早朝、魔法学院学生寮の階段を、1人の女性が駆け上がっていた。
金色の髪を短く切りそろえ、機動性に優れる騎士服を身に纏った彼女の名は、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン。アンリエッタの親衛隊・『銃士隊』の隊長である。
「失礼いたします!」
アニエスはとある扉の前まで駆け付けると、ノックもそこそこに勢いよく扉を開いた。よほど慌てているようだ。
だが、次の瞬間、彼女は思わず硬直してしまった。
「…おや」
家主は、ちょうど朝のティータイム中だったのだろう。イスに腰かけて、湯気の立ち上るティーカップを口に運んでいる。
だが、貴公子然とした彼を取り巻くその環境は、異常としか言えなかった。
そこそこの広さを有した室内には、大量の書類や書物の塔が所狭しとそびえ立ち、何やら怪しげな薬品の数々が大きめのテーブルに広がっている。
使い魔である不死鳥のためと思われる止まり木や、壁にデカデカと飾られた少女の肖像画はあるのだが、寝室に必須なはずのベッドがない。本当にここで生活しているのかと、疑問に思ってしまうくらいだ。
どう見ても、女王陛下の側近頭を務める人間の寝室ではない。怪しい研究をしている施設か何かである。
「何かご用ですか?」
しかして、今はそのようなことを気にしている場合ではない。
そんな少年の問いかけで我に返ったアニエスは、即座にひざまずいた。
「緊急事態でございます!
女王陛下が、何者かにさらわれてしまいました!!」
頭を垂れながら本題を切り出す。
瞬間、ガタンとイスが倒れる音が、白い塔に埋め尽くされた室内に殊更大きく響いた。
〜第33話 『さらわれた女王』〜
アレは、いつのことだろうか。
「アンリエッタ……」
「ウェールズ様……」
ラドグリアンの湖畔で、手を取り合って見つめ合う男女。
自分はその2人のことを、よく知っている。幼い頃から交流してきた、幼馴染だから。
「アルビオン王家に伝わる、『風のルビー』と……」
「トリステイン王家に伝わる、『水のルビー』……」
2人の左手薬指にはめられた宝玉が、月明かりの下で一層輝いている。
「水と風は、虹を作る。王家の間にかかる虹を……」
「許されない恋をしているわたくし達の間にも…いつか、美しい虹の橋がかかりますように……」
次第に顔を覗かせる朝日に照らされながら、2人の姿が重なっていく。
その様子を木の陰から見つめ、ため息交じりに空を見た。
分かってはいた。あの2人が、ただの幼馴染を超えた感情をお互いに抱いていることなど。けれどもそれは、許されざる、そして、あまりにも報われない想い。
この場所も相まって、どうしても自分達を重ねてしまう。互いに愛し合い、結ばれることなく死に別れた、自分達の姿を。
おそらく、この恋が成就することは、決してないのだろう。そのことは、何よりもウェールズ自身がよく分かっているはずだ。
「…それでも…か……」
だが、止まれない。
1度この至高の感情を知ってしまったが最後、もはや衝動を押さえることなどできはしない。かつての自分と彼女が、そうであったように。
陽光に照らしだされる銀色の三つ編みが、悲しげに揺れていた。
「おい、アレク!」
「ッ!」
唐突にサイトに呼び掛けられ、少年は現実へと引き戻された。
「どうかしたの? さっきからボーっとして……」
ゼロ戦のコックピットから、心配そうに少年少女がこちらを見てくる。
「…いえ、大したことでは……。
昔のことを思い出していました……」
「昔……?」
怪訝そうな顔をしてくるサイトに、気にしないようにと言い聞かせる。
なぜあの日のことなど思い出したのかは分からないが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
「しっかし…なんだって姫様が……」
「…確証はありませんが、昨日のスパイが手引きした可能性があります」
今朝方、アンリエッタが自室から忽然と姿を消したのだ。厳重な警備に守られていたにもかかわらず、である。
慌てて報告してきたアニエスの話によると、女王をさらった賊は一路ラドグリアン湖へと向かっているらしい。
親衛隊長もすぐさま賊を追跡している部下の下へと馬を走らせ、自分達もこうしてゼロ戦とホークスを用いて追いつこうとしている最中である。
なお、この任務は表ざたにできないこともあり、彼らを含む数名ばかりの人員での遂行が余儀なくされている。さすがに、即位間もない女王がさらわれたとあっては、国中が大混乱だからだ。
「ところでサイトさん、この…『ゼロ戦』…でしたか?
以前よりも格段に速度が落ちているようですが……」
そこでふと、アレクが疑問をサイトにぶつける。
何しろ、人1人ぶるさげた状態で飛んでいるホークスが並行して飛べるほどだ。目にも止まらぬ速さでタルブの空を駆けた、数か月前の面影がまったくない。
「イマイチ調子が出ないんだよなぁ……。
コルベール先生が修理の途中だって言ってたから、そのせいじゃないか?」
あの戦いで無残にも壊れてしまったゼロ戦は、コルベールの手により絶賛修復中だったのだ。それを今回、無理言って飛ばしたので、それが原因だろう。
「なるほど」
しかしてアレクは、さほど気にしなかった。
今回は、あくまでもアンリエッタの救出が目的。彼女の下までたどり着ければ、それでいい。
というより、それでも充分に早いのだから問題はなかろう。そう結論付けて淀み始めた空を駆け、彼らはアンドバリへと向かうのであった。
主を失い、静まり返る一室に、風を受けたプラチナブロンドがふわりと舞った。窓から差し込む陽光に照らされる長髪がキラキラと輝き、持ち主である女性の美貌も相まって、幻想的な光景を生み出している。
「……妙だな……」
部屋の中央に立ち、周りを見回しながら、彼女はいぶかしげに呟いた。自分を取り巻くその空間に、とてつもない違和感を覚えたのだ。
「荒らされた形跡が、まったくない……」
そう。大きな寝台のシーツや天蓋はシワ1つなく整えられ、床に敷かれた絨毯にはわずかな歪みも認められず、テーブルの上に置かれた小物の数々は1つとして倒れてすらいない。賊にさらわれた女王が抵抗を試みた様子が、まったく見えないのだ。
もちろん、寝ている間に部屋へ侵入し、抵抗する間もなく拉致されたと考えられなくもない。しかし、不審な点はそれだけではないのだ。
「事件発覚当初、扉が固く施錠されていたことからも、侵入経路はこのバルコニーしかないが……」
大きく開け放たれた窓へ歩を進め、そこにある光景を見つめて女性は呟く。
窓には壊された様子も、魔法で外側から開錠された形跡もなく、室内にいた誰かが開けたとしか思えない。自然に考えて、その『誰か』とは、この部屋の主たる少女だ。しかし、なぜ。
「何やら、面白いことになっているようだな。ローズ家の次女よ」
「ッ!」
思考にふけっているところに突如として声をかけられ、彼女は咄嗟に後ろを振り返った。
そこにあったのは、扉を背にしてたたずむ、1人の男性の姿。
「…いつの間にそこに……」
その顔には、見覚えがあった。いや、むしろ嫌と言うほどに知っている。
「ふん。エルバート家の片腕が片腹痛いわ。声をかけるまで、私の気配にまるで気づかんとはな」
苦虫をかみつぶしたかのような表情を作る女性に、男は微塵も隠すことのないあざけりの視線を送る。
「…なぜ、あなたがここにいる。アレク様から、女王陛下救出の命が下されているはずだ」
不快な視線を受け流しつつ、彼女は問うた。
目前で不敵に笑うこの男は、本来ならば今現在、さらわれた女王を救出すべく、賊を追跡しているはずなのだ。こんなところに立っているなどあり得ない。明らかな命令無視である。
「ふん。だからどうした」
しかし、女性の鋭い眼差しなど意にも介さず、男性は冷たく言い放つ。
「これしきの事態でどうにかなるのであれば、所詮はそれまでの輩であったというだけのことだ」
「…貴様……主君に、アレク様に逆らうつもりか……」
淡々と述べる男に、女性は怒気をはらんだ言葉を漏らす。その瞳が殺意に燃えているように見えるのは、気のせいなどではないだろう。即座に己が杖を取出し、臨戦態勢を整える。
国主に対して『輩』などとぬかし、敬愛する主の命令を足蹴にするその姿は、彼女には反逆の徒にしか見えなかったのだ。
「勘違いをするな。私には、もとより主などおらぬ。
世間知らずの小娘も、平民かぶれの小僧も、私は認めてなどいないのだからな」
だが、男性もまた全身から殺気をほとばしらせ、女性を猛獣のようにギラついた瞳で睨みつけた。
神をも恐れぬ理屈だ。己こそが唯一絶対の存在であると、心の底から信じているのだろう。
「堕ちたものだな、元最強。
とうに失った栄光にいつまでしがみついている? あまりの醜さに反吐が出るぞ」
そして、そこまで頑なにあの2人を、いや、アレクを認めようとしない理由は、容易に想像できる。
「ほざけ、じゃじゃ馬めが。ヤツは手数の多さが自慢らしいがな、そんなモノは所詮、小手先の小細工よ。
我が『豪炎』の前では、あのような小僧、羽虫も同然だわ」
「あのお方と杖を交えてなお、そのセリフが吐けたら褒めてやろう。まあ、まず生きてはいられないだろうがな」
己の信じる道を微塵も疑わない両者。室内には険悪な空気が渦を成し、一触即発の様相を呈していた。
「……まあいい。貴様ごときと議論したところで時間の無駄だ」
が、さすがに王宮内、仮にも女王の寝室で騒ぎを起こす気はなかったのだろう。先に杖を引いたのは、意外にも男の方であった。
そのまま踵を返し、部屋から立ち去ろうとする。
「待て!」
しかし、女性はそんな彼を引き留めた。決闘を申し込むためではない。
「…まさかとは思うが今回の一件、貴様の差し金か……?」
ふと、脳裏によぎった可能性。その是非を、確かめるために。
「…………」
その問いに対して男は一言も発することなく、無言のままに廊下へと消えていった。