小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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【4】別れ


最寄り駅から自宅まで、バスを使う便は良くない。

バスの本数は少ないし、停留所からかなり歩く。

毎週、帰宅が遅くなる日、彼は同じルートを辿って家へ戻る。

何日も、何週間も、何ヶ月も。

暑い日も、風が強い日も、雨の日も……。

車で迎えに行くと言っても夜道は危ないからの一言で収められた。俺なら大丈夫だと言って。

加奈江は姉が言ったひとことが頭から離れなかった。

政の実家での同居を考えた方がいいと。

これは結婚が決まった時から何度も話題になっていたことで、彼は特に長男なのだから、余計、義両親と暮らすのは当たり前のことでしょう? と姉も母も父も言った。

世の若夫婦は皆していることだし、彼は長子で長男。自立していないふたりには至極当然のことだし、加奈江もいずれは……と思っていた。

彼の実家は山の手は青山にある。

駅からは少し遠く、奥まった住宅街にあったけれど、交通の便は今と比べるべくもない。

日々の通勤は少しずつ彼を無駄に疲れさせているのかもしれない。

政がふたりで暮らす為だけに、ここでの生活を考え出したのだとしたら。

彼をいらつかせたのは、私のせい?

私の為に、大切な時間を奪っていたの?

でも、昨日のような言い合いをする理由は私にはない。

彼にも――ないの?

わからない。

砂利を踏みしめながら、玄関を見ると、車がなかった。

今日は朝から出る日だったかしら……。

車の運転はしないで、って言ってるのに。

――私がいないのにそれは無理な話。

彼の行動の自由も奪っているのは……やっぱり私なの?

のろのろと引き戸を開け、ひんやりとした屋内に入った。

人気のない家はさびしい。

ここでひとり、夜を過ごすのは、どんな気持ちがするんだろう。

タタキから上がり框に足をかけて向かった台所の片隅には、アズキのえさ入れと水入れがあった。

エサは表面が乾いてカサカサしていた。

きちんと用意してくれていたものに、口をつけた形跡はない。

食べて、ない?

カバンに入っている、煮干しが入った袋がカサカサと音を立てる。自分が震えていたからだ。

エサが減ってないのは何日目?

不安が不安を呼ぶ。

「アズキ?」

声に出して名を呼ぶ。

「アズキ」

はじめは小さく、次は大きく、そしてその次は。

「アズキ!」

大声で加奈江は家中を探し回った。

猫がいつもいるところ、見かけたところ、入りそうにないところも全部。

失せ物が出てこないと不安でたまらなくなる。けれど、今はそんなちっぽけな思いではなく、喪失感が彼女を襲う。

「どこなの、アズキ!」

年寄り猫だから、タヌキやキツネが心配だ、と政は言っていた。

あいつらは雑食だから、襲われたらあっさり食べられてしまうだろうから、と。

聞かされた当時はハナから相手にしていなかったけれど、不吉な予感は確信になる。

そんなの、イヤ!

「屋根裏は……そうだ、床下は!」

口に出して言って、そうだ、見てないところがまだあったわ、と手に持った荷物を抱えて裸足のまま、で庭先へ飛び出した。

高い床の下は、奥まで見渡せる。

建材の余りや普段使われない物を一時的に置く物置代わりにしていたので、障害物も多く、一時、アズキはここをねぐらにしていたようだったから。

おねがい、ここにいて!

真っ暗な中を少し身を乗り出して見て、懐中電灯を持ってこようかと思った時。

何かが光っているような気がした。

目をこらして見た先にあるものは、一組の双眸。

「……いた」

それは小動物の瞳。アズキだった。

ほう、と大きくため息をつく。

よかった、見つかった。

「そこにいたの、心配したのよ」

手に持って出たバッグから、煮干しを二本三本取り出す。

「ほら、大好きな煮干し。たくさんあるから出ておいで」

尻尾を持って左右に振ると、いつもなら鳴いて飛んでくる。

けれど、アズキは動かない。

「あ、スネてるのね。昨日大げんかして私が出て行っちゃったから。ごめん、もうそんなことしないから、機嫌直して出てきて」

届くようにと煮干しを腹ばいになって投げる。

そのうちのひとつが、こつんと額に当たったのに。

アズキは動かなかった。

みぞおちに冷たいものが流れる。

手が、かたかたと震えた。

「アズキ?」

呼ぶ。

「アズキ!」

もう一度。

指が震えて、煮干しを投げることができない。

見開いた瞳は、何も映していなかった。

「そんな……」

じゃり、と土を掻く、爪の間に砂が入って。

手をめいっぱい伸ばしても、奥に横たわる猫には届かない。

アズキは静かに絶命していた。

「いやだ、アズキ、いやーっ!」

加奈江は叫ぶ、そして号泣した。

「加奈江!」

はっとなって振り返ると、そこには血相を変えた政がいた。

手には買い物袋を持って、慌てて出てきたのがわかった。車のドアを開けたまま、エンジンも止めていなかったから。

「どうした」

「アズキが……」

「え、見つかったのか?」

「死んじゃった」

「えっ」

政の手から、袋がばさりと落ちた。

加奈江が伸ばす手の方を見て、政も顔を引き締める。

「死んじゃったーっ!! ひとりで、死なせちゃったよう!!」

言葉にならない声を上げて、地面に突っ伏し叫ぶ加奈江の横に、同じように並んで、政は彼女の肩を抱いた、がむしゃらになって、夢中で。

泣くな、と言ってあやす声も涙声になっている。

彼も泣いていた。

視界の片隅に、彼が持っていた袋が入る。

ぱっくりと口を開けた中には、アズキが好きだった煮干しがたくさん入っていた。

ごうごうと、車のエンジンは不満げに音を立てていた。


◇ ◇ ◇


床下は大人が出入りするには低すぎた。

政はもちろん、加奈江でも匍匐前進してやっと入れるかどうかだった。

「あのままにしておけない」と加奈江は再び泣き、「大丈夫だから、何とかするから」と政は言う。

「手伝ってくれるか」

「うん」

べそをかきつつ、加奈江は大きくうなずいた。

一番大きな家具が少ない居間で、ふたりは大急ぎで物を動かし、畳を片付け、政は床板をはがした。

手。

加奈江ははっとする。

彼が命の次、いや、それ以上に大切にしている利き手なのに。

釘抜きでべりべりと板を剥がしていく政の手は、大小取り混ぜて傷が付いていく。

政は、それに構うことなく、黙々と作業を続けた。

彼女はただ見守るだけだった。

「……いた」

何枚か剥がした板の間の下に、アズキの骸は転がっていた。

まるで生きている頃のようで、眼球の表面が乾いてぱりぱりになっていなければ死んでいるようには見えなかった。

私たち、昨日、この上で言い争いをした。

こときれようとしていたアズキの上で。

何か言い合うと、いつも間に割って入ってふたりを見ていたアズキ。

昨日も、そのつもりで下にいたのだろうか。

動物は、力尽きようという時、静かに過ごせる場所へ行き、そこで息絶えるという。

なのに私たちは……。

加奈江は涙を止めることができない。

「見苦しくなる前でよかった」

政は言う。

かちかちに固まった小さい身体を抱き上げ、加奈江はアズキが気に入っていたタオルで受け止め、くるんだ。

おひさまのようなにおいがしたアズキ。

もう、あのにおいを嗅ぐことはできないのね。

最後だから、とアズキの首に顔を寄せてにおいを嗅いだ。いつものように。

その様子を見て、政は小声で言う、「止せ」と。

――後悔した。

日溜まりのにおいがしたアズキからは、身体の芯から冷え切ってしまうような、厭わしいかおりがすでに立ち上っていたからだ。

もう、別の世界へ行ってしまったのだよと告げるように。

顔中くしゃくしゃにして、加奈江はしゃくり上げた。

本当にお別れなんだ、死んでしまったんだ、と、アズキの骸にすがって泣きじゃくる加奈江ごと、政はくるむように抱いた。

「庭先に埋めてやろうな」

ぽんぽんと、あやすように彼女の肩を叩いた。

「うん」

「どこがいい」

「とても寒がりだったから、あたたかい陽の当たるところ……。かかしが立っているところがいい」

「そうだな、あそこなら……。陽当たりが良いもんな」

政は大股で部屋を横切り、庭へ下りてざっくざっくとショベルで穴を掘った。

それは深く、とても深く、子供では這い上がれないぐらいの深さの穴だった。

「そこまで深くしなくても」

と加奈江は言う。

「うん」

政は小さく応える。

「ここが都心ならいいんだけど……何があるかわからないから」

ここは、掘り返す野生動物がいる土地。

彼がすることには理由があって、遠回りなようでも無駄がない。哀しみの中にあってもきびきびと行動できる人なのだ。

「あなたの言う通りだわ」

顔以外をタオルでくるんで、骸の額を撫でながら加奈江はうなずいた。

開ききった目は、どうがんばっても閉じさせられなかった。

無理にいじると別の顔になってしまうので、そのままにした。加奈江は政に骸を渡し、彼はアズキの身体を穴の底に横たえる。

本当は、好きな煮干しをたくさん入れてやりたかった。

でも、そんなことをしたら、避けたいこと、動物に暴かれる種をまくことになってしまう。何の為に深く穴を掘ったのか。

「さようなら、アズキ」

ふたりは静かに手を合わせ、交互に土をかけた。

少しずつ、アズキの身体は見えなくなった時、「後は俺がする」と言い、掘った勢いのままに、政は残りの土をかけて穴をふさぎ、その上に大きい丸石を乗せて墓標の代わりにした。

ぽこんとしたおまんじゅうのような石は、香箱座りをして縁側にいた姿を彷彿とさせ、新たな涙が流れてきた。

遠くでカラスが鳴く声がする。

陽が、傾いていた。

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