【3】ここに居場所はない
「お母さん、ここがわからなくて」
理由をつけて反物を持ち込んだ加奈江は、高輪の実家にいた。
まあ、何を今更? という顔をしつつ、無心に聞いてくる末娘に、初めて教えるように言う。
加奈江は伺うようにこちらを見る姉とは目を合わせず、忙しそうに手を動かすが、そんな時ほど時間が経つのは早い。
「そろそろ出ないと、夜遅くなるんじゃない?」
姉が声をかけた頃には、夕方にはまだ早い時間。姪は昼寝をしていた。
「ごはんの仕度もあるでしょう」
「うん……」
加奈江は歯切れ悪く手元に目を落とす。
「お買い物は済ませてるの? 何か持って帰る?」
「姉さん」
「ネコちゃんがいたわよね、煮干し、分けましょうかね、お出汁にも使えるし」
「あのね」
「何」
「今日、泊まっていってもいいかな」
やっぱり、という顔で、道代は妹を見る。
大きな瞳の姉が、目を見開くと、少しつり目になって、恐い。
「何で」
「あ、うん、いや、その」
「どうして」
「だめ?」
「だめじゃないでしょ、理由ぐらい言ったらどう。旦那、家にいないの?」
「いる、けど」
「じゃ、帰んなさい」
「帰りたくないの」
「あなたの家は、奥多摩でしょ」
「そうなんだけど」
「ケンカしたの」
二の句が継げず、加奈江は一瞬、返答に詰まる。
「まーあ、ケンカしたのね」
「姉さん」
「子供じゃあるまいし、仲違いしたぐらいで実家へ逃げ帰るなんて。情けなくないの」
「そんなことないけど」
「甘ったれた声、出さないで」
娘たちの応酬を、間に挟まってテニスの試合を観戦する観客のように見守る母。
「道代、あまり言い過ぎないで、たまにはいいでしょ、息抜きぐらいしても――」
「母さんは黙ってて」
道代はぴしゃりと返した。
「あなたね、結婚をどう思ってるの。ごはん作って、家事だけしてればいいってもんじゃないでしょ。それとも何? 貧乏暮らしにイヤ気さした? 最初からわかっていたことでしょ、生活能力ゼロなのに所帯持ちたいって我を張ったのはあなたでしょ」
「私じゃないわ! 彼が……」
「人のせいにしないで。夫婦なんだから、一蓮托生よ」
「私は……」
「無理させてたんじゃないの? 旦那におんぶに抱っこで。あなた、しっかりしているようで甘えただから、相手の本音に気づいてなかったんじゃないの?」
「何も知らないくせして、知ったようなこと言わないで」
「分かんないわよ、だってあんたたちふたりの問題じゃないの。ふたりで解決しなさいよ」
「それができないから帰ってきたんじゃない」
「帰る場所が違うでしょ。一度ここから嫁いだんだから。二度と帰ってくるなって言ったでしょ」
「聞いてない!」
「じゃ、今言ったから。帰ってこないで」
「姉さん」
「私は水流添家の家長よ。私の言うことは絶対ですから! そうよね、母さん」
「お母さんーっ!」
娘ふたりに詰め寄られ、母はのほほんと返した。
「そうね、道代の言う通りだけど。今日の所はいいんじゃない?」
「もう、母さんは加奈江に甘いから!」
「ま、お互い頭を冷やした方がいいこともあるわよ、今日は許してあげましょう」
「もう……」
道代は大きくため息をつく。
「こんなことなら、あっちの家族と同居すればよかったのよ。こんなおままごとみたいなケンカするゆとりはないんだから!」
おままごとじゃないもの。
加奈江は顔を伏せる。
奥からぱたぱたと、小さい子供の足音が近づいてくる。
「ほら、秋良も起きたことだし。少しお茶して。ごはんの仕度をしましょう」
さあ、ここまで、と母は遅まきながらタオルを投げたのだった。
◇ ◇ ◇
実家へ泊まるのなら、家へ連絡なさい! と姉に一喝され、電話の前で行ったり来たりをすることしばし。たっぷり十分以上は迷っただろうか。
奥から、「夕ご飯作るの、手伝ってちょうだい!」と声をかけられて、弾かれたように自宅の電話番号を回した。
五回、六回。
コール音は続く。
十回を数えた頃に相手は出た。住人は政以外いないから、いちいち誰何せずに用件だけ短く、「今日は実家に泊まります」とだけ言った。
「わかった」とだけ返ってきて、すぐに電話は切れた。
ぶつりと切れる音は心をざわめかせるのに充分だ。
アズキ。
そうだ、アズキは。
ごはん、あげて、と頼んでない。
すぐに電話をかけ直す。
二回待たずに政は出た。
「アズキの……」
「やっておく」
ぶつり。あっという間に電話は切れた。
やっておくから、心配するな。
いつもならそう言ってくれていた。
期待していたの?
何を望んでいたの、私。
行ってきますも言わないで飛び出したのに。
さっき言い合いをしたところなのよ。
ツーツーと無機質な発信音は、政との通話が終わったことを告げていた。
「加奈江!」
姉が呼ぶ声がする。
加奈江は言われるままに台所に立ち、心ここにあらずで菜箸を動かし、家人があっと驚くような見事な味付けのおかずを作った。
こんなはずでは、と一口、口にした加奈江も呆れるくらい不味いシロモノだった。秋良ははっきり、「まずーい」と顔をしかめる。
ことりと箸を置いて、道代は言った。
「政君って、ゲテモノ好きなの?」
「失礼しちゃう!」
加奈江はムキになって失敗作を全部胃袋に収め、ひとり胸焼けを起こしていた。