アレクがカトレアの治療のためにヴァリエール家に通うようになってから、早1週間。彼女の病は、未だに回復の見込みは立っていなかった。
「あなたも大変よね。毎日のように天才の実験に付き合わされて」
「もう、お姉さまったら…またそんな言い方……」
午後のお茶に舌鼓を打ちながらの、長女のあまりの言い様に、次女がやんわりとたしなめる。
「スクエアクラスの水メイジが、何人もさじを投げた病気ですもの。そんなに簡単には治らないわ」
確かに治療の成果が出ていないのは事実だが、相手は幾人もの専門医を返り討ちにしてきた原因不明の奇病。それでアレクを責めるのは、いささかお門違いである。
「それに、たとえ治らなくても、私は殿下には感謝しているの」
ここ数年、誰もが治療は不可能として診てもくれなかった病を、カワイイ妹の友人が必死で治そうとしてくれている。それがどれだけ、カトレアの心を救っているか。
重病を抱える患者というモノは、往々にして治らないことよりも、それが理由で医者に見放されることで傷つくものなのだ。
「…ずいぶん肩を持つじゃない。あのすかした王太子殿下の」
エレオノールは、フンと鼻を鳴らす。
あの少年だってどうせ、ここでヴァリエール家に恩を売って将来の人脈を確保しようとか、そういう下心があるに決まっているのだ。おそらくは、『博学』と名高き父から教わった処世術なのだろう。社交界での常套手段である。
それを純粋な厚意と勘違いして彼を弁護する妹が、姉は少し心配だった。この娘は昔から、なんと言うかのんびりしていて、あまり物事を悲観して考えない傾向があるのだ。
「すかしてなんていないわ。
ちゃんと喜怒哀楽があって、笑顔がとっても可愛い方よ?」
「……はぁ?」
しかし、そんな次女の反論に、長女は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「昨日もそうだったけれど、治療のたびに、町で見て聞いた面白い話を持ってきてくれるの」
故に、彼と会う日はとても楽しみなのだという。幼い頃からろくに屋敷からも出たことがないため、あまり見たことのない外の世界の話題には興味津々なのだ。
「その時のお顔がとっても可愛らしくて…弟がいたらこんな感じなのかしらって、いつもそう思ってるの」
加えて、年下の異性と他愛無い話題で談笑するというのは、3人姉妹の次女として病弱に育った彼女からすれば、とても新鮮な経験なのだろう。花の咲くような笑顔で外界の様子を語るアレクの姿は、弱り切った心と身体を癒してくれるのだとか。
だが、これにはエレオノールが異を唱えた。
「ちょ、ちょっと待って!
殿下だって、仮にも王家の人間なんだから、気軽に屋敷の外になんか行けないはずなのよ!?
なのになんで町の話題なんか……!」
自分には一切見せたことがない笑顔についてもツッコみたいところだが、それはとりあえず後回しだ。
分家とはいえ王家の人間。しかも彼は次期当主である。父であるエルバート公の許可もなく、おいそれと屋敷の外に出られるはずがない。それなのになぜ、毎日のように町の情報を仕入れてこられるのか。
「ご幼少の頃から、コッソリ屋敷を抜け出しては、平民の子供達と遊んでいたそうよ」
おかげで友達は貴族よりも平民の方が多いと、笑いながら話していたらしい。
「…………」
とても信じられなかった。
かの少年と正面から顔を合わせたのは、確かに初対面のあの日だけで、あとは廊下ですれ違う程度だったが、それでもそのような人間には見えなかったのだ。
しかし、カトレアの話を聞く限り、まるでお転婆なルイズのようではないか。いや、無茶苦茶具合で言えば、末妹以上である。印象が、まったくかみ合わない。
「…昨日、殿下が言ってたわ。
『ミス・エレオノールは、ボクのことが嫌いなのでしょうか?』って」
「え……?」
なんの脈絡もなく次女の口から切り出されたその言葉に、エレオノールは間の抜けた声を漏らした。
「初対面の時も廊下ですれ違う時も、なんだか不機嫌そうな目でジッと見てくるから、取り乱すまいとはしていたけれど、本当はとても怖かったそうよ?」
クスクスと口元に手を当てて笑いながら、カトレアはそう語る。
金髪ブロンドの長女は思わず、あっ、と声を漏らしてしまった。
よくよく考えれば、初めて会った時、次期エルバート家当主の前だと必要以上に緊張していて、若干顔がこわばっていたかもしれない。
元々、母に似て目元が鋭い自分だ。初対面の年上の女性がそんな顔をしていて、13歳の少年が不安に思わないわけがない。
――――何か話したらどうなの……!?
そんなこと、できるはずがない。
――――ちびルイズと同年代なんじゃなかったの!?
そう。紛れもなく、末妹と同じように年相応の少年だった。
あの日あの時、自分の存在など完全に無視して優雅にお茶を飲んでいたあの行動は、すかしていたのではなく、不安と恐怖が渦巻く内心を、必死に取り繕っていたのだ。
要するに、緊張でガチガチだったのである。
「本当はお姉さまが傷つくといけないからって、口止めされていたの。
だから、話したことは殿下には内緒にしてね」
そう言って、人差し指で口を止めるジェスチャーをする次女。
年下に、「あのお姉さん怖い」などと言われて、傷つかない女性はいない。それもあって、アレクはなかなかエレオノールに話を切り出せなかったのだ。
自身の心の安定よりも、相手が傷つかないことを優先するあたり、年不相応の対応とも取れなくはないが。それほど、心優しい少年なのだろう。
今まで自分が見てきたものは、『エルバート家次期当主』という堅苦しい仮面をかぶった、偽りの姿だったのかもしれない。
「そういう…ことだったの……」
力なく、天井を見上げる。
情けなかった。10歳も年の離れた少年にそのように気を遣わせて、それに全く気付かなかった自分の浅はかさが。
同時に、とても危ういモノに思えた。仮にも社交界で場慣れした自分に、心の中の不安と恐怖を一切悟られることなく『紳士』を演じきったかの少年が。ともすれば、精神崩壊の縁まで立たされてもなお、それを誰にも悟られずに、平気な顔で歩いていってしまいそうで。
「…これは、殿下と少しお話しないといけないみたいね……」
「あら怖い♪」
そう言ってティーカップに口をつける姉に、妹は柔らかな笑顔を送る。
2人の脳裏に浮かんでいるのは、じきにここに来るだろう少年の笑顔。必死に作られたその顔を、自分の手で本物にしたい。なぜだか、そう思うのだ。
まるで弟を愛でるかのようだった彼女達のその感情が、いつしか恋愛のソレにまで発展するのは、それから間もなくのことであった。
〜第47話 『燃える真実』〜
時間軸は現在に戻り、生き埋めとなった探検隊のメンバーは、とりあえず先に進んでいる。塞がったのが帰路だけで、進行方向はまったくの無事だったのは、不幸中の幸いとでも言うのだろうか。
まあ、そんな中でも、ヴァリエール家姉の妹に対する叱責は、微塵も止んでいなかったりするのだが。
「あの後で聞いたけど、あなた、屋敷に招く何年も前から、私のことを殿下に色々吹き込んでくれたそうじゃない?」
「えと…それはその……」
そう。アレクが4年前の当初、エレオノールに恐怖にも似た感情を抱いていたのは、初対面の印象だけが原因ではなかった。
ヴァリエール家への訪問以前から、ルイズ経由で長女の悪評を色々と聞き及んでいたことが、最大の原因であったのだ。友人によって幼い頃から語られる恐ろしい女性の姿が、数年にわたって少年の脳内に積み重なり、軽いトラウマのようなモノが形成されてしまっていたのである。
何を大げさなと笑う人もいるだろうが、相手は人一倍感受性の高い少年なのだ。ただでさえ恐怖というモノに耐性がない子供を、さらにデリケートにしたような存在なのである。そこを考慮していただきたい。
まあ、そんな事前情報と初対面時の鋭い眼光が脳内で融合し、彼女に対する恐怖心が少年の反射神経系に焼き付いてしまったのだ。
「おかげで、今でもなんだか距離を感じるのよ! 誰のせいかしらねぇ!?」
「ご、ごめんなさいぃいぃぃい……!」
姉にいつもいいようにからかわれていた末妹としては、友人を相手になんの気なしに愚痴をこぼしていたにすぎなかった。それがまさかそのような事態に発展するなど、子供に予測しろと言う方が無理な話だ。
加えて、今現在でもアレクが彼女に距離を置いているのは、彼女自身の激しすぎるスキンシップが主な原因なのだが、スタートダッシュで思いっきり出遅れた形のエレオノールには、そんなことを思慮する余裕など存在しない。
よって、妹の頬をつねる指の力は、強くなる一方。『恋は盲目』とはよく言ったモノである。
「…昔から変わらないな、あの方は……」
怒りに任せて頬をつねる姉と、つねられながら謝罪する妹をよそに、先頭を歩いていたアニエスが思わずそう呟く。
必要以上に他人に大して気を使いすぎるその性格、そして自然と人を惹きつける不思議な力は、しばらく会うことのなかった数年の間も全く変わっていなかったようだ。まあ、ある意味当然のことではあるのだが。
「…なんだか、殿下の子供時代を知っているような口ぶりだね?」
そして、そんな親衛隊長の口調に、ジュリオが敏感に反応した。
今の彼女の発言は、『エレオノールの過去話を聞いて今のアレクの影を重ねた』というよりも、『過去のアレクの姿をエレオノールの話に重ねている』といったニュアンスに聞こえたのだ。
「当然だ。
私は3歳から王宮に勤め始めるまでの10年間、エルバート家でお世話になっていたのだからな」
しかしてそんな疑問は、アニエスの告白によってアッサリと解決を見せた。
が、同時に新たな疑問が湧いたのも事実。
すなわち、
「な、なんでアンタがアレクの実家に!?」
これである。
没落貴族ですらない彼女が、なぜ一国の軍事を統率する名門家で養われていたのだろうか。貴族だの平民だのに疎いサイトですら、疑問符を頭上に乱舞させる。
「…20年前、反乱を起こしたという口実で、新教徒狩りが行われた。
実際は、リッシュモンがでっち上げた偽りの罪状にすぎなかったがな」
闇に染められた通路を見つめながらの銃士隊長の呟きを聞き、サイトの脳裏に無意識に1人の少年の姿がよぎった。かの反逆者によって想い人との絆を引き裂かれた、悲哀の少年が。
「ヤツの手口は20年も前から変わっていない。
ルーヴェルディ嬢の一件も同様だが、ありもしない罪を着せてはそれを検挙し、その功績で出世して、権力を握ったのだ」
まあ、ルーヴェルディ親子の件に関して言えば、危険なライバル貴族を蹴落とす意味合いもあったのだろうが。
アニエスの住んでいた村は、『不穏分子の粛清』の名の下に、火系統の魔法でその全てを焼き払われ、彼女の家族も友人も、全ての住民達が灰塵に帰した。生き残ったのは、何者かに間一髪で炎の中から助け出された、彼女だけだったという。
「それから私は、その何者かに連れられ、エルバート家に厄介になった。
幸いにして先代エルバート公も親切な方でな、平民の孤児であるにもかかわらず、よくしていただいたよ」
生きる術を持たなかった彼女に、独り立ちのためのあらゆる教育を施し、剣術の指南までもしてくれた。おかげで、10年も経つ頃にはそれなりの腕前にまでなり、一介の兵士として王宮に勤めるようになったのだという。
「あの方がお生まれになったのは、私が厄介になってから3年後……私が6歳の時分のことだった。
実に素直で可愛らしいお子でな。私も実の弟のように可愛がらせてもらったものだ」
「今にして思えば、無礼極まりないがな」と、アニエスは自嘲気味に苦笑する。
アレクも当時は彼女を姉のように慕い、彼の両親もどうやらそれを微笑ましく思っていたようなのだとか。
つまり要点をまとめると、後ろで未だに姉からお叱りを受けている桃色ブロンドの少女よりも、この親衛隊長の方が、かの神童と深く長い付き合いであると、こういうことらしい。
「…それで、君はその…故郷を焼いた相手に復讐を……?」
と、そこで、それまで特に言葉を発しなかったコルベールが、恐る恐るといった様子でアニエスに問いかけた。
「当然だ。主犯のリッシュモンは投獄されたが、実際に手を下した連中は、今ものうのうと生きている。それをどうして許せる?」
せめて、殲滅部隊の隊長格は殺したい。故に、極秘裏に保管された当時の記録を見つけるために、こうしてここに来ているのだという。
彼女のそんな返答に、禿頭の教師は若干顔をしかめた。
「では、仇を討ち果たして、その後はどうする?」
「…あとは陛下と、エルバート公のために戦い、死ぬ。それだけだ」
少しの瞑目の後の、そんな答え。
「せっかく生き残った大事な命を、復讐と戦争ですり減らしてしまうのか……。
君を育ててくれた先代エルバート公がそれを聞いたら、どう思うだろうね」
「…………」
コルベールのため息交じりのその言葉に、アニエスは黙り込み、
「君は、恋をしたことがあるのかね?」
その一言で、不意に足を止めた。
「君は若い。戦より大事なことがあるとは、思わないか?」
しばしの沈黙。いつの間にやらヴァリエール姉妹の口論も中断され、なんとも言えない緊張感が漂っていた。
「…バカバカしい……」
しかし、数秒の後、彼女はそう切り捨て再び歩き始める。
その手に持ったランプの明かりが、闇の中で寂しげに揺れていた。
「お兄様とアニエスさんに、そんなつながりが……」
予想外の事実に、アリスは目を丸くする。
それもそうだろう。彼女がアニエスと会ったのは、数週間前に学院にやって来た時が初めてだったのだから。よもや自分が生まれるはるか前から我が家との交流があったなどと、夢にも思っていなかったのだ。
「アニエスさんも10年前に王宮に勤めるようになってからは、お忙しいのか、すっかり屋敷に来られなくなりましたからね。
君が知らないのも、仕方ありません」
ちょうど彼女と入れ替わる形で、アリスが生まれたのだ。以来10年、アニエスがエルバート家の屋敷に足を運ぶこともなかったため、そんな事実など、この少女には知りようがない。
「それにしても、アニエスさんを保護したという人はどんな方だったのかしら……」
ふと思い出したかのようなカトレアの呟きも、もっともと言えた。
戦場で助けた孤児を一国の王族に預けるなど、よほどの人物であろう。そうでなくば、先代のエルバート公に会うことすらままならない。
「なんでも、父の古い友人なのだそうです。
彼女を預けてすぐにどこかに行ってしまったようで、それ以上はボクも……」
20年間まったく姿を現さず、アレクも話に聞いているだけなのだという。アニエスも顔は見ていないと言うし、その人物を知る先代エルバート公もすでに故人であり、その素性を知る者はもはや存在しないのだ。
唯一残った手掛かりは、その『背中に残された火傷』。炎の中から背負われて救出された少女の証言だ。おそらくは、その時に負った傷なのだろう。
「? どうかしたのですか? お兄様」
おもむろに懐に手を入れ始めた兄の行動を不思議に思い、アリスが疑問符を浮かべる。
「いえ、大したことではありません」
そう笑顔で答えながら、アレクは小さな何かを取り出した。
「な、なんだこれは!?」
分厚い古書に閉ざされたその場所に、信じられないといったアニエスの声が響く。
その手に握られているのは、紛れもなく、この『極秘公文書館』に眠っていた、お目当ての品。すなわち、20年前のダングルテール虐殺に関わる記録が記されているはずの書類だ。
だがしかし、彼女が仇として追い続けた、実行部隊の隊長の名を知ることはなかった。
「なぜ、隊長の名を記してある部分だけが、破られているのだ!!」
他のページは虫にすら食われることなくきれいに保管されているというのに、憎き仇のリーダーであった人物の名前だけが、キレイに破り捨てられていたのだ。
ようやく復讐を果たせると思った瞬間にコレである。彼女のいら立ちはピークに達していた。
「クソォオォオオオォオッ!!」
怒りに震える拳を、地面に叩き付ける。
何者かが、自分達よりも先にここに来て、証拠を隠滅していったのだ。忌々しいとばかりに呪詛の言葉を吐きつつ、新たな資料を求めて再び本棚へとかじりつく。
その異様な執念を前に、周りのメンバーはただただ唖然と眺めるだけだったという。
「その紙切れが、どうかしたのですか?」
兄が懐から出したのは、本の一部を破って来たかのような、小さな紙片であった。そこには小さな文字で何やら書かれているようだが、指が邪魔になって読み取れない。
「いえ」
アレクがそう呟いた瞬間、白い欠片は炎に包まれる。
少女達が声を上げる間もなく、彼は赤く燃えるそれを風に乗せ、空に解き放った。
「…よく分かりませんけど、よろしかったの?」
恐る恐る、カトレアがそう問いかける。
わざわざ懐に隠し持っていたということは、それなりに大切または重要な代物であったはずなのだ。それをアッサリ燃やしてしまうなど、彼女でなくても不安に思うというものである。
「はい」
しかして、返ってきたのはそんな短い肯定の言葉だった。
「あれは誰も見てはならない、不幸への道しるべですから」
青空に舞う、赤い炎を纏った紙片を見上げながら、少年はそう呟く。その言葉の意味を理解できる者は、残念ながらこの場にはいなかった。