小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第14話<一敗>






 「姉さん」

 フラヴィを呼ぶ時、娼婦達の中にはそうやって親しみを込める者もいる。勿論、血は繋がっておらず、正式な契りを交わしたわけでもないが、それは彼女に対する、信頼と親愛の現れだった。

 「……リリーヌかい」

 呼び止められたフラヴィは、長い付き合いになる妹分を振り向く。リリーヌはパタパタと、足の裏を廊下に滑らせるようにして、小走りで近づいてきた。土足厳禁の板敷きは、相変わらず入念に磨かれており、彼女は少しスリップ気味に停止する。
 リリーヌの表情は、この曇り空のようだった。

 「あの……これ……」
 「ん?」

 フラヴィは、差し出されたリリーヌの手に視線を落とす。小さな包みが乗っていた。

 「お客さんからの、頂き物。滋養強壮の、妙薬だって……。その、あの人に……」

 アリスという少女の正体も、その正体であるアクセルがどのような状態にあるかも、フラヴィはリリーヌに打ち明けていた。他言するような女じゃない、という信用もあったが、それよりも、フラヴィにとってはケジメの意味合いが強い。
 真相を知らなかったとはいえ、フラヴィはリリーヌに、誘拐の実行を命じたのだ。リリーヌもまた、割り切れるような単純な心境ではない。フラヴィと同じく、罪悪感を抱え……フラヴィを諫めなかった事を、自らの罪であると考えていた。

 「自分で渡さないのかい?」
 「邪魔になっちゃうかも知れないし……。私に出来るの、これくらいだから」
 「……そうかい」

 包みを受け取り、きゅっと握る。中で丸薬が擦れた。

 「わかった、渡しておくよ。それと、あたしが言えた義理じゃないけど……あんまり、気にしない方がいいよ」

 罪悪感を持つな、というのも、無理な話だろう。
 今、リリーヌに出来ることは、客を楽しませることであり……そしてそれが最終的に、アクセルの力となる。その為にも、彼女は明るさを取り戻す必要があった。

 「うん……わかってる」
 「それじゃ。お互い、頑張ろうじゃないか」

 リリーヌと別れ、フラヴィは事務所の地下室へと向かう。

 アクセルの行動は、結局、一夜明けて朝になれば、他の娘達の知るところとなった。

 そもそも、隠し事など無理だったのだ。暇さえあれば可愛がり、暇さえあれば音楽を教え、暇さえあれば勉強を見て、暇さえあれば修行に付き合い、暇さえあれば遊んでやる。それが、ここでのアクセルの全てである。
 そんな彼が突然、研究室としても使っている倉庫に閉じ籠もるなど、前代未聞の出来事だった。

 地下に下り、倉庫まで来ると、扉の前に座り込む少女がいる。剣を抱き締め、膝を曲げ……かくんかくんと、頭を上下させている。

 「…………」

 フラヴィが、わざと足音を立てて近づくと、アニエスはハッと目を開けて飛び上がった。握ろうとした剣は、跳ね起きた拍子に床に倒れ、がらんがらんと音を立てる。

 「っ! しー……」

 剣に向かって、唇に人差し指を立てている所を見ると、寝惚けているらしい。しかしそれでも、すぐに覚醒すると、左右を見回してフラヴィに気付いた。

 「あ……フラヴィ姉か」
 「……ご苦労様」

 少女の様子に、どこか微笑ましいものを感じ、フラヴィは柔らかい笑みを浮かべる。アニエスはごしごしと顔を擦り、両手で頬を数回叩くと、長く息を吐き出しながら剣を拾い上げた。

 「何も、進展は無さそうだね」
 「そうみたいなんだ……」
 「差し入れがあるの。入るよ」
 「ああ」

 慎重な手つきで、ゆっくりと、倉庫の扉を開く。その中の隅の一角に、アクセルはいた。

 床には書類やメモが散乱し、本が積み上げられている。粗末な木製のテーブルの上にも、走り書きの紙片や見慣れない器具、本から引きちぎられたページが、所狭しとひしめいていた。
 壁に掛けられた黒板にも、隅から隅まで文字が並んでいる。アクセルはその前に立ち、黒板を睨みながら、顎に手を当てていた。パクパクと細かく口が動いているが、勿論呟きも漏れてはいない。

 少年は布を手に取り、黒板の四分の一ほどを拭き取る。そして一言二言、改めて文字を並べると、背後のテーブルを振り返り、メモを漁り始めた。目当てのものが見つかったらしく、それを持ち上げた時にようやく、入ってきたフラヴィに気付く。

 「あーっ、と……」

 じっと、不思議そうに見つめてくる彼に、慌てて持ってきた包みを見せた。

 「リリーヌから。滋養強壮の妙薬だってさ」

 声を失ったアクセルだが、寧ろ呆れるほどに落ち着いていた。

 通常、没落貴族がその地位を取り戻すことは無い。それはまさしく、御伽噺なのだ。一度ドロップアウトした者を、貴族社会は受け入れない。
 声を封じるというそのアイテムは、まさしく貴族という肩書きを剥奪するもの。いや、去勢と呼んでもいい。奈落の底へと突き落とし、二度と這い上がれなくする為の、永劫の呪い。貴族という肩書きを奪った上に、貴族であったことを示す魔法さえ奪い去るのだ。
 マジックアイテムであるので、呪いを施すのは誰でも出来る。そして、使用する彼等に悪意は無い。悪意を持つのは、その奈落へと突き落とした者たち。

 フラヴィはふと、近くの樽に寄り掛かって眠るマチルダを見た。その隣にはミシェルが肩を並べ、二人の間に挟まれるようにして、ティファニアが寝息を立てている。寝室から引っ張ってきたシーツにくるまり、静かに眠る三人の少女は、花弁のように儚げな存在に思えた。

 この少女達は何故、それほどの悪意に晒されたのか。そしてフラヴィ自身、かつてはその誰かと同じ、この無力な子どもに悪意を向けた存在であることに思い至り、悪寒に震える。

 解呪など、出来る筈がない……フラヴィは密かに、そう考えている。

 マジックアイテムについて詳しくない彼女でも、わかる道理なのだ。簡単に解かれてしまうようでは、意味がない。悪意とは、そんな生易しいものではない。アクセルとて、そのくらい……いや、その道理がわからないような少年ではない筈だ。

 テーブルを回り、フラヴィの手にある包みを受け取ったアクセルは、ありがとう、と唇の動きで示した。

 何故、わざわざ礼を表すような余裕があるのだろう。既に彼は、賽を投げてしまったというのに。失敗が許されない状況になってしまったというのに。
 メイジとしての全てを、失ってしまうかも知れないというのに。

 「……?」

 早速包みを開き、丸薬の一つを摘み上げたアクセルは、不思議そうに首を傾げる。視線の先には、包みはもう無いというのに、未だ手を浮かべたままのフラヴィ。
 取りあえず、ポケットを漁ってみると、銀貨が指先に触れた。一枚取り出し、所在なげな彼女の手に乗せる。

 「……えっ、あっ、いやっ、ちょっとぼぅっとしてただけで! 別に、そういうわけじゃ……」

 ようやく意識を引き戻したフラヴィは、掌に置かれた銀貨を慌てて突き返そうとするが、既にアクセルは黒板に向き直っている。

 「…………」

 邪魔をするのも憚られ、ひとまず銀貨はポケットに放り込んだ。何か、励ましの声でも掛けようかと思ったが、それも止めておく。最良の選択は、黙って立ち去る事だ。
 なるべく音を立てないように、倉庫の出口へと向かい、ゆっくりと扉を開けた。

 (進めておこうかねぇ? ……ゲルマニアへの逃亡の準備でも。あっちは、金さえあればいいらしいし)

 ゲルマニアでは、平民でも金さえあれば、貴族になれると聞いたことがある。例え魔法が使えなくなろうが、アクセルならばゲルマニアで上手く渡っていくのではないだろうか……彼女の頭に、そんな予感が浮かんだ。








 魔法は全能ではないが、万能ではある。アクセルは黒板にルーンを書き込みながら、改めて考える。人のイメージが無限大であるように、魔法もまた無限大なのだ。原子配列変換を軽く行ったり、念動力を簡単に使えたり、空を飛び火の玉を放ったり。

 ハルケギニアで六千年もの間、支配体制の変化が起こらなかった理由の一つに、魔法があまりにも漠然とし過ぎていた、というのが挙げられるのではないかと思う。牛歩の如きそれではあるが、魔法も進歩してきたのだ。ただ、その道のりはあまりに、途方もなく長く、六千年の歳月を経ても終わりが見えない。本当に進歩しているのか、それすらも曖昧になってしまいそうになる。

 (まぁ、はっきり言ってしまえば……「クリリンのことかー!!」が使える世界なんだよな)

 魔力とは即ち精神力。巨大な精神のうねり……感情の爆発は、時としてメイジのクラスの壁すら越えてしまう。

 (……世界中の幼女マニアよ! オラに元気を分けてくれー!)

 両手を上げ、目を閉じ……我ながらあまりの不毛さに、首を振った。これではまるで、お手上げのポーズである。
 魔法を使った呪いが、魔法で解けない道理は無い。方法は必ず存在し、それを探し当てるだけなのだ。例えそれが、干し草の山からたった一本の針を探し出すようなものだとしても、諦めなければ徐々にゴールは近づいてくる。

 (そうですよね? 名も無きアバッキオの先輩さん)

 気を取り直し、テーブルを振り向く。散らばるメモを整理していると、不思議と疲れが減っていることに気付いた。気のせいかも知れないような、そんな些細な感覚だが。

 (……これか)

 先ほどフラヴィが渡してくれた包みを開き、再び丸薬を取り出す。一見、難の変哲もない丸薬だが、ディテクトマジックを使用してみると、マジックアイテムの一種だと判明した。
 十本の指を揃え、丸薬を挟み、更に詳しく解析する。薬草から抽出したエキスに、薄めた水の秘薬を混合させて練り上げたもので、確かに疲労回復の効果を持つ。

 (成る程なぁ。取りあえず、身体によさそうなモンを混ぜてみたって感じか? ……けどこれ、確かにマジックアイテムだけど、材料さえあれば、平民でも作れそうだな)

 “マジックアイテムとは、必ずしもメイジが作ったものではない”と、黒板に書き込んでみる。

 「…………」

 少し考え、また文章を足す。

 “風石はマジックアイテムであるが、風石を使って飛ぶフネはマジックアイテムか?”

 アクセルは腕を組み、今度は長く考えた。己の問い掛けに答えるため、思考を巡らせる。

 魔法を使う時、その力の源となるのは精神力であり、それは勿論平民にもある。そして並のメイジよりも高い精神力を持つ平民は、別に珍しくはない。しかし、その精神力を魔法に変換する術を持たないが為に、平民は魔法が使えない。

 やがてアクセルは、己の問いに答える。

 “フネもまた、マジックアイテムである”と。

 風石を動力に変換する心臓部はともかく、それを包むフネという乗り物は、平民の手で作る事が出来る。

 (……やってみるか)

 アクセルは、“夢の姑”の銃口部分に嵌め込まれていた、レンズのような結晶を摘み上げると、人差し指を乗せた。
 イメージは、呪縛からの解放。そのイメージを保ったまま、何度も何度も結晶体をさすり、染み込ませるようにして精神力を注いでいく。暫くして、反応があった。それが何を意味する反応なのか、全くわからないが……とにかく、無駄な行為では無さそうだ。
 その結晶体を用いて、マジックアイテムを再び組み立てる。そう、重要なのは、この結晶体なのだ。それ以外の部品は、平民にも作成可能……な筈だ。これをマジックアイテムとして成立させている要因は、全てこの結晶体にあり、つまりはここだけがメイジの領域。

 この動作も、既に三回目。やや手慣れた手つきで、銃口を喉に当て……。

 (……ん)

 また、あの薄氷が砕け散る音。テーブルの上の手鏡を持ち上げ、自らの喉を確認すると、新たにルーンが刻まれていた。それはまさしく、先ほど自分がイメージした、アンスールのルーンとマンのルーン。呪縛に用いられたルーンを、そのまま正位置へと直し、負の要素を正の要素へと変換させた。

 口を開き、試しに声を出そうとして……異変に気付く。
 喉元のルーンは未だ消えず、青白い光を放ったまま、ぐにゃりと、粘土細工か何かのように歪み始めた。

 (これは……? え、ちょっ……やばい……のか!? ルーンが暴走して……!?)

 手鏡を放り捨て、アクセルは両腕を交差し、身体を跳躍させた。








 「ゲルマニアぁ?」
 「ああ。……どう思う?」

 片手で書類を持ち上げ、もう片方の手で頬杖を付くナタンは、フラヴィの言葉に素っ頓狂に返す。
 書類からフラヴィへと、ナタンは暫く視線を移していたが、やがて溜息をつきながら次の書類を手にした。

 「あいつは、別に天涯孤独ってワケじゃねぇんだ。両親共に元気なんだぜ? それに……わざわざ九歳の子どもの亡命に手を貸す貴族なんざ、いると思うか?」
 「……そうだった。あいつ、まだ九歳だったね。すっかり忘れてた」
 「気にすんな、俺だって信じちゃいねぇんだから」

 声を失っても、相変わらず余裕があるアクセルだが、考えてみればそう不思議な事でもないと、フラヴィは思い直す。
 あの少年は臆病なほどに心配性だが、貴族が命の危機に陥るなど、戦争でもない限りはそうそう無い。魔法で何とか死の淵から生還する……そんな貴族が、どれだけいるというのか。多くの護衛に守られ、恐れられる者は、本来もっと気楽に、怠惰に過ごしているべきなのだ。

 アクセルは長男であり、何れはラヴィス子爵として領地を継ぐ存在である。次男坊三男坊のように、無理をして職を得る必要も無いのだ。トリスタニアでの出世にも興味がないし、名声も欲しがらない。高い能力を得ても、それを隠してしまう。つまりは、一生領地で平穏に暮らすという未来があれば、それでいいのだ。そして、その願いはこの街の表裏を握ることによって、確固たるものとなる。

 (別に……問題ない、か)

 例え声を失い、メイジとしての能力を失う事になったとしても、まさかラヴィス子爵家から間引かれるという事は無いだろう。ゲルマニアへの亡命は、万が一、そんな事になった場合の最終手段なのだ。

 失敗しても、死ぬわけじゃない……あの夜、アクセルはそう言っていた。

 廊下の方から、足音が近づいてくる。ナタンは書類を見つめたままだが、フラヴィはふとそちらを見た。
 書類の束を捲りながら、バルシャが入ってくる。目には隈を作り、髪は乱れていた。フラヴィは確認するように、ナタンを振り返る。やはり彼の目の下にも、隈が出来ていた。
 何故、彼等はろくに休もうともしないのだろうと、彼女は考える。アクセルですらそれなりの睡眠を取っているのに、二人ともまるで横になるのを嫌うかのように、忙しなく動き回っていた。アクセルは、恐らくそのことに気付いていない。もしも気付いていれば、自分を手伝うよりも組織を固めろ、と、説教の一つでも行うだろう。

 「……どうだった、バルシャ」

 相変わらず見向きもせずに、ナタンは尋ねた。
 バルシャも、自分の机に腰掛けながら、目線は書類の上を走っている。

 「元々、ガリアのマジックアイテムですからね。なかなか捗りませんが、今、存在を確認させています。製作者ですが、新たに二人ほど候補が挙がりました」
 「誰だ?」
 「サンソン男爵に、フォントネル伯爵」
 「……その情報は、どの程度信頼出来る?」
 「申し訳ありませんが、何とも言えませんね。サンソン男爵の方は、ガリア国王に謁見した際、関与を否定した、とされていますが……秘密の多い家柄なだけに、信用度は低いようです。フォントネル伯爵は、療養の為に自領に引きこもっていて、詳細は……」

 ただ声を封じるマジックアイテム……しかし、メイジにとっては恐るべきもの。
 自分が開発した、などと声高に喧伝する者はいないだろう。売名目的で口にする者は、ただの愚か者であり、そもそも製作する能力を持つとは思えない。
 メイジの天敵を作り出してしまった製作者の情報は、勿論の事、そう簡単に得られるものでは無かった。
 本人が、必死に隠しているのか。それとも、既に王国と繋がっていて、飼い慣らされる者として生き永らえているのか。

 「作ったヤツより、作ったモノを探すのが先だな」
 「ええ。特に、今は」

 二人がようやく、互いの顔を見合わせ、確認し合った時だった。

 「……?」

 フラヴィは、最初は怪訝そうに、しかしやがて確信したように目を見開くと、突然床に這い蹲った。まるで壁の向こうの音を拾おうとするかのように、床に耳を押し当てる。

 「……どうした?」

 妙な行動に出た彼女に、ナタンは身を乗り出す。這い蹲ったまま、フラヴィは口を開いた。

 「地下で、何か……物音が……」

 一瞬の後、ナタンとバルシャは飛び上がるようにして机を超え、ドアに向かって走り出した。ナタンに飛び越されたフラヴィは、思わず身体を縮めていたが、すぐに起き上がり、二人の後を追う。
 廊下を走り、地下への階段を駆け下りていくと、アニエスの悲鳴が届いた。ある意味聞き慣れたものではあるのだが、今回に限っては、まるで絶望したかのようなそれだった。

 「ちぃっ!」

 一番早く辿り着けたのは、ナタンだった。僅かに開いたままの倉庫の扉を、飛びかかるようにして蹴り開く。

 「ベル! 無事か!?」

 答えが返ってくる事に、ほんの僅かの期待を込める。だが勿論、その期待は外れた。

 「早くっ、早く来てぇっ! ベル君がっ……ベル君があっ……!」

 完全に取り乱した、アニエスの声。この出所を探そうと周囲を見回すが、そうするまでもなかった。灯りが漏れる倉庫の片隅、半壊した木箱の陰から、涙で濡れたアニエスの歪んだ顔が覗いていた。ナタンに続き、他の二人もそちらへと駆け出す。

 「…………!!」

 散乱する本や実験器具、木箱や樽の破片。マチルダ達に被害が及ばないよう、咄嗟に距離を取った彼の身体は、砕けた木箱の上で、壊れた人形のように横たわっていた。
 いや、横たわっていた……その表現は正しくない。アクセルは歯を剥き出しにして、両手で喉を押さえ、痙攣するように背を仰け反らせている。額には脂汗が浮かび、唇は震え、そして喉元からは大量の出血があった。

 ティファニアが、ボロボロと涙を溢れ零しながら、アクセルの腰にしがみついている。マチルダが服の袖で、止まらない血を拭っている。ミシェルは蒼白な顔で、自分を失ってしまったかのように虚ろな目を、アクセルへと向けていた。

 カッと、アクセルは目を見開く。目玉をひり出そうとするかのように、瞼を上下にこじ開け、そしてナタンに視線を向ける。右手で、震える人差し指で、テーブルの上を指した。抑える手が片方となったことで、喉が露わになる。食い破られるようにして空いた大きな穴から、隙間風のような音と、血の泡が零れだしていた。

 考えるよりも前に、ナタンの足が動く。指されたテーブルへと駆けつけ、一通り見回し、すぐに小綺麗な瓶だと判断した。見覚えのある、水の秘薬である。
 栓を引き抜きながら、アクセルの元へ駆け寄ると、無我夢中で、中身を全て小さな喉へとぶちまけた。
 アクセルはそれを逃さないよう、両手でかき集めるようにして、喉元を撫でる。そしてごろりと俯せになり、身体を縮めて震える。その様子が、まるで寒さに凍える小動物のようで、マチルダは覆い被さるように抱き締めた。

 「…………」

 呼吸音と言うよりは、ボロ小屋の中に吹き荒ぶ、冷たい隙間風。ひゅーひゅーと鳴るその音の間隔が、徐々に短くなっていく。そして、一定の間隔へと落ち着いた。
 マチルダが、恐る恐る身体を離す。アクセルは再び寝返りを打ち、仰向けに、大の字に寝転がると、安堵したように目を閉じ、溜息をついた。既に喉の穴は塞がり、元通りとなっている。

 そして、その喉元には……再び、ルーンが閃き、染み込んでいった。

 喉の大部分が破壊されながらも、それでも尚、呪縛はアクセルの身体に居座っていた。

 「…………」

 むくりと、アクセルは背を起こす。飛び込んでくるティファニアを受け止め、隣のマチルダの頭を撫で、ようやく顔色を取り戻し、涙を流し始めたミシェルに、苦笑いのような笑顔を向けた。

 水のメイジを連れてきたバルシャに、軽く手を挙げて無事であることを示す。

 「おい……大丈夫なんだろうなぁ?」

 問い詰めるように……いや、文字通り、ナタンが詰め寄った。睨むように見つめる彼に、相変わらず曖昧な笑顔を返し、見せつけるように喉を示す。

 アクセルは膝に手を当て、立ち上がると、覚醒させるように何度か首を振った。

 そして彼が歩み寄ったのは、黒板だった。床に転がる白墨を拾い上げ、小気味良い音を響かせながら、文を記していく。

 “ごめん、ちょっと失敗”

 「失敗ってレベルじゃねぇぞ!」

 ナタンの怒鳴り声は、本当に怒っているのか、それともいつもの突っ込みが、背を向けるアクセルには判断できない。

 “悪いけど、出て行ってくれ。時間は限られている”

 そう記すと、アクセルは皆の方へと向き直り……そのまま両膝を床に突き、倒れ伏した。



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