小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第17話<文殊>





ルーン文字、ハルケギニアの文字、漢字……自分が文字と認識していて、その意味を強く意識できるもの。指先に精霊を集め、それで文字を描く。何度も何度も、沈着させるように繰り返し、文字をなぞる。それはつまり、文字に自分の精神力を注入していくこと。
 “文呪法”と名付けたこの方法は、アクセルに可能性を与えた。

 (考えてみれば……横島忠夫の文珠を手に入れたも同然じゃね?)

 勿論、大きな働きをさせようとすれば多大な精神力を必要とするし、色々と制限もある。しかし、これから精神力を更に強大にしていけば、理論上は全て実現可能なのだ。

 「ククク……フフフ……フハハハハハッ!」

 一人きりなら、そんな笑い声も上げたくなる。宇宙のように無限大に広がった可能性は、彼の脳にアドレナリンの洪水を引き起こした。

 (手始めに……何をする? 何を試す? マジックアイテム、巨大ロボット、秘密基地……くそっ、片っ端から全部やりたい)

 しかし、一番最初に作る物は既に決まっている。今後、絶対に必要な物が。
 形状に随分と迷ったが、耳飾りは年齢的に未だ早い気がして、却下。首飾りも目を付けられる可能性があり、結局はチョーカーに落ち着いた。
 ゴムを通し、レースをあしらう。文呪法の媒介とする為に、木製の花びらの形をしたボタンも取り付けた。

 “隠”“縮”

 主に風属性の精神力を込めて描くのは、二つの漢字。直接的なものはそれで、あとはその漢字の持つ意味を限定する為に、保護を表すエオローのルーン、それに贈り物を表すギョーフのルーンを込める。更に、それを支える為に、口語で文字を込めていく。

 完成したチョーカーを持ち、一階へと上がる。事務室の扉が僅かに開いており、中をそっと覗き込んでみた。

 「ほんっとーに、大丈夫なんだよな!?」
 「大丈夫大丈夫、一口だけ。……うっかり全部吸ったらごめん」
 「いやっ、それごめんで済まねぇよ!」

 椅子に腰掛けて首を傾け、若干身体を震わせながら叫んでいるのはナタン。そんな彼の背後から、首筋に向かって噛みつこうとしているのはフラヴィ。
 宣言した通り、彼女は一口だけナタンの血を吸い取ると、牙を離した。ナタンは大きく溜息をつきながら、首筋をさすっている。

 「……やっぱ、もう一口いいかい?」
 「これまさか無限ループじゃねぇよな!?」

 振り向こうとしたナタンは、ドアを開けたアクセルに気付く。彼が現れた事に、心底ほっとした表情になると、フラヴィを振り返りつつアクセルを指で示す。

 「あー、そのー……ちょっと……」

 少し躊躇いを見せる彼女に、アクセルはいいよと言いながら、襟を掴んで首筋を晒す。フラヴィは愛想笑いを浮かべると、少年の首筋に噛みついた。
 筋弛緩の毒はコントロール出来るようになったらしいが、代わりにチクリと小さな痛みが走る。どうやらアクセルの血は、フラヴィの身体に合うようで、比較的少量で彼女は満足する。

 やはり、ローランから有益な情報は得られなかった。フラヴィが吸血鬼であると知って目を丸くしていたが、彼がより古くから知っていたのはフラヴィの父親であり、母親とはそれほど親しくはなかった。いくら埋没性の高い吸血鬼とはいえ、父親がそうであるとはどうしても考えられず、ならば母親が吸血鬼だったのではないかとローランは言う。アクセルも、フラヴィに今まで全く吸血の必要性が無かったことからして、人間と吸血鬼とのハーフなのではないかと考えた。それが何かの拍子に、吸血鬼としての血が目覚め、血を欲するようになったらしい。

 ともかく、もう、彼女は人間よりも吸血鬼に近い存在になっていた。
 既にハーフエルフがいる以上、仲間の一人が吸血鬼だったと判明しても、あぁだから朝に弱かったのか、と、ナタン達からもその程度の反応しか出なかった。

 アクセルは密かに先住魔法に期待していたが、どうやらあれは暴走状態だったからこその奇跡であり、フラヴィ自身、やり方は本能的に何となくで理解していても、未だ形にして使いこなせるようにはなっていない。

 「……ふぅ」

 牙を離し、フラヴィは軽く息を吐き出す。

 「何でだろうね? やっぱ、アンタのが一番身体に合うよ」
 「それは良かった。……まぁ、暴走とかされない限りは、血くらいいつでも分けてあげるよ」
 「……未だ根に持ってんのかい」
 「当たり前。あのままだと、絶対干物にされてたし」

 最終的に、あの出来事が大きく役に立ったとはいえ、今考えてみれば、一歩間違えれば死んでも可笑しくはなかったのだ。しかし、アクセルとしても、フラヴィが必要な人材であると考えている以上、その皮肉に陰湿なものは込めない。

 「そうだ、テファ知らないか?」

 本来の目的を思い出し、アクセルは襟を正しながら二人に尋ねた。

 「テファなら、裏庭でマチルダと遊んでる筈だぜ」
 「わかった。ありがと」

 マチルダ、ティファニア、ミシェル。三人とも、流石にすぐには無理だったが、解呪用のマジックアイテムを使用してから三日ほどで、喋れるようになった。アクセルは実家に帰っており、その瞬間に立ち会えなかった事が心残りだったが、戻った時に出迎えてくれた少女達の、三人揃った“ありがとう”の声に、不覚にも涙を滲ませた。あらゆる全てが、報われた気がした。

 (そうだ……。今のままじゃ駄目だ……)

 マチルダ、ティファニアの生存を、アルビオンが嗅ぎつけたとしても。手出しできないような、絶対的な力が必要だった。

 (いや……。寧ろ、公にするか?)

 そもそも隠すからこそ、秘密になってしまう。愛する女のため、アルビオン王国を敵に回したモード大公の愛の深さを賛美する形で、ティファニアの存在を喧伝すれば、少なくとも密かに狙われる危険性は無くなる。その存在を、国中の誰もが知るような有名なものにしてしまえば、密かに連れ去る事も、密かに殺す事も出来なくなる。
 しかし、一瞬頭に浮かんだその考えは、即座に却下した。
 事が全て原作通りに運んでいるのなら、原作知識を利用して、そんな絵図も引けたかも知れない。だが、モード大公の一件が十年ほど早まってしまっている以上、原作に無い何かが起こったと考える他無いのだ。

 (大体……愛を賛美して横車を通すなんて、情熱の国のゲルマニアならいざ知らず、古くさいトリステイン王国では絶対無理だろう。善悪がどうあれ、モード大公は王国に楯突いた反逆者であることに変わりは無い。……やっぱ無理か、トリステインでは)

 安穏の為に、色々と方策を考えてみる。
 まず知りたいのは、アルビオン王国の動き。流石にこれは表の仕事ではなく、探るのは難しいが、あちらがどこまで情報を握っているのか、それは是非とも知っておきたい。原作開始時点では、既にアルビオン王室はレコン・キスタに追いつめられており、通常状態のアルビオンについての原作知識が少ないというのも痛い。未だ王国が健全に機能している現在、ひょっとしたら想定外の隠密部隊、諜報部隊が存在しているかも知れないのだ。その場合、最悪のケースは、アルビオン王国はマチルダ・オブ・サウスゴータとティファニアの生存を把握している、そして現在の居場所がラヴィス子爵領だということも知っている、更に未だ二人を危険視していて、暗殺対象のカテゴリーに入れている、というものだろう。

 (……協力者が必要だな)

 ハーフとはいえ、エルフであると分かっていて尚、味方となってくれるような人間。可能なら、出来るだけ国の中枢に近い、強大な権力を持つ貴族がいい。

 (トリステイン第一等の貴族……と言えば……)

 アクセルの頭に浮かぶのは、主人公ルイズの実家、ラ・ヴァリエール公爵家。自分のラヴィス子爵家とも、満更知らない間柄でも無いらしいが、そのことは未だ父親に尋ねていない。敵対してはいない、と、それくらいはわかるが、九歳児がする質問でも無いだろう。
 ヴァリエール公爵は、国家よりも娘達を優先する子煩悩。次女カトレアは原因不明の病に冒されており、もしも彼女の病気を完治させる事が出来れば、公爵に大きな貸しを作る事が出来る。

 (……けどなぁ)

 それも、保留するしかない。治癒を司る水属性が苦手なわけではないが、大勢のスクウェアクラスの水メイジ達が匙を投げたものを、自分ならどうにか出来るという勝算が無い。文呪法を発展させていけば可能性は出るかも知れないが、ともかく今は無理だった。
 それに、心優しいカトレアなら味方になってくれそうだが、エルフを受け入れてくれるという保証は無い。

 (そうだ。権力とかそういうのよりも、もっと重要なのは、口が堅くエルフを受け入れてくれるかどうか、だろうな)

 首尾良くカトレアの病気を治し、恩を売り、ヴァリエール公爵を味方に引き入れたとしても、そのヴァリエール公爵がどこまで付き合ってくれるかは未知数。

 (治療をわざと長引かせ、俺をなるべく長く必要とさせるのがいいか……まぁ、外道な策だけど)

 裏庭から、楽しげな笑い声が聞こえてくる。マチルダと、ティファニアのものだった。

 (ああっ。くそっ)

 崩れるように蕩ける自分の顔を掴み、戻そうとする。
 未だ、彼女たちの声に慣れない。彼女たちの声が聞けるという、その喜びが醒めない。こうやって楽しげな声を聞くたびに、だらしなく眉を下げてしまう。

 「テファ。マチルダ」
 「あっ、お兄ちゃんっ」
 「あ……ベル君」

 ティファニアの、弾んだ声。マチルダの、柔らかい声。
 フラヴィのような姐さん口調ではなく、年相応の少女の喋り方をするマチルダは、アクセルにとって新鮮なものだった。

 「お仕事終わったの?」
 「……いや……お仕事って言うか……」

 腕を掴んでくるティファニアの何気ない言葉に、思わず苦笑が漏れる。代官としての仕事をそっちのけで、趣味のような工作に走っている自分には、少々耳が痛い言葉だった。

 「はいこれ、プレゼント」

 しゃがみ込み、ティファニアの首にチョーカーを巻き付け、首の後ろで結ぶ。

 「あっ……」

 驚いたように小さく叫んだのは、それを見守るマチルダだった。
 ティファニアの髪を突き割るようにして飛び出していた耳が、徐々に縮んでいく。すぐに両耳の全てが髪の内側へと隠れ、見えなくなった。髪をかき分けて耳を見ると、若干尖ってはいるものの、普通の人間と何ら変わりない耳に形を変えていた。

 「風のスクウェアスペル、フェイスチェンジの劣化版だよ。これでもう、堂々と街を歩けるよ」

 実際の所、作ったアクセル自身にも、はっきりと仕組みは把握できていない。そうなるようにした、よってそうなった、という、極めて曖昧な説明しか出来ないものだ。フェイスチェンジの劣化と言ったが、実際の仕組みはフェイスチェンジとは全くの別物かも知れない。

 ともかく今重要なのは、エルフであることを示す長い尖った耳が、完全に擬態しているということ。

 それさえ隠してしまえば、エルフの存在など吸血鬼以上に発見されにくい。

 (一番いいのは、こんなマジックアイテムに頼らなくても、堂々と歩けるようになる事なんだよなぁ)

 エルフを忌避しない、そんな社会。しかしそれを実現させるためには、大規模な運動と革命のような一手が必要だ。何十年かかるか分からない。果たしてこれから、その切っ掛けとなるような出来事があるのかも。

 (まぁ、焦ってそんな事考えても、ろくな事が無いか。マチルダも、まだ信じてくれてないし)

 アクセルは、マチルダに何も尋ねなかった。彼女が自分から、全ての経緯を打ち明けてくれるその時、彼女の本当の信頼を勝ち取ることが出来ると考えている。例えその時が永久に来なかったとしても、泥棒などになる必要も無いような、平穏な生活を歩ませてやりたかった。

 もう自由に出歩けると言われたティファニアが、それぞれの手でマチルダとアクセルを引っ張り、買い物に行こうと言い出した。
 アクセルの頭に一瞬過ぎるのは、アルビオン王国の目。このトリステイン王国と、比較的友好な関係を構築している国ではあるが、モード大公とエルフとの間の遺児について情報を提供するとは思えない。例えどんなに親しい関係であろうが、国と国である以上、そんな危険な醜聞はひた隠しにするだろう。よって、トリステイン王国が動くことはあり得ないが、もしもアルビオンの諜報機関が真っ当な優秀さを持っていたのなら、国外への逃亡も視野に入れている筈だ。既に秘密裏に、彼等の活動が進行している可能性もある。
 確かに、ティファニアの耳の問題は片づき、もう帽子で隠す必要も無くなった。が、あくまでマジックアイテムである以上、ディテクトマジックに反応するものだ。フェイスチェンジという魔法の存在も常識である故に、怪しまれてティテクトマジックを使われれば、それでアウト。

 (先住魔法は確か、ディテクトマジックでも探知出来ないんだよな?)

 先住魔法にも、姿を消すものがあった筈だ。ティファニアにそれを覚えさせれば、と一瞬考えたが、彼女の魔法は虚無系統である可能性が高い。恐らく普通のエルフと違い、先住魔法は使えないだろう。

 (その意味でも、フラヴィが吸血鬼だったことは不幸中の幸いだけど……。やっぱり、必要なのはもっと魔法を知ることだ)

 何故、先住魔法はディテクトマジックに反応しないのか。結局、先住魔法と系統魔法との違いは何なのか。
 文呪法を得ても、それでもまだ不十分なのだ。もっともっと、魔法というものを研究し、どっぷりと頭の天辺まで浸かり、あらゆる理を手に入れる必要がある。

 とはいえ、差し当たって警戒する理由は無い。アクセルの考えは、常に最悪へと突き進んでいる場合のものであるし、鼻が効くスルトも、そんな気配は無いと言う。

 三人の真ん中で、童歌を歌うティファニアに引かれ、アクセル達は露店が並ぶ通りを歩く。折しも虚無の曜日で、大勢の人々で賑わっていた。はぐれてしまわないよう、アクセルもマチルダも、小さな手をしっかりと捕まえる。

 東地区の隆盛は、最早疑うべくも無かった。
 少し前まではこの街のゴミ箱だったそこは、ゼルナの街で最も華やかな場所となり、外からも大勢の人々が訪れる。清掃活動も完全に終了した上、全てのゴミを収集、運搬し、街の外の処理場へと移すというシステムも新しく整備され、アクセルにとって、なかなか満足のいく状態になっている。

 しかし勿論、光に羽虫が群がるように、質の悪い破落戸の流入という弊害も起きていた。もともと平穏な街で守備隊も多くは無く、自警団も主に娼館の周囲の東地区で活動している。娼館や賭場の利権を狙う輩ならともかく、人が増えて景気が良くなりつつある他の地区の商店などが狙われた場合、対応しきれない面があった。

 (ん……?)

 今夜はオムレツがいいと言うティファニアの為に、切れていたタマネギを買っている時。釣りを待つ間、何気なく空を見上げようとしたアクセルの目に、一つの光景が止まった。

 (あれは……)

 通りの向こう側にある、名の知れたレストランの、二階席。晴れた日にはテラスにまで客席が用意され、そこで食事を楽しむことが出来る。祭りの日には、仮装行列やパレードを楽しめる特等席となるが、いつもは金を持った人間だけ通される。
 そこに、リーズがいた。

 (遅めの昼食か……?)

 勿論、一人きりで座るわけが無い。他に二人、男と同席していた。一人はゼルナの街の守備隊隊長で、名前は確かイジドール。壮年の騎士。執政庁であまり顔を合わせることもなく、どのような性格なのかも噂でしか知らない。二人きりなら、思わずニヤつくようなオフィスラブの一幕にも見えるが、あと一人、中年の小太りの男がいた。

 (あの衣服は、ブリミル教の司祭か?)

 ゼルナの街にも、ブリミル教の教会はある。いや、正しくはあった。しかし、もう随分前に寂れ、朽ち果て、無人となった。西地区にあるそれは、取り壊されてこそいないが、既に教会としての面影など無い。
 あの司祭は、どこか他の場所からやって来たのだろう。音に敏感な風のメイジとはいえ、いくら何でも距離が遠すぎる。周囲の喧噪と相俟って、何を話しているのかは全く聞こえなかった。
 三人は暫く会話していたが、やがてリーズが席を外す。残された守備隊隊長のイジドール、そして司祭は、顔を近付けて二人きりで話し始めた。

 (……悪い顔してるなぁ)

 リーズには聞かせたくない内容なのだろう。下品な男と生臭坊主の下世話な話なら問題ないが、二人の笑顔には何か、もっと黒いものを感じた。

 「ベル君」

 マチルダに呼ばれ、彼女を振り向く。既にお釣りを受け取ったマチルダが、不思議そうにこちらを見ていた。

 「はい、お釣り」
 「ん、ああ。ありがと」
 「どうかしたの?」
 「いや、良い天気だから、ちょっとぼーっとしちゃって」

 適当に誤魔化しつつ、再び二階席を盗み見る。ちょうどリーズが戻ったところで、二人の男は既に顔を離していた。

 (これは……調べる必要があるか)

 堂々と街の一角を占拠しているような娼館に、リーズは当然いい顔をしない。アクセルもイシュタルの館で、客として来ている執政庁の職員を何人か見ており、そのことは更に彼女を不快にさせるだろう。

 ハルケギニア唯一の宗教、ブリミル教。アクセルが前世で知る多くの宗教がそうであるように、この宗教もまた、禁欲を賞賛する傾向にあった。それがいつか娼館を批判する可能性があるのは道理であるし、女の子のいる部屋に男が遊びに行くだけ、という、意地でも娼館として認めない理屈は用意してある。バルシャなどは、全く新しい形の娼館、と評すが、アクセルにしてみれば、言い逃れの材料を作っていたらそうなっただけだった。

 リーズがブリミル教を使って攻撃を仕掛けてくるのは、想定の範囲内。しかし、先ほどのイジドールと司祭とのやり取りを見ると、どうも想定の範囲外が出てきたらしい。

 (まさか……だよな?)

 未だ見ぬアルビオン王国にばかり気を取られていたが、考えてみればトリステイン、ゲルマニア、ガリア、ロマリア全てで、エルフは禁忌の存在なのだ。ハルケギニア中に信者を持ち、敬虔な信者が諜報員に早変わりしても不思議はないブリミル教にこそ、最も注意を払わなければないのではないか。流石にティファニアだと特定されている筈が無いが、耳の長い少女を見た、という情報を得たブリミル教が動き出したなら、不思議は無い。考え過ぎかも知れないが、もしもイシュタルの館に踏み込まれれば、露見する可能性もある。

 「こらっ」

 ぐいっと、右手を引かれ、右肩が落ちる。

 「駄目でしょ、ベル君。ぼぉっとしてちゃ」

 マチルダではなく、ティファニアだった。大人ぶった幼い叱責に、思わず苦笑いする。

 「ごめんね。……そうだ、帰ったらケーキ作ろうか」
 「え、ケーキ!?」
 「うん。ほら、さっきのお店、季節外れの蛙苺が安かったし」
 「やったぁ」

 アクセルの右手に掴まったまま、ティファニアはくるくると回り出した。身体一杯に喜ぶ少女に、アクセルの目尻が下がる。

 マチルダの視線には、アクセルはついに気付かない。喜びで踊るティファニアではなく、だらしない笑顔を浮かべるアクセルを、彼女はじっと見つめていた。

 「ほら、お姉ちゃんも早く、早く」
 「……うん。そうね」

 ティファニアに促され、マチルダは少し長く目を閉じる。そして開くと、ちょうどアクセルが彼女に目線を向ける所だった。

 「マチルダ、何がいい?」
 「……え」

 質問の意味が分からず、マチルダは驚いたような呟きを漏らす。それに答えるように、ティファニアが飛び跳ねた。

 「お姉ちゃんは、ケーキに何乗せる? お兄ちゃんは桃林檎だって」
 「私は……。私も、それでいい」
 「そう?」
 「うん……」

 マチルダはそっと微笑む。その笑みにどこか、翳りのようなものを感じ取るアクセルだったが、それは彼にとって、気のせいだと捨て置ける程度のものだった。








 部屋に、ノックの音が響く。机に向かうアクセルは、振り返らないまま入室を許可した。

 「入るね。兄さん」

 夜食と紅茶を持って、静かに入ってきたのは、ミシェルだった。

 何故年下の自分を兄さんと呼ぶのか、アクセルには不思議だったが、未だ年齢に疑いを持つナタン達は、別に不思議だとは思わないと言っていた。
 声を奪われてから、肉体的な意味で一番酷い目に遭ったのは、彼女だろう。マチルダとティファニアのように、縋れる誰かもおらず、家が没落してからずっと一人だった。そんな彼女にとって、直接的に自分を救い出してくれたアクセルは、最も信頼できる人間なのだろう。
 そもそも呼び方など些細な事であるので、それを改めさせる必要も理由も無かった。
 ミシェルもマチルダと同じく、自分の事情を話そうとはせず、彼女の父親の冤罪について調べようとしても、トリスタニアは遠い。

 「お疲れ様」
 「ああ、ありがとう」

 サイドテーブルに夜食を置くミシェルに、アクセルもペンを置く。凝り固まった首や肩を捻るが、両肩が優しい手に捕まえられた。

 「肩揉みしてあげよっか?」
 「じゃあ……お願い」

 アクセルは目を閉じ、安堵するような溜息をつく。その小さな肩を揉みほぐしながら、ミシェルは机の上を覗き込んだ。彼女にとって見覚えのない文字が並び、その横に彼女でも読める説明文が横たわっている。

 「何をしていたの?」
 「ん? ああ、これ。……東方のルーン文字、と思ってくれればいいよ」

 ルーン文字と同じく、漢字の意味も多岐に渡る。文字に力を持たせるという点では違いは無く、比較的単純なものだが、問題なのはそれをどう制御、コントロールするかだった。そうしなければ、込められた文字は一人歩きして対象を拡大し、それを実現しようとしても力が足りずに、結局何も機能しなくなる。

 (文呪法、なんて、テンション上がって名付けちゃったけど……。漢字を使う以外は、普通のマジックアイテムの製造法なんじゃないの? これ……)

 冷静になれば少し落ち込んだりもするが、使える文字の幅が広がるのは、かなりの利点であることは間違いない。

 アクセルは暫く身体の力を抜いていたが、ふと、時計が目に入った。

 「ミシェル、もう寝た方がいいよ。こんな時間だし」
 「兄さんは……」
 「僕ももう……。あ、そうだ」

 漢字表を仕舞い、アクセルは思い出したように一冊の本を広げる。アクセル・ベルトラン・ド・ラヴィスは、公式にはローランと遊んでいることになっているが、流石にそればかりではまずいと判断したのだろう。家庭教師でもあるリーズから宿題として、初歩の魔術書を完読しておくようにと言われていた。勿論、既にアクセルにとって飽きるほど染み込んだ知識だが、リーズは必ず質問してくる。問題なのは、今のアクセルが知っていてはおかしい知識まで、べらべらと漏らしてしまう事だ。どこまでなのか、ということを確認しておかなければ、彼女に怪しまれる事になる。知らない事を聞かれるのも困るが、知り過ぎている事を知られるのも困るのだ。そこの辺りが、アクセルにとって実に厄介な問題である。

 (一応、項目を大まかに書き出しておかないと……)

 別の紙を広げ、再びメモの用意をする。未だ肩に手を置いていたミシェルが、欠伸をかみ殺した。

 「……ここで寝ていい? 邪魔しないから」
 「うん、いいよ」

 ミシェルは目を擦りながら、アクセルのベッドに潜り込んだ。枕に頭を横たえ、じっと、灯に照らされる少年の横顔を見つめる。

 「……お休み。早く休んでね?」
 「これが終わったらね。お休み」

 三十分後。彼女が寝入ってから十分ほど経った時。魘されるような声に気付き、アクセルは隣のベッドを見た。
 ミシェルの顔が歪み、シーツの下の身体をもぞもぞと動かしている。いい夢では無いのだろう。その悪夢がどれ程のものか、アクセルには分からない。
 彼はそっと手を伸ばし、水の精霊を集めた指先を、汗を滲ませる額に触れさせた。描く文字は、“安”。何度も何度も、同じ文字を繰り返す。
 やがて静かな寝息が戻り、歪んでいた顔が元に戻った。満足したアクセルは、再び読書に戻る。本に向かうその顔では、まるで固定化でもかけられたかのように、満足の微笑みが崩れる事は無かった。



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