朝起きて、仕度をしようと客間へ向かう時に身体の不調に気づいた加奈江は、美容師さんたちと着付けの用意をしていた姉に、青ざめた顔で言う。
「姉さん……」
「何? 加奈江。もうお着替えしてもいい? トイレには行った?」
「来たみたい」
「来た、って……え?」
忙しく動いていた道代はその手を止めた。
「どうしよう、私、生理になっちゃった」
一般的に結婚式の日取りは花嫁の体調を考慮した上で決めるものだ。
加奈江は生理痛が大層重く、時には寝込むこともあった。そして周期はとても正確だったので絶対に生理とぶつからないと思われる日を選んだはずだった。しかし。
「あらら。来ちゃったの」
道代は手に持った腰ひもをぶんぶん振り回す。
「あなたも直前までいそがしくしていたから。身体がびっくりしたのね。ま、珍しくないことよ」
ねえ、と美容師さんたちとうなずき合い、はいはい、と言って姉は妹の背中を押して客間に入れた。
「姉さん、でも、何かあったらどうしよう」
「大丈夫、そうならないように準備したげます」
「私、気分悪くなる方だし」
「緊張するとそれどころじゃなくなるわ。あ、お薬飲んでおくといいわね」
「だけど」
「いい?」
四の五の言い続けかねない妹に、姉はぴしゃりと言った。
「一世一代の花嫁姿にしてあげるから。それ見たら気分も変わるわよ! あなたは手順通り進められることだけ考えていればいいの! 後のことは旦那に任せなさい!」
まわりに急かされ、着付け終わった自分の姿を鏡に映して見て。
姉の言う通りだと思った。
馴染みたくない悪寒や不快感が一気に消し飛んだから。
今まで見たことのない女に加奈江は語りかける。
私はきれいかしら。
彼はどう思ってくれるかしら、と。
神社の控え室で待っていた政は、白づくめの加奈江の登場に、一瞬見とれてため息をつき、目尻を下げて迎え入れた。
花婿である政は紋付き袴姿だった。借りてきた衣装を着せられている印象は微塵もなく、和装もとても似合っている。普段は寝癖が出やすくてセットしづらい髪をきちんと整え、神妙そうにしている彼は、若い男性の香気を身に纏って凛々しかった。
「とてもきれいだ」
まっすぐに彼女を見て言われて。加奈江の目からはふたたび涙がこぼれそうになった。
「あなたもすてきだわ」と言われて、「いや」と言って頭をかく。
端から見ている方が気恥ずかしくなるくらい、何とも初々しいふたりだった。
加奈江が気にしていた身長差も、写真屋で記念撮影をした時には花嫁は座らされるものなので、まったく気にならなかった。
そもそも頭にあれこれ盛り上げるのだから男性より高くなっても仕方のないことだったし、同じ日に結婚式を挙げた他のカップルは花婿と花嫁の身長差がほとんどなく、もっとかわいそうなことになっていた。
彼らには申し訳ない比較だけど、私たちはあれよりまし、と加奈江は思った。
無事に何事もなく終わることだけを願っていた結婚式は滞りなく予定を終了した。
頭の重さは薬が効かなかったからではなく、慣れないカツラと髪飾りのせい。頬が火照るのは気持ちが高揚しているせい。そう思うことにし、重い衣装を脱いで平服に戻り、両家で会食をした後にホテルのロビーで談笑し、待つのはお開きだけという頃になって。
「カナちゃん、おうち帰ろ」
と、秋良が小さい手をうんと伸ばして言った。
その手を握りかけて、はっとなる。
そうだ、私が帰る家はもう、水流添家ではない。
今日から私は尾上加奈江。
帰るところは政と暮らし、作っていく家。
伸ばした手が握られないことに不満気に秋良が口を尖らせた時、
「そうねえ、おうちに帰りましょうか」
と道代と悟が娘を促した。
娘はどうして? と、母と父と、加奈江を見比べる。
「カナちゃんはね、今日からあそこのおじちゃんと暮らすの」
指差された先の『おじちゃん』である政は小さく会釈した。
秋良は口元をへの字に曲げ、せり上がる涙を抑えようともせず、わーっと泣いた。
「いやだあ、カナちゃん、やだーっ!」
子供の憤りはとても可愛らしいものだ。
「遊びにおいで」
政は姪になった幼女に言う。
「カナちゃんも遊びに行くから。そしたらさびしくないだろう」
涙でぐしょごしょになった顔で政を見た秋良は、えぐえぐとべそをかき、一度うなずいたものの、再び大泣きをした。
加奈江は思った。
私はもうこの人たちとひとつ屋根の下で暮らすことはない。
これが嫁ぐ一歩なのだと。
今度こそ止められない涙が目の前を覆い、霞む。
姪の涙につられて、両親も姉も、そして加奈江も泣き笑いし、もらい泣きをした。
「義姉さんのお腹の中にいた、あの子がこんなに大きくなっていたんだな」
身内を送り出し、ふたりで宿泊するホテルの玄関前に立っていた時、政はぽつりと言った。