【4/ヴィレ】
分かってる。きっと分かってる。
この暗闇が夢だということを。
この時間が幻想であるということを。
所詮は俺の生み出した虚無の存在であることも。
それでもここは安心できる。
それでもここは俺に安心を与える。
暖かな感触を。
なのに、どうして。
「――目を覚ませ」
なのに、どうしていつも邪魔される……。
†
目に入ってきたのは天井。今にも消えてしまいそうな淡い電灯。ぼんやりと覚えのある部屋。あぁ、そうだ。ここは俺が最初に運ばれてきた医務室だ。がらんとして、監獄じみた雰囲気を纏うこの部屋、まさにそうだ。
どうやら俺はまたここに眠っていたらしい。
「よぉ。目、覚めたか。一日に二度も私の治療で目覚めることができたんだ。気分爽快だろう? なかなか、レアな体験だぞ。お前」
声のした方へ視線を向けるとベッドの傍らに哀子さんと織がいた。
「焉堂くんって、勇敢なんだね。ところで、何であの場所にいたの?」
織がそう言うと、その横で哀子さんがくすくすと笑っていた。織は怪訝そうに哀子さんを見る。
「何がそんなにおかしいんですか」
「いやぁ、なんだ。焉堂がお前のところへ行っただろ、あれ実は私のせいだぞ?」
「「えっ」」
俺と織の声が重なる。
哀子さんは笑いをおさえきれないというふうに、それでも口許に手をあてなんとか笑いをこらえている。
哀子さんのせい、と言われてもあれはたしかに自分の意志で……。ただし確信はない。漠然とした行かなくてはならないという衝動に近いものに衝き動かされたようなものだから。
となると、思い当たる節は……いやあるいはあの去りぎわの言葉だろうか。
「どういうことですか? ……えっと、哀子さん」
俺は身体を起こしながら哀子さんに問う。哀子さんはやはりおかしくてたまらないらしい。なんだかいらっとくる。
「いや、せいというほどのことではないんだがな。新崎、お前があの場所へ向かう前……、そうだな警報が鳴っていた時かな。私はすでに、これを媒介にして<遠眼鏡>を使ったんだ」
哀子さんは自分のかけている眼鏡を指さす。
「それで、まぁ簡単にではあるが、現場の状況を見たというわけだ。しかし、どうやら数を見てみると新崎一人では心もとない様子だったからな。それにお前はよくドジを踏むし」
「なっ――!」
織が声を上げ、拳を握り下の方でわなわなと震わせている。
なんだか、よく分からないが、嫌な予感がしたので俺はベッドから立ち上がりつつ、すこし距離をおいた。
「ま、あえて行かせたわけだ」
「……、それ本当ですか」
織は少し低い声を出した。対して、哀子さんは終始愉快そうな声。
「あぁ、そうだ。冗談を言ってもしようがあるまい。しかし、勿論お前一人に行かせたら、それこそ文字通り逝ってしまうかもしれないからな。それで、焉堂の深層意識にちょっとばかり<ハック>して内側からの暗示をかけさせていただいた。どうだ、焉堂。部屋を出てから、意識がとんでなかったか?」
なんて衝撃の事実をさらりと言う。
なるほど、原因はこいつか。とりあえず自分の行動の理由を把握した。――案外、最初に森の中で気を失っていたというのも(正直俺自身はその記憶が無い)、哀子さんのせいではないのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えながら、ふと織の方を見ると、彼女はなぜか半泣き。いよいよ嫌な予感が現実になりそうな気がしてきた。俺はさらに一歩後ろへ下がる。
「哀子さん!」
ついに爆発か?
元からよく響く声なのに、さらに目一杯大声を出したとなると、耳をふさがざるをえなかった。いままで楽しげにしていた哀子さんですら一歩身を引いていた。
「全部哀子さんの仕業だったんですね! 無理だと分かって行かせたり、焉堂くんの<力>を暴走させたり。私、<ハイテル>に腕を噛まれた時とか、一斉に飛びかかられた時とか、本当に死ぬかと思ったんですよ!」
織は大声のまま、哀子さんをまくし立てる。
気のせいだろうか。さっきから何かに亀裂の走るような音がしてるのは。気のせいだと信じておきたい。
「ま、まぁ、待て新崎。とりあえず一旦落ち着け。何も全部私が悪いわけでもないだろう? 大体ドジッたのはおま…………」
俺はまっさきに部屋を飛び出した。どうやら哀子さんは自分から地雷を踏んでいくタイプらしい。俺が部屋を飛び出したのはほぼ、直感だったが。これこそまさに危険を回避する本能による行動といえるだろう。
背中で何かが崩れる音がしたが……、とりあえず気のせいだろう。
†
どこに行くわけでもなく、ぼうっと廊下を歩く。長い長い廊下。当分曲がり角は無さそうだ。人二人分ほどの通路で、左右には等間隔に扉が並んでいて、それぞれにはきちんとした銀色のプレートが嵌めこまれていた。どうやら部屋番号らしい。十メートルほどごとに、天井からこれまたプレートが吊り下がっている。案内板らしい。それによるとここは『居住区D』らしい。
一人で歩く俺。なにものも排除された、本当の意味の静けさ。足音だけがむなしく響いている。
無機質に囲まれた冷たい廊下。ポッカリとあいた空白を連想させる。その空白を埋めることは誰にもできないだろう。空白は、空白でこそ意味を持つ。永遠に何かを許容する寛大さでもあるだろう。
そう考えると案外、無機質とばかりは言えないのかもしれない。
「でも、やっぱりなんだか寂しいところだな」
無意味に呟いてみる。声は反響することなく、壁に吸い込まれいった。
ふと人の気配を感じ立ち止まる。ゆっくりと振り返るが誰もいない。気のせいだったのだろうか。
再び前を向き歩き出そうとする。
「この時間に歩きまわると、罰せられるぞ」
「えっ?」
突然の声についおどろいてしまった。声は横から。見ると、そこには哀子さんがいた。
「哀子さん……ですか。いつの間にいたんですか」
「うん。結構前からついて歩いていたんだがな。気づかなかったのかい?」
全く。無駄に詩的な情景描写をしていた自分が恥ずかしくなる。
それにしても本当に気づかなかった。ここまで完璧に尾行じみたことをされてはなんというか、いやだ。
どんな表情になっていたのか、哀子さんは俺の顔を見て苦笑いした。
「はは。まぁそんな顔をするな。鍛えればこんなこと誰にだってできる。どんな動物であれ、行動には必ず盲点がある。そこを徹底的に突いていけば、それこそ透明人間と同義さ」
「そうですか。俺には到底無理そうですね」
もとより、する気もないが。
「ところで、罰せられるって……?」
「夜出歩く非行少年は補導ってわけさ。ま、私がきたからには安心してほしい」
「……あまり安心できないんですけど」
不信の目を哀子さんに向けると、そうか? と真顔ではぐらかされた。
「とりあえず、そんなことはどうでもいい。新崎も私が処理しておいたし、焉堂、遅くなるがこれからすこし付き合ってくれないか? どうせ、昼間たっぷり寝たろ」
言葉も言う人次第でここまで印象が変わるものだろうか。処理という言葉が妙に不穏な雰囲気を漂わせていたのはあえて問わないことにした。
とにかく、付き合うのはわけない。どうせ行くあてもない。今は何かすることがあったほうが気が紛れるだろう。
†
とん、と目の前に丼が置かれる。
俺はそれにきょとんと目を落とす。
「なんですか、これ」
「なんですか、って。ラーメンだが」
「それは分かりますけど」
確かに丼の中にあるのはラーメンだ。白濁したスープ。とんこつラーメンとかいうやつだろう。
「なんだ、遠慮か? 若い奴がそんなんじゃ困るな。若い奴は若い時におとなしく、年上におごってもらえ。年取ったらお返しをしてくれればいいんだ。……と、お返しなんて気にしなくていい。とにかく腹が減ったろう。食え」
「ありがとうございます」
哀子さんはうんうんとうなずき、にこやかな笑顔でタバコを取り出し火をつけかけやめた。ちらっと、右のほうを見る。
ここは食堂らしいのだが、哀子さんさんの見た方には『禁煙』の赤い文字。
哀子さんはしぶしぶとタバコを箱に戻していた。禁煙の文字を心底憎そうに見つめながら。
そんな哀子さんを見ていると、なにか可笑しくてつい口許が緩んでしまった。
俺は慌てて、割り箸を割った。
「いただきます」
ラーメンを口に運ぶ。ラーメンというものは知っていたが、初めて味わう味だった。どうも味の記憶というものは、知識ではなく、思い出に分類されるらしい。記憶のない俺には初体験の味だった。しかし、どこか懐かしい感じのする味。
哀子さんいわく、大昔の味を再現しているとか。
お腹が空いていたのもあって、すぐ食べてしまった。
「ごちそうさまです」
手を合わせ、軽く頭を下げる。
「いい食べっぷりだな。男の子ならそうでないと。元気が無いのは良くないからな。さて、栄養補給もできただろうし、本題に移ろうと思う」
「本題、ですか」
「あぁ、そうだ。それを話しとかないと、ここに連れてきた意味が無いからな」
それもそうだ。単に食事をおごってくれただけでないらしいことは薄々分かっていた。
「単刀直入に聞こうか。焉堂、君はこれからどうするつもりだ?」
「どうって……」
「これといった記憶もなく、行くあてもなく幽霊のように彷徨ってもらっても困るんだ」
「そんなこといわれても」
それが事実だからどうしようもない。
「どうせ行くあてもないんだ。実を言うと、君にはこの<反抗の意思>の私の部隊に入って欲しいと思ってるんだ」
「ヴィレ……?」
記憶にない、初めて聞く名称だ。
「その、ヴィレというのは?」
「うむ。<反抗の意思>というのはな」
哀子さんはなぜかにやりと笑った。
「<ハイブレイン>に席捲されたこの世界を奪い返すための、我々<H2>の武装組織だ」
哀子さんはどうやらかっこよく決めたらしいが、全く俺にはその意味が伝わってこない。
「あの、何を言っているのか分からないんですけど」
ただ単に分からないことを、分からないからそう聞いただけであったが哀子は思ったよりきょとんとしていた。
「は、なんだお前。そんなことも忘却していたのか。君の記憶は思い出だけが消えていて、残っているのは知識だと思っていたが。ふむ、たしかに、思い出が破損しているにしては自己がはっきりしすぎているし、私の見解は間違っていたのか?」
哀子さんは何やらブツブツつぶやいている。独り言なのかどうなのか。はっきりと聞こえてはいるが、理解はできない。それからしばらく哀子さんは少しうつむき加減で黙ってなにか考えているようだった。
少しして哀子さんは顔をあげた。
「そうか……、なるほど。つまり、そういうことなのか。君の記憶は二二〇〇年止まりということか」
「……、あの、全く話が見えてこないんですけど」
哀子さんの言うことはつくづく理解し難い。単に俺の知識というか、記憶の損失によるものかもしれないが、それにしても難解だ。
しかし、哀子さんは詳しい説明はしてくれないで、話を進めた。
「少しだけ、歴史の勉強といこうか」
哀子さんはちらっと、腕時計を確認しうなずいた。
「うん。時間もないしささっと行くぞ。……二二〇一年、ここから終わりは始まった。いわゆる突然変異で新たな人類が生まれたんだ。はじめは男女一人ずつだったため、聖書にちなんでアダムとイブと名付けられた。彼らは従来の人間……ここでは仮に旧人類と呼ぼうか。彼らは旧人類より高い知能と身体能力を有していた。また、この時を境に彼らと同じような人間が次々と生まれた。これが変革を遂げる二年前、二二一〇年のことだ」
「二二一〇年……」
「彼らは皆、同じ、ある特殊な力を持っていたんだが、なんだか分かるか?」
「い、いえ」
突然ふられても分かるはずがない。それに、今聞いた話しの中に一つも知っていることがないならなおさらだ。
「彼らの持っていた能力はね、<脳波連繋>。<遠隔精神感応>のようなものと思ってもらえば話は早い。彼ら全員が、それぞれどこにいたとしても、お互いに意思を疎通することができる。ま、これが旧人類を破滅に導いた、究極の連繋でもあるんだが……」
哀子さんはふいに言葉を切り、目を閉じた。
「旧人類の滅亡。<新人類>によって、僅かな間に<旧人類>は虐殺された」
聞いて、哀子さんが目を閉じたのが、哀悼の意だったことを理解した。
俺も静かに目を閉じた。
大量虐殺。いや、もしかしたらそれは単なる虐殺の域を超えたものかもしれない。
「<旧人類>もね。もちろん応戦したんだ。足元にも及ばなかったらしいがね。二二一七年、<旧人類>は絶滅した」
息が詰まる。
滅亡でなく、絶滅という表現。<旧人類>という種族が<新人類>という種に、絶滅させられた。
胸にこみ上げてくる不快感。
「――と思っているのはだいたい<新人類>だけでな」
「え? は。ということは、生き残っていたんですか?」
「勿論だ。だから我々がここにいる。私たち<H2>は<旧人類>の子孫なんだ。ただ少しばかり、<新人類>の血が混じっている。彼らの中にも我々サイドに協力的なものもいたらしいからな。主に、<脳波連繋>に何らかの欠陥があったものらしいが」
そこまで聞いてようやく納得できた。世界を取り戻すという意味を。
文字通り奪い取られた住むべき場所を、憩いの場所を、取り戻す。そのためにここがあるのか。
「ただね、」
と、哀子は続ける。
「今話した歴史はあくまでも、ここの教育施設で子供たちに教えている教材に沿った歴史だ。真実は正直わからないんだよ」
「はぁ? ということは今のは嘘?」
少し目線をきつくして哀子の顔をうかがうと、哀子はいやいや、と手を振った。
「<新人類>が<旧人類>を滅ぼし、我々が世界を取り戻そうとしているのは事実だ。曖昧なのは細かいところでね。この歴史の筋書きが創られたのは結構最近なんだ。それまでは、ここの整備に忙しくてな。お上が、いくら来たる日まで閉じこもる砦だとしても、余裕のある生活は必要であるというやつでな」
言いながら、哀子は再び時計を見た。
「む、時間がないな。歴史の勉強はここまでとしよう。もう一回聞こう。君には私の部隊に入って一緒に<新人類>と戦ってほしい」
「え……、あの……その」
躊躇いが少しあった。行くあてもないし、頷くしかないのに。理由はすぐに分かった。しかし、その理由に俺自身が戸惑うしかない。
「殺すのがイヤなのか? 獣は殺せるくせに」
哀子さんの、心を見透かすような言葉にはっとなる。実際に心を見たのだろう。たしか、彼女はそんな<力>を持っているらしい。
なんでだろう。自分でもよく分からない。打ち倒すべき相手が、人間ではないものだとわかっているのになぜかそこにためらいがある。
世界を取り戻すという言葉から自然と、<新人類>たちを殺すと解釈した自分は、それなのにその事実を受け入れられないらしい。
「まあ、入らないって言うのならいいんだ。別に。それはそれで、対処できる」
哀子さんは不思議な笑みを浮かべ、席を立った。
俺はあわてて、哀子さんを呼び止める。
「ちょっと、待ってください」
その言葉に、哀子さんは、なんだ?、と振り返る。
哀子さんは僕に微笑みかける。
「入ります。<反抗の意思>に。ですが行くあてもない、というのは理由ではないです」
「では、なんだ」
「分かりません。だから入ります。自分を取り戻したいんです。最初は役に立てないかもしれません。」
「そうか、」
哀子さんは小さくつぶやいた。
「分かった。では、明日から正式に私の部隊に入隊させる。なに、堅苦しくはなるなよ? 和気藹々としているからな。そうだ、君のナンバーはZナンバーだったな。登録し直そう」
自分のパーソナルナンバーの事を頭に思い浮かべる。でも、首を横に振った。
「いえ……。今は必要無いです。パーソナルナンバーは、ここにおいてその人を表すものなんですよね。まだ自分も確かでないのに……。もし取り戻せたらその時にお願いします」
かなり本心の言葉だっただろう。俺は俺として、何か失われたものを取り戻さなくてはいけない。
「そうか、わかった。なら、Zのまま特殊ルートで登録しておこう。では、正式に入隊だな。明日から早速顔合わせを兼ねて訓練を始める。部屋は……、3055という番号の部屋を使え。もう遅いから今日は早く寝ろ」
哀子さんはそう言うと、俺を残して去っていった。