小説『ゼロの使い魔 〜虹の貴公子〜』
作者:荒唐井蛙()

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 肉を切り裂き、臓腑を貫く確かな感触が、剣の刃から柄を通して掌に伝わってくる。
 目の前に見えるのは、闇。それは、彼女が現在その目をきつく閉じていることを示していた。幼き日、その目に焼き付けようと誓った仇敵の最期なのに、彼女は直視することができなかったのだ。
 瞳を開けば、そこにあるのはおそらく絶命している、仇であり、そして恩人でもある男の姿。
 終演間近に客席に駆け込んできた、10代も半ばを過ぎたばかりの観客達には、ショッキングな光景だったのだろう。その場は、信じられないほどの静寂に包まれていた。


 「あ……」


 その声を漏らしたのは、いったい誰だったのか。
 せめて、死に顔だけでも見ねばと、アニエスはうっすらと涙のにじんだ瞳を開く。
 しかして、そこにあったのは、


 「よ…かった……」


白刃の突き立った胸元から赤い鮮血をとめどなく流し、


 「間に…合っ……て……」


血に濡れた唇から、かすれる呼吸と声を漏らす、銀の髪を三つ編みに束ねた少年の姿だった。


 「ア…アレ……」


 『アレク様』。幼い頃から慣れ親しんだその呼び名が、呆ける銃士隊隊長の口から無意識に漏れ出る。


 「アレクッ!!」


 次の瞬間、その場に飛び込んできた青髪の少女の絶叫が、広い食堂内にこだました。







〜第53話 『鎖、断ち切る時』〜







 色とりどりの花が咲き乱れる庭園で、彼らは年相応に遊んでいた。今は、少年が花冠を作る作業に熱中し、その様子を少女が微笑ましそうに見守っている。


 「ねえ、アニィ。やっぱり、『復讐』っていうの、するの?」

 「…はい」


 冠の完成と同時に、姉同然の少女へと少年は問いかけた。年下であるはずの少年がタメ口で、年長であるはずの少女が敬語なのは、一重に2人の生まれの差異故と言えよう。
 だがしかし、この時はまだ、彼らの間において敬語とは、形ばかりの形式的な儀礼にすぎない。心の中では、互いに互いを本当の家族同然の存在として受け入れていたのだ。少なくとも、2人は心からそう思っていた。


 「でも、母上に聞いたよ? 『復讐』って、自分も、周りの人も、とっても辛いことなんだ、って」


 近々3度目の誕生日を迎える予定の、身分違いの弟の言葉に、少女の瞳が一瞬揺れる。
 1週間ほど前、6年間悩み抜いた末に彼女が下したその結論を、親代わりとなってくれたこの館の主は、笑顔で受け入れてくれた。
 ただ、その横でこちらを見つめてくる夫人の悲しそうな瞳が、今でも頭にこびりついているのだ。


 「…アニィが苦しむのは、ボク嫌だ! 毎日毎日、剣の稽古を頑張ってるアニィが、なんで辛い目に合わないといけないの!?」


 ズイッと、義弟に涙目で詰め寄られ、少女は何も言うことができない。
 よどみのない、宝石のように澄んだこの目を見ていると、どうにも自分の決意が、ひどく汚れたモノであるかのような、そんな感覚を覚えるのだ。


 「ボク、アニィにはずっと笑っていてほしい! アニィには、笑顔とお花が、1番似合うと思うから!!」


 少年は、丁寧に作り込んだ花冠を、義姉に贈る。
 それは、復讐に魅入られた2人が、まだ幸福をその手に実感できていた頃の、ささやかな記憶の、ほんのひとかけら。







 「お兄様! しっかりしてお兄様!!」

 「アレク! 目を開けろアレクッ!!」


 妹と、親友の声にいざなわれ、少年の意識はゆっくりと浮上した。
 かすむ視線の先には、こちらを見下ろしてくる見知った顔の面々。右手には、膝をつきながら杖を振るっている妹と、その横で顔を青くしながら呼びかけてくる親友。その後ろでは、ヴァリエール三姉妹とタバサが心配そうにこちらを見つめていた。


 「サ…イト……さん……ッグボッ! ゴホッ!」

 「ッ! まだしゃべるな! 安静にしてろ!」


 無理矢理に言葉を紡ごうとしたせいか、のど元まで押し上げられた血液が気管で詰まり、大きく咳き込む。
 その姿を見た少年が、咄嗟にその行為をやめるよう叫んだ。
 現在、アリスの水魔法で治療しているとはいえ、アレクの容体は芳しくない。アニエスがコルベール目がけて振り下ろした剣は、すんでのところで割って入った彼の右胸を貫き、肺を1つ潰しているのだ。
 ショックによる即死はかろうじて避けているが、出血がひどすぎる。油断を許せる状態ではない。


 「な、なあ! 不死鳥(ホークス)の血とか涙とか、使った方がいいんじゃ……!」


 未だ止まる様子のない出血に、不安に駆られたのか、サイトがそのように意見を述べる。
 残念ながら今この場にいる面子では、充分な治療が行えるとは言い難い。アリスも年齢に反する水魔法の才があるとはいえ、所詮はラインメイジだ。できることは限られている。
 それならばと、少年は思い至ったのだ。アレクの使い魔の存在に。赤い羽毛を纏った彼女はその名の通りに、たとえ死せるとも、炎と灰の中から蘇る不死の体現者だ。伝承によれば、その血や涙には、致命傷をも瞬時に回復する治癒能力があるとされている。それ故に、地方によっては神や精霊よりも強く信仰されているのだ。
 意図せず舞い降りた妙案に、一筋の希望を見出し、誰もが歓喜の声を上げようとした。しかし、


 「ッざっけんじゃねぇぞ平民! ぶっ殺されてぇのかッ!!」


その案は、他でもない治癒術者たる少女の怒号によって、即座に否定されてしまったのだ。隠そうともしない殺意に満たされたその声音と視線に、思わず誰もが気圧され、言葉を失った。
 そこで、ハッと何かに気付いたかのように、アリスは口元を手で押さえて目の前に横たわる兄を見る。今のはしたない言葉づかいを聴かれてしまったかと不安に思ったが、不幸中の幸いというか、彼の意識がもうろうとしていたおかげで、その怒声は聞こえていない様子だ。


 「……確かに、不死鳥(このコ)の血液や涙には、同族の傷や病を即座に癒す治癒能力があります」


 1つ呼吸を置き、いつもの猫をかぶった口調で、アリスは治療の手を止めることなく、言葉を紡いでいく。


 「でも、それはあくまでも『同族』の話……!
  最低でも、竜種のような強靭な肉体と生命力を持った同列の存在にのみ、効果があるんです!」


 おそらくはその昔、不死鳥が仲間や他の幻獣の傷を癒す場面を民衆が目撃し、ならば人間に対しても有効であると、勝手に思い込んだのだろう。それが、長年研究を続けていたアレク自身の結論だったのだという。


 「もしも人が摂取したら、肉体が過剰な治癒反応に耐え切れず、筋肉は断絶!
  臓腑は1つ残らず破裂し、ものの数秒で死に絶えてしまいます!!」

 『ッ!?』


 少女の口から飛び出したその内容に、誰もが驚愕のあまり目を見開いた。
 正直、危ないところだった。この場にアリスがいなければ、確証のない伝承に頼り、負けの確定していた賭けに乗るところだったのだ。その結果を思い浮かべ、皆は肩を震わせる。


 「…だから…たとえ効果が薄くても…こうやって水魔法に頼るしかないんです……」


 涙ながらに、少女が嗚咽交じりの言葉を漏らす。最愛の兄の命を即座に拾えない自身の無力に、打ちひしがれているのだろう。
 場に、静寂が流れる。


 「…なぜ……なぜ、こんなことを……ッ」


 不意に、横たわる少年の左隣に力なく座り込んでいる女性が、嗚咽にまみれた声を絞り出した。金色のショートカットに隠れた顔からは、とめどなく大粒のしずくがこぼれ、彼女が握る少年の左手を濡らしている。その姿からは、鋭く研がれた名剣のような鋭利さをはらんだ凛とした雰囲気など、微塵も感じられない。
 それも仕方ないことだろう。何しろ彼女は、意図していなかったとはいえ、敬愛する主であり義弟でもある少年を、あわや殺してしまうところだったのだから。


 「魔…法は、間に合…わない……。
  こう、でもしないとッ…ガホッ…あなたは、ミスタ・コルベールを……」


 聞けば、ひどく彼らしい理屈だった。
 少年がこの場に到着した時には、すでにアニエスはコルベール目がけて刃を振り上げており、両者を傷つけずに剣を止める魔法を使おうにも詠唱が間に合わない。ならばと、己の身体を盾としたのだ。それも間に合うかどうかは賭けに近かったが、結果はこの通りである。
 彼から見れば、とち狂ったアニエスがコルベールを襲っているように見えたのかもしれない。


 「しかし、ヤツはッ……!」


 アイエスは唇を噛みながら、嗚咽交じりの声で叫ぶ。
 コルベールはダングルテールを焼き払った張本人。そしてそれには、先代エルバート公であるアレクの父も関わっていた。信じられない内容だが、それでもそれが真実なのだ、と。自分は何も悪くはないのだ、と。そう言うかのように。
 しかし、その言葉は、


 「たとえ、仇であろうとも……殺すことは、許されません……」


小さく、そしてかすれた少年の声によってさえぎられてしまった。
 それを聞いた金髪女性は、驚きのあまりに言葉を失い、涙に濡れた目を見開く。


 「…ご存じ…だったのですか……?」


 代わりに口を開いたのは、アニエスの後ろで立ち尽くしていた禿頭の教師だった。


 「私がダングルテールを焼いた本人だと、アニエス君の仇だと、知っていたのですか……?」


 その顔は足元に崩れ落ちている女性同様に、驚愕に染められている。
 当然だ。アニエスはアレクにとって、いわば姉も同然の存在。その彼女が長年追い求めていた仇敵が目と鼻の先にいると知っておきながら、アニエスに報告することもなく、それどころか生徒として親しげに接していたなど、到底信じられない。彼の性格を考えれば、自分の仇を見つけたかのように激情を振るっても、何ら不思議はないのだ。
 その問いに、アレクは首を小さく縦に振って答えた。


 「これに…すべて書いてありました……」

 「! こ、これはあの時の……!」


 震える右手で、少年はズボンのポケットから1冊の手帳を取り出す。
 治療中の少女がその存在を目にして、思わず声を上げた。それは紛れもなく、先日アレクの部屋から出てきた、亡き父が書き下した日記帳だったのだ。
 そっと手帳を受け取り、タバサが中身をパラパラとめくる。その内容は取り留めのないモノばかりだったが、ところどころにアレクの文字と思われるメモがはさんであった。


 「これは……」

 「一見…普通の日…記ですが、ところどこ…ろに不自然な文ッ…法が用いられています。
  それ、を解読した結果…その、メモの文章がッ……」


 怪訝そうに眉を寄せる少女に、銀髪の少年は苦痛に悶えながら言葉を絞り出す。
 要するに、文章のところどころに暗号化された違う文章が隠されており、それを解読した結果がこのメモなのだろう。言われてみれば確かに、単語のスペルや接続詞の使い方など、細かいところに違和感がある。
 タバサは素早くメモ書きに目を通す。そこには少年の言葉通りに、全ての真実が記されていた。
 アルバートとコルベールが旧知の間柄で、無二の親友であること。ダングルテールを焼き払った部隊の隊長がコルベールであり、アニエスを炎の中から救ったのも彼であること。そして彼に殲滅を命じたのは、他でもないアルバートであること。他にも、その裏でうごめくリッシュモンの陰謀や、アニエスをエルバート家に招いた経緯などが、事細かに書かれている。
 しかし、


 「……ほとんど、謝罪と懺悔の言葉……」

 「「ッ!」」


その大半は、己の力不足で人生を大きく捻じ曲げてしまったコルベールやアニエスへの、悲哀と後悔にまみれた言葉が書き連ねられていた。よくよく見れば、手帳の各ページがゴワゴワになっており、文字もところどころがにじんでいる。おそらくそれは、古いからだけではなく、涙の痕なのだろう。
 ショートカットの少女の言葉に、女性と教師がまたしても言葉を失う。それほどまでに、かの男は思いつめていたのか、と。


 「コレを見たのが…数年前だったなら、ボクは間違いなく、あなたを殺していた……」


 アレクが視線をコルベールに映して、アッサリとそう言った。
 言われた本人は、動じる様子がない。それが当然だとでも言うように、視線すらそらさずに少年を見つめている。


 「事実…解読した当初、リッシュモンを殺した暁には…あなたもと、考えていました……」


 親しい人間とはいえ、アニエスの人生を踏みにじった彼を、許すわけにはいかない。しかし、義姉に恩人でもある彼を殺させるには忍びない。ならば、自分がその全てを背負おうと、そう決めていたのだという。
 しかしそこで、エメラルドの視線が1人の少年へと移った。


 「…あの、瞬間までは……」


 心配そうに見下ろしてくる身分違いの親友を見つめながら、血に濡れた口元をほころばせる。


 「あなたの言葉が……ボクの目を、覚まさせてくれたんです……」


 血の気のないその顔に浮かぶのは、悲しげな微笑み。
 気取らず、常に真っ直ぐに突き進む使い魔少年の言動が、復讐という闇に塗りつぶされたアレクの心に、一筋の光明を差し込んだ。
 思い出すことができたのだ。自分が愛した少女の笑顔を。悟ることができたのだ。自分の行動が、どれだけ愚かなモノであるのかを。


 「あなたは、言ってくれました……。
  マリィの、仇討ちを…心に決めたボクのッ…感情を……否定することはできない、と……」


 その言葉に、この場に居合わせた大半の者が意味を理解できずに怪訝な顔を見せるが、あの劇場での一件を見ていた者は命を絞り出すかのような呟きに、半ば聞き入っていた。


 「嬉し、かった……」


 目尻から、一筋のしずくがこぼれ、頬を伝う。
 てっきり、否定されるとばかり思っていた。口調に反して崇高なる精神を持つこの少年から見れば、自分の選んだ道はまさに修羅。返り血で真っ赤に彩られた、薄汚い人生だろう。拒絶されても文句は言えない。いや、それが当然とすら思っていた。
 しかし、彼の口から飛び出したのは、否定ではなく、肯定の言葉だった。『愛する人を殺されて、復讐を誓ったその気持ちは、分からないでもない』と、そう言ったのだ。
 その言葉に、どれだけ救われたか。


 「でも…それは、やっぱり間違いなんです。
  …『仇をッ、討ちたい』という欲望に突き動かされッ…人を、殺めれば……それはただの、殺戮者だッ……!
  己の、出世のために…マリィを殺めたあの下衆と、同じになってしまう……!!」


 涙のにじむエメラルドの瞳。悔しげに歯をかみしめ、口から血を吐き出しながら、少年は声を絞り出した。


 「…あなたには、ヤツの同類に(そう)なってほしく…なかった……」


 再び視線をアニエスへと戻し、そう語りかける。


 「…私は、あなたのような聖人ではありません……。
  すべてを水に流し、コルベールを許すなど、とても……!」


 しかし、復讐に駆られた女性はそう絞り出す。
 アレクは、今は亡き想い人を、彼女の言葉と笑顔を思い出し、復讐の手を止めた。確かに、仇討など褒められた行為でないことは、アニエスも重々理解している。が、だからと言って、仇敵の罪を許し、胸の内で暴れ回る激情を消し去るなど、彼女には到底できない。
 と、そんな女性の言葉を、少年の悲しげな微笑みが遮った。


 「何を、勘違いされているのかは…分かりませんが……ボクはヤツをこれっ…ぽっちも、許してなど…いません」


 その言葉に、アニエスのみならず、ルイズやサイトまでもが目を大きく見開いた。
 アレクがリッシュモンを私刑ではなく、法にのっとり裁く決意をしたのは、多少納得はできないまでも、復讐心が薄れた表れだと、彼らは思っていたからだ。


 「実質死刑が確実となった、今でも…ヤツをこの手で、八つ裂きにしてやりたいとさえ…思っているんです……」


 ところが、彼の復讐心はまったく薄れてなどいなかった。その瞳に宿るのは、間違いなく憎悪と殺意の炎。一瞬前まで見せなかった危ない輝きが、そこにあったのだ。
 だが、よくよく考えてみれば至極当然の話である。いくら『復讐』を醜い行為だと認識したからといって、今さらになって想い人を殺めた輩を許せるわけがない。17歳の少年にとって、5年という歳月は、人生の約3分の1だ。そんな時間を復讐に費やした彼だからこそ、分かる。『仇敵を許す』という行為は、どこぞの世間知らずが童話の中に描く幻想。きれいごと以外の何物でもないのだ、と。
 ましてや、文字通り人生をかけて復讐を誓った義姉なら、なおさらだろう。


 「でも、耐えなければいけない……。耐えなくては、いけないんです……。
  憎しみを振り…まいても、そこからは、憎しみしか…産まれないのですから……」


 しかし、その言葉と共に、深淵の炎は瞳の奥へと消えていった。
 でき得るなら彼も、仇は自らの手で討ちたいだろう。だが、それでは先ほど彼自身が語ったように、『復讐』という手前勝手な欲望で人を傷つけることになる。出世欲におぼれて他者をしいたげてきた憎いあの男と、同じになってしまう。それだけは、その一線だけは、越えてはならない。


 「もちろん…あなたにとって、それがどれだけ、苦痛であるか…分かっているつもりです……。
  だからこそ、全てを闇に葬ろうと……」


 その呟きに、コルベールが反応を示した。
 記憶の片隅で漂っていたあの日の記憶が、急激に浮上してきたのだ。


 「もしや…極意公文書館の、例の資料のページを破り捨てたのは……」

 「…ボクです……」


 もともと、言うつもりだったのだろう。教師の疑問を、少年はアッサリと肯定する。
 そうすることで、アニエスが真相へと至る道を消し、全てをうやむやにするつもりだったのだ。それで少なくとも、誰も不幸にならずにすむ。義姉が復讐と理性の間で思い悩むことも、コルベールが良心の呵責にさいなまれることもない。いずれは彼女も、復讐以外の道を見つける。そう、思って。
 だが、


 「しかし、やはりそれは…フェアではなかった……。
  あの日…あなたを無理に…引き、止めてでも…面と向かって、話し合うべきだった……」


それは、卑怯なやり方だ。見たくない現実にフタをして、逃避しているだけだ。
 たとえ苦悩の中へ追い落とすことになろうとも、真実を伝え、その上で思いとどまるよう説得するべきだった。本当に彼女のことを思うなら、真に幸せになってほしいと願うなら。
 今さらながらに、数日前の学院の書物庫でのすれ違いが後悔を呼ぶ。


 「あなたはもう、気づいているはずだ」


 じっと、アニエスの瞳を見つめ、優しく語りかける。


 「ミスタ・コルベールを…刺し貫くことを、あなたはためらった……。
  そうでなくては、ボクは間に…合わなかったでしょう……」


 そう。彼女が真に復讐のみに突き動かされていたとすれば、今こうして倒れているのは、アレクではなくコルベールの方だったはずだ。しかし、アレクは間に合った。コレの意味するところはたった1つ。すなわち、アニエスはコルベールを殺すことに迷いを見せている。


 「…それは…コイツが、仇であると同時に……」

 「命の恩人だったから…だけでは、ありませんよ」


 目を泳がせながら細々と漏らす義姉の言葉を、少年は遮った。


 「あなたは元々、心優しい人です……常々、ご自分が選んだ道にも…疑問を持っていたはず……」


 その言葉に、アニエスの肩がわずかに震える。
 確かに、幼少の時分にはそんな感情もあった。仇を討つとアルバートに宣言しておきながらも、心のどこかでエルバート公夫人の悲しげな顔や、身分違いの義弟の涙がチラつき、一線を越えられずにいたのだ。


 「そんなあなたに、ここまでさせて…しまったのは……間違いなく、ボクです……」


 そんな状況も、5年前を境に急転する。
 誰よりも義姉の復讐を嫌がっていたアレク自身が、同じ暗闇へと身を落としてしまったから。そんな彼に引きずられるように、アニエスもまた本格的に復讐への道を歩き始めていったのだ。


 「申し訳ないと、思います……。全部、ボクの身勝手だと…分かっています……!
  父を、ミスタ・コルベールを…そしてボクを、許してほしいだなんて…言いません」


 自分も復讐に走っておいて、彼女もこちら側に引きずり込んでおいて、今さらこんなことが言えた義理ではない。そんなことは理解している。


 「でもッ……! それでもッ……!」


 言わなくてはならない。たとえ、どのように恨まれ、どんなになじられ罵倒されようとも。


 「あなたに、復讐(こんなコト)をしてほしくないッ! ずっと、あの頃のあなたでいてほしいんです!
  こんなっ…誰1人、救われない結末なんて、ボクは嫌だッ!!」


 大粒の涙を流し、口の端から血を吐きながら、少年はかすれる声で慟哭する。傷口から、一筋の血柱が小さくはねた。
 義姉が父の友人を手にかけ、彼の教え子達は悲しみに暮れ、復讐を果たした彼女自身も一生モノの十字架を背負うことになる。そんな救われない終わり方は、絶対に受け入れられない。


 「あなたには…笑顔と花が……1番…似合うと…思…う、か……ら……」


 尻すぼみに小さくなっていくその言葉を最後に、少年は目を閉じた。


 「…アレク様……?」


 1つの不安に襲われ、アニエスは彼の手を強く握り、震える声で呼びかける。だが、返事はない。
 最悪の結末が、脳裏を駆け巡る。


 「これ以上の会話は本当に命が危ないので、強制的に眠っていただきました」


 その場に絶望が漂い始めたその時、少年の傍らで杖を振るい続けている紫ブロンドの少女がそう呟いた。
 どうやら、麻酔を兼ねた睡眠魔法を施したらしい。皆の口から、安堵の息が漏れる。


 「アニエスさん」


 と、その時、アリスが向かい側に座り込む女性へと呼びかけた。


 「あなたが、いつどこで誰を殺そうと、私の知ったことではありません」


 治療中であるため、視線は患部に向いているが、言葉の節々に感じ取れる刺々しさから、彼女に対して友好的な感情を抱いていないことだけは分かる。
 アニエスはそれを、むしろ当然だと思った。何しろ自分は、彼女の慕う実の兄を、故意ではないとはいえ殺しかけた人間なのだから。


 「でも、お兄様が望むのなら、あなたには復讐などさせません。断固として」


 それは、殺気をはらんだ宣告。年端もいかない少女の気配に、銃士隊隊長は背筋がうすら寒くなるのを感じた。


 「…彼の気持ちを踏みにじるなら、その時は私が許さない」


 その後ろに立つ青髪の少女からも、最後通告を叩きつけられる。


 「…………」


 そんな少女達に対するアニエスの返答は、無言だった。彼女の中では、様々な思いが駆け巡っているのだ。


――――ボクはヤツを、許してなど…いません


 脳裏に蘇る、少年の言葉。
 今さら、仇を許すことなどできない。それは、彼も同じだった。でき得ることならば、激情のままに、自らの手で終止符を打ちたいとも言っていた。


――――でも、耐えなければいけない……。耐えなくては、いけないんです……


 しかし、それはただ、自分を納得させるための、憂さ晴らしでしかない。復讐を果たしたその瞬間、自分はそれまで忌み嫌っていた利己主義者どもと、まったく同じになってしまう。


――――憎しみを振り…まいても、そこからは、憎しみしか…産まれないのですから……


 そして、不幸と憎しみの呪われた鎖は永遠につながっていく。


――――彼の気持ちを踏みにじるなら、その時は私が許さない


 それは、目の前にいる2人の少女を見ても、明らかだ。自分が1歩を踏み出せば、今度は彼女達が、いや、アレクやコルベールを慕うすべての人間が自分を恨み、憎むことになる。


――――アニィには、笑顔とお花が、1番似合うと思うから!!


 不意に、幼少の頃に少年から贈られた言葉がフラッシュバックした。
 まったく同じセリフを、つい先ほど贈られたことに、アニエスは自嘲気味に苦笑する。彼は、10年以上も前から何1つ変わらない目で、自分を見てくれていた。欲望に走り、汚れきった自分を、まるであの頃のままであるかのように見てくれていた。嬉しいやら、情けないやら。


 「……コルベール……」


 俯いたまま、アニエスは小さく呟き始める。


 「私は、お前が憎い……。それは、それだけは…今でも変わらない……」

 「…………」


 言葉の送り先である男性は、全てを受け入れるかのように瞑目し、その一言一言に耳を傾けていた。


 「しかし、私は貴様を殺さない……」


 その言葉に、場の空気がザワリと小さく震えた。


 「…それで、いいのかい?」

 「正直、納得しきれるかと訊かれれば…答えは否だ……。
  だがそれ以上に、私はこの方の言葉を、意思を…殺したくない……」


 問われ、答える。両の手で握られた少年の左手甲に、ポタポタとしずくが落ちた。


 「この方は私を信じてくださったのだ……。あの頃と、寸分もたがわずに……!」


 右手で己の顔をぬぐい、歓喜の声を上げる


 「世界は、憎しみと欲望の連鎖で満ち溢れている……。私は、その中の1つを断ち切る機会を賜ったのだ。
 これに応えずして、騎士を名乗ることなど、どうして出来ようか……!」


 そこにあったのは、激情のままに荒野を駆ける復讐者などではなく、威風堂々とした、王家を守る守護隊長の姿だった。


 「憎しみを…恨みを忘れることなどできない。
  しかし、アレク様がそれを胸に秘めて耐え抜くとおっしゃるならば、私はお供したいのだ。
  苦痛の先にある、輝かしい未来へと……!」


 その言葉に、その姿に、皆は笑みを漏らす。故郷を奪われたことで止まっていた時計が、今ようやく、時を刻み始めたのである。
 と、その時だった。


 「やれやれ、地が固まるために必須とはいえ、激しい土砂降りだったな」


 不意にどこからか漏れる、そんな呟き。聞き覚えのない声だ。


 「誰だ!」


 敵の残党かと警戒を見せるサイトの目に、1人の人物が映り込む。
 軽い足取りで食堂の床を叩く女性。流れるようなプラチナブロンド。切れ長の双眸に輝く真紅の瞳と、バラの様に赤く美しい唇。身の丈は、サイトと同じくらいだろうか。


 「身構えなくともよいぞ、少年。私は敵ではない」


 使い魔少年の態度を見て、長身の美女は杖を振る。途端に、彼女の横にドスンと、巨大な氷塊が降ってきた。目を凝らして見れば、その中にはメンヌヴィルの部下である傭兵達。皆一様に、恐れおののいた表情のまま、まとめて氷づけにされている。


 「ッ! いつの間に……!」


 コルベールの隣に控えていたキュルケが、思わず声を上げた。
 辺りを見回せば、先ほどの作戦で身動きが取れなくなっていたはずの傭兵達が、いなくなっていたのだ。


 「どさくさに紛れて逃げようとしていたので、捕まえさせてもらった。これで信じてもらえただろうか?」


 至って無表情のまま、背中の剣に手をかけたままの少年へと問いかける女性。
 サイトは柄から手を離し、場に走っていた緊迫感も和らいだ。


 「私を知らぬ者も多いようだから、一応自己紹介といこうか」


 そして、誰かの口が動くよりも早く、彼女は話しを進めていく。
 皆の様子から、次にどんな質問が飛んでくるか予想したのだろう。かなりの洞察力の持ち主である。


 「名は、ジョゼフィーヌ・マリア・ローズ。王族分家・エルバート家にお仕えする、ローズ家の現当主だ。以後よろしく」


 欠片も微笑むことなく、社交辞令の挨拶を述べる氷の美女。
 サイトはその時、少しばかりの違和感を覚えた。全くの初対面であるはずの彼女に、すでにどこかで会っているかのような、そんな感覚を。

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