小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第23話<挨拶>





 女の叫び声は、いつ聞いても心地よいものでは無い。錯乱して暴れ回る姿など、目を背けたくなる。

 「っしゃぁっ、来いやぁっ!」

 挑発するように掌を曲げるクーヤの、はだけられた上半身は、引っ掻き傷とアザで古い木像か何かのようになっていた。老人とは思えない身体を包んでいたシャツは、既にボロ雑巾のようになって、檻の隅にへたっている。
 ギャエルは金切り声を上げながら、クーヤの頬を殴り飛ばした。一瞬ぐらついた老人の身体は、すぐに体勢を立て直し、仕返しのようにギャエルの頬を叩く。ダメージではなく、衝撃を与えるような平手。崩れ落ちるようにしゃがみ込んだギャエルだったが、数秒ほどして再び立ち上がり、またクーヤに襲いかかる。檻にもたれ掛かるマノンは、力尽きたかのように目を閉じていた。

 壮絶……いや、凄惨としか言いようが無かった。

 一人の老人と、二人の女による乱戦。いや、獣同士の殺し合いと言えるかも知れない。
 ナタンは檻の外で目を怒らせ、固く拳を握り締めていた。

 クーヤは二人の女の半狂乱な攻撃を、或いは受け止め、或いは受け流し、ずっと相手をしている。

 「……代わるか、爺さん?」
 「へっ、ワシの女じゃ。横取りすんな」

 ナタンを振り向き、歯をむき出しにしてクーヤは笑う。胸にギャエルの拳を受け、その顔がぐらついた。

 「……別に、キツかねぇ。本当に苦しんどるのは、この二人じゃ」

 また、ギャエルが拳を振り上げる。その手を掴み取り、クーヤは彼女の身体を回転させた。背中から叩き付けられ、悶絶する彼女を前に、老人は大きく息を吐き出す。

 「何人も女を抱いてきたが、ワシはその半分も幸せには出来とらん。別に、罪滅ぼしでもないがなぁ……目の前の女にゃ、命くらい賭けるわい」

 例え痛みで誤魔化しても、苦しみは消えない。それでも、これしか方法は無い。

 三人が牢獄の住人となってから、既に二日が経っていた。








 リーズ・エルネスティーヌ・フランセット・ド・ブロー。ブロー伯爵家の長女として生まれた少女は、今はただのリーズとして、ラヴィス子爵家のメイドとなっていた。既にブロー伯爵家は無く、その血を引く人間も、彼女ただ一人。
 自分にメイドが出来るなどとは、勿論リーズも思ってはいなかった。いや、それどころか、平民の仕事など出来る筈は無いと思っていた。
 貴族として生まれ、貴族として生きていた少女は、突如として貴族であることを剥奪された時、生きることすら億劫になった。しかし、ブロー伯爵家の血を守るべきではないかという考えもあり、結局は自ら命を絶つ決断も出来ず、流されるまま、父の友人であったラヴィス子爵家に身を寄せることになる。

 自分が孤立しているということを、リーズ自身はっきりと自覚していた。メイドの仕事を身につける気は無く、食客のような位置に自分を置いていた。貴族としての地位を失ったとしても、自分は平民ではなく、メイジなのだと。
 メイジである自分にしか出来ない事こそ、自分がやるべきだとリーズは考えていた。掃除や炊事、洗濯など、どれも平民でも出来る事ばかりであり、メイジとしての能力を持つ自分が、わざわざそれらを身につける必要は無い。いつかメイジとしての働きを行う為、今はただ、魔法の訓練を積むべきだと。

 使用人達は誰一人として、面と向かってリーズに文句を言うことは無かったが、それはメイジの魔法を恐れたからに他ならず、自分がいない所でどんな風に語られているか、リーズには聞くまでもなくわかっていた。

 その孤独は、アクセルによって終わった。

 リーズは初めのうち、アクセルの行動を苦々しく思っていた。勉学に秀で、どこか大人びた風ではあったが、苦々しく思ったのは、平民に対する接し方である。執事であろうとメイドであろうと、何の障壁も無く彼の態度は、リーズにとってあまりにも軽率なものに見えた。恐怖を以って、とまでは言わないが、ある程度の貴族としての自覚は必要不可欠なものであり、威厳を以って接するべきだと。
 アクセルはまた、リーズに対しても自然体で接してきた。平民に対するそれと、全く同じように。自分が平民ではなくメイジであること、それを否定されているような気分にもなり、リーズもそれを不快に思っていた。
 しかし、いつしか自分が孤独では無くなった事に気付いた。確かに、平民と変わらない接し方をされるのは不快だが、気軽に話しかけられる存在が出来た。自分を拒否しない存在が出来た。

 (……失うわけにはいかない)

 リーズにとって、アクセルは最優先の存在となった。何よりも優先して守るべき者であり、失うことは許されない者であると。

 しかし、彼女は未だ、その思いの根元にある打算に気付いていない。いや、無意識のうちに、必死で目を背けている。
 このままアクセルが優秀なメイジとして育てば、その師であるリーズは名声を得ることが出来る。例えそうならなくても、もしアクセルと結ばれることになれば、ブロー家の血を継続させることが出来る。

 その打算に気付くには、あまりにもリーズは幼く、潔癖だった。今は未だ、彼女は己の使命感に眩んでいた。

 「……若様は?」

 リーズは近くのメイドに尋ねる。メイドは悲しそうな顔で、静かに首を横に振った。その手に乗せられた盆は、持って行った時と変化は無い。

 (無理も無い)

 アクセルの衰弱に、リーズはそう感じた。今まで執政庁にはほとんどおらず、外で自由に遊んでいた少年が、突然軟禁されるような事態に陥ったのだ。食物にもほとんど手を付けず、ずっとベッドの上で過ごしている姿は、最早病人と変わり無かった。

 ラヴィス子爵が帰ってくるまで、あと一週間といったところだろうか。子爵本人の手紙には、そう書いてあった。特にリーズが責められることは無かったが、例の密命については、子爵が戻るまで停止ということだった。

 「……若様」

 リーズはアクセルの寝室の前に立つと、躊躇いながらも、ドアを叩く。中から、弱々しい返事が聞こえてきた。

 「失礼します」

 中に入ったリーズは、アクセルの様子に胸を痛める。ベッドの上で枕に支えられ、ようやっと上体を起こしている彼の目の下には、インクで描いたかのようなクマが出来ていた。リーズも安眠を得ているとは言い難いが、アクセルはそれよりも酷い。

 「……お父上は、一週間ほどでお戻りになるそうです」
 「本当に、帰ってくるかなぁ?」
 「…………」

 アクセルのその言葉は、彼にしてみれば他愛もない疑問だったのだが、リーズは違う受け取り方をした。
 以前、アクセルがレオニー子爵領で火災に巻き込まれ、怪我を負った時も、ラヴィス子爵は戻らなかった。リーズはアクセルから問題ないという旨の手紙を受け取り、迎えに行くことは無かったが、少年の背に残った火傷を見た時、密かに心を痛めた。
 息子が怪我を負った時も帰らなかった子爵が、領地の危機には帰る……。それは領主として正しい行いであり、父親として間違った事なのではないか。リーズにその判断は出来ないが、それが当の息子を悲しませる事実であることは、朧気ながら理解できた。
 そして理解はしても、アクセルにかける優しい言葉は見つからなかった。

 「一週間……それまでの辛抱です、若様。お父上がお戻りになれば、またいつもの日常が戻ります」
 「うん、ありがとう」

 リーズの気遣いと居たたまれなさを察し、アクセルは力のない笑みを浮かべる。それに安心したわけではないが、これ以上かける言葉も無く、リーズはそっと部屋を出た。

 彼女が去って後、アクセルは溜息をつくと、光を遮断しようとするかのように、自分の両目を掌で覆った。

 今までは、はっきりしていた。

 片方が好きなものであり、もう片方が嫌いなものだった。だからこそ、躊躇無く嫌いな方を殺すことが出来た。例え困難であろうと、進むべき道は、選ぶべき未来ははっきりと見えていたのだ。

 (それもこれまで……か?)

 ラヴィス子爵家を取るか、イシュタルの館を取るか。本当に、そのどちらかを選ばなければならないのだろうか。
 選べる筈も無いのに。

 (……まずは、原因を考えてみるか。リーズによれば、あの密命が出されたのは、要するに娼館を存在させておきたくないから、ということになるな)

 この苦悩の原因は、ラヴィス子爵の密命である。ならば何故、その密命は下されたのか。
 娼館が公に存在していることに対する、不快感……成る程確かに、リーズが好みそうな理由だが、アクセルはそれを信じてはいなかった。

 東地区の発展は、表向きには、イシュタルの館を管理する組織の功績ということになっている。浮浪者や難民に真っ当な生活の場を与えることで、市民として扱われる人間は増え、街の人口は増加し、税収も上がった。散在していた娼婦をまとめ、闇夜の娼婦とその客を狙った強盗もいなくなった。ゼルナの街を訪れる人間も増え、東地区だけではなく、街全体に多くの金を落とすようになった。更に言えば、バルシャとリリーヌによる立て籠もり事件の解決を初めとした治安維持活動により、イシュタルの館は市民の間でも受け入れられている。
 否定的な意見を取れば、利権を狙うゴロツキの襲撃だが、最近では組織の戦闘能力が知れ渡り、すっかり形を潜めていた。

 (……やはり、益の方が遙かに大きい気がするが……)

 治安の悪化も、驚くほど士気の高い自警団により、懸念していた程では無い。
 賭場からは執政庁側に相当の裏金を流してあり、それによって文官たちも黙らせている。

 (単純に、組織の戦闘能力を恐れた……?)

 メイジとして強大な力を持つスルト、弓の名手のバルシャ、双剣の扱いがなかなかサマになってきたナタン。主要な戦力を挙げれば彼等三人だが、考えてみれば全員メイジ殺しだ。本当にメイジを殺したとは知られていなくても、それに値する力を持つと見られていておかしくは無い。そんなものが、息子が代官を務める街に存在することを危険視しているのか。

 (……それも無い気がするが)

 ラヴィス子爵は放任主義ではないかと、アクセルはそう思っている。以前、レオニー子爵領で火災に巻き込まれた時も、軽い手紙のやり取りだけで済ませていた。
 そもそも考えてみれば、アクセルを代官に任命してから、未だ一度も帰ってはいない。帰るまでに馬車で一週間かかると言うが、それだけあれば、トリステイン王国を横断することすら出来る筈だ。

 (何というか……領地経営に全く興味を持っていないというか)

 九歳の息子に代官を任せることからも、それは明らかだった。そして事実、アクセルが何もしなくても全ては順調だった。

 (だめだ、わからん)

 さながら大岩に突き当たったかの如く、アクセルはそこで思考を停止せざるを得なかった。全ては憶測であり、的外れであってもおかしくは無い。本当に、ただ、ラヴィス子爵が存外潔癖で、娼館という物体そのものを嫌悪している可能性もあるのだ。

 そして、もう一つ問題がある。

 阿片を用いた、ブランツォーリ司祭についてだ。

 (やっぱ、俺、考え無しな所があるんだよなぁ……)

 一応ブランツォーリ司祭は、イシュタルの館を出て、わざわざ教会に戻った後に拉致したのだが、司祭が行方不明は大きな事件である。てっきり司祭については、イジドールの私的な繋がりだけだと思ったのだが、リーズが相談だけではなく、具体的な協力を請うていたのは予想外だった。結果的にブランツォーリ司祭殺害容疑まで、組織にかけてしまう事になったのだ。そしてそれは冤罪ではなく、事実である。

 (個人的にむかついたから殺した、ってのが大きいからなぁ。他にいい方法も思いつかなかったんだけど、面倒だったって理由が主だし)

 流石に守備隊が壊滅状態にある今、リーズも具体的な行動は起こさず、大人しくラヴィス子爵の帰りを待つだろう。

 (言い換えれば、猶予は一週間ってとこか)

 前世では七日だが、この世界の一週間は八日であり、一日多い。そしてそんな、既に分かり切っていることで自分を慰めるしかなかった。

 (……選べってか?)

 ラヴィス子爵家と、イシュタルの館。一番平和的に思えるのは、イシュタルの館を潰し、皆をどこかに逃がすことだが、それも下策だ。既に守備隊隊長や司祭の殺害容疑がかかっている以上、逃げても追いかけられる可能性が高い。
 そして、あの四人の娘達を匿ってくれるような、信頼できる場所が見当たらない。ミシェルは素性が明らかになってもそこまで問題は無いが、残る三人は厄介だ。ダングルテールの虐殺から十年を経ており、魔法実験小隊も既に存在していない以上、生き証人であるアニエスに限っては、そこまで苛烈な追求が及ぶ可能性は低い。が、マチルダとティファニアはそうもいかない。アルビオン側に露見すれば二人とも消されるだろうし、特にティファニアは全てに対して警戒が必要だ。

 (クルコスの街は……駄目だな。奴隷市場がイシュタルの館と繋がっていることは、少し調べれば分かる。くそっ)

 イシュタルの館を潰したくないのも、また素直な気持ちだった。そして、今までに集まった仲間を、誰一人として失いたくないのも。

 (……大罪を犯すか……)

 ラヴィス子爵の暗殺……この世界での、実の父親の殺害すら、易々と視野に入れてしまえることに対して、アクセルは既に失望という概念を通り過ぎていた。
 ラヴィス子爵が不幸な事故で亡くなれば、その後はどうなるか。

 (……それも危険すぎる)

 ラヴィス子爵は風のラインメイジであり、今のアクセルでも方法によっては十分に暗殺が可能である。そう、それ自体は可能なのだ。
 だが、守備隊壊滅直後の死は、あまりにも臭い。下手をすれば、王都から苛烈な査察の手が伸びるだろう。そうなった場合、自分がラヴィス子爵家を受け継げる可能性も低くなり、新しい領主によってイシュタルの館が蹂躙される未来も有り得る。

 (まさか……手詰まりか……?)

 正体不明の、悪逆のサンディの仕業にしてしまう手もあるが、それはあまりにも強引すぎる。そしてその名前を出せば、それこそ魔法実験小隊のような、裏の力が伸びてくる危険もある。

 アクセルは顔から手を離すと、その手を左右に広げ、ベッドの上に叩き付けた。

 「……畜生めが」

 どうにもならないと分かっていながら、吐き捨てる。
 メンヌヴィルに襲われた時とは違う、それよりももっと重厚で鈍勢な危機。一週間というはっきりとしたタイムリミットは、じわじわと這い寄る毒沼のように、奮い立とうが絶望しようが変わることなく近づいてくる。

 ノックの音が響いた。

 「……? どうぞ」

 食事の時間は、たった今過ぎたばかりだ。かける言葉を見つけたリーズが戻ってきたとしても、それはあまりに気まずい。
 ドアを開けたリーズは、静かに、アクセルの枕元まで歩み寄ってきた。

 「どうかしたの、リーズ?」
 「レオニー子爵様がいらっしゃいました」
 「え? レオニー子爵が?」

 予想もしなかった訪問者に、アクセルは鸚鵡返しに聞き返す。

 「若様にお会いになりたいそうですが、如何致しましょう?」
 「……。うん、会いたい。あの人が良かったら、ここまでご案内してくれる?」
 「畏まりました」

 守備隊壊滅の報は、レオニー子爵も得ているだろうが、それで何故自分に会いに来るのか、アクセルには見当が付かなかった。いくら代官とはいえ、アクセルがお飾りであることくらい、彼も十分に理解している筈である。実質的な代官であるリーズとの会話のついでに、アクセルの見舞いに来るというのならわかるが、どうも初めから、アクセルと会うことを目的とした来訪のように思えた。

 「やぁ、久しぶりだな。アクセル君」

 小柄な身体には似合わない大きな掌を上げながら、レオニー子爵は寝室へと足を踏み入れた。アクセルも挨拶を返す。

 「すまないな、病気だったとは知らなかったのだ」
 「いえ、ちょっとその、ショックを受けただけで……。少し休めば、よくなりますよ」
 「そうか、それならいいんだが……」

 ベッド脇の椅子に腰掛け、レオニー子爵はマントを外した。どうやらただの見舞いではなく、本当にアクセルに用があるようだが、彼は他愛もない世間話を始める。

 (……確か、傭兵ギルドの壊滅の後始末に苦労してるって聞いたけど……)

 領内の元傭兵のため、ゼルナの壊滅した守備隊の補充員を集めさせて欲しい、というのなら、それこそリーズに話すだろう。

 「……と、病人相手に長話もあれだったな」

 世間話を打ち切り、レオニー子爵は頬をかいた。本題は既に決まっているらしいが、それを言いにくそうにしている。

 「実は……君に、謝りに来たんだ」
 「え?」

 ラファランの一件について、というわけでも無い筈だ。全く見当が付かないアクセルは、首を傾げて続きを促す。

 「以前、君が見せてくれた模型だよ。トロッコを参考にしたという」
 「ああ……」

 線路の上を走る、鉄道もどき。あれから特に改良を加えることもなく、模型もどこかに仕舞い込んでしまっているが、それで何故自分が謝られる必要があるのか、アクセルには一向にわからない。

 「少し前、王都に行った時、マザリーニ枢機卿という人と話してな。酒が入っていたせいもあり……いや、それは言い訳だな。ともかくあのアイディアを、得意になって話してしまったんだ」

 マザリーニ枢機卿、という名に、アクセルは小さな衝撃を受けた。

 「それが、採用される可能性が出てきたんだ。しかも、私の名前で。君のアイディアと訂正してもいいんだが、そうするには遅すぎた。既にマザリーニ枢機卿は、発案書を粗方作り終えていてな。……大変申し訳ないんだが、あのアイディア、私の発案ということにしてはくれないか? 勿論、私に出来る償いはしよう」

 ああ、そんなことか……それが、アクセルの感想だった。要するに、アクセルのアイディアをレオニー子爵がパクった、ということになるが、そもそもアクセルのアイディアも、前世のパクリである。言ってしまえばどうでもいいことであり、そしてそんなどうでもいい事に対して、小柄な身体を縮めて謝るレオニー子爵に、却って申し訳ない気分になった。

 (……律儀な人だな)

 黙って進めていれば、後でアクセルが何を言ったとしても痛くもかゆくもなかっただろうし、そもそも例え無断でパクられても、アクセルに何か言おうという気は無い。それどころか、未だ九歳のラヴィス子爵の息子が発明した、などと公にされる方がよっぽど不愉快だ。そんな特異性が露わになって、下手に目立ちたくなど無い。
 しかし、こうやって素直に謝るこのレオニー子爵という人物は、好感が持てる男だった。

 「いえ、いいんですよ。あんなもの、ただの思いつきで、僕には実現出来ませんし」
 「いや、しかしだな……」

 渋い顔を上げたレオニー子爵は、少年の表情の変化に気付いた。どこか虚空を見つめる彼の視線は、固定化がかけられたかのように動かない。

 「…………」

 どうかしたのか……そう尋ねようとして、しかしそれは出来なかった。弱々しかった少年の瞳に、まるで炭火のような、静かな熱を感じ取った。

 「あ……あのっ」

 アクセルは夢から覚めたかのように、突然レオニー子爵に向き直る。

 「一つ、お願いがあるんですが、いいですか?」
 「む……ああ、出来る事なら何なりと」

 上手くいくかは分からない。無駄骨を折ることになるかも知れない。あまりにも不確実な策。
 しかし、その未来に手を伸ばすしかなかった。手が届かず、足下が崩れ去るかも知れないとわかっていても。

 「僕、トリスタニアに行きたいんです」








 全ては執政庁に戻ったアクセルが、現状を詳しく把握してから……ということになっていた。
 だが、そのアクセルが戻らない。どうやら半ば軟禁状態となっているらしく、見舞いに行ったローランですら、丁重に面会を拒否された。手紙すら預かっては貰えない。

 本当に面会謝絶の可能性もあるが、ナタンとバルシャは、東地区に関係するあらゆるものが拒否されているのだ、と判断した。それはつまり、アクセルを守るため。そしてそのことは同時に、執政庁が完全に、イシュタルの館と敵対したことを示している。

 あのアクセルなら、例え軟禁状態に置かれていてもどうにか連絡を取りそうなものだが、それが行われないということは、彼の身に何かがあったと判断できる。結局、スルトが忍び込み、アクセルと接触するという方法が取られた。

 事態が予想以上に悪化していることは、誰しもが感じていた。それこそ子爵の息子であろうと、どうにもならないくらいに。

 最悪の場合は逃亡する、というのがナタンの判断だった。幸いと言うべきか、殆どの者は家族がいない。ラヴィス子爵がイシュタルの館を潰そうとしても、まさか娼婦達にまで手を出したりはしないだろう。そう、最悪の場合は、イシュタルの館を畳んでどこかへ逃げればいいのだ。
 しかし、それがあくまで最悪の場合であることは、ナタンも重々に承知している。アクセルがそれを望まないことも。

 「どうしましょうか……」

 バルシャは唇を噛む。現在の敵は、戦うことを選べない相手であり、それが歯痒いのだ。しかもその敵は、金でも女でもなく、こちらの消滅、ただそれだけを目的としている。

 ナタンは、それに答えることが出来なかった。

 そしてそんな時、生傷の手当を終えたクーヤは、

 「んじゃ、そろそろワシはおさらばじゃ」

 と、一人イシュタルの館を後にしようとしていた。確かに、ただの客人である彼に、この館の問題に付き合う義理は無い。それどころか、ギャエルとマノンの阿片を抜いた恩があるのだが、クーヤが礼として求めたのは、アクセルが作った酒を一瓶だけだった。

 「おい、いいのか? スルトに挨拶しなくて。もうすぐ戻ってくると思うんだが……」
 「いらんいらん。生きてりゃまた会うわい」

 この老人は、万事ずっとこの調子だった。飄々と、さながら雲か何かのように変幻自在で、つかみ所が無い。
 スルトも別れくらい言いたいんじゃないか、と、迷ったような顔をするナタンに、クーヤは履き物の紐を結びながら言った。

 「ここも何やら、キナ臭くなってきたしな。ワシはさっさと逃げることにするが……お前らはどうするんじゃ?」
 「どうするって?」
 「このままここにいれば、死ぬかも知れんぞ」

 ナタンも、そして彼の後ろに立つバルシャも、わかっていた。その可能性が、決して低くは無いことを。
 抵抗しても、それが成功しても良い結果が出そうにない以上、出来るのは防御と逃亡だけ。

 「心配してくれんのか、爺さん?」
 「……余計なお節介じゃったな。まぁ、領主も、娼婦にまで手は出さんじゃろ」

 二人の顔を振り向いたクーヤは、文字通り、余計なお節介を焼いたことに気付いた。

 「んじゃ、お前ら、出来れば生きてろよ。そうすりゃまた会えるかもな」

 場に湿気が生まれることを嫌い、クーヤは立ち上がると、手ではなく酒瓶をふるふると振った。軽く爪先を地面で叩き、ガラガラと裏口の引き戸を開ける。

 「ん?」

 そこに、スルトが立っていた。

 「おう、帰ったか。また今度、茶ぁでも飲もうや」

 そう別れの挨拶をするクーヤだが、スルトは無言のままだった。

 「何じゃ? どけや」

 そっと、スルトは道を空ける。だが、更に立ち塞がる少年が現れた。

 「出発は待ってくれないか、爺さん」
 「ベル!? え……何で……」

 やつれた顔のアクセルを見て、ナタンが声を上げる。

 「お、おいスルト。手紙じゃなくて、本人を持って帰ってどうすんだよ」
 「どうしても、連れ出せってな」

 ナタンに返事をしながら、スルトは肩をすくめて見せた。そのまま引き戸に背を預け、腕を組む。

 「ナタン」

 クーヤを通り越す形で、アクセルはナタンに声を掛けた。

 「もう気付いてるかも知れないが、まずい状況だ。イシュタルの館始まって以来の危機だよ。敵は僕の父、ラヴィス子爵。本当の理由はわからないが、ここを潰したいのは確からしい」

 既に察していたので、ナタンもバルシャも、大して驚きもせずに頷いた。

 「色々考えた……。そして、賭けに出ることにした」
 「賭け?」
 「外部からの協力者を得る為に、僕は王都トリスタニアに向かう」
 「あてがあるんですか?」
 「都合良く、さっき出来たのさ。……父が戻るまで一週間、それまでに何とか出来るかは分からない。だから、もしも一週間で僕が間に合わなかった場合、内部から持ちこたえて欲しいんだ」

 今までのアクセルの世界は、ラヴィス子爵領が全てだった。殆ど全てのことが、片田舎の子爵領で完結してきた。
 今、その子爵領の支配者が、敵としてやって来ようとしている。それに対抗するには、アクセルの世界を広げる必要があった。

 勿論、この状況で外の世界に出るのは、大きな賭けである。このままここに残り、ラヴィス子爵と顔を合わせ、息子として説得すべきかも知れない。

 「どのくらい持ちこたえればいいか……悪いけど、それは明言出来ない。全て、ナタンの判断に任せる」
 「……了解だ」

 ナタンは笑顔を見せた。アクセルも笑顔を返すと、少しでも体力の消耗を減らそうとするかのように目を閉じ、口だけ動かす。

 「そして、スルト」
 「何だ?」
 「もしも、ナタン達が逃げることになった時は、やっぱりクルコスが一番確実なんだ。そうなった時、案内を頼みたい」
 「危険だな」
 「ああ、下策さ。最悪より、少しマシな程度だろう。それでも……」
 「わかった、力を尽くそう」
 「ありがとう」

 「もうええかのぉ?」

 すっかり蚊帳の外にされていたクーヤが、蚊の泣くような声を上げた。こんなにやつれた顔の少年を押しのけるのも忍びなかったのか、ガリガリと頭をかいている。
 アクセルは目を開けると、クーヤの目を見つめた。

 「爺さんには、ナタンを助けてもらいたい」
 「……はあっ?」
 「ここに残り、手を貸して欲しいんだ」
 「お断りじゃ」

 予想しなかった言葉に目を丸くしたクーヤは、しかしすぐに表情を戻すと、あり得ないとでも言うように首を振った。アクセルはじっと老人と視線を合わせるが、彼はそれでも動じない。

 「沈む船からは、ネズミだって逃げ出すぞ。ワシはネズミほど利口でも無いが、人間ほど馬鹿でも無いんでな」
 「それ相応の礼はするよ」
 「舐めんなよ、クソガキが。欲しいもんは、テメェで手に入れるわい」

 取り合おうとしないクーヤだが、アクセルは突然微笑むと、小首を傾げた。

 「爺さん。米の飯には、もう未練は無いのか?」
 「いいからさっさとどけ。…………おい、今何て言うた?」

 アクセルの他に老人の表情の豹変に気付けたのは、皮肉なことに、スルト一人だった。

 「…………」

 固唾をのむクーヤの目の前で、アクセルは膝を曲げ、中腰になると、右手を下げる。そして腹から絞り出すようにして、声を上げた。

 「お控ぇなすってぇ!」

 ナタンもバルシャも、スルトでさえも、何事かと身体を浮つかせる。

 「早速お控え頂き、ありがとうございやす。斯様粗忽な身形でのご挨拶、失礼さんでござんすが御免なさんせ。手前粗忽者故、前後間違いましたる節は、まっぴら容赦願います。向かいましたる上さんとは今回初めてのお目通り、ではございやせんが、改めましてご挨拶させて頂きやす。手前生国、水の国はトリステイン、聖湖ラグドリアンからギヨル川を下り、産声上げたはラヴィスの地でございやす。姓はラヴィス、名はアクセル・ベルトランと申しやす。ご賢察の通りの若輩者でございやす。後日にお見知りおかれ、行く末万端御熟懇に願いやす」

 さながら、演劇か何かのようだった。朗々と、淀みなくアクセルの口から出た口上は、よく聞けば長い自己紹介である。相当に勿体ぶってはいるが、結局の所、名前を名乗ったに過ぎない。
 アクセルはふぅと息をつき、目を閉じる。

 「爺さん。僕は出来れば、アンタとは後でゆっくりと、色々な事を話したい。……爺さんはどうだ?」

 クーヤもじっと、瞼を下ろしていた。まるで広大な荒野で、同じ種の生物とばったり顔を合わせたかのように、微動だにしなかった。
 理解できる者はいない。
 そんな中、クーヤはカッと目を見開くと、アクセルと同じく中腰になり、右手を下げた。

 「お言葉ご丁寧にござんす」

 アクセルのそれとは違い、静かだが、さながら盤石を思わせるような声色。

 「申し遅れて高うはござんすが、御免をこうむりやす。弘法さんが仰るに一生は、生まれて、生きて、そして死ぬ。生まれもしたし、生きもした。なれど最後の一つが出来ぬまま、甲乙を繰り返すこと三度にござんす」

 節を付けて、さながら歌うかのように、クーヤは続ける。

 「そもそもの生国は、大日本帝国は甲斐の国にござんす。日本橋から朝日を背負い、お天道様に追い抜かされて、白虎の街道を四十里。芙蓉峰の残雪に照らされ、浅間の水を産湯に使い、守ってくれたは笹と竹。竹は武にて、剛と猛。風林火山の虎に肖りまして、姓は佐々木、名は武雄と印しやす。何の因果か流れ流れて、着いた果ては酒のタルブ」

 アクセルは人知れず、生唾を飲み込んだ。

 「転じて次の名は一闡提(いっせんだい)。四重禁に五逆罪、俗欲の限りを尽くし、閻魔の元へ赴かんとするも、奪衣婆(だつえば)懸衣翁(けんえおう)にも避けられて、極楽地獄に居場所無く」

 アクセルのように、ただ名乗るだけではない。
 ただアクセルの為にのみ語られたそれは、この老人の歴史だった。

 「ただただ笑いて、カラカラと。空っぽ空虚、空の如く。更に転じて、今はただただ空也て、名乗ればクーヤと発しやす。お見知りおかれやして、今日向万端よろしくお頼ん申し上げやす」

 そこまで告げると、クーヤは背を伸ばし、踵を返してその場の全員に背を向けた。

 「……ヤクザの仁義なんざよう知らんから、適当にさせて貰ったぞ」
 「…………うん」

 わざわざ前に回り、老人の表情を確認しようとする者はいない。事情を知るアクセルでなくても、体温が見えるスルトでなくても、触れること憚るものを感じ取った。

 「おいっ、クソガキぃ!」

 無理矢理絞り出すようにして、クーヤは怒鳴る。アクセルは瞬きをすると、腰に手を当てる。

 「ベル。そう呼んでくれ、クーヤ」
 「……ベル。女と酒と、それと米。これは譲らんぞ」
 「ああ。好きにしてくれ」
 「それと……ちゃんと、帰ってくるんじゃろうな?」
 「ああ」
 「よっしゃぁっ!」

 掌で軽く肩を打ち、クーヤは振り向いた。その顔は、全てを塗り潰すかのような強烈な笑みを作っている。

 「まだ当分厄介になるぞ! これで満足かっ?」
 「ああ、文句無しだ。……ところで、クーヤ。一ついい?」
 「何じゃい」
 「今……何歳?」
 「知るかっ」



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