【5】太陽を訪ねる
大阪へ到着した翌日にはもう、東京へ戻らなければならない。
夜半に自宅へ着ける時間に発つとなると大阪にいられる時間はほんのわずか。
けれど、ふたりが目覚めたのは朝は朝でも朝食を取るにはかなり遅い時間。
予定では朝早くにチェックアウトして、会場へ直行し、政が行きたかっていたアメリカ館で月の石を見ることになっていたのに。
「政、起きて!」
「……ん?」
「寝過ごしちゃったわ、大変!!」
「え!!」
弾かれるようにベッドからふたりして飛び起きても、とうてい開場直後に現地には着けそうにない。
あたふたと床上に打っちゃっておいた服を着て、パタパタと皺を伸ばし、政は寝癖だらけの髪を扱いかねてうめき、加奈江はろくに化粧する時間もなく。
早く、早く、とお互いにせき立て合って、這々の体で会場へ到着した。
当然のことながら、人気パビリオンは長蛇の列で。申し訳程度に立てられたプラカードの予想待ち時間は、帰りの新幹線に間に合いませんよ、とふたりに伝えていた。
「残念」
加奈江は肩を落とす。けれど。
「うん……いいよ、仕方ない」と政は言った。
「え?」
加奈江は彼を見上げる。
「いいの? あんなに見たがっていたのに」
「うん……、いい。こんな気がしていた。本気で願わないことは、絶対に手に入らない。願っても大半は取り逃がすのに、上から落ちてくるのを待つだけではダメなんだ」
遠い目をして彼方を見る政は見逃した月の石のことだけを言っているのではない。
何か、とても大切なことを言っている気がして、彼女は何も言えなかった。
彼女から伸ばした手を、政はぎゅっと握り、ふたりは手をつないだまま、広い会場で立ち尽くす。
彼の緊張感が手の平を通して伝わる。
時間にしてほんの数分。けれど、その時、彼女の耳には全ての音が消えていた。
往来を歩く人々の息吹も、場内で鳴らされているアナウンスや音楽も全て届かない。
感じるのは政の息づかいだけ。
待つ。
彼の言葉を待つ。
ほう、と政は息を吐き、力を抜いた。
握ったままの彼女の手の甲をぽんぽんと二度叩いて、言った。
「俺、行きたいところがあるんだ」
「うん」
「いいかな。カナが他に回りたいところがあったら――」
「行きましょう」
彼女は間髪を入れず言う。
「私を、連れて行って」
「――うん」
政は応える。
「ありがとう」と。
手をつないだまま連れられて行った先は、昨日入ったテーマ館の入り口前。
「もう一度、見たい」
いいか、と傍らの妻に問う。
昨夜、彼女を蹂躙した政の目の輝きの記憶は今もって鮮明だ。熱に浮かされたように女の身体をほしいままに貪った。
手ひどく扱われたのに、加奈江は快感に悦びの声を上げた――
また、昨夜と同じことになる?
一瞬、彼女は身構える。
けれど。
身を縮こまらせて怯えていた夫の姿も見ているのだ、叱責を恐れて後悔する姿を。
大丈夫、何度も同じ失敗をする人じゃないもの。
彼女は彼の手の甲を二度、ぽすぽすと叩いて、言った。
「行きましょう」と。
◇ ◇ ◇
午前の光の中から暗闇に包まれ、再び太古の世界に入った彼らは、ミクロの細胞に戻り、深化を追体験する。
地の底から湧いてくるような、男声、女声の詠唱は太陽の塔中心にある生命の着に向かって伸びていく――
昨夜は呪縛のように響いた声が、そうは聞こえず、ただ天に向かって伸び続けていく。
最上部を建物の壁で遮られていて、天上へ抜けられないもどかしさにのたうち回っているようだった。
天空の回廊でもあるお祭り広場の大屋根を廻り、透明な建材を透かして見える場内や地上の高さの見晴らしの良さに加奈江はため息をつき、政はため息をついて足を止めた。
足がぴたりと動かない彼を見やると、心なしか青ざめている。
「どうしたの?」
「い、いや。……うん、ちょっと」
彼の表情はひたすら固い。
あら。もしかして。
加奈江はしらっと流すように問う。
「……高い所、苦手?」
「いや、そんなこと!」
ピンポン反射で返す政の声は、完全にひっくり返っていた。
「うん……。ある。かなり苦手だ……」
顔を強張らせて彼は言う。
「昨日は気づかなかったよ、すごく高い所まで上っていたんだな」
「夜だったものね、感覚が掴めなかったのね」
「ああ、そうかもしれない」
「……下りは、吹きっさらしのエスカレーターよ」
さらっと彼女が口にした言葉は、追い打ちとなって彼を襲う。政は更に青ざめた。
「大丈夫?」
う、と彼は言葉につまった。
「頼めば、エレベーターをお願いできるかも。聞いてみましょうか」
「いや、いい……エスカレーターで」
小声で答えた彼は、つぶやくように言った。
「手、握っててくれるか。――下に着くまで」
ここで笑ってはいけない。
本当は吹き出したいところ、いつもなら笑い声に乗せて冷やかしたいところだけれど、彼の様子を見ていると、できない雰囲気だ。
心底怖がっている人をからかっちゃいけないものね。
「ええ、まかせて。私を信じて」
大屋根からお祭り広場へ下るエスカレーターに乗っている最中、彼の手の平にはじっとりと冷たい汗がにじみ、手の指は冷え切って、ずっと目をつぶっていた。
二階建ての建物くらいまでの高さまで来た時、彼女は声をかけた。
「もう、開けてもいいわ」
「本当か?」
「私を信じて。ほら、足元気をつけないと。もう着くから」
「うん」
政が目を開けた時、エスカレーターは地上近くで段が折り畳まれつつあった。
安堵のため息はとても大きく、緊張の糸が切れた肩もがっくりと落ちたので、今度は堪えきれず、加奈江は笑った。
「もしかして、ジェットコースター、苦手でしょう」
ふたりは一般の恋人たちが回る遊園地のようなデートスポットへ行ったことがなかった。俺たち学生だろう? とか何とか言ってうまくはぐらかされたけれど、ホントの理由は、もしかしたら……?
「ジェットコースターが恐かったから、高い所もダメになったんだ」
頭を振り振り、政は言う。
「それはいつの話なの?」
「子供の頃。小学校の低学年だったかな、背伸びしたい時期ってあるだろう? 速いのや強いのに単純にあこがれて、ひとつ大人になれそうな勘違いをおこしたんだな。親父にせがんで、頼んで、やっと乗れたのに……。恐くて泣いたことしか覚えてない。まさか、お前、ジェットコースターが……」
「ええ、大好き」
あんぐりと口を開けて妻を見る彼は、自分が今どれほどおかしな顔をしているのか、気づく余裕はない。
「恐くないのか?」
「スリル満点だからいいのよ、だって、気持ちいいじゃない? 爽快だし」
「ええー……」
苦虫を噛み潰したように政はうめいた。
ひとつ、夫に勝てるものを見つけて、加奈江は内心でほくそ笑んだ。何かあった時に使えるカードがひとつ増えたわ、と。
「これからどうする? 新幹線の時間まで、まだ少しあるけど」
「ぶらぶらとそこいらを散歩でよくないか?」
「ねえ、エキスポランドで、ジェットコースターに乗りたい、と言ったら?」
エキスポランドとは会場内に併設された遊園施設のことである。目玉は5台並んで頂上から同時に滑り降り、それぞれ別のルートを走行するダイダラザウルスという名称のジェットコースターだった。
「許して下さい、お願いします」
弱り切って眉をハの字にしている政は諸手を挙げて降参した。
ここが潮時。引き際が肝心。
加奈江は答えた、「冗談よ」と。
「ありがとう!」
政はぺこぺこと頭を下げ、そしてふたりは笑いの発作に囚われたように笑った。
政は両手を伸ばして彼女を抱き上げた。
「ちょ、ちょっと政、公衆の面前で! 皆が見るわ」
「いい、かまうもんか」
彼女ごとくるくると回って。政は視線を上に向けた。
その先には、ついさっきまで中にいた、大屋根と太陽の塔があった。
「不思議だな」ぽつりと政は言う。
「昨日と今日では、印象がまるで違う。一度見た後だからかもしれないが……」
「どう違う?」
「心をわしづかみにされて振り回されたような、情動が何なのか知りたかったんだけど、もう感じ取れない。あれは何だったんだろう……」
「一度読んだ小説は筋がわかっているから感動も薄れるでしょ、それに似てるんじゃないかしら」
「ああ、そうなのかなあ……」
一度、息を吐いて、彼は続けた。
「でも、何度も読みこなして浸りたい作品もあるだろう、見て飽きない、時を忘れさせるフレーズや音楽や絵。――書もそうだ。昨日、我を失うくらい感情を持っていかれたから、もう一度、あの感覚を体験したかったのに。残念だなあ」
「政……」
ふたりで同じものを見ていても、感じ方はまるで違う。
一から全てを知りたいと思う彼と、その場の印象だけで後に残らない私。
でも。いくら好き合っていても、全てを分かち合えるわけではないから面白い。飽きない。まだまだ知りたいと思うのだ、彼を。
「だって、夜だったし。今は真っ昼間。光が変わると見えるものも変わってくるわ。時が見せる魔物だったのかもしれないわね」
「朝と夜では違う顔か」
「そうね、太陽の塔には顔が三つもあるでしょ。頭とお腹と背中。それぞれ違う顔があるもの」
彼女は彼の肩を軽く叩いて下ろすように促した。
「きのうは岡本太郎に、当てられたんだわ」
「いや」
政は言い募ろうとしたけれど、首を傾げてぽつりと言った。
「そうかもな」
うん、とうなずく。
「嫌っていた世界に引き込まれて夢中になった自分が許せなかった。けれど――食わず嫌いは損する、俺も考えを改めるように努めるよ」
「じゃ、好きになれそう?」
「いや、すぐにはムリだな」
「それでいいの」
加奈江は彼に身をすり寄らせた。
「無理に受け入れないで。でも、拒まないで。政が政のままでいられるのが一番なんだから」
「うん」
彼女の頭に顔を寄せ、政は大きく息を継ぐ。
「俺――隣にいるのがカナで本当によかった」
私もよ。
吹き渡る風に乗せて、加奈江は彼の唇に口づけた。
私の存在が少しでもあなたの役に立てるのなら。
それが私の変わらない望みなんだから、と。
◇ ◇ ◇
ふたりは、結局、入ったパビリオンはひとつだけ、しかも二度も見ただけで会場を後にした。
会場は会期が終わると建物の大半を取り壊す。
もう二度と、ミニチュア模型のような、飴細工のような、雑多で猥雑で熱気溢れる場所を訪れることはできない。
会場を後にする時、エントランスにあたるおまつり広場の通路を抜けた。頭上には空が透けて見える建材を戴いた大屋根、そして視線を地上に向けると、様々な地域に住まう人たちの顔、顔、顔。
写真パネルをフィルムのように連ねてリボンがうねるように並ぶ世界各国の無名の人たちを見ながら、何ともきれいで、常世のようではなくて、真新しいのにどこかさびしい、もの悲しい思いを抱え、ふたりは新幹線の人となった。
生ぬるいプラスチック容器の緑茶と、冷凍みかんの皮にまとわりつく水の滴。かさついたごはんの駅弁を食べて。
眠気に襲われて肩を寄せ合うふたりがうとうと微睡む内に新幹線は浜松を過ぎ、富士山を通過して東京駅に到着する。そこから自宅はさらに遠く、着いた頃には陽はとっぷりと暮れていた。
ああ、もう、疲れた! とふたりは今に大の字になって寝転がった。
こんなこともあろうかと、出掛けに敷いておいた布団がふたりを招く。
今すぐ横になって眠りたい。でも。
「アズキにごはんあげなくちゃ」
加奈江はよっこいしょと身を起こす。
「土産のチェックしないと」
政もならう。
「お留守番してくれたお詫びに、大好きな煮干しでも出しましょうか」
言って立ち上がりかけた加奈江の腰を、背後から伸びた手が横抱きにする。
かえるがぺしゃんこになるような声を上げて、加奈江は顔から畳に突進した。
「もう、また!」
鼻を押さえて加奈江は文句を垂れた。
「顔が平べったくなる!」
「ならない。なってもカナは充分可愛いから平気」
後ろから、彼女の耳元に顔を埋めて政は言う。
「もう少し、このままで」
「……政?」
「帰ってきたなあ」
ほう、と大きく息を継ぐ。
「カナとアズキがいる、ここが俺の家なんだなあ」
あたりまえじゃありませんか、と口にしかけて、加奈江は一拍待ち、「うん」と応える。
「お帰りなさい、政」
「お帰り、カナ」
彼女の薫りを嗅いで、政は手触りと愛しんで加奈江を抱きしめた。
次を待ち侘びるような、熱い吐息を交わすようなものではない触れ合い。
温かく包み込まれる慕わしさは。
ああ、彼だ。いつもの政だ。
昨夜のような、熱に浮かされた荒々しさは微塵もない、加奈江が良く知っている、懐の広くて温かい。
「大好き」
加奈江はつぶやいた。
「どんなあなたもみんな好き。温かく抱いてくれるあなたが一番好き。今みたいにね」
「うん」
遠くで柱時計がちくたくと時を刻み、もっと遠くでアズキがあくびする声が聞こえる。
お留守番したんだよ、ごほうびの煮干しはまだ? と言っているようだった。