【2】対立
小さい生き物は、歳を取るのは早く、弱るのも早い。
病院へ連れて行って元気を取り戻したかに見えたけれど、一旦悪い方へ傾いた体調はすぐに戻ってしまう。あっという間にアズキはすっかりやせ細ってしまった。
理由は簡単だった。
食べないからだ。
えさ入れに残るエサの量が日増しに増えていく。
動かないのだから食べるわけもない、と思うようにしたけれど……。
元々、食欲にはムラがあり、食べたり食べなかったりするアズキを、食が細かった誰かさんみたいね、と以前なら軽口を叩けたけれど、今はその雰囲気ではない政のことも気がかりで、家の中は重い空気が垂れ込めていた。
こんな時は。
手を動かそう。
加奈江はちくちくと針を動かし、筆やペンを取って仕事を片付けた。幸い、内職の仕事は途切れることなくもらえていたから。暇を持て余す暇はなかった。
会話が少しずつ少なくなり、毎日の送り迎えの車中でも黙られることが続いて、ふたりの間に澱のようなものが溜まっていく。
ある昼下がりのことだ。
えさ入れに一口も口をつけた形跡がないのに気づいた加奈江は、今日、アズキの姿を見たかしら、と気になった。
昨日は……縁側にいたのは覚えている。
晩ご飯を食べた時は、どうだっただろう。
「アズキ、どこへ行ったのかしら」
口にしてみた。
もちろん、同じ部屋にいる政に問うためだ。些細なことでも話すきっかけを作りたかったし、彼も心配していると思ったからなのだが……。
「俺が知るわけないだろう」
冷たく、返す彼がいた。
えっ?
加奈江は目を瞬かせる。
彼が、投げやりな言い方をするのは初めてに近かったから。
いつも、不器用だけれど、心を込めて人と接する政。一方的にボールを投げつけて終わらせるような会話をするタイプではないから、聞き流せなかった。
「そりゃそうでしょうけど」
答える加奈江の声も硬いものになる。
「昨日はあなた、昼間は家にいたから、様子とか見てるのかと思ったの」
「カナは出来た嫁だから、昼間も忙しく働いているもんな」
カチンときた。
何なの、その言い方。
言葉に出しそうになって、口をつぐむ。
昨日は、いつものように筆耕の納品と和裁の受注をした。今回は筆耕は頼まれなかったけど、浴衣の注文が多くてたくさんの反物を持って帰っていた。帰宅してすぐも寸法通りに反物を裁つのに忙しくて、夜、寝るのは遅かった。
彼は――寝付いているようだったから、声はかけずにおいたのだけれど。
最近、会話らしい会話をしていただろうか?
加奈江は内職が、政は練習があって、お互いのやることばかり優先させていたのは確かだけれど。
彼に当てこすりをされるいわれはない。
「何があったの」
何も考えず、出た言葉を口にする。
「気に障ることをしたのなら、言ってほしい……」
「お前は優秀な学士様だと言いたいだけだ」
ふたりとも同じ大学を卒業している。
学士というなら政も同様で、最終的な学業成績は政の方が少しばかり上だったのだ。ただ、女子学生の人数は少なく、その中で加奈江は上位にいたので、目立ったのは確かだった。
でも――
成績や順位を気にするような人ではなかったのに。
「何が言いたいの」
ことりと、手に持ったえさ入れを机の上に置く。
やけに音が大きく響いた。
「言った通りのことだよ」
「学士様というなら、あなたもでしょう? つまらないこと言わないで」
「そうか、つまらないことか? 女子学生ではトップ、他の先生の覚えもめでたく、武先生なんかずいぶんとかっていたそうじゃないか」
武先生?
加奈江の卒論の指導教官は、舅の友人でもあり、彼も幼い頃からの旧知の間柄。
けれど……
「どうしてここで武先生の名前が出てくるのよ」
「何、とか、何故、とか、どうして、しか言わないんだな」
「だって、唐突なんだもの。何故と聞くのは当たり前のことでしょう?」
「お前は類い希な人材になれる可能性があったのに、家庭に入った。大きな損失だとまわりを嘆かせたそうじゃないか」
「……誰が言ったの? そんなこと」
すうっと冷めた声に、自分でも驚く。
「誰でもいいだろう」
「武先生? いいえ、苦手だと言ってるあなたが会うわけないわ、じゃ、お義父様?」
ぴくりと彼は肩を震わせた。
「そうなのね」
「――違う」
「私、あなたが何を言ってるかわからないわ、損失? 何のこと、何に対してなの」
「お前には多くの可能性があったのに、その芽を俺が摘んだのは確かだろう。確かに、家庭の主婦で収まるのは勿体ないと俺も思うさ。女だてらに、とはお前なら誰にも言わせないだけの能力を社会に出たら発揮できていただろうと……俺だって思うさ。俺が、お前を家の中に閉じ込めたんだ」
「そんなことない」
「持てる者は、無意識の内に手放せてしまえるのさ、どれ程貴重なものであっても、得がたいものでも。望んで手に入らない才能も――」
「才能ですって」
おかしくなって、加奈江はつい笑ってしまった。
まるで鼻で笑うように。
政の表情が、さらに険しくなった。
「お前にはわかるはずないよな、持てる者なんだから」
「いい加減にして」
激高しそうになって、加奈江ははっと思い立った。
彼女の文字を真似た彼。
事ある度に書道を辞めるなと言った彼。
全く的外れなことをして、せっかくの技を荒らしてしまう、と思っていたけれど。
好きだと言ってくれる言葉に浮かれて、裏の意味に気付けなかった。
彼はとても嫉妬深い人だというのに。
額面通りにとってはいけないけれど、負の感情を創作の原動力に出来る内は良い、でも、ただうらやむだけでは。
的外れな嫉妬は、身を滅ぼすのだ。
なんて小さいことに気を取られているの!
政のバカ!
「そうかもね。私、優秀なんでしょうね。だって武先生ご推薦なんだもの。くやしいの? たかが女に負けて」
わざと煽る言葉を連ねた。
このまま言われ放題だと、彼は間違いなく爆発する。
ばん、と音立てて持っていた本を机上に投げた音にびくりとなって、でも怯まず彼女は言う。
「怒った? 図星だったから? じゃ、どうするの? また私を犯す? 万博の時みたいに。そしたら満足する?」
「お前……」
「すればいいじゃないの。一度も二度も同じだもの。勝手に私に嫉妬して。勝手に自滅するといいんだわ」
言葉を飾る余裕はなかった。
ふたりは真正面からお互いを睨みつけた。
初めてだ。
この人が、こんなに恐くて、憎らしく見えたのは。
私、何を見ていたんだろう、いや、気付けなかったんだろう。
いつもうんざりしてたじゃないの、事あるごとに干渉してきていきなり持ち上げられることの繰り返しに。
そんなことない、と言い続けることに。
――もう、イヤ!
先に目を逸らしたのは加奈江の方だった。
ふと、手元のえさ入れが目に入る。
こんなに心配してるのに。
いないなんて。アズキ!
もう、勝手にすればいいんだわ、誰もかれも!
えさ入れをわしづかみにしたまま、洗い桶にぞんざいにぶち込んで。
加奈江は彼女にしては足音荒く室内を横切り、昨日裁ったばかりの反物と針道具をくるくると纏めて風呂敷に包んだ。
少しばかりの現金が入ったがま口をカバンに入れて、家を飛び出した。
政がどんな顔をしていたのか。見てもいなかった。
ただ、家にいたくない。それだけの思いで、駅のホームに立つ。
手には実家の最寄り駅までの片道切符が握られていた。