小説『薄橙色の記憶 』
作者:美久()

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≪ 北海道への想い ≫


父が中学校を卒業したのはたぶん昭和20年代の中頃だ。
日本は戦後間もない頃で、誰も彼もが貧しくて、貧しいのが当たり前の時代だった。
父は中学卒業と同時に松山市の小さな医薬品卸の会社に就職したらしい。
中卒ということで、たいした仕事は与えられずバカにされる日々が続きすぐ退職したらしい。
「これからの時代、高校出てないと話にならない」
父は一念発起し、北海道の函館で酒屋を経営している母方の叔父の元へいくことにした。
わが家は江戸時代から代々石屋だったのだが、父の父親は戦争好きな人で、
支那事変以来ずっと海軍に従軍していていた人だった。
だから戦後もまともに仕事なんかしないので、わが家は大変貧しかったようだ。
父は「函館の叔父さんちで働いて高校を出してもらおう」と考えたようだ。

父が辿った函館までの道程を思ってみる。
わが家があるのは四国・愛媛県の中でも南の方の漁村だった。
まずここから船で宇和島市まで出るのだが、ここまで約1時間。
宇和島市から鈍行列車で高松市まで出る。この間がたぶん約5〜6時間。
高松から宇高連絡船で岡山宇野へ。
このへんからの時間経過は父から細かく聞いていなかったので曖昧になる。
次に岡山から汽車で東京まで行く。
そして上野から青森まで夜行列車で行ったらしい。
青森からはもちろん青函連絡船に乗ってついに函館へ到着する。
「丸二日かかったぞ」
中学校出たばかりの子供がたった一人でよくここまで行ったものだ。
父によると、函館は雪が積もっていたとか・・・
父は足元がぐしょぐしょになっていたらしい。
「まだ16歳の子供やったんや。北海道がこんなに雪積もるなんか知らんもんな。運動靴しかもっとらんかったしな・・・」
まる二日かかってようやく辿り着いた北海道。
連絡船や夜汽車を乗り継ぎ乗り継ぎして16歳になるかならないかの父が北へ北へとひたすらに向かっている。
どんなに心細かっただろう。
どんなに怖かっただろう。
「さみしかったなあ。怖くてたまらんかったなあ」
あるとき酒を飲みながらそうつぶやいたことがあった。
この話はなんどもなんども聞かされていた話だが、そのたびに父の眼には涙が浮かんでいたように思う。
父の北海道での暮らしはどうだったのだろうか?

叔父さんという人は「おんさん」と呼ばれていたが、酒屋の商売が成功してかなり羽振りが良かったようだ。
父はそこで配達の仕事を与えられ、また時間があるときは叔父さんの子供の家庭教師もしていたようだ。
「あのバカが今は学校の先生やっとるらしい。わしが教えたんや・・・」
ちょっと自慢げにそういったことがあった。
しかし配達の仕事はきつかったようだ。
南国育ちの父には冬の北海道のきつさは耐え難いものだったようだ。
「寒いなんてもんやないで。凍った五稜郭の堀を酒瓶積んだリヤカー引いて渡るんや。 近道やからな・・・」
「牛や馬と一緒やな・・・つらかったな・・・」
そういいながら、こみ上げる涙を拭っていたことがあった。
「うっかり素手でリヤカーの取っ手を握ったら『バチッ』いうて手が焼きつくんや」
「寒かったなあ。辛かったなあ。お前らなんかにゃ絶対耐えられん」
父は屋根裏部屋をあてがわれていたらしいがこれがまたきつかったみたいだ。
「隙間風が入ってきてなあ。寒かったなあ」
「朝起きたらな、布団の首の周りが凍っとるんや。寝とる間に息が凍るんやな・・・」
「下ではみんな暖かい部屋で寝とるのにわしは屋根裏部屋や」
「嫌やったなあ。情けなかったなあ。でも金はないしな・・・」
父は酔うとこういう話を聞かせてくれた。
父は大変な照れ屋だったから誰に言うともなくつぶやくのだ。


僕が結婚してからは妻のことが気に入っていて、妻を相手に北海道での苦労話を饒舌に話していた。
「この人がこんなに話をするとこ初めて見た・・・」
と母がいうほど僕の妻にはよくしゃべっていた。
父は高校を出ると北海道で自衛隊に入隊したらしい。
ただ、どういうわけで除隊して実家に帰ってきたのか?その辺の経緯は僕は知らない。
僕が覚えていないだけなのかもしれないけど僕は知らない。
父は僕が小さい頃、一度北海道を訪ねている。
「おんさん」こと叔父さんが亡くなった時だ。
この人物は親戚中の面倒を見た人なので親戚一同で北海道へ行った。
「遺産を勝手に持ち帰ったヤツラがいたぞ」
といって憤慨していたが、父も一個だけ金の指輪を持ち帰っていた。
「『ちょっとはめてみたら抜けんようになった』と言ってもらってきたんや」
とちょっと嬉しそうに話していた。

二度目に行ったのはもう晩年になってからだった。
還暦の祝いとして、僕と弟妹と三人でお金を出し合い、両親に北海道旅行をプレゼントした。
母によると、父は函館工業高校の同級生に連絡を取り何人かに会ったらしい。
ただ、肝心の母校には立ち寄る時間がなかったらしい。
父は母に「この坂を上ったとこに高校があったがもう建て替えしとるんや」とか話していたらしい。
二人はこのあと北海道を一週間以上かけてほぼ一周してきたようだった。
帰ってきてからも父は折々に
「北海道はいいなあ。また行きたいなあ」
とつぶやくように言っていた。
「また行きましょう。今度は子供たちも一緒にみんなで行きましょう」
相手をしていた妻がそう言っていた。

しかしそれから間もなくして父は食道癌を患った。
手術はしたものの、翌年肝臓に転移。
二週間おきに病院で検査していたというのに、転移が確認されたときはもう「末期であと半年」とか言われた。
最後はみんなで自宅で看取った。
このあとの経緯は別の章に書いた通りである。

僕は泣きに泣いたけど、しかし一番泣いたのは「もう余命がない」と妹に電話で告げられた時だった。
たしか僕は
「どうして?なんでや?僕はまだあの人に何もしてあげとらんのに」
と言った。
「あんちゃんは、あんなにしてあげたやん。十分したやん。父ちゃんはすごく喜んどったよ」
妹にそう言われた瞬間、何かが切れたように感情が溢れた。
堰を切ったように涙が溢れてきて言葉が出せないほど嗚咽した。
電話口で兄妹でおいおい号泣した。
あんなに泣いたのはたぶん生まれて初めてだった。
孫と酒と北海道が大好きな父だった。
僕が心の底から尊敬し慕う人物はこの人くらいだ。
無口だけど温かい男らしい男だった。
酒が好きでよく飲んで暴れたりしたけど、誰よりも家族のことを考えてくれていた。
どんなにつらくても愚痴をいうこともなくひたすら働いた人だった。
できればあと一回あと一回だけでいいから父が大好きだった孫と一緒に北海道へ行かせてあげたかったな。
もっともっとたくさんたくさん話をしてくれただろうな。
嬉しそうに湯飲みで酒を呑みながら恥ずかしげに孫に苦労話を聞かせている姿がはっきりと眼に浮かぶ。




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