「ありがとうございました」
そう言いながら、学院長の執務室を後にする。
長い螺旋階段は暗闇に包まれ、壁に揺れる炎がわずかばかりに足元を照らしていた。
「…………」
そんな空間に規則的な足音を響かせつつ、アレクは思考する。
学院長の話を聞く限り、特に不審な点はない。かの伯爵は確かに昨日この学院を訪れたが、それはいつも通り王宮の勅命を伝えに来ただけのこと。その内容も、盗賊への警戒を促す通知書と、学院に勤める人員の配置移動通達くらいだったそうだ。
「サイトさん…何があなたをそこまで……」
かの少年は、この国の常識などに全くとらわれない型破りな思考の持ち主だ。人によっては、それが異常と取れるのかもしれない。が、完全無欠な無法者、というわけでは断じてない。彼の言動には、彼の信念に基づく、何かしらの理由や要因があるのだ。
その彼が、どうして1度学院を訪れただけの貴族に、わざわざ屋敷を訪ねるなどという執着を見せるのか。日頃の扱いに耐えかね、主を鞍替えしようと思った、とういうわけではないだろう。最近はそれなりに主従の絆も深まって来ていたと思うし、何より彼は1度顔を合わせたかもわからないような相手に尻尾を振るような駄犬ではない。それが、モットのような人間ならばなおのこと。
「…伯爵のような……?」
そこまで考えたところで、ふとこれまでの経験が頭をよぎる。
気が付けば、すでに建物の外に出ており、雲の切れ間からこぼれ出る、淡い月明かりの中に立っていた。
「まさか……」
突拍子もない想像に何をバカなと思いつつも、かの伯爵の人柄を思い出し、あり得ないことではないと思い直す。
そうだ。もし想像通りなら、サイトがあれほどまでに必死になるのも頷ける。昨日感じた違和感も、これで説明がついた。
「問題は、王宮の勅命ですね……」
顎に手を当て、さらに思考をめぐらせる。
いかにエルバート家当主といえども、今回のような場合、王宮の決定に逆らうことはできない。どうしたものかと考え、
「…あり得るのでしょうか……」
ひどく単純なことに思い至り、思考を止めた。
「あのお2人に限って、そんな横暴を許すなど……」
瞬間、全ての問題が氷解していく。
もしもそうだとしたら、この件の解決は実に簡単だ。早速、行動に移さなければ。
「というわけで、面倒事ですけれども、頼まれてくれませんか?」
使い魔は、何かと無茶をするルイズ達の動向を監視させているため、今は使えない。ならばと思い、背後に向かってそう問いかける。
「仰せのままに」
今の今まで誰もいないと思われていたその場所には、恭しく頭を垂れるプラチナブロンドの長身女性の姿があった。
〜第8話 『抗う者達・後編』〜
「学院の門弟もレベルが落ちたものだ!
オールド・オスマンに厳罰を要請せねばならん!」
モット邸の応接間に、不機嫌極まりないとばかりの中年男性の声が響く。
その正面に立っているのは、剣を片手に屋敷に乗り込んできたサイトと、そしてなぜか遅れて飛び込んできたルイズ、キュルケ、タバサの面々だ。想像するに、使い魔の姿が見えないことにルイズが気付き、キュルケの証言から行先を特定、タバサの使い魔に乗ってここまで来たのだろう。
「急を要したもので、許可なくお屋敷に侵入したことはお詫びいたします。
そして、使い魔の不始末は、主人である、このルイズ・ド・ラ・ヴァリエールの不始末……どのような罰でも、お受けいたします」
「ル、ルイズ……」
片膝をつき、今回の件について深々と詫びる少女。
そんな主の姿に、少年の心には申し訳なさと同時に複雑な心境が芽生えていた。
「王宮の官吏に剣を向けたことは重罪に値する。
家に累が及ぶことも覚悟しておくのだね」
「待てよ! 悪いのはオレだ!」
さらに事は、自分とルイズだけの問題では済みそうになくなっている。それはお門違いだとサイトが抗議するが、キュルケによって止められてしまった。
「モット伯爵? コレで手を打ちませんこと?
伯爵は、コレをいたくご所望とか」
そう言って彼女が取り出したのは、1冊の本。
モットはそれを見て、怪訝な顔をするが、
「申し遅れました。わたくし、キュルケ・フォン・ツェルプストーと申します」
「ツェルプストー……! ではそれは……!」
彼女が名乗った名前を聞くや否や、書物の正体を察したようだ。
ガタンと、座っていたイスから立ち上がる。
「はい、我が家の家宝、『召喚されし書物』」
目当ての代物が唐突に手に入ったことで、モットは飛び上がらんばかりの喜びようである。
「よかろう、今回の件については不問とする。帰ってよいぞ」
よかったと、胸をなでおろす一同。
キュルケが念のためにと、本を持って来たのが功を奏したようだ。
「それで、約束の方は……」
彼が書物を受け取った以上、これで取引は成立だ。約束はいつ果たされるのかと、サイトは問いかける。
だが、
「ん? なんの話だ?」
当の伯爵は、真顔でそうのたまった。
それを聞いた少年の顔が、怒りで赤く染まる。
「オイ! 話が違うぞ!
その本を持ってくれば、帰してくれるって言ってただろーが!!」
「平民ごときと交わした口約束など知らんな。第一、そんな口をきいてよいのか?
貴様の大事な主人にも、迷惑がかかるのだぞ?
今日のことは不問にしてやると言っておるのだ。ありがたく思え!」
「テ、テメェ……!」
要するに、不法侵入を盾に、約束を破る腹積もりのようだ。
サイトの目には、憤怒の炎が渦を巻いている。今すぐにでも、殴りかかってしまいそうな勢いだ。
だが、ここで下手な行動を取れば、伯爵の言うように、主人であるルイズにも迷惑がかかってしまう。
わがままで、面倒くさくて、可愛げのない主人ではあるが、自分のとばっちりでひどい目にあうのは、我慢できない。
少年は、唇をかみしめる。自身の無力を、痛感せずにはいられない。
しかし、その時だった。
「失礼します」
穏やかな口調とは裏腹に、蹴破ったのかと錯覚するほど強く、客間のドアがひとりでに開いたのは。
ある程度予想はしていたが、かの少年は想像以上に後先を考えない性格だった。
使い魔からの緊急報告がやって来たのは、部下に王宮へ確認を取ってもらった矢先のこと。さしもの神童も面を食らった。まさか追い返されたその日の内に、こんどは強行突破を仕掛けようなど、誰が思いつくだろうか。まったくもって型破りもいいところだ。
しかし、
「……でも、気持ちは分からないでもないですよね……」
かの少年がこのような無謀に走るのも、理解できなくはない。ただ身分が低いというだけで、親しい人が不当な扱いを受けるのは、実に耐えがたいから。
「…あの日のボクにも、彼の半分でも勇気があれば……」
何度目か分からぬ今さら過ぎる後悔にさいなまれ、少年は歯を軋ませた。
なぜ、もっと感情的になれなかったのか。なぜ、彼女よりも家を取ってしまったのか。なぜ、1人の人間として行動できなかったのか。悔いは数限りない。
だから、自分ができなかったことを平然とやってのけるかの少年がうらやましく、そして、とても尊い存在に思えるのだ。
「失礼します」
その行動は、称賛に値する。その心は、尊敬に値する。
彼の気持ちを、無駄にしてなるものか。そんな決意を心に秘め、少年は目の前に閉ざされた扉を開くのだった。
唐突に開かれた扉。その場にいた全員の視線が、そこへと集まる。
「ア、アレク……」
サイトが、信じられないといった顔で呟いた。そこに立っていたのは、今ここにいるはずのない人物であったから。
銀の髪、エメラルドの瞳、女性と見まがうばかりの整った顔立ち。その姿はまさに、ルイズの幼馴染にして彼の身分違いの友人、アレクサンドラ・ソロその人であった。
「……?」
そこでふと、少年は不思議に思った。
先ほどから一向に、伯爵の怒声が聞こえてこない。
この男の性格を考えるに、「勝手に人の屋敷に入るとは何事か!」などといって、すぐさま文句を言うはずなのだ。
しかし、視線を戻してみても、そのような行動に出るそぶりは見せない。それどころか、顔面蒼白で、魚のように口をパクパクとさせているだけである。
「で…殿下……! な、何故このような下賤な場所へ……!」
と、思ったのもつかの間。次の瞬間には、突然床に這いつくばり、額を地面に押し付けんばかりに頭を下げ始めた。
そしていつの間にか、扉のそばに立っている兵士や、ルイズまでもが片膝をついて頭を垂れている。正直、サイトは面食らっていた。それも仕方ないことかもしれない。今までにこのようなことは、1度もなかったのだから。
どうやらこの少年、貴族の中でもかなり偉い部類であるらしい。
「いえ、大したことではありません。
ミス・ヴァリエールとその使い魔さんの様子が少し変だったので、私の使い魔に命じて、お2人の行動を監視させていただいたのです」
伯爵の問いに、些細なことだとでも言うように、アレクは簡潔に答える。
そして、「それよりも」と、話を続けた。
「モット伯爵、級友達の無礼、心からお詫び申し上げます。
事の経緯は、学院長から聞かせていただきました。
あなたは先日、王宮の勅命を伝えに学院を来訪されたとか。
盗賊への警戒と、学院からこの館への人員…すなわちシエスタさんの移動を」
「そ、その通りでございます! さすがは殿下! お耳が早い!」
伯爵はしきりにアレクの言葉を肯定し、褒めちぎる。
そう、サイトがかような無茶に走ったのも、全てはこれが原因だった。
事の始まりは今朝方、コック長のマルトーから、シエスタが伯爵の屋敷に移動になったことを知らされたことだ。当初は、彼女の意思を無視した横暴に不平を漏らすだけの彼だったのだが、主人や剣の口からその実態を聞かされて憤慨した。
この国では、貴族が若い娘を名指しで屋敷に雇い入れることがままある。しかしてそれは、単なる労働力としてではない。いわゆる、夜の相手として囲うのだ。残念なことだが、一部の貴族によるこのような横暴は、トリステインではごくありふれたモノになってしまっているのである。
アレクですらよく思っていないそんな風習を、遠方からやって来たサイトが看過できるはずもなく、彼女をなんとか取り戻すべく、奔走していたというわけだ。
とはいえ、シエスタの移動が王宮からの要請であったことは、サイト達も初耳だった。もしかしたら、昨日の今日で急な人事異動が成し得たのも、それが理由だったのかもしれない。
「しかし、だとすれば妙な話です」
「……は……?」
あくまでもにこやかに、少年は伯爵の前に立ってそう切り出した。
「王宮に先ほど確認を取ったところ、
『盗賊に対して警戒するようにとの勅命は出したが、メイドをモット家の屋敷に移動せよなどという命は覚えがない』
と、このような返答が返ってきたのです」
「うぐっ……!? そ、それは……」
ピラリと、部下に王宮から持ち帰らせた通達を広げる。
それを見て、伯爵が言いよどんだ。脂汗を吹き出し、顔面蒼白で床を見つめる。
王宮からの返答を考えるに、今回のシエスタの移動は、王宮からの命令などではなく、伯爵の個人的な行動だった、と見るのが妥当だろう。だが、学院長の証言がウソだとはとても思えない。
さらには、
「しかし、現にこのような命令書もあるわけですし、王宮の勘違いということも考えられますが……」
「ッ……!?」
盗賊の件とは別に『モット邸に人員を移動せよ』との旨の書かれた書面が存在している以上、やはり王宮からの報告が間違っていると見るべきなのだろう。
残る左手でもう1枚ピラリとかざし、アレクはわざとらしく唸る。
しかし、その命令書を見た途端、当のモットは悪かった顔色をさらに青くした。まるで、隠し金庫に隠していた脱税の証拠書類でも暴かれたような顔だ。
「はてさて…これはいったいどういうことなのか……」
「…………」
あくまでも、どこかとぼけたような態度で、決して核心を突こうとはしていないが、アレクも本当は分かっている。モットが王宮からの命令書を改ざんし、シエスタが屋敷に移動するよう仕向けたのであろうということを。
彼女のことは以前から目をつけていたのだろうが、伯爵がそこまで手の込んだ方法を取ってまで屋敷に招いた理由はおそらく、アレクの存在にあるだろう。
平民を重んじる彼のこれまでの功績は、ここトリステインではあまりにも有名だ。平民を不当に扱っていた貴族がその事実を知られたが最後、ことごとく厳罰に処せられているのである。
その彼の在学中に、学院のメイドを一身上の都合で屋敷に引き抜こうとしたならば、必ず邪魔が入る。彼に知られる間のないほど早急に、かつ誰も彼に知らせようと思い至らないほど合法的に引き抜く必要があった。そこで行き着いたのが、王宮の勅使という立場を利用した、勅命の改ざんだったのだ。命令書を預かる身であれば、それを書き換える機会など、いくらでもあったに違いない。
まあ、今はそれがアダになった現状なのだが。
遠まわしに己が罪を明かされている伯爵にしてみれば、まるで針のむしろにでも座っているかのような心地だろう。さらには証拠もすでに相手の手の中。まさに絶体絶命である。
「…どうでしょう、モット伯爵。ここはお互いのために、穏便に……」
極上の笑顔だった。しかし、目はまったく笑っておらず、拒否は許さないとばかりの威圧感がある。見つめられていないはずのサイトですら背筋が凍りつくような悪寒を感じたのだ。その目で射抜かれたモットは、生きている心地がしなかっただろう。
これは、事実上の脅迫だ。王宮の名を語ったことに目をつぶるから、シエスタを解放しろ。そして、ルイズ達に手を出すな、と。
「は…ははっ! シエスタをここへ連れてまいれ!」
笑顔での追及にとうとう耐え切れなくなったのか、はたまた和解という思いがけない逃げ道に光明を見たのか。兵士の1人に伯爵がそう命じ、今回の騒動は案外あっけなく幕を下ろした。
「…ふぅ……」
窓の外の月を眺め、1つ息を吐く。
あれから間もなくして、シエスタは自由の身となった。今はみんな、この学院に戻って思い思いの時間を過ごしているだろう。
「…ボクも、まだまだですね……」
今回の一件、本来ならば、昨夜のシエスタの態度で予期できたはずなのだ。サイトが自分の身も顧みず動いてくれたからよかったものの、それがなければモットの横暴を完全に見過ごしていた。反省しなければならない。
「…それはそうとして……」
中庭にて絶賛お取込み中の少年少女を、窓から見下ろす。
「仲がよろしいようで何よりですね」
暗くて顔はよく見えないが、状況と背格好からして、サイトとシエスタだろうか。何を話しているのかは大体想像がつくが、それだけに盗み聞きは無粋と思い窓から離れようとする。
が、
「ッ!?」
突然、2人の顔と顔が瞬間的に密着した。
角度的にどこの部位にしたのかは分からないが、アレはいわゆる接吻である。しかも、見間違いでなければシエスタの方からしたようだ。
「…い、意外と大胆な人だったんですね……」
咄嗟にしゃがんで隠れつつ、清楚で奥ゆかしいイメージだったメイド少女の予想外の行動に、顔を真っ赤に染める。忘れがちだが、極めてウブなイケメンだった。
まあ確かに今は夜も遅い時間であるし、周りに人の気配はない。平民の男女同士がどのような行為に走ったところでなんの問題もないのだが、一応彼はルイズの使い魔なのだ。こんな場面を彼女に見られでもしたらどうなるか。
「ちょっとアンタ! ご主人様の見てないところで何やってんのよ!!」
「ル、ルイズ!? ちっ違う! オレは別に何も……!」
「仮にもヴァリエールの使い魔が、いやしくもメイドとあんなっ……!
ご飯抜き程度じゃ許されないんだからね、この犬っ!!」
「おっ…お助けっ……ぎゃぁああぁぁぁあぁあぁああっ!?」
そんなことを考えていると案の定、窓の外から少女の怒声と少年の悲鳴が聞こえてきた。窓際の壁を背にして床に腰を下ろす貴公子の口から、思わず苦笑が漏れる。
「楽しそうですねぇ……」
なんの気兼ねもなく、自然体で本音をぶつけることができる相手ができて、うれしくて仕方ないのだろう。怒声の中にも、どこか楽しんでいるようなトーンが含まれている。まあ、本人に言うとむきになって否定してくるのだろうが。
中庭でチェイスを繰り広げる2人の明日が光に照らされることを願いつつ、アレクは部屋に灯るランプの炎を消すのだった。