中庭に集まる女子生徒達の目の前には、現在信じられない人物が立っている。
紫がかった長髪と瞳、バラの花びらを思わせる唇、愛らしい顔立ち、身長に反して豊満な胸。純白の質素なドレスに身を包んだこの少女の正体を知った者は、1人の例外もなく驚愕のあまりに口を開けるだろう。それはもう、顎が外れんばかりに。
「ちょっと! あの子が殿下の恋人ってホント!?」
「ジュリオ様が言ってたのよ! 殿下が『アリス』って名前の女と文通してるって!」
「しかも、文頭に『愛しの』ってつけてたらしいわよ?
これはもう、殿下の婚約者に間違いないわ!」
その噂は、光の速さで学院中に広まったという。主に、1年の女子生徒を中心に。
〜第36話 『噂の婚約者』〜
事の起こりは、1人の1年女子が、中庭でキョロキョロと辺りを見回している見知らぬ少女に声をかけたことだ。
話を聞けば、彼女はアレクに会うため、はるばる学院まで足を運んだらしい。ご丁寧に、彼から送られたという直筆の手紙を大事そうに持参して。
そして彼女の名前が『アリス』であることが判明した途端、1人の女生徒がアレクの恋人ではないかと騒ぎ始めたのだ。なんでも、情報源はジュリオであるらしい。
「そ、そんな…婚約者だなんて……」
当のアリスは、何やら頬を染めていやんいやんと身をくねらせている。
女子達の推測が確信へと変わるのに、さして時間はかからなかった。
そして先ほど、アレクに対して熱烈な想いを抱いていた女子が10名ほど、泣きながら彼を探しに行った次第だ。
残っているのは、特に異性として興味を持っていなかった者や、好きではあるが、家柄やら何やらで近づけないでいる面々である。
「あら? 何してるのあなた達」
と、そこで、キュルケが話しかけてきた。
隣には、相変わらず読書に熱中しているタバサ。いつもの2人組である。
「ミ、ミス・ツェルプストー…それが……」
オロオロと未だに混乱していた1年女子が、しどろもどろになりながらも説明する。
「アレクの婚約者ァ!?」
「…!」
キュルケが驚きのあまりに叫ぶのと、タバサが読んでいた本を閉じるのはほぼ同時であった。
「何々? どうかしたの?」
と、そこに、暇を持て余していたモンモランシーも加わってくる。
なんというか、学院に女子しかいなくなって、彼女達も退屈しているのだろう。久しぶりの話題に、すこぶる食いつきがよくなっている。
「いやいや、あり得ないわよ」
「? なんで? 殿下だって年頃なんだし、いたって不思議じゃないわよ」
片手をうちわのように左右に振りながらのキュルケの言葉に、モンモランシーが不思議そうに反論した。
確かに彼に婚約者がいたのは初耳だが、いても別に不思議なことではない。混乱を避けるために、今まで黙っていただけ、ということも充分あり得る。何しろ、アレクはトリステイン中の貴族令嬢達の憧れなのだから。いきなり婚約者が決まりました、などと言っては、国中が大混乱に陥るのは目に見えている。
だが、モンモランシーは、真実を知らない。
「だってアレクの婚約者は……」
「…………」
キュルケがぺらっと話しそうになったところで、タバサが首を左右に振りながら、彼女の袖を軽く引っ張って制した。
おいそれと、人に話していい内容ではない。自分達にすら、本当は知られたくなかったはずだ、と言うように。
「何? 何か知ってるの?」
しかし、時すでに遅し。
モンモランシーは興味津々といった様子で、キュルケに詰め寄る。しまったとばかりに、キュルケは軽く舌を打った。
「詳しくは話せない。でも、違うと思う」
キュルケとモンモランシーの間に割って入ったタバサが、鼻息を荒くするモンモランシーにそう告げる。
その姿に、親友であるキュルケは若干の違和感を覚えた。いつも無愛想な彼女が、さして興味を持つとも思えない内容にもかかわらず、心なしか積極的に会話を交わしている。
コレはもしやと思ったその時、
「何よ。騒がしいわね」
「どうかしたのかい?」
件の少年の幼馴染と、この騒動を拡大した原因が、それぞれ違う方向から歩いてきた。
「あなたのおかげでみんな大混乱なのよ。なんとかしてくれない?」
「? ボクの?」
少し離れたところで輪を成してやいのやいのと言い合っている女子生徒と、それを見て頭上に疑問符を浮かべている少女を指差し、キュルケはジュリオにそう告げた。そう言われた少年は、わけが分からず首をかしげる。
「アレクに恋人がいるって噂、流した」
タバサのそんな一言を受けて、ジュリオの頭上にピコンと電球が灯った。
「ああ、もしかして、あのコが殿下の?」
「分からないけど、多分違うわ」
閃いたとばかりに口を開くジュリオを見て、ため息交じりにそう告げるキュルケ。
「なぜだい? 殿下にだって恋人がいてもおかしくないじゃないか。
現に彼は『アリス』という少女に熱烈なラブレターを送っていたし……」
が、ジュリオは不思議そうな顔でそう語りかけてくる。
これにキュルケは、説明するのが面倒臭いとばかりに顔を右手で覆う。
「あぁもうっ! だから、アレクの婚約者は5年前に亡くなってるのよ!」
そこでついに、ごく少数しか知り得ない真実を口にしてしまったのだ。
はっと我に返った時には時すでに遅し。幸いにも未だに言い合っている女子生徒達には聞かれなかったようだが、モンモランシーとジュリオには知られてしまった。
隣から若干睨んでくる親友の視線が痛い。
「な、なんであなた達がそんなこと知ってるのよ!?
ルイズ、もしかしてあなたも!?」
「いや、えっと、これはその……もう! キュルケ!」
「し、仕方ないじゃない! 他にどうやって説明するのよ!」
なんともまあ、ややこしいことになったモノだ。
仲間外れにされていたモンモランシーが、さして驚いた様子を見せないルイズに詰め寄り、そのルイズもオロオロしながら事の元凶に文句を言う。
そして元凶であるキュルケはというと、半ば開き直っていた。アレクのことだ。彼ら2人に真実が知れたところで、大して文句は言わないだろう、と。
「そうだとしても、もう5年も前のことだろう?
そろそろ新しい恋を見つけても、おかしくはないと思うけどねぇ」
だが、そんな中にいても、ジュリオはある意味で冷静だった。
確かに、5年も経っていれば新しい婚約者ができても不思議ではない。悲しみは時とともに風化し、それに伴って亡くなった人への想いも薄れていくのだがら。
しかし、
「でも…彼は今でも彼女を愛してる」
それはあくまでも、『普通ならば』という前提にすぎない。そう、タバサは語る。
書物庫で見かける彼の瞳は、とてもではないが、新しい恋を見つけた少年のそれではなかった。彼は今でも、永遠に会えなくなってしまった少女を、心の底から愛している。
その愛の深さは、ホコリすらかぶることなく陽光を反射していた巨大なマリィの墓石が、何よりも証明しているだろう。
2メイルを超えるあの石碑の手入れは、管理をしているという平民の老婆だけでは、とてもではないが不可能。定期的に、それもすこぶる丁寧に、アレクが手入れをしている、何よりの証だ。
そうやって言葉を紡ぐタバサの姿を、キュルケは無言で、内心驚きながら見つめていた。
(この子が、こんなこと言うなんて……)
自分といる時もほとんど読書に集中していて、何に関しても無関心そうな態度を取っていた少女が、こうして1人の少年について自分から語っている。
というか、タバサとアレクが書物庫でたびたび会っていることすら、彼女は知らなかった。いつの間にそこまでと、驚きが隠せない。
「しかし…そうなるとあの手紙の説明が……」
顎に手を当てて考え込むジュリオ。
(…どこかで会ったような……)
その隣では、ルイズが謎の少女を遠目に見つめて、小首をかしげていた。見覚えがあるようなないような、そんなあやふやな感覚にさらされているのだ。
と、その時、
「お前さんも現金なヤツだよなぁ。もう新しい彼女作ってるなんてよォ」
「だから違いますってば! サイトさんもその剣なんとかしてくださいよ!
あと、なんで皆さんはそんなこの世の終わりみたいな顔してるんですか!?」
からかってくる剣とそれを背中に差す友人に文句を垂れながら、泣きじゃくる女子生徒を引き連れて、件の少年がやって来た。
見るからに修羅場だ。さぞや少年の胃はキリキリと痛んでいることだろう。
「おや、噂をすればなんとやら、ってヤツかな?」
コレは面白くなるとばかりに、口元に笑みを浮かべるジュリオ。つくづくいい性格をしている。
「…!」
「!!」
ふと、白銀の少年とパープルプラチナの少女の視線が重なる。
互いの存在を認識した2人の目が見開かれ、少女が少年へと駆けだした。目元にはうっすらと、歓喜の涙が浮かんでいる。
「お久しぶりですわっ!」
少女が歓喜の声を上げるのと、少年の首に彼女が飛びつきながら両腕を回して抱きつくのは、ほとんど同時であった。
「ア、アリス!? どうして君がここに!?」
「だって、どうしてもお会いしたくなったんですもの!」
いきなりの少女の行動に戸惑う少年と、彼の身体を強く抱きしめる少女。
身長差があるためにどうしてもアリスの足が宙に浮いてしまうが、2人のその姿はまさしく、はたから見れば恋人同士にしか見えない。
それを見た女子生徒が、悔しげにハンカチをかんだとかそうでなかったとか。
「……あぁああっ! 思い出した!!」
その時だった。ルイズがポンと手を打ち、そばにいたキュルケ達の視線が、彼女へと殺到したのは。
「学院にほとんど殿方がいないと知らされて…心配で心配で……」
そんな周りのことなど気にすることもなく、アリスは愛しの少年に頬ずりの真っ最中。
アレクは思わずため息をついた。
「ホント、隅におけねぇな、あんちゃん」
「カワイイ子じゃん。紹介してくれよ」
冷やかすかのような剣とその使い手の言葉に、さらに深いため息をつきつつも、アレクは少女を地面に下ろして彼らに向き直った。
「ご紹介します」
「あの子はアレクの」
場所は離れているが、アレクとルイズの言葉は、ほぼ同時に紡がれていく。
「この子の名前は、アリス・レーヴェ・ル・ヴェリア・エルバート」
「実の妹よ」
一瞬、場の空気が凍りつき、
『…はあぁぁああぁぁああぁぁぁああぁあああっ!?』
そして一気に爆発した。
なんでこうなったのだろう。
何度目か分からない、空への問いかけである。当然、返事はない。
「でも驚いたわ。その…あんなに大きくなってるなんて……」
向こうで他の女子生徒と談笑しているアリスの一点を、うらやましそうに見つめながら呟くルイズ。その言葉にも、アレクは反応できないでいた。
泣きじゃくる女生徒に連れられてここまで来たが、まさか妹が来ているとは。
手紙の件から始まり、数々の勘違いを説明して納得してもらうのは骨が折れた。もう、色々と燃え尽きている。
話を聞けば、ほとんど女子しかいなくなった学院に兄を放置するわけにもいかず、かといってアレクが領地に帰らないのも目に見えているので、こうして彼女が直接来たらしい。
加えて、なんとこのまま学院で生活する気満々のようだ。必要な家財道具一式は、とっくにアレクの部屋に運び込んでいるらしい。我が妹ながら、とんでもない行動力である。
本当に、なぜこうなるのだろう。始祖はとことん自分が嫌いらしい。
「全然気づかなかったわ。あんまり似てないんだもの」
アレクが放心状態の間も、ルイズ達の会話は進んでいく。
キュルケの感想も当然だ。髪と瞳の色はもちろん、顔つきまでもがまるで違う。強いて表現するなら、同じ女顔でもアレクはキレイ系で、アリスはカワイイ系なのだ。
「アリスはお母様似なのよ。ね? アレク」
「! あっ、は、はい」
と、そこでルイズに話をふられたことで、アレクの意識は現実へと戻ってきた。
アレクの外見はどちらかというと父親の血を色濃く受け継ぎ、アリスは母親の血を濃く受け継いだのだ。分からなくても無理はない。
「てゆーか何アレ? ルイズとそう変わらない身長なのに、あの胸」
モンモランシーがうらやましそうに指差す先。そこには、アリスが動くたびに揺れる2つの丘。決して高くはない身長とのギャップが、あまりにも大きい。
そのサイズは、ルイズはもちろんモンモランシーも軽く抜かされている。
「…悪かったわね。10歳に負けて」
『10歳!?』
ルイズのその一言で、場の空気が驚愕で包まれた。
10歳であの大きさ。将来どうなるのか、想像するだに恐ろしい。
アレクといい彼女といい、色々と規格外な兄妹である。軽く自信を無くした女性陣であった。
「アリスちゃん、私のこと、『お姉さま』って呼んでいいのよ?」
「いえいえ、それなら私の方がふさわしいわ」
そんなやり取りをしているアレク達から少し離れた位置で、アリスは女生徒達にもみくちゃにされている。メンツは主に、アレクに淡い思いを抱いている少女達だ。
見たところ彼は、妹である彼女に甘い様子。将を射んと欲すればなんとやら。ここでアリスを味方につけておけば、アレクを口説く上で有利になれると踏んだのである。
「いえそんな…うれしいですが、ご遠慮させていただきます」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに」
困ったような表情を浮かべて、やんわりと女生徒達の申し出を断るアリス。
しかし、千載一遇のチャンスを前に、少女達もアッサリとは退かない。なおも想い人の妹を味方に引き込もうと、半ば強引に詰め寄る。
「いえ、あの…ですから……」
「ほら、アリスちゃん」
「遠慮しないで」
ジリジリと詰め寄ってくる少女達。ハッキリ言おう。うっとうしいことこの上ない。
そして、その時だった。
「……が」
「え?」
何かが切れるような、ヒビが入るような音と共に、アリスの唇が何やらボソリと動いたのは。
よく聞き取れなかった女子が、耳を近づけて聞き返す。
そして、
「いい加減にしろってんだよ、メス犬どもが……!」
今度こそはっきりと聞き取れたその言葉と絶対零度の鋭い視線に、思わず固まってしまった。ビキッ、という効果音が聞こえてくるようだ。
「キャンキャンキャンキャン盛りやがって……!
どーせ兄様に取り入るために私を使うつもりだったんだろーけど、そーは問屋がおろさねぇぞ!!」
口調どころか、纏っている空気までもがまるで別人である。
アレクのように常に笑顔を絶やさなかった愛らしい姿は鳴りを潜め、そこにあるのは汚物でも見るかのような目で、自分達をどこまでも見下してくる少女の姿。
「よっく覚えときやがれ!
兄様に指1本でも触れたら、体中の骨を1本残らずへし折って、そのまま湖の底に沈めてやるからな! 覚悟しな!!」
親指をビッと下向きに立て、口元を『へ』の字に曲げて、ものすごい形相で迫る10歳の少女。まるでヤンキーだ。
本来ならば乱暴な言葉づかいを注意するところなのだろうが、周りにいる女子達はあまりのギャップと恐怖に固まってしまっている。
「アリス、どうかしたのですか?」
「あ、いえ〜。なんでもありません、お兄様♪」
と、その時、兄に呼ばれ、コロッと態度を変えて振り向くアリス。その雰囲気には、可憐な少女のソレしかない。
文字通り真っ白になって固まっている女生徒達を放置したまま、2重人格のブラコン少女は、最愛の兄の下へと駆けて行くのだった。