小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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【2】 答えられない課題 


秋も深くなると、大学生たる加奈江と政はいろいろと忙しくなる。何といったって最終学年なのだ、卒業論文は待ってくれない。

結婚して生活ががらりと変わったのはふたりの勝手。忙しくなったのもご同様。諸事情を理由に留年、あるいは退学という手もある。そうするとのんびりできそうだが、問題を先送りするだけで根本的解決とはならないのだから、今、がんばって学生の本分を全うした方がいいに決まってる。

今日は加奈江の論文指導で登校する日。政を急かして朝食をかき込み、ふたりは加奈江の運転で仲良く通勤と通学をし、同じ電車に乗り、途中駅でそれぞれの行き先に別れた。

必要な単位を取得した今、出席日数も足りている彼女は、卒論指導ぐらいしか学校へ出向く用がない。

加奈江の指導教官の名は武という。

学内でも異彩を放つ存在感のある名物教授で、柔らかい癖毛をぴっちりと櫛目を入れて撫でつけた頭髪に蝶ネクタイがトレードマークである。

同じクラスの学生と指導教官の話が出た時、誰が担当になるかで少し物議を醸した。

加奈江は、自分が出したテーマに対応してくれるなら、正直誰でも良かった。武と聞いても驚かなかった。

驚いたのは周りだった。

滅多に女子学生の指導をしない武先生が、何故?

替われるものなら替わって欲しい、いや、替わって下さい、譲って、と複数の男子学生に真面目な顔で詰め寄られたりもした。

「あっちも仕事だから、男も女も関係ないだろうさ」

まわりの反応に驚いた加奈江から話を聞かされた政は言った。しかし、と言葉を継ぐ。

「武先生は選り好みする、って聞いてる。優秀者ばっかりって言うよな。選ばれるだけでもハクが付くから、替わってもらいたがる奴らの気持ちもわかる」

政の父はふたりが通う大学の教授だ。彼にしてみれば顔なじみのおじさんたちがぞろぞろと教授となって並んでいるから、何かと収まりが悪いと言った。

「だって、小さいころを知られているんだ、何と言うか…イヤなものだぞ」

「武先生も?」

「親父の一番の親友。一番ニガテ」

苦虫を噛み潰したような顔をして、政は紫煙を吐いた。

その後、政はあーでもない、こーでもないとぶつくさ言う『まったく食えない武おじさん』談義は続いた。夫の、子供のような文句を思い出し、小さく吹き出しながら資料を抱えて指定された教室へ急ぐ途中、庶務課の前を通った彼女は足を止めた。

駅前のスーパーの安売りを告げるチラシが、加奈江を誘うように置かれていたからだ。
古新聞を束ねて捨てるために仮置きされていたのだろう、日付は今週中までとある。

「あのう、これ、もらっていいですか?」と、事務室から出て来た職員に、声をかけて一言断って、チラシの束から何枚かを抜き出す。

「チラシでいいんですか、新聞の方は……」

「ええ、いいんです、チラシで」

資料に使うのだろうか、と訝しげな目で見る事務員にかまわず、加奈江はチラシ片手に中身のチェックをする。

昨晩、学校へ行くと言ったら、久し振りに学校近くの肉屋のコロッケが食べたいと政は言った。

今は当時の面影のかけらもないぐらい大食漢ぶりを発揮しているけれど、高校生の頃は小食で、食べることにこだわりがなかった政が、唯一好きだと言っていたコロッケを、ふたりで学校から帰る時に加奈江もぱくついて帰った。彼女にとっても恋人時代の甘酸っぱい思い出のある味だ。

じゃがいもから作るコロッケは、自宅で手作りするとなると案外難しい。手間もかかる。一度チャレンジしてみたけれど、すぐにはプロの味は出せないと降参した。フライヤーの大きさや揚げ油の量も違う。戦う相手を間違っているのだ、敵うはずがない。政もコロッケだけは彼女にリクエストしなかった。今日のように用事で都内へ出る時の晩ご飯には、必ず政が大好きな肉屋のコロッケを買って帰って食卓を飾るのがお約束になっている。

楽しみにしている彼へのお土産のひとつがコロッケ。そしてチラシの中の特売品にも気になる品がいくつか目につく。

学校まで車で来れればいくらでも買い物をして買いだめもできるけれど、奥多摩からのドライブは、政も、加奈江と政の親族の誰もが許さない。

ガソリン代もかかるもの、特売でやりくりしても意味ないし。

持って歩けるものを許す限り買って帰ろう。

ぶつぶつ言いながらチラシ片手に物色する彼女は、教官との面談より特売品選定の重要度の方が高かった。

自分の番が回ってきているのにも気づかず、数回呼ばれて大慌てで入る室内には、先に待っていて加奈江の後に指導を受ける生徒が青い顔をしてこちこちに固まっている。
どうしたんだろう、下調べの進み具合が良くないのかな、と首を傾げて他の仲間を見て、彼らが目線だけで指す方を見て納得した。

今日、学生たちは論文の進捗状況と下書きの指導を受けることになっている。

なのに、教官である武と生徒を挟んで向かい合う形で並ぶ人たちは。

――副学長や他の学部の教授たちが複数。中堅以上、重鎮クラスの先生方の群れだった。

加奈江の前に指導を見てもらっている学生は、かわいそうに舞い上がりきっていた。

きっと何を言われたのかも覚えていないだろう、気の毒がる加奈江以下生徒たちの眼差しに見守られながら、彼への指導は終わった。

数分の休憩の後、何も考えずに加奈江が席に着いた時、手持ちの品を全部抱えて持ってきてしまったので、置いてくるつもりだったカバンごと、チラシもそのまま抱えていたので。

纏めてあった資料は卓上に置けたけれど、チラシ類はひらひらと、カバンからこぼれて床の上に散ってしまった。


ああーっ、チラシが!


すんでの所で出そうになった言葉は押さえられたけれど、慌てふためいてみてももう遅い。

赤字で刷られた『特売』の文字が躍る紙切れ数枚はインパクトがありすぎた。

難しい顔をして座っていた先生方の頬が一気に緩む。

あーあ、やってしまった。私ったら。

でも。今さらよね。

加奈江はここで慌てても仕方がないわと開き直り、「失礼しました」とぺこりと頭を下げ、悠然とチラシを拾って回った。その時、ひとりの教授と目が合ってしまう。

えええ!

今度ばかりはゆったりもできない、なぜなら、相手は、政の父で、義父になったばかりの尾上慎だったから。

お義父様に、特売チラシを見られてしまった!

後で何か言われなきゃいいけど、と、胸の鼓動を抑えて、加奈江は改めてぺこりと頭を下げた。

落ち着くまで待っていたらしい武は、いつものようにハキハキとにこやかに言う。

「水流添、加奈江君だね?」

指導を受け始めた頃は水流添だった。でも、今は違う。

「はい。尾上、加奈江です」と、姓をわざと大きく強調して加奈江は答えた。

本当はどちらでもいい。もうすぐ卒業するのだし。

でも、きちんと書類は提出してある。学生証の名前も変わっている。義父も目の前にいる。何故か旧姓で呼ばれるのはイヤだった。

「そうだった、ごめんね、水流添君」

ニカッと笑って武は返す。

――もう、わかってないじゃない。内心でムッとして、けれど表には出さず彼女は黙る。

武の返答は充分予想出来たものだ。

年若い教授は、少し小柄できびきび歩く。銀幕スターのような白い歯と涼しい顔立ちからキザだと言われつつも人気は高い。そして、出来る人物として評判も良い。

確かに切れ者なのかもしれない、けれど、彼女に言わせてみれば、くらげみたいにつかみどころのない、人を食ったようでイヤな人だ。

冗談なんだか本気なんだかわからないやりとりを何度も繰り返して脱力したことも多かった。

「指導中、ずっと水流添君と呼んできたから、僕も慣れていなくてね。ほら、そこにいる尾上先生とごっちゃになってわかんなくなるの。だから、旧姓のままで通させてもらうけれど他意はないから。いいかな?」

断る理由もない。

「はい」と一言、加奈江は返答する。

「ああ、そうだ、君には言ってなかったね、後から入ってきた生徒にも改めて説明するとね。
君たちの後ろにいる先生方は査定で僕の指導状況を見てるの。対象はあくまでも僕、君たちの成績には何ら影響は及ぼさないから、そこは安心して、普段通りにしていていいよ」

何だ、そうなんですか、で済むほど生徒心理は単純ではない。

後々、影響が出そうで出なさそうで、気もそぞろになる。

そりゃ、青くもなるわね……。

でも。ここまで来たら、さっさと終わらせてしまおう、恥ならさっきかいてしまった。

武ともごね合いをした。

長居は無用だわ。

彼女は気を取り直し、周りは気にせず、目の前の課題と武だけに集中した。

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