ることができるし、どうせ寝るだけの部屋だからどうでもいいというのである。
長谷川大和という男と知り合って、その人間性がわかってくるにつれ、柳には驚くことがあった。
大和は、見方によっては場末の娼宿のヤクザかチンピラか、というようないかにも俗っぽいなりをしているが、その実、世俗的なものにはあまり縁がないようだった。
パソコンを触っている姿もあまり見たことがなかったし、そのパソコンでテレビを見ていることもなかった。


柳が風呂から出てきた時も、大和は黙って雑誌を読んでいた。
大和はソファを背もたれの代わりにして床に座っている。柳はソファに腰かけて、上から大和を見下ろす。

部屋の中は静かだった。大和は押し黙って雑誌を読んでいる。
退屈しのぎに、柳はそばにあったCDデッキを引き寄せて電源を入れた。設定をCDからラジオに変えて、適当にチューニングをいじる。
クラシックの特集をやっていた。ピアニストの名前がアナウンスされ、流れ出したピアノの旋律に、柳は手を止める。
ずっと雑誌に視線を落としていた大和は、伏せていた瞳を僅かに上げて、それからまた雑誌に目を向ける。

柳は澱みなく流れるピアノの音に耳を傾けていた。妙に女性的な弾き方だな、と柳は感想を付ける。
しかし、このピアニストは男性だったはずだ。そのわりに、強音はあまり主張せず、逆に弱音は甘く優しく艶めいていて、吐息を耳に吹き掛けるような妖しさが漂っていた。

…ああ、真珠のような音だ。

目を閉じればピアニストの指から真珠が溢れて、つやつやと輝きながら空気の中へ溶けて消えていくのが見える。
柳は昔から音楽を何かに例えるくせがあった。

柳は子供の頃から、本を読んでいる兄の隣に座っては、家にあったCDやラジオでしょっちゅうクラシックを聴いていた。
神那はよく外で走り回って遊んでいたが、同時に、黙々と読書をすることもあった。黙って本を読む兄のそばで、柳も絵を描いたり、クラシックを聴いたりして静かな時を過ごした。
神那は、同年代の子供たちには読めないような難しい本を好んで読んだ。柳が尋ねれば、その本について事細かに説明した。
一番身近な存在であった兄が、柳にとってはある意味で一番遠かった。
柳にとって、新たな知識を与えてくれるのは教師でも親でもなく、兄であった。
神那がある知識について説明するとき、険のある目の奥底に知性の光が輝き、彼の横顔を大人びたふうに見せた。外で遊んでいるときには見せない瞳の輝きが、柳は好きだった。

大和は静かに雑誌を読んでいる。
なんとなく予想できるが、なんの雑誌を読んでいるのか確かめようと、柳は大和の手元を覗く。案の定、バイクに関する雑誌だった。
柳にはよくわからない単語が羅列されているが、大和は学術書でも読んでいるかのごとく、熱心に文字を見つめている。
その横顔、瞳の奥底に光が宿っているのを柳は見る。ああ、この男も同じだ、と思うと柳は嬉しくなる。

手持ちぶさたから、柳は大和の髪に指を絡ませて、すくってはサラサラと流している。
大和はなんの反応も示さない。ただ黙ってページをめくっている。
それをいいことに、柳はぐっと上半身を大和の頭のほうに寄せて、胸を大和の後頭部に押しつけるようにしながら頭を撫でる。大和の髪は細くやわらかく、まるで金糸のようだった。

「大和の髪って、染めたんじゃなくて、もとから金だったように見える。色がすごく綺麗。手触りもいい」

「嬉しくねえな」

「誉めてるのに」

「髪が綺麗っていわれて喜ぶ男がどこにいる」

柳は大和の髪を弄びながらくすくすと小さな声を立てて笑った。狐のようにつり上がった大和の目が柳を捉える。

「何笑ってんだよ」

「なんでだろう」

柳は大和の頭から手を放すと、するりとソファから降りて大和の隣に座った。
それを見ていた大和は、「お前、たまに猫みたいな動き方するよな」と、あきれているような、感心しているような顔をした。

答えないまま柳は大和に背を向けて、床に積まれている雑誌を物色する。
だいたいどれもバイクに関するものばかりで、柳の興味をそそらないどころか逆に気分を萎えさせた。
それでも暇つぶしに、と仕方なく一冊手に取る。珍しくファッションの記事があったかと思えば、特集はライダースジャケットだった。

「右を見ても左を見ても結局はバイクばっかり」

「別にいいだろ……」

「ねえ、空冷と水冷と、何がそんなに違うの? 巻頭で特集を組むほど重要なテーマなの?」

「なんだよ、わかってねえなぁ」

「そんなのわかるわけないでしょう」

「わかってもらわなくても結構だけどな。ああ、お前よりバイクのほうがよほどかわいいや」

「変態」

「なんだとコラ」

そういうと、大和は後ろから柳を抱きすくめて、柳と一緒になって雑誌を覗き込む。

「…ねえ、もっと強く」

「あ? 何を」

「腕」

腰の辺りにまわされた大和の腕を触りながら柳がいう。いわれるまま、大和は腕に力をいれて柳を抱き寄せる。

「それぐらいだと、座椅子の代わりにするのにちょうどいい」

「てめえ、人を座椅子呼ばわりか?」

ふふ、と柳は笑って、背中を大和の胸に預けた。なんとなく不満そうな顔をしていた大和も柳の頭に頬を寄せる。
しばらくの間、大和はおとなしくしていたが、やがて柳の胸に手を添えて緩慢に撫で始めた。すかさず柳は大和の手をひっぱたく。

「なんだよ、痛ぇな」

「そんなことしてとは頼んでない」

「いいじゃねえか、揉んだって減るもんでもあるまいし」

「減る」

「減るのかよ」

むしろ増やしてやってるほうだろ、と大和は文句をいって、柳の首筋に顔を埋めた。ゆっくりと首に唇を這わせる。
柳はびくりと肩を震わせて、大和を睨み付けた。

「…何考えてるの、読んでるんだから、やめて」

「読んだってお前にはバイクのことなんてわかんねえだろ」

「わからないから読むんじゃない」

「屁理屈」

「うるさい、私よりバイクのほうがかわいいんでしょう、放っておいて」

「それは本当だ。お前はつくづくかわいくねえよ」

「じゃあこの手はなんなの、いいからバイクでも撫でてなさいよ」

「ははっ、そりゃいいな」

大和の金髪が柳の頬をくすぐる。じゃれつく犬の毛のようでもあったが、今、柳を拘束しているのは、犬などという可愛いげのあるものではなく、もっと質の悪い獣だ。
艶やかな黒髪を退けて、大和は啄むように優しく口付ける。唇が触れる度、柳はまぶたを震わせる。

「なんだってお前、そんなにかわいくねえんだよ、ああ、本当に、馬鹿馬鹿しいな、なあ、柳……」

はあ、と柳が悩ましげな吐息を漏らす。拒絶するように大和の腕に手をのせるが、力が入らない。

「どうせ、かわいくないわ……バイクよりもね」

「ほら、なあ、そういうところがかわいくねえっていうんだよ」

耳元で大和が囁く。柳は顔を歪めて大和を睨んだ。

「アンナが、驚いてたわ。大和の女の好みと、私が、まったく違うからっていって……本当は、どんな女が好きなの? きっと大和が好きな女は、さぞかし可愛いんでしょうね」

大和は言い訳するでもなく、ただ黙って皮肉めいた笑みを浮かべていた。

…嫌な男だ。

そう思いながら、柳は目を閉じる。なされるがまま、大和に身体を預けた。

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