「――であるからして、より純度の高い鉄を得るには、より高温に熱する必要が―――」
黒板の前で論ずるコルベールの言葉を、少年は頬杖を突きながら聞き流していた。見れば、右隣に座っている主人も、どこか心ここにあらずの様子である。
自分達だけではない。この教室に集った生徒達は皆、多かれ少なかれ授業へ集中できていない。教鞭を執るコルベールですら、若干ボーっとしているように見える。
それも、当然だと思えた。なぜなら少年の左隣が、ぽっかりと穴が空いたかのように空席になっているからだ。
「…………」
じっと、誰もいないその場所へ視線を送る。いつもなら、眼差しに気付いた彼が、笑顔で小さく手を振ってくれるのだが、それもない。
「…どうしてるんだろうな…あいつ……」
ふと漏れる呟き。それに応えてくれる親友は、どこにもいなかった。
〜第54話 『剣の都』〜
学院へアルビオンが襲撃してから7度目の日が昇ったその日、少年は数人の友人達と共に、トリステインの東部にある大都市を訪れていた。
その名も、『エルバート領』。王族分家であり、国軍の最高責任者を兼任するエルバート家当主が治め、北にゲルマニア、南にガリアとの国境が存在するこの地は、貴重な貿易の場としてだけではなく、重要な軍事拠点としての役割も担っている。そのため、円形に広がる都市を囲う形で、巨大で分厚い外壁がそびえ立ち、外部からのあらゆる害悪から民衆を守っていた。数ヵ所に存在する門をくぐる以外に出入りする手段はなく、そこに常駐する兵士により行われる厳重な入都審査に合格しなければ、たとえ貴族といえども足を踏み入れることは叶わない。
「…でけぇ……」
馬車から降り、目の前の圧倒的な存在を見上げて、サイトは思わずそう漏らした。
そこにあるのは、ある意味では首都・トリスタニア以上の文化レベルを誇るこの都でも、ひときわ目を惹く建造物。町の中心にその身を構える、領主の屋敷。それをグルリと円形に取り囲んでいる、城壁と外堀だ。
高さ10メイルはあるだろう城壁の向こう側から、天高くそびえる円錐形の塔がこちらを文字通りに見下ろしている。おそらくはあれが、かの少年の実家の屋根の一部なのだろうが、その造りや大きさは『屋敷』というよりも『城』のソレだろう。
なお、城壁には甲冑の騎士を模した無数の巨像が、そしてその一角、少年の眼前にある巨大な石造りの門には、ユリの花に2本の剣が交差したエルバート家の紋章が彫り込まれている。なかなかに凝った造形だ。
「ヴァリエール殿のご実家も、似たようなモノだがな」
「……マジ?」
落ち着きなく、目の前の門とその向こうに見える城を眺める少年に、金髪の近衛隊長がため息交じりにそう漏らした。
自分の主や親友が、並はずれて位の高い貴族であることは前々から分かっていたが、さすがに実家が『城』であるなど予想外だったらしく、サイトは目を丸くする。生活レベルの違いを、改めて認識しているのだろう。
「それにしても…なんだかすごい光景ですね……」
「さすがはトリステイン一の軍事都市よね……」
後方に広がる城下町を見渡し、シエスタとモンモランシーが呟く。
見れば、そこかしこに甲冑を着込んだ者や、腰に帯刀した者が、広い街道や町並みの中を普通に行き来している。驚きなのが、買い物をしているご婦人ですら、何かしらの武具を身に着けている点だ。
それもそのはず。何しろ、この地に住まう民のほぼ全員が、老若男女を問わず、何かしらの武芸を身に着け、有事の際には優秀な兵力として動けるようにしているのだから。モンモランシーの言うように、さすがはトリステイン最強の軍事力を誇る都市である。
「でも、なんかちょっとおっかないわよね。夜とか辻斬りが横行してそう……」
法衣に身を包んだ中年教師に腕をからませつつ、キュルケがそう漏らした。
確かに、これだけ武器がうろついている状況を見れば、夜の外出は不安が募る。連続殺人事件が頻発してもおかしくはないだろう。
「いや、治安レベルは、むしろ首都よりもいいはずだ」
しかし、そんな褐色女性にコルベールはそう返した。
驚くべきことだが、こんな状況でも治安はすこぶる良く、むしろ首都よりも安全なほどなのだ。
「…みんな、いい人……」
それは一重に、この町に住まう人々の人柄ゆえなのだろうと、タバサは小さく呟いた。
見れば街道のど真ん中で、甲冑に身を包んだ男性と、巨大な大剣を背負った女性が、仲睦まじく談笑している。違う場所でも、各々に危険な代物を身に着けた人々が、和やかな空気で思い思いに過ごしているのが見て取れた。
「ま、殿下が統治されているんだから、当然の結果よ」
まるで自分のことのように誇らしげに語る、ヴァリエール家長女。
「ご先代が殿下の外出をあまり強く言われなかったのも、分かる気がするわ……」
姉の言葉を得て、今は亡き先代エルバート公の心中を察するように、次女が呟く。
大事な跡取り息子がたびたび城下町に出歩いていた事実を、先代が半ば黙認していたのも、この領地と領民の気風があったからこそだったのだろう。
と、そんなふうに領内の様子を評していると、
「ようこそいらっしゃいました」
沈黙を守っていた城門が開き、中から白髪の混じった頭髪をオールバックにまとめた老紳士が出迎えてくれた。
この場にいる面子のほとんどが初対面だが、サイトはその人物に見覚えがある。以前、学院までアレクを連れ戻しに来ていた、この館の執事だ。
「久しぶりね、セルバート」
「はい。その節は、ご迷惑をおかけいたしました。使い魔の方も、お元気そうで」
ルイズが彼の下へと歩み寄り、言葉を交わす。
「それで、アレクは……」
ルイズの隣に足早に並ぶや否や、サイトは本題を切り出した。先ほどまで驚きが張り付いていた顔は、不安と焦燥に染められている。
「ご案内いたします。まずは、馬車にお乗りください」
焦る少年をなだめるかのように、老執事はそう語りかけるのだった。
城壁内部には広大な敷地が広がっており、そこかしこで木々や草花が風に揺れていた。城門から続く道を馬車に揺られながらたどっていけば、ほどなくしてエルバート城へとたどり着く。
小さな門をくぐり、馬車から降りてみれば、そこには細かな装飾の施された大きな噴水がたたずんでいた。見渡せば、そこは広場のようになっていて、一面に色彩豊かな花達が植えられている。そんな憩いの空間をグルリと半円状に囲むような形で、屋根のついた渡り廊下が城から伸びているのが見えた。
噴水の向こうに見える扉をくぐれば、そこはもう城内だ。頭上に巨大なシャンデリアが浮かぶ、広々としたホールが広がっていた。前方には2階へと続く幅広の階段があり、その両端に道を作るかのような形で若い執事やメイド達が並んでいる。
「ここは、舞踏会などにも用いられる大広間にございます」
豪華絢爛な様式美に彩られたその空間を見渡し、瞳を輝かせ、または目を丸くする客人達に、セルバートがそう補足の説明を入れてきた。
多くの客人をもてなすその性質上、この城の中で最も豪華な造りになっているのだとか。
老執事に導かれるまま、一同は2階へ上がり、長い廊下を歩いていく。右手には窓が、左手には歴代の当主と思われる紳士達の肖像画がズラリと並んでいた。
そして、その先にある部屋の1つへと通され、
「! お前っ……!」
そこにいた先客に、サイトは驚愕のあまりに目を見開いた。
「やあ。お先にお邪魔させてもらっているよ、サイト君」
そこには、ソファーに腰掛け、出された紅茶を優雅に飲みながらこちらに手を上げる、神官少年の姿。
「ただ今、アレク様をお呼びして参ります。何かご用がございましたら、こちらの者にお申し付けください」
そう言ってセルバートは退室していき、代わりに若い執事とメイドが1人ずつ入ってきた。
いつまでも立っていても仕方がないので、サイト達はそれぞれ思い思いの場所に腰を下ろす。幸いにして部屋は広く、イスの類いも豊富に並べられており、場所には困らなかった。
執事は扉の脇で、メイドは大きな窓の側で直立不動だ。
「まったく…学院にいないと思ったら……。ここでいったい何をしてるの?」
「ひどいなぁ。君達と同じだよ」
ため息交じりのルイズの問いかけに、ジュリオは苦笑交じりに返答する。
彼らがここに来た理由。それは、先の襲撃事件で負った傷を治療するために妹と共に領地へ戻り、それっきり連絡がないアレクの様子を見るためだ。
最初はサイトが、主であり、アレクの幼馴染でもあるルイズに、なんとか見舞いに行けないかと相談したことが発端だった。彼女としてもかの少年の容体が心配ではあったので、快くその要求を承諾。セルバートへと連絡を取ったのだが、それをどこからか聞きつけたタバサとキュルケが自分達もと手を上げ、さらにはモンモランシーやシエスタも便乗。ヴァリエール家の姉2人も加わり、最終的にコルベールが監督役、アニエスが護衛兼馬車の操り手として付き添う形になったのだ。
まあ、老執事が自分達をアレクの病床へ案内せず、本人を呼びに行ったところを見ると、大事には至っていないようだが。
「…あら? この絵って……」
部屋を見渡していたモンモランシーが壁に飾られている1枚の油絵を認め、首をかしげながら歩み寄る。
「殿下と……誰かしら……」
そこには、幼い頃のアレクと思われる少年と、その横で椅子に座るブロンドの少女が描かれていた。
「綺麗……。天使みたい……」
「…ま、キレイってのは認めてあげてもいいけど」
あまりにも可憐なその姿に、シエスタはうっとりとした表情で賛辞の言葉を呟き、キュルケは嫉妬交じりに言葉を漏らす。
齢は、どう見積もっても10歳やそこらだろう。しかし、そんなことは些細な問題だと思えるほどに、それほどまでに、額の向こうで微笑む少女は美しかったのだ。
と、その時、サイトがあることに気付く。額の中の2人の手が、仲睦まじく繋がれていることに。
「…この子、もしかして……」
ふと、少女の素性に勘付き、使い魔少年は声を漏らす。
「良くも悪くもおとなしかったあの子の、最初で最後のわがままでした」
それとほぼ同時、聞き覚えのない声が、扉の方から聞こえてきた。
見れば、そこには紫のかったプラチナブロンドを腰まで伸ばした美女の姿。心なしか、髪の色だけでなく、顔つきもどことなくアリスに似ている。
「お久しぶりです、おばさま」
「ええ、ごきげんようルイズさん。何年ぶりかしら」
ルイズが女性へと歩み寄り、談笑し始めた。見渡せば、アニエスやコルベールが恭しげに跪いている。
その瞬間、サイトは直感した。その女性の正体を。
「ようこそ皆さん。私はセレーナ・フィア・ローズ・エルバート。エルバート家現当主・アレクサンドラの母です」
そう言ってにこやかにほほ笑むその仕草は、かの神童と実によく似ていた。