小説『薄橙色の記憶 』
作者:美久()

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≪ 伝えたかったこと・伝えられなかった言葉 ≫


今年もまた父の命日がやってきた。
毎年、正月休みが終わると僕は父のことを思い出す。

父が末期の転移ガンで余命3ヶ月との宣告を受けてからというもの僕は
父にずっとあることを伝えようと思っていた。
いつもいつも言いたくてたまらないのに男同士の照れから伝えられないでいた。
伝えることができず、次の機会にでも・・・と思い伝えられない日が続いていた。

正月休み明けで、だらだらしつつもなんとなく仕事が軌道に乗り始めた頃、
実家の近くに嫁いでいる妹が泣きながら電話をかけてきた。
「父ちゃんが意識がないよ。もうもたないと先生が言ってる。早く帰ってきて」
と言う。
僕は驚いて家族を乗せて急ぎ帰宅した。
情けない話だが、車には当然のように家族全員分の喪服を積み込んでいた。

実家に帰ってみると父は冗談みたいな異常な呼吸を繰り返していた。
一分間に5〜6回しか息を吸わない。
ひと目で「残された時間はそれほど長くはない」とわかった。
それなのにそのときに至っても僕はその言葉を父に伝えることができないでいた。

その晩、僕はそばにずっといた。
何をするでもなく父のそばに座りずっと父の顔を見、父の息をする音を聞いていた。
やがて長い夜が明け、次の日の朝日が射し始めたころ父はすっと息をひきとった。
長い長い息継ぎの間がふっと途切れたかと思ったとき、看護士さんが父の名を叫んだ。
その次の瞬間にはもう父の顔色はいわゆる土気色に変わっていた。

今思えば、若い頃苦労して建てた思い出のこもったこの家で死ぬことができた父は幸せだったのかな?
いやそうではないだろう。
まだ60代半ばでの死はさぞ心残りだっただろう。

そして僕は、とうとう伝えたかったことを父に伝えることができなかった・・・

翌朝、火葬場で・・・
菩提寺の住職の読経と親族の泣き声や鼻を啜る音が響いていた。
やがて父の棺が霊柩車で運び込まれ鉄の扉の中へ入れられた。
白衣を着た係員の合掌と共に扉が閉じられた。
この後に及んでもまだ僕は父の【死】というものを実感していないように感じていた。

白衣の係員が僕にそっと近づき言った。
「喪主様、こちらへどうぞ」
信じられないことだが、この地方の風習で火葬の点火スイッチは喪主が押すことになっていた。
係員から小声でそのことを告げられ、僕は
「う、うそやろ・・・」
とつぶやいたのを覚えている。

僕はもつれる足でよろよろと前へ歩み出た。
赤い丸い押しボタンスイッチが示される。
「僕がこの手で父を灰にするのか?そんなこと・・・」
指の震えを止めることができないままスイッチへ手を伸ばす。

そのとき・・・
ようやく僕は今まで伝えよう伝えようと思いながら伝えることが出来なかった言葉を何のてらいもためらいもなく口にすることができた。
僕は父の遺影に真正面から向きあい、言った。

『今まで・・・今まで本当にありがとうございました!』

その声は泣き声まじりだったが室内に大きく響いた。
深く深く、長く長く、頭を下げて、そして僕は

「スイッチを押した・・・」

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