【4】 黒い万年筆
尾上家では、風呂は、家長、つまり政が先に使う。
加奈江の実家では、男性の後に女性が入るのが普通だったので、どうにも一番風呂に馴染めない加奈江の希望からだった。
「順番は男が先とか関係ないだろう?」と政は言う。
「その通りだけど」と加奈江も言う。
けれど、理由は別のところにあった。
ふたりが暮らし始めてまだまだ日が浅かったある日の晩。
加奈江が先に風呂に入ったことがあった。のんびり湯船に浸かっていたら、政が風呂場の中に入ってきてしまった。
「いいか」とも「入るぞ」とも言わず、いきなりのことだった。
加奈江は、「きゃーっ!」と叫び、「いやーっ! 出てって!」と魂切るような声を上げた。
「いいじゃないか、夫婦なんだし」と政は彼女の声にひるむことなくずかずかと入り込む。
もちろん、場所柄ふたりは真っ裸だ。
「だって、見られたくないんだもの!!」
「そんな、何を今更。知らないところはないんだし」
「それがいやなの!」
いいから、いいから、と言って、下湯を軽く使っただけでじゃぼんと湯船に入られて、本当に参った。
じゃーっと盛大に湯が流れて落ちる。
「あーっ、お湯がもったいない!」と慌て、加奈江は口を尖らせるけれど、政は知らん顔だ。
「お前、家族風呂はしないの」政は言う。
「しません! 子供の時ならともかく、大人になってからは旅行で大浴場へ行かない限り!」
思い出した、修学旅行で女子が最も躊躇するのは風呂だった。前を手で隠しながら加奈江は言う。
「女は、裸見せるの、抵抗あるのよ、だから……」
「俺はないな」
「え?」
「親と風呂に入ったことなんか……物心ついた頃から記憶にない」
ちゃぽんと水音がこもった音をたてる。
「そうだな、夜もひとりで寝かされることが多かった。ひとつ布団にくるまって寝るなんて……。俺、したことあったのかな、冬場は冷えないように、あんかで温めてくれてたけど……。違うんだよな、子供が欲しいことって、多分、そんなことじゃない。肌で肌を温め合いたい、人の温もりが欲しいんだ」
政は手の平で自分の頭髪を掻き上げた。
「大きな子供なのね、あなたは」
加奈江は手を伸ばし、彼の手に重ね合わせるように髪の毛を梳く。なでられる指の感触をひとしずくも失いたくないというように、政は目蓋を閉じた。
「そうかもしれない」
「そうして目を閉じていると、アズキが喉鳴らしている時みたい」
「俺はネコか」
「そうね、ネコなんだわ。とっても大きな」
寒がりで温かさに飢えている、おじいさん猫と大きな子供。
ふたりで暮らすようになって、政は恋人時代以上に加奈江を求めるようになった。彼女が手に届くところにいつもいて、髪に触れ、手を握り、肩を抱いた。常に温もりを感じていたいというように。
「そして、甘えんぼさんなの」
政の触れ方には、やさしさの局地にあるあたたかさがあった。指先が紡ぐ感触にうっとりしながら身を預ける時、彼女は思う。私でよければ、いくらでも甘えさせてあげる、何でもかんでもというわけにはいかないけれど、あなたには安らいで欲しいから。
――でも!
風呂上がりで温まった身体を寝具に包んで休む時、加奈江は懇願した。
「やっぱり、お風呂はあなたが先に入って」
「何で」
「前触れなしに入って来られるのかと思うと、落ち着けないから。そのう……大丈夫な時ばかりとも限らないし」
あ、と政は言う。
はっきりと口には出さないけれど、彼女が言わんとするところは彼には伝わっているようだった。女には、月ごとに訪れるものがある、と。
記念すべき初夜で、ひっくり返った彼女を介抱したのは政だ。今も時々、気持ち悪くて横になる日も多く、「無理するな」と、彼女の腰をさすり、台所に立ち、家事を片付けることもある。政の理解力の高さは彼女にはありがたいばかりだ。
「そうだな、うん、気をつける」
「……ありがとう」
「でもさ」
「うん?」
「わからないから、いいんじゃないか」
「よくありませーん!!」
「湯船でくっつくのって、気持ちいいだろう?」
真顔で言う政へ、ぱくぱくと口を開けて閉じてを繰り返し、湯上がりとは違う赤みを頬に上らせて、加奈江は叫ぶ。
「そっちが目的なのね、やっぱりーっ!」
独身の時、あれだけストイックに距離をとっていた彼が、嘘のようだ。
「いいじゃん」と渋る政に、「よくない!」あらがう加奈江。加奈江の言い分が通るかどうかは……彼女次第だ。