小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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「私……お伺いしたいことがあるんです」

「何だい」

「さっき武先生が仰ったことに同意なさるとおっしゃったことについてです」

「ああ、さっきのことか。私の本音は彼に近い所にある。与えられた者はより広く多くの者に与えなければならない。私の学生たちはひとりでも多く、持てる能力を世に還元してもらいたいと思っている。そうだね、放流した鮭が川に戻ってくるのを待つようにね。全ての稚魚が成魚になれるわけはないから、ほんの一握りでも良いから、と」

「私は……川を上る魚にはなれないんでしょうか」

「どうしてそう思う」

「お二方とも、結婚をゴールと考える風潮を良く思ってないように聞こえます。私は、政さんの役に立ちたくて、彼の支えになれる今をうれしいと思っています。人生の目的を世間に向けたことも、与えられる者の役割なども考えたこともなかった。嫁いで、家庭を守る生き方だけではダメなんでしょうか。私、今からでも職を探した方がいいんでしょうか。男の人は――外へ出る女を喜ばないと思っていました」

「あれこれ全てを纏めて一気に答えを出そうとすると無理が出るよ」

「はい――」

「一点だけに話を絞ろう。政は、君が家庭に入ることを望んでいると?」

「彼とはそのことで話し合ったことはありません。彼は……」

書くのを止めてはいけない。

口を開きかけた彼女の頭の中に、ぱん、と頭の中に飛び込む政の声。

彼は常々言っていた。書道を辞めるな、と。

加奈江は自問する。

私は趣味の範疇を超えないことにいつまでもしがみつくのは未練がましい、子供っぽいと思っていた。

ピアノやバレエを始めた友達も、プロになれないと見極めをつけた子たちは高校生になったのを契機に揃って辞めていたし、書道も私にとってはお稽古なのだから、いつまでも続けていられないと思っただけなのだけれど……。

私にできる、唯一の特技で好きな事を、他の人に広めると考えたこともなかった――

「何か気にかかることがあるのだね」

「――はい」

「言ってみなさい」

話を振り向けたはいいけれど、加奈江の表情の変化からなかなか次の一言が出せないと察した慎は、彼女の返答を待つことなく語りかける。

「私は良き家庭人ではないから、君に響くような言葉を伝えられるかどうかわからないが……」

前置きをして、慎は続けた。

「武君は大変リベラルな考え方をする人だ。思うだけではなく行動するし、裏心はない。普段から能力ある者が性別を超えて活躍する機会は等しく与えられて然るべきだと言っているね。人は、口にするだけならいくらでも綺麗事を言える。彼の良いところは、思うだけに留めない、公平な目と懐の深さと実行力があるところだ。けれど、武君が思うように世間は動かない。人には裏があるから」

「はい」

「私たちは立場上、理想と綺麗事をまことしやかに語る特技を持っている。一方的にまくし立てただけだから、君はまじめに受け止めすぎない方がいい。心の片隅に留めておいてくれるだけでいいよ。
実際問題、君が言うように女性が世間を動き回るには、男の目は厳しすぎるし、世間一般も認めるところまでは行っていない。求められる女の役割があるのも事実だ」

クスリと慎は笑った。

目尻に皺をたくさん刻んで、少しうつむき加減で笑む顔は、やはり夫を彷彿とさせる。

「あの……どうかされましたか?」

つい、加奈江は聞いていた。

「いや、あれが言っていた、君はとても早く決断できて行動に移せる逞しさがある、その強さに惹かれた、と」

「え?」

「でも」

「でも?」

「時に行き当たりばったりに思いつきで動くところがあるから、とても危なっかしくてかわいい、守ってやりたいと思った、と」

「そんなこと言ってたんですか? いつ?」

「君と結婚したいと最初に話された時だな、この部屋に、アポイントメントもなくいきなりやってきて」

「ええーっ?」

顔から火が出る思いがするとはこのことをさすのか、加奈江の声は上ずっている。

「まあ、冷やかすのはここまでにしておこうか、さっきの質問にはひとつだけ、アドバイスをしよう。君に他に望む道があるのなら、まずは政と話し合った方が良いだろうね。あれは、大層嫉妬深い奴ではあるけれど、話はわかるほうだと思う。甲斐甲斐しく世話を焼き、子供を産んでくれるだけのために君を選んだとは思えないのだよ。
だから、短絡的に、今すぐ求職を、とは考えないことだ。――私の言っていることはわかるね」

「わかる……とも言えないし、わからない、とも言えないです」

加奈江は視線を落とす。

「混乱してしまって……すみません」

「いや、いいんだよ。私も面白いことを言ったしね」

ぱん、と慎はノートを閉じて席を立った。彼女にも立つよう促す。「もう戻らないと」と言って。

「武君はね、奥方が男社会で揉まれて苦しんでいるのを間近で見ていたから、君が心配だったのだろうね。初めて担当する女子学生だから、彼にしては珍しく親心を出しているんだよ」

廊下を歩きながら慎は言う。

「奥様、大学に残れなかったと言ってました」

「そう。彼女は我々の同僚だった時期があったんだよ。優れた学者だったけれど、それだけでは昇進できない」

「何故なんです」

「男性は、自分の立場を危うくする者を徹底的に排除する。特に、女の下に置かれるなど許せない、という輩もいる。女だからという理由で、他の学者が取り立てられたり、家庭がある者を優先させるといいながら彼女に機会が与えられなかったり――。直接、間接的に「女はでしゃばるな」という者もいたな。残念な話だが、我々の世界は人格者ばかりが栄達できるとは限らない。今は当時よりましになっていると信じたいがね」

コツコツとふたりの足音が廊下に響く。

ちらりと隣を行く目を走らせ、義父の顔色がどうにも気になって加奈江は問い掛けた

「あの……」

「何だい」

「私が言っていいことなのか、迷うんですが……。お体の具合、良くないのではありませんか?」

「私が?」

慎は目をぱちくりとする。

「そんなに悪そうに見えるのかな」

「いえ……。いいえ、悪く見えます。顔色……、初めてお会いした時も思ってましたけど、そのころより悪くなっているように見えるんです。病院、行ってますか? 先生に診てもらった方が良くはないですか?」

瞬きもせず加奈江を見つめた慎は、破顔した。

「君がいれば、政は風邪ひとつひかずにすみそうだ」

「わ、私は、心配になって言っただけで……」

「いや、わかっているよ。ありがとう、気遣ってくれて。顔色はね、昔からなのだよ。以前、肺病を患っていたから、その影響もあるのだろうね。教職員は年に一回は必ず健康診断を受けなければならないの。すぐ近くに付属病院もあるから、忙しさや立地を理由に逃げることもできない」

笑いながら面白おかしく言う様子に、加奈江もつられて笑ってしまった。

「だからね、君は政のことだけ心配していなさい。私のことなら、大丈夫」

じゃ、と言ってつきあたりでふたりは右と左に分かれた。

加奈江は思う、舅は人間的に魅力的な人だ。彼なら……。道ならぬ間柄を何年も続けてふたつの家庭を渡り歩けるのかもしれない。眉をひそめられても仕方ないことを平然とやり過ごせている、不思議な人だ。

また機会があれば話を交わしたい、教えを乞いたい。

――あるわよね。

遠ざかる背に向かって、彼女は深々とお辞儀した。

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