第五話:涙の理由を知ってるか?
それは、消してしまいたい記憶だ。
思い出させないでくれと、そう願った夜をいくつ超えてきただろうか。
それでも声は、確かにそこに残ってる。
あの頃の日々と、同じ音色と優しさを残して。
「……ちょっと、ねぇってば」
「…………あ?」
肩を強く揺すぶられていると、ようやく歩は気付いた。
真っ白だった視界が少しずつ晴れていく様は、さながらに深い霧が消えていくような光景に近かった。
「しっかりしてよ。大丈夫なの、水片?」
「……ああ、大丈夫。平気だ……」
答えて、歩は自分の手を額に当てる。
自分でも驚くくらいの汗の珠が手のひらの上にまとわりつく。
しかしそれを不思議と不快だとは思わなかった。
とうに冷え切った汗は氷のような冷たさを伝えてくるが、逆にそれが歩の心を安定させていた。
「……大丈夫。俺は、大丈夫だ。ちゃんと、いる。ここに、いる、から……」
それは、誰に対しての言葉だったのだろうか。
明らかに意識が朦朧としたままの歩を見て、美里は本能的に言葉を返してしまう。
「全然、大丈夫に見えないよ。ねぇ、ちょっと保健室行こう。ちゃんとした場所で休んだ方が絶対いいって」
「……いいって。大丈夫だって、言ってんだ……ろ……」
言いながら、しかし歩の体はぐらりと傾く。
椅子の上から体が崩れ落ち、そのまま床の上に放り出される。
「水片!」
美里は叫んだ。
床の上に倒れた歩は、ぐったりとしたままで微動だにしない。
「ちょっと! しっかりしてよ!」
どれだけ耳元で叫んでみても、返ってくる言葉はない。
歩のその目は、まるで何かを拒絶するかのように固く閉じられたままだった。
きっかけは、本当に些細なことだった。
ただ、褒められただけ。
幼い自分にはそれが他のどんなことよりも大きくて、ひどく嬉しかった。
「上手に描けたね、歩」
その一言が、何物にも変えがたい最高の宝物だった。
だから、絵を描こうと思った。
あの人の喜ぶ顔が見たかったから。
あの人の笑う顔が見たかったから。
ただ、それだけだった。
本当に…………。
ただ、それだけだったんだ…………。
「…………」
ぼんやりと視界が開けていく。
無機質な天井が見え、ほどなくして薬品特有の匂いがうっすらと鼻先を掠めていった。
ここが保健室のベッドの上だと理解できるまでに、そう時間はかからなかった。
「……ん」
ゆっくりと体を起こしていく。
その途中で、額の上から何かが転がり落ちた。
太ももの上に転がったそれは、すっかり冷たさを失って体温が移ってしまったタオルだった。
歩はそれを片手で握り、渇いたのどで小さく呟く。
「俺、どうなったんだ……? 確か、美術室で……」
自分の中の記憶はそこで途切れている。
確か、美術室でいつものように絵を描いていたはずだ。
「……そうだ。その途中で、急に頭が痛くなって……」
そこまで思い出したところで、ふいに締め切られていたカーテンが開いた。
「あら、気が付いた?」
声の主は保険医の高岡だった。
「先生、俺、どうしてここに……?」
「何も覚えていないみたいね。ま、あの様子じゃ無理もなかったでしょうけど」
「え?」
「あなた、軽い熱中症で急に倒れちゃったのよ、美術室でね。その辺までは覚えてるかしら?」
「……はい」
だが、覚えているのはそこまでだ。
自分の意識が少しずつ遠のいていく感覚。
そして、誰かが必死に叫ぶ声が……聞こえていたような気がした。
と、そこまで考えて歩はふと疑問に思った。
「先生、俺、どうやって保健室まで……」
言いかけたその言葉を遮るようにして、高岡は視線だけであさっての方向を促す。
それを追ってみると、そこにはソファの上で座ったまま静かな寝息を立てている美里の姿があった。
「あ……」
それ以上聞くこともなく、歩は理解した。
倒れた自分をここまで運んできたのが、誰であったのかを。
「あの子が起きたら、ちゃんとお礼を言うことね。君は細身で体重も軽かったとはいえ、自分より重さのある人間を担いでここまで運んできたんだから」
「……そう、ですか」
「まぁ、それはそれとして」
一度言葉を区切り、高岡は再度歩むに視線を移して続ける。
「課題に熱心なのもいいけれど、もう少し体の心配をしなさいな。日差しの入り込む窓際で、長い時間まともに水分補給もしないでいれば、そりゃ倒れるに決まっているでしょう」
「……すいません」
「分かればよろしい。さて、のども渇いてるでしょう? インスタントだけど、今アイスコーヒーを淹れてあげるから、もう少し横になってなさい」
高岡はそれだけ言い残すと、保健室の奥にある備え付けの給湯室へと去っていく。
「…………」
横になっていろと言われたばかりだが、歩はそんな気分にはなれなかった。
正直に言えばまだ少し頭もふらつくが、しばらく眠れたこともあってか気分は大分良くなっている。
だが、それよりも何よりも気がかりなことは
「……迷惑、かけちまったよな」
視線の先に映るのは、まだ眠ったままの美里の姿だ。
自分よりも一回り以上小柄なあの体で、ここまで歩を担いできたというから驚きを隠せない。
しかも、美術室は最上階の四階で、保健室は一階だ。
そこまでの道は当然ながら階段を使うしかないわけであって、しかも意識を失った人間の体というものは普段よりもかなり重くのしかかってしまうはずだ。
そんな状況でも、美里は歩をここまで運んできたということだ。
並大抵の疲労であるはずがない。
「何やってんだ、俺……」
何から何まで迷惑をかけっぱなしじゃないか。
深い溜め息と一緒に、何だか他のいろんなものまでもが零れ落ちていってしまいそうになる。
だからこそ、なのだろう。
それこそ、偶然だと信じたい。
「え……?」
頬を伝うその熱いものは、一体何が原因で流れてきてしまったのだろうか。
わけが分からなかった。
一体どうして、どんな理由で、自分は今……泣いているのだろう?
「っ!?」
歩はその得体の知れない涙を、手の甲で拭い捨てる。
それっきり、一瞬だけ緩んだ涙腺はそれ以上の涙を流すことはなかった。
「何で、だ……? 何で、俺……」
言いかけたところで、高岡の声がした。
「ほら、できたよ。砂糖とミルクはお好みで……って、何? どうかしたの?」
頭を抱えるようにしている歩を不思議に思い、高岡は声をかける。
「……いえ、何でも、ないです」
「頭痛がするようなら、念のため薬出しておこうか?」
「いいんです。本当に、何でもないですから。何でも……」
「……そう? なら、いいんだけど」
高岡はそれ以上追求はせずに、歩にアイスコーヒーの入ったグラスを手渡した。
歩はそれを、顔を上げずに一口だけ口に含む。
苦い味が口の中いっぱいに広がった。
ぐちゃぐちゃになっていた頭の中が、少しずつ落ち着いていくような気がした。
だが、それでも。
涙の理由はまだ、分かりそうにはなかった。