小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第七話:確かに始まっていた、終わりへと至る長い道のり



「……おはよう」
「……おう」
 もう昼だというのに、二人はとりあえずいつもどおりの挨拶を交わした。
 が、互いの目から見ても目の下にクマはできているし、普段に比べてテンションが低いのは明らかだった。
「…………」
「…………」
 二人はしばしの間互いに口を割らず、まるで相手の動きを伺うかのように視線を合わせる。
 やがて、どちらからともなく……というか、ほぼ同時に口を開いてこう言った。
「「いや、ただの寝不足だから。別にどうってわけじゃないし」」
 つまるところ、そういうわけだった。

 歩は眠い目をこすりながら手の中のペンを走らせていく。
 結局睡眠らしい睡眠はほとんど取れず、布団の中でごろごろと体を往復させているだけで朝を迎えてしまっていた。
 そうなてしまった理由には悔しいが十分な心当たりがあるし、だからこそなおのことそれを口に出して言うわけにはいかない。
 そんなことをすれば確実に終わりだ。
 何が終わりかというと、それはもう色んなものが大変なことになってしまうくらいに。
 そんな眠気に抗いながら課題を進める歩の向かいで、大体同じ理由で睡眠不足な美里が今日はやけに口数が少ないでいることなど、歩は気付くよしもなかった。

 そんなこんなではあるが、時間だけは緩やかに、しかし確実に流れていく。
「あれ、もうこんな時間か」
 歩がふと壁にかかった時計を見上げてみると、時刻はすでに三時を回っていた。
 眠気に負けないようにガラにもなく集中していた結果、自分でも思った以上に時間が過ぎてしまっていたらしい。
「日下部、そろそろ移動するか?」
「…………」
 歩は向かいに座る美里に声をかけてみたが、どういうわけか返事はない。
 やや俯いたままの姿勢で、ペンを握ったままの手はどこか頼りなくふらふらと宙を泳いでいるようにも見える。
「日下部?」
 もう一度名前を呼んでみるが、やはり返事はない。
 長い前髪に隠れてその表情こそ見えないが、歩はもしやと思った。
 それを裏付けるように、少し耳をすませばわずかだが小さな寝息が聞こえたような気がした。
「……寝ちまったのか」
 そう小声で呟いて嘆息する歩ではあったが、さてこれからどうしたものか。
 眠っているのを無理にたたき起こしてしまうのもどうかと思うが、かといってこのまま美里が起きるのを待っていてもいつになるか分からない。
 互いに寝不足だと言っていたわけだし、もしかしたらこのまま延々と眠り続けてしまう可能性もゼロではない。

 少し迷ったが、とりあえず歩は机の上に広がったノートやらテキストやらを鞄に戻し、資料などを本棚に戻すことにした。
 美里を起こすのは、そのあとでもいいだろう。
 が、資料をまとめ、席から立ち上がったまさにそのときのことだ。
 椅子を引き、立ち上がったその瞬間に机に膝をぶつけてしまう。
 その衝撃で、ただでさえ俯いていた美里の頭が重力に引かれるようにしてゆっくりと机に向かって崩れ落ちていった。
「ま……!?」
 まずいと思い、反射的に手を伸ばす歩。
 だが、わずかに届かない。
 直後にゴツンという、明らかに鈍い音が聞こえた。
 幸い図書室の中に他の人間はいなかったから騒ぎにはならなかったが、傍目から聞いても今の音は鈍かった。
 歩は意味もなく息を飲み込んだ。
 わずかな緊張が張り詰める。
 それに呼応するかのように、美里の体がゆっくりと起き上がる。
 その額に片手を添え、わずかに目をしかめながら。
「……痛い」
 寝起きの一言とは思えない言葉だったが、今の状況をまとめた実に簡潔な言葉だった。

 そしてどういうわけか、二人は今学校を離れて街中を歩いている。
「よかったのか?」
「ま、たまには息抜きも必要ってね」
 少し散歩がてらにどこかへ行かないかと言い出したのは美里だった。
 今日は比較的風が出ていて涼しいこともあったので、歩はその提案を受け入れた。
 平日の夕方ではあるが、世間一般には夏休みの真っ只中ということもあってか、街中には学生くらいの年頃の人が多く見受けられる。
 そんな中を制服姿で歩く二人は、もしかしたら景色の中では少しだけ浮いている存在なのかもしれない。
 さて、これといって何の目的もなしに歩き始めた二人だったのだが
「水片、どっか行きたいところとかある?」
「俺? いや、これといって特には……」
 言いながら周囲を見渡してみる。
 目に付くのはスポーツ用品店やファースドフードの看板、ゲーセンや本屋くらいのものだ。
 若い世代の人間が行く場所としてはそれっぽいが、これといってどの店に用があるというわけではない。
「……しいて言うなら、とりあえずどっかで座って休みたい。のども渇いたし」
「んじゃ、どっか適当な店に入る?」
 言いながら美里は目と鼻の先にあるファーストフード店を指差したが、そこは遠目からでも分かるくらいに店内が混雑していた。
「あれはちょっと、混みすぎだな……」
「んー……あ。じゃあ、あそこは?」
 続いて美里が示したのは、一つの喫茶店だった。
 そしてそこは、あの雨の日に二人が一緒に入った喫茶店と同じ名前の店だった。
 とりあえず近くまで歩いて、ガラス越しに店内の様子を伺う。
 見た感じ、特に混雑しているという様子ではなかったので、二人はその喫茶店に入ることにした。

 ドアベルを鳴らして店内に入り、奥のほうにある二人掛けの席に腰を下ろす。
 席に着いてすぐにウェイターの男性がやってきて、二人はそれぞれアイスコーヒーを注文した。
 ほどなくして品物が運ばれ、歩はその苦味のある液体をのどに流し込む。
「はー。生き返った」
「水分くらい、こまめに摂っておかないと。昨日の繰り返しになるよ?」
 昨日の今日で暑さにやられてぶっ倒れるというのは、それはそれで確かに情けない話ではある。
「まぁ、気をつける。ていうか、眠い……」
 軽く目元をこすりながら歩は欠伸をした。
「寝不足?」
「ん、ああ、ちょっとな……」
 その理由が今現在目の前にあるなどということは、やはり口が裂けても言えやしない。
「そういうお前だって、寝不足だったんだろ。いつの間に寝たのか、全然分からなかった」
「え? 嘘、私寝てたの?」
 飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになったのを、歩はかろうじて堪えた。
「おま……気付いてなかったのか!?」
「全然」
 きっぱりと美里は言い放つ。
「いや、まぁ、なんだ……いいですけどね、別に!」
「何でちょっとキレ気味なのよ?」
 歩は構わずにグラスの中の液体を飲み干し、早くも店員におかわりを要求し始める。

「ところでさ、話は変わるけど」
「ん、何?」
「課題の方、進んでる?」
「ああ、おかげさまでな。かつてないほど順調で、時々長い夢でも見てるんじゃないかって不安になるくらいに好調」
「そう。それならいいんだけど」
 言って、美里はどこか嬉しそうに笑う。
「それよりも……」
「何?」
「いや……ぶっちゃけさ、俺って本当に役に立ってんのか? 絵の課題だって、何もそれらしいことは教えられてない気がするんだけど……」
 歩としてはそれがどことなく後ろめたい。
 自信を持ってやれば少しは変わってくるのかもしれないが、そんなものはない。
 そもそも他人に何かを教えることなんて、生まれて初めてのことなのだから。
「そんなことないよ」
 しかし、美里はいつもと変わらない声でそう答える。
「うまく言葉にはできないけど、水片が言おうとしてることは何となく伝わってくる」
「いや、何となくじゃ、ダメじゃね……?」
「うん、まぁ……そうかもだけど」
「ダメじゃん! やっぱ俺、意味なくね!?」
「だから、そんなことないって。水片、もっと自分に自信持てばいいのに。もったいないよ」
「いやいや、無理。俺、そういうのとは無縁なところにいるから、マジ無理」
「そんなことないと思うんだけどなぁ」
 言いながら美里はグラスの中の液体を一口含む。

「ま、大丈夫だよ。まだ時間はあるし、さ」
「……まぁ、それもそうか。夏休みもまだ、半分も終わってないんだしな。時間だけならいくらでもあるな」
「…………」
「……日下部? どうか、したか?」
 わずかに黙った美里に対し、歩は声をかける。
「……あ、ごめん。そうそう、時間なんて、いくらでもあるんだからさ。何とでもなるって」
「……そう、だな」
 そのときそんなことを思ったのは、どうしてだろうか。
 かすかに俯いたその顔が。
 普段と違う、わずかに言い澱んだその言葉が。
 そして、何よりも……。
 どうしようもないくらいに悲しげな色をした微笑みが、頭に焼き付いて離れなくなってしまった。
「…………」
 歩はそれ以上、かける言葉を持ち合わせていなかった。
 からんと、グラスの中の氷が溶けて崩れる音がやけに耳の奥まで響いていた。
 歩にはそれが……世界の終わりのような音に聞こえて仕方なかった。

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