◇ ◇ ◇
季節は秋も深まっていた。
蚊帳を張らなくなった寝室に入り、加奈江が床についたのは夜半を過ぎてのこと。
もらいものの万年筆と手持ちの万年筆、そして政の万年筆相手に書き比べをしていたら時間が瞬く間に過ぎていたからだ。
書くのは何であれ好きだ。一度取りかかると止めるのが難しいくらい。仕事でもらっている筆耕も、量次第だけれど楽しく書ける。
政が言うように、道具の大切さを噛みしめながら書いた。
手持ちのペンは論外。政のペンは問題外。もらい物のペンは、書き味は良いのにキャップが外れやすいのが嫌だった。一度キャップを外してみたけれど、本体だけだと短すぎるし、重さのバランスが崩れてとても書きにくくなった。
たかが一本のペン、重さもほんのわずかな違いなのに難しい。
政の言葉を借りるなら、合う合わないの問題ではなく、人より多く字を書いてきた者が持つ感覚なのでは、と思った。
私、字を書くことを、とても大切にしているんだ――
それにしても、義父は何故、高価で商売道具でもある万年筆を私にくれたのだろう。
政が言う以上に、女性向けではないこのペンを、私が扱えるわけがないことは気づいているように思えてならないのに。
うーん、と頭を捻りながら、加奈江は自分の布団に潜り込む。
「終わったか?」
暗がりから、政が声を掛けてきた。寝返りを打って彼女を見ているのが気配でわかる。
「ごめんなさい、起こした?」
「いいや、俺もついさっき電気落としたところだから」
うーんと伸びをし、彼女の方に手を伸ばす。
頬をさすり、髪を撫でるしぐさは、ふたりで床を並べる時には必ず政がすること。彼は彼女の髪に触れるのが好きで、彼女も彼に髪を梳かれるのが好きだった。
「カナ」
政は言う。
「なあに」
「お前、俺に隠していることがあるだろう」
どきりとした。
けど、あえて知らないふりをする。暗がりで顔が見えにくくて有り難いと思った。
だから、問い返す。
「どうしてそう思うの」
「だって、親父とあの武先生だろ。黙ってお前を送り出すはずがない」
「何もないって」
「ウソつけ」
さあ、言え、言うんだ、と政は何度も責める。
何もないと、逃げても許してくれそうもない。
政がやいやい言うのがおかしくて、加奈江は『人生の宿題』には触れず、「武先生にね、家族計画はきちんと立てておくんだよ、って言われたの」と茶目っ気を込めて言った。
彼女の髪を撫でる政の手が、ぴたりと止まる。
「それって、その……」
「あなたが考えている通りのこと」
あいつー、と政は呻く。
「まさか、親父も聞いちゃいないだろうな」
加奈江は困った顔をして沈黙した。
うわー、と政は布団の上で悶絶する。
「大きなお世話だ」
言う政の声は当惑を越えて照れている。
彼は健康な成人男子だし、加奈江も同様だ。
特に今は新婚まっただ中。
お互いを求めて抱き合う夜がない日はほとんどない。
そして、所謂家族計画と言う名の男の責任は、全て政に委ねられており、彼が用意していた。
「ね、政」
「うん?」
「武先生に言われたからじゃないんだけど……。でも、ふたりの間のことだから……。話しておいた方がいいと思うの。これから、どうするのか、とか」
「子供のことか?」
「う、うん」
あなたの子供が欲しい、は恋愛小説で使い古された、女が男を誘うベタなセリフだ。
彼にはもちろん言ったことはない。けれど。
あなたの子供を産みたいと、本当は思っているの、子供の頃から変わらずずっと。
「今すぐは……無理だろうな」
やっぱり。
「そうよね」
同意をしてはみたけれど、彼女の口調は少し固くなる。
「だって、卒業式の時に大きな腹して出席するわけにはいかないだろう?」
「そつぎょうしきい?」
加奈江の声は裏返ったものになる。
「あと半年ぐらいあるし……。それこそ卒論だ何だと落ち着かないのに。お前が大変だし。――それまで何もせず、ってのも、もうムリだし」
そして、布団の縁を上げて言った。「おいで」と。
とくん、と心臓が高鳴る瞬間、ふたりは全身が甘やかな熱に満たされる。
腕を伸ばし、引っ張られて彼の布団に入る。
加奈江が大好きな瞬間だ。
素肌で寄り添うのにはまだ慣れない身には、彼の腕に包まれると、もう政以外何も考えられなくなる。
けど、今日は伝えたいことがある。
「あの、ね」
胸の上でのの字を書く彼女の耳朶を食んで、政は次を促す。
「いつもあなたまかせで……いいのかな、って思ったの。だって男の人は……避妊具使うの、嫌がるって言うでしょ」
「どこでそんな話仕入れてきた?」
問い詰めるように言う、彼の声音は耳元で優しく彼女を詰る。
「しゅ……修学旅行でっ」
加奈江はつい口にしていた。
「本当かよ」
喉を鳴らして笑う声が淫靡に響く。寝間着の帯を解いてその下の素肌を這う指に彼女は震えた。
「で、でも、あなたばかりにお願いして悪いな、って本当に思っているの。だったら、私も、って。体温計るとか……」
「ピル飲むとか?」
「そう、その辺りのこと」
「俺は反対だな。避妊のためにカナが薬を飲むことなんて一切ない。身体に良くないんだろ? それに、ずっとってわけじゃないし。俺だって、子供は欲しいし」
頬が火照って、火が出そうだ。彼女は彼の首に抱き付き、耳元で言う。
「私も、あなたの赤ちゃんが欲しい」
「今はまだだけど」
「うん」
「近いうちに必ず」
「……うん」
腕の下に巻き込まれ、彼の重さと抱き留める腕の強さをその身に受ける時、あっさりと彼女の身体は開く。全身に汗が玉を結び、吐息を隠すことができない。乳首は吸ってくれと言わんばかりに赤く尖る。
彼の指が、吐息が、唇が、彼女を煽り、堪能しつくした頃、頭上でパキリと袋を破る音がすると、加奈江はいてもたってもいられなくなる。
彼が避妊具の用意をする、彼が入って来る前触れを告げているから。
早く来て欲しい、私の中に。
「つかさぁ……」
上ずった声で、ねだるように彼の名を囁く。
わかっている、と言うように短く笑う声が応える。
加奈江の声はクスクス笑いから、深く、細く引く嬌声へと変わっていった。
◇ ◇ ◇
初めての秋。
初めての暮れに正月、そして冬。
瞬く間に時は過ぎ、ふたりは卒業の時を迎えた。
彼は無難に背広の上下を。
加奈江は袴に鴇色の着物を合わせた。彼が選んだ反物で仕立てた着物を着たのは初めて。
「思った通りだ」
政は言う。
「お前に良く合う」
目を細める彼はうれしそうだった。
アズキはタンスの角で大きなあくびをひとつしていた。
小学生の頃から数えて4回目。
回数を重ねたから慣れるものでもなく、ふたり並んで席に着き、節目の儀式は感慨深くお互いの心に刻まれた。
特に加奈江にとっては思いもひとしおだった。
卒業証書には、水流添加奈江ではなく、尾上加奈江と記されていたから。
生家との距離を感じて少しさびしく、政と生きていく覚悟を刻まれているようにも思えた。
謝恩会で恩師の武にあいさつをした時、以前質された質問への答えを求められるのかと思ったが、武はニッコリと笑って「元気でね」と言ったきり。身構えていた彼女は拍子抜けした。
別れ際に、武はこう言った。
「君の舅さん繋がりでまたいくらでも会えるから。これからもよろしく」と。
側で聞いていた政はひとり苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
武から出された『宿題』は、その後の彼女の人生にしっかりと根付き、しぶとく問いを投げ掛け続けた。
あってないような結論を彼女が導き出せるまで、相当の年月がかかることになる。