小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第22話<危愧>





 「屑なんですよ……娼婦も、娼婦を買う男も……」

 イジドールは言う。

 「俺の家が没落したのは、全部女絡みなんです。祖父は友人の貴族の妻を寝取りましたし、父は目を付けた女を片っ端から罠に嵌めて、その快楽を満喫しました。まぁ、そんな男の血を引くのが俺なわけで、つまり言うまでもなく、この俺も屑でして」

 彼は既に、自らの命を捨てていた。到底、この場を生き残ることが出来ないと。

 「……許せなかったんです。この屑の俺に抱かれたことがある分際で、この屑の俺の金を受け取ったことがある分際で、リリーヌは……。ええ、あっちは俺を覚えてませんがね、まだイシュタルの館が出来る前、三度ほど抱きました。……そんな汚らわしい女のクセに、あんなに美しくなるなんて。立て籠もり事件のあの時、俺も現場にいたんですよ。リリーヌだと気付くのに、大分かかりました。その時のあいつは、美しかった……天使か妖精のようでした。……けどね、俺を覚えてなかったんです。目を合わせたのに、会釈しただけで。……許せませんよねぇ、屑女の分際で……一人だけ一段上に上がるなんて」

 腹を斬られ、先ほどまで呻いていた部下が、いつの間にか動かなくなっていた。

 「女に不自由してた司祭が、いい薬があると持ちかけてきました。薬の効果が切れれば、地獄の苦しみを味わうというものでして。女を縛るものですよ。女の方から来てくれるんなら、面倒ごとも減りますしね。……あの司祭はそう考えたようですがね、俺は、それでは意味が無いと思ったんです。だってそんなの、薬目当ての関係じゃないですか? 司祭は一般には出回っていないって言ってましたが、それがどこまで信用できるかわかったもんじゃありません。他に薬を持つヤツがいれば、そいつに靡くでしょうから。……薬の呪縛は、三日ほどで切れるそうです。勿論その間、苦しみは続くわけですが。……だったら、その苦しみから救い出してやればいい。女を縛るのではなく、救ってやれば、女の心は完全に自分のものになる。三日三晩付き合ってやれば、その恩義から、女は報いようとするでしょう。そして……あの美しいリリーヌの心を奪うことが出来れば……あの美しい女の愛を一身に浴びることが出来れば……俺はもっと、高尚な存在になれるんじゃないか。我が家の屑みたいな血統から逃れられるんじゃないか……そう思ったんです」

 イジドールが一歩踏み出すと、ぬるい水音が響いた。石造りの床は血を吸収せず、彼方此方に血溜まりを作っている。
 切断された消化器官から這い出る、排泄物の臭い。濃厚なべったりとした血の香り。毒霧のような悪臭の中、イジドールは自分が既に死んで、地獄に降り立っているのではないかとすら考えていた。

 「……結局、こうなったわけですが……」

 曖昧な笑いに顔を歪ませ、イジドールは自分の周囲に転がる、部下達だったものに両手を広げる。
 部下達は全滅したが、自分は未だ死んでいない。辛うじてそう判断できる理由は、目の前に静かに佇む、一人の少年だった。

 「……何でだっ」

 広げていた両手で自分の頭を抱え、イジドールは叫ぶ。

 「アクセル様よぉっ、何でアンタがっ……!」

 尋ねるべきは、現在代官を務める子爵の息子が、ここにいる理由か。それとも、部下達をこんなにも……人をこんなにも簡単に殺してしまえる理由か。はたまた、阿片を使う陰謀を知っている理由か。

 「…………」

 血で塗れたアクセルは、同じく血で染まった包みを放り投げる。小さな壺ほどの大きさのその包みは、イジドールの足下に転がってくるまでには、中身を露わにしていた。
 苦痛と絶望に歪む、司祭の首だった。

 「……それは、死んだ時の表情だ。そのまま残ってる」

 その言葉に、イジドールの疑問の半分は霧散した。
 そして残る半分の疑問も、静かに照らし出されていく。

 「なぁ……何でだ? 誰も殺してないし、誰も死んでないんだろ? なのに、何でだ? 何で……こんなにも簡単に……殺してしまえるんだ?」
 「イジドール。僕は、臆病なんだ」

 アクセルは歩き出した。
 足にかかる血も、靴に絡みつく臓物も、一向に気にしていない。せいぜい、浅瀬を徒歩で渡るかのような歩みだった。

 「うまく代官を務め上げることが出来るかどうか、怖かった。だから、イシュタルの館と、それを管理する非合法な組織を作り上げた。市民も犯罪者も、どちらをも管理するために。そうすれば、早々間違いも起きないだろうと」

 アクセルの杖が、また、エメラルドグリーンの光に包まれ、それは剣の形に収束した。

 「……お前は、イシュタルの館に悪意を向けた。悪意を向けたのなら、やがて杖と剣も向けてくるだろう。……そうなるくらいなら、そうなる前に死んで欲しい。だからだ。司祭を殺し、お前らが潜り込ませた料理人を殺し、守備隊の女狂いどもを殺し……そして残るは、お前一人を殺せば終わりだ」
 「…………ふ……ふざけんじゃねぇぞっ、小僧ぉぉっ!!」

 イジドールは杖を振る。
 彼を守るようにして、剣を持つ二体のゴーレムが姿を現した。そして彼自身は、空いた手でレイピアを握る。
 一人と二体によるこの体勢は、強力な一人に対するための、イジドールの必殺の構えだった。

 「小僧の分際でっ、この俺を殺せるとでも思ってるのか!」

 横に並ぶ、二体のゴーレム。その後ろに隠れるイジドール。そしてそのフォーメーションを保ったまま、アクセルへと突っ込む。
 二体のゴーレムが、揃って剣を振り上げた。アクセルはマジックブレイドを頭上で横たえ、それを防ぐ。
 イジドールの攻撃は、その時だった。杖が防御に用いられた、狙い通りの状況。ゴーレムの間から、腕とレイピアを槍のように見立て、一直線にアクセルの喉を突く。

 「『密葉(ミツバ)』」

 が、必殺の突きは難なく弾かれる。

 (……え?)

 弾かれたと言うよりは、逸らされた。
 アクセルの左手が、マジックブレイドの光に包まれている。杖は、ゴーレムの剣を受け止めたままだ。少年の左手の刃がレイピアを擦り、滑り、イジドールへと近づいてくる。全身全力の突きであるが故に、ブレーキを掛けられないまま、寧ろイジドール自身もその刃へと向かっていった。

 「が……」

 肩から腰へと、斜めに切り裂かれる。吹き出した血が、ボトボトと床の血溜まりに合流した。
 力を失ったゴーレムを左右に蹴り倒し、アクセルは膝をつくイジドールの前に立つ。イジドールは首を傾げるように顔を上げ、上目でアクセルを見た。

 「……むかつくなぁ……余裕……こきやがって……」

 敢えて、イジドールの得意技を潰しての決着。アクセル自身にそのつもりは無かったが、イジドールは頬を痙攣させて吐き捨てた。
 どうしてマジックブレイドが二本もあるのか……その疑問は、もはや何の意味も持たない。

 「しかも……敢えてマジックブレイドかよ……格好つけやがって……」

 イジドールの手が伸び、アクセルの上着を掴もうとする。既に杖もレイピアも持っておらず、生卵を砕く力すら残っていない。
 しかし、アクセルは無言でマジックブレイドを振り、その手を切り飛ばした。

 「っ……!」

 短くなった腕を抱え込むようにして、イジドールは血溜まりの中に転がる。

 「……よ……容赦ねぇ……な……」
 「言っただろう、臆病者って」
 「……へ……ナイフでも……隠してると……思った……か……?」

 イジドールは血溜まりに浸る顔を、ぶるぶると持ち上げた。己と部下のそれが混じった血で、真っ赤に塗れている。
 その唇が、嗤った。

 「……ざまぁ……見ろ……臆病者め。死んでやる、ざまぁ見ろ……」

 正式に任じられた、守備隊長の死。それは確かに、大きな問題となる。
 その後始末がどれ程厄介かも、アクセルは理解していた。

 確かに、ざまぁ見ろ、なのだ。

 「……一つ、教えて……やる」

 堪えきれなくなったように、イジドールは笑い声を上げた。しかしそれも、顔を持ち上げる力も無くなったのか、すぐにガラガラと泡音に変わる。血溜まりでうがいをしながら、イジドールは血で穢れた喉で、呪いのような最後の一太刀をアクセルに浴びせようとしていた。

 「女に関しては……俺たちの独断だが……娼館を潰すのは……命令だった……からだ……」

 それは、身体を擦り抜けて心に届く、言葉による暗い一太刀。

 「その……命令は……命令を……出したのは……お前の……親父の……ラヴィス……子しゃ……」

 遂に、イジドールは息絶えた。








 足が重い。亡者が膠にでも化けてへばり付いたかのように。
 心が重い。地獄の底から伸びる暗い手が、命を求めてしがみついているかのように。
 肩が重い。ただ一人生きたままその場を去ることを、死者達が許さないらしい。

 「……ん?」

 敗残兵か何かのように歩くアクセルの前に、見覚えのある人間が現れた。深夜、顔はよく見えないが、あのシルエットの大きさは覚えがある。

 「……スルト。お帰り」

 それは確かに微笑みではあったが、あまりにも弱すぎた。儚すぎた。それを感じ取ったスルトですら、思わず両手を伸ばして支えそうになってしまった程に。

 「ん?」

 アクセルはふと、スルトの陰に立つ人物に気付いた。

 「爺さん……何で?」

 クーヤは年長者らしい笑顔のまま、ドアをノックするかのように、スルトの胸板を叩く。

 「クルコスの知り合いでな。しっかし、驚いたわい。まさかコイツと仲良く出来るヤツがいるとは……」
 「へえ、そうなんだ。だったら、少しは信じてやってもいいかな、爺さんのこと」
 「おい、まだ疑っとったんか?」
 「完全に信用するほど、勇気も度胸も無いんでね」

 そう言って笑い……アクセルはその場に崩れ落ちた。今度こそスルトが腕を伸ばし、その小さな身体を支える。

 「ごめ……後は……お願い」

 吐息のような声でそう呟き、アクセルは目を閉じた。

 「…………」
 「眠っとる。随分と信用されとるなぁ、メンヌヴィルよ」

 先ほどアクセルが出てきた建物を覗き込むクーヤは、中の様子をちらりと一瞥し、顔を顰めた。

 「同じ穴の狢ってヤツかのぅ?」
 「うるさいぞ、ジジイ。さっさと足跡を消せ」
 「ほいほい」

 アクセルの感触に、スルトは違和感を覚える。これだけ血にまみれていれば、当然血の足跡も残るだろう。この少年がその事に思い至らないとは考え難く、出せた結論は、それ程に消耗しているという事だった。
 しかし、たかが土のドットメイジを相手に、ここまで消耗するものなのか。

 「おい、終わったぞ」

 足跡を消し終えたクーヤが、急かすようにスルトに言う。スルトは建物の中にフレイムボールを投げ込むと、アクセルを背負い、クーヤと共に執政庁の塀を越えた。

 「……なぁ、メンヌヴィルよ」

 二人並び、闇を走る。スルトは返事をしなかったが、クーヤは構わず言葉を続けた。

 「やっぱ、そいつも燃やすことになるんか?」

 スルトはふと、背中のアクセルに意識を向ける。完全に眠っているようだが、例え起きていたとしても、構わないのではないか……そんな考えが浮かんだ。

 「さて、な。……そうなった時、止めるのか、ジジイ?」
 「止めんよ。止められるモンでも無し。ワシはワシの事だけ考えたいんでな」

 既に遠くなっていた執政庁の方角から、轟音が届く。予定通り、アクセルが運び込んでいた火薬に引火したことを確認し、二人は騒がしくなる場所とは反対の方向へ走っていった。








 睡眠状態にあることに気付き、そっと片目を開けてみる。アクセルは記憶を辿り、意識を失う前の事を思い出そうと試みるが、その前に状況を把握してみた。

 「…………」

 身体に不快感は無い。上体を起こし、身体を見回してみるが、既に血塗れの衣服は取り去られ、寝間着に着替えさせられていた。どうやら、自室のベッドらしい。ちょうど明け方で、開け放たれた窓から、美しい朝焼けが見えた。

 (……そうか。あの後、スルトがいて、それで寝落ちして……)

 執政庁の守備隊宿舎で爆発が起き、守備隊隊長と隊員たちが死亡するという、緊急事態。有耶無耶にする為の爆破だったが、どうやらリーズは予想通り、代官を起こさないという選択をした。確かにリーズがちゃんと働いている限り、アクセルの必要性など疑わしいのだが、それでも朝一番に連絡は来るだろう。今のうちに、ローランのホテルに移動しておくのが望ましい。
 そしてもう一つ、爆破という行動を起こした理由がある。アクセルにとっては、既にそちらの目的が重要だった。

 「あ……おはよう、ベル君」

 部屋に入ってきたリリーヌは、既に着替えを始めたアクセルを見ると、優しく微笑みを見せてくれる。女の笑顔一つで心を躍らせる自分に呆れもするが、前世を考え合わせると、生意気な感想だと笑い出したくなる。

 「これから、ホテルに行くの?」
 「うん。そのつもりだけど……」

 そう言いつつ、アクセルはリリーヌが持つ木製の盆に視線を落とす。パンとサラダ、スープ、それにティーセットが乗っていた。作りたてらしく、仄かに湯気が立ち上っている。

 「……ひょっとして、僕に?」
 「あ、食べる時間が無いなら、別に……」
 「いや、頂きます」

 軽く、腹に何か入れておきたい気分だった。それもあるが、折角自分のために作ってくれたものを、無駄にしたくないという気持ちの方が大きいかも知れない。
 リリーヌが小さなテーブルの上に盆を置き、アクセルは飾り気のない椅子に腰掛けた。驚いた事に、パンも焼き立てだった。

 「その……無理しなくていいから……」
 「え?」

 立ったまま、胸の前で手を組み合わせ、焦ったように言う彼女に、その言葉の意図が分からないアクセルは首を傾げた。まだ熱いパンを千切り、右手のそれを口の中に放り込む。

 「……肉料理は、やめておいたんだけど……でも、もし無理なら……」

 咀嚼し、胃の中に納める。そして再びパンを引き裂こうとしたところで、ようやくアクセルは理解した。

 「リリーヌ。もしかして、リリーヌが着替えさせてくれたの?」
 「……うん」

 深夜であった故に、娘達ではないことは確かだった。リリーヌの言葉が気遣いであったことに思い至り、あの血だらけの衣服を取り替えてくれたのが、彼女であることにも気付いた。

 「そっか……ありがとう」

 人を殺し、その返り血を浴び、そのことが食欲に影響する事は、あの“童貞”を捨てた時から一度たりとも無かった。確かに山賊討伐の時、嘔吐はしたが、村へ戻る頃には既に胃は食物を要求していたのだ。ナタンと共に暴れ回っていた頃も、当然相手を死に至らしめることもあったが……血溜まりの中で空腹を覚え、彼等のアジトにあったハムにかぶりついた時には、ナタンも明らかに顔を引きつらせていた。

 (そうだな……考えてみれば、異常って言うか……サイコ?)

 出会った頃はナタンを値踏みもしたが、今考えてみれば、彼の方こそよく自分の元から逃げ出さなかったものだ。

 昨夜の殺し合いがアクセルの初体験でないことは、リリーヌは前々から知っていただろう。朝食を見れば、確かに、肉や血を連想させるような色は見当たらない。これは、彼女の優しさが詰まった食事なのだ。

 「うん、美味しい」

 一応は貴族であるので、ガツガツと少年らしく、というのは無理が出てしまう。それでも、精一杯の感謝を示そうと、笑顔のままアクセルは胃に収めていく。
 その様子に安心したのか、アクセルが盆の上を全て平らげる頃には、リリーヌは紅茶を注いでくれていた。

 「……でも、リリーヌこそ疲れてるんじゃないの? 昨夜もお客さんいたんでしょ?」
 「私は大丈夫。夜更かしには慣れてるから」
 「そう」

 アクセルは紅茶のカップを口元に持ち上げたまま、そっと、窓の外に視線を移した。
 外の様子が気になったわけではなく、単純に、テーブルの向かいに座るリリーヌの視線に耐えられなくなったからだ。両肘をテーブルの上に立て、両手で自らの顔を支え、微笑みのままアクセルを眺める彼女の視線に、何となく気恥ずかしさを覚え、あまり長い間見つめ返すことは出来なかった。

 目を見て話せない者は卑怯者だ……その格言は、前世で見た映画か何かだったか、それともこちらの世界の書物からか。どちらにしろ、間違った格言ではないと、アクセルは静かに自嘲した。

 「あ……ごめんなさい、お行儀悪かったね」

 ふと気付いたように、リリーヌは背筋を伸ばし、手を太腿の上に置いた。

 「別にいいよ。一番人気のレディ・イキシアに朝食のお世話をして貰えるなんて、男としては無上の喜びだね」

 アクセルは空になったカップを、盆の上に戻す。お代わりを勧めるリリーヌに、首を振って断り、椅子から立ち上がった。

 「ごちそうさま。ありがとう、嬉しかったよ。片づけは誰かに任せて、リリーヌも早く休んでね」
 「……あの、ベル君」

 そろそろ時間だと、部屋から出ようとしたアクセルを、リリーヌは呼び止める。振り向くと、こちらに向かって遠慮がちに伸ばされた、白い手があった。

 「どうかしたの?」

 その手の向こうの、心配そうな顔に尋ねる。

 「……未だ……終わらないの?」
 「うん……」

 アクセルはただ一言、そう返した。

 ギャエルとマノンの異変に始まる一連の事件は、未だ終わっていない。未だラスボスとも呼べる存在が、一人残っている。
 それは、この子爵領の本当の支配者。

 「ごめんね、リリーヌ。あの約束は、まだ先になりそうなんだ」
 「それはいいの、私のわがままだし。……でも、その……ベル君」
 「ん?」
 「疲れてない?」

 アクセルは右腕を回す。続いて左腕を回す。

 「……いや、そんなことないけど?」

 昨晩は別としても、ちゃんと睡眠は取っている。食欲もある。元気はつらつとはいかないが、身体もいつも通りだ。
 精神的には確かに悩みばかりで、頭痛すら覚えるが、こんな深刻そうな表情で心配される程でもない。

 「…………そう」
 「ん、まぁ、心配してくれた事はありがとう。そうだね、寝られる時はしっかり寝るようにするよ」
 「気を付けてね? もしもの時は、逃げていいんだから」
 「ああ、それは得意だな」

 ひらひらと手を振り、努めて軽々しく言いながら、アクセルはホテルに戻った。








 (……参ったな)

 結局昼近くになっても、執政庁からは何の連絡も無かった。流石にいくら何でも、これ以上知らんふりを決め込んで動かなければ、かえって不自然であると思い、自分の足で戻る。そして戻ってみれば、机で文字通り頭を抱えるリーズがいた。

 「……! あ、若様……」

 ひょっとして、普段のあまりの存在感の無さに、ただ存在そのものを忘れられていただけかとも考えたが、どうやら違うらしい。

 「お聞きになりましたか」
 「うん。誰か怪我人が?」
 「……守備隊の隊長、イジドールを含め、守備隊の半数近くが死亡しました」

 そう言ってから、あまりにも単刀直入過ぎると思い直したのか、リーズは首を振りながら続けた。

 「全ては、若様の留守をお預かりする私の責任です。罰を受ける覚悟は出来ています」

 要するに、アクセルには何の罪も無い、ということを言いたいらしかった。

 (責任どころか、俺が実行犯なんだけど……参った)

 相変わらず真面目すぎるのだ、とも思った。二人でどうするか一緒に考えよう、という展開に持っていくのが理想だったのだが、彼女のあまりにも健気な覚悟に、アクセルはより一層の罪悪感を覚える。

 「ねぇ、リーズ。何で爆発したの?」
 「原因は不明です。火の不始末だと言う者もおりますが、この季節に暖炉に火を入れる筈もありませんし、それに何より、火薬を宿舎に保管する筈もありません」
 「じゃあ、誰か犯人がいるの?」
 「その可能性が高いようです」
 「だったら、そいつの責任じゃないの?」

 守備隊の隊長以下、多数の兵士を失った以上、そう簡単に動けないことは、アクセルも理解していた。執政庁の中の施設に侵入し、鍛え上げられた守備兵たちに気付かれずに爆破などしでかせる相手……弱体化した守備隊でどうにかなる筈も無い。
 動機も、目的も予想は出来ないだろう。金も何も盗まず、ただ守備兵を殺しただけ。まるで子どもの気紛れな悪戯のようだ。

 「ねぇ、犯人に心当たりは無いの?」

 重ねて、アクセルは問い掛ける。ここで“悪逆のサンディ”だと言い出すのも驚きを誘うが、もしも……。

 「……“イシュタルの館”かも知れません」

 え……、と、アクセルは絶句する演技をした。

 公的にはイシュタルの館……そして東地区の改善を成し遂げたのは、商人バルビエということになっている。確かにバルビエの遺した財産が活用されたので、あながち的外れというわけでも無い。実行したのはバルビエの腹心、ナタン。様々な援助をしたのが、ゼルナの街一番の名士、ローラン。それが、リーズだけではなく執政庁全体の見解だろう。

 「でも、あそこ、ローランも賛成してたんだろ?」
 「アクセル様」

 “若様”ではなく、“アクセル様”。リーズがその呼び方になる時だけは、アクセルもふざける事は出来ない。

 「しばらく、ホテル“初月の館”への出入りはお控え下さい」
 「まさか、ローランを疑ってるの?」
 「ローラン殿が無実でも、ローラン殿が利用されていないとは言い切れません。今回の一件の犯人、私は、“イシュタルの館”が行った“警告”ではないかと考えています」

 アクセルにとっては、さながら心臓を射抜かれたかのような衝撃だった。思わず変化した彼の表情は、幸いにも、単なる驚きと受け取られた。
 解答に至るまでの道筋は間違っていても、リーズは正解を出してしまったのだ。ついさっきまでのアクセルの余裕は、嘘のように崩壊した。

 「……警告……?」

 震えそうになる唇を何とか止め、聞き返す。リーズは真剣な表情のまま頷いた。

 「実は、旦那様より密命がございます。“イシュタルの館を潰せ”と」
 「……何で……?」
 「“娼婦を公に認めることは出来ない。領地の風俗を乱す輩の跋扈は許さない”と。また、“必ずや成し遂げるように”とも……。私と守備隊隊長イジドール殿、そしてブランツォーリ司祭様にもご協力をお願いしました。現在ブランツォーリ様がご無事か確認中です。……考えたくはありませんが、この執政庁の内部に裏切り者がいて、それによって旦那様からの密命を知った奴らが、警告のためにイジドール殿を殺害したのではないかと。……私の判断ミスです。まさか、相手があそこまでの力を持っていたなど」

 そこで、リーズはアクセルの震えに気付いた。自分が口に出してしまったことと、それを聞いていたのが九歳の子どもであることを思い出し、彼女は慚愧に顔を歪める。

 「大丈夫です」

 リーズの優しい手が、アクセルの頬を包む。そして彼女は、そっと互いの額を触れ合わせると、目を閉じて口元に笑みを浮かべた。

 「ご安心下さい、若様。何があろうと、私がお守り致します」

 アクセルの脳裏に蘇るのは、幼い頃、激しい雷雨の夜、同じようにしてベッドの中で包み込んでくれた、リーズの掌の温もり。。

 「……何も恐れることなど無いのです。正義は、私達なのです。この私が……ラヴィス家に、栄光と勝利を捧げます」

 そう、あの頃もそうだった。あの激しい雷雨の夜、闇の中、ベッドの内側で、リーズもこうやって、身体を震わせていた。自らの震えを隠すために、ひたすら抱き締めていた。本当に震えていたのは、彼女の方だった。

 続いて、アニエスの顔が浮かんだ。精一杯背伸びをして、アクセルを励ます彼女の表情。回想の中のリーズの姿が歪み、雷鳴に怯えるアニエスへと変わる。

 マチルダが時折見せる、寂しげな表情が浮かんだ。その顔はいつも、アクセルの心を鎖のように歪に締め付ける。声を取り戻してからも、いや、取り戻してからより一層、そのような顔をするようになり、それが少年の心に影を落とす。

 何の疑いも持たない、信頼しきってくれているミシェルの無邪気な顔が浮かんだ。まるで光に照らされた溝ネズミのように、アクセルは、その顔に怯んでしまうことがある。

 勇気と活力をくれる、ティファニアの無垢な笑顔。時折、あの小さな身体に触れる事が、畏怖という感情によって出来なくなってしまう。それは果たして、自分に許される行為なのかと。

 自分を見捨てなかった、男前なナタンの様々な表情。決して激さず、誰が相手だろうと穏やかに諭すローランの器量。九歳児の自分に敬意を払ってくれる、バルシャの仁義。朝はいつも眠そうに起き出してくる、フラヴィのだらしない顔。本当の弟のように可愛がってくれる、リリーヌの優しさ。前世では想像も出来なかった、スルトの頼もしさ。

 恐怖、焦燥、後悔、慚愧、絶望……あらゆる負の感情が、身体に激流を巻き起こす。アクセルはリーズを突き飛ばし、近くの窓から身を乗り出すと、地面に向けて、朝食を全て吐き出した。



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