小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第24話<邂逅禄>






ラヴィス子爵領から、馬車で一日。レオニー子爵に同行する形となったアクセルは、無事に王都トリスタニアに到着した。

 「どうだね?」
 「……凄いですね」

 その答えに満足したのか、レオニー子爵はにっこりと笑顔のまま頷いた。

 別に演技ではなく、正直な感想であった。
 ラヴィス子爵領のゼルナや、レオニー子爵領のクルコスが片田舎であることは知っていたが、やはり自分の中で、街とはあの規模のものだったのだ。
 アクセルは自分の世界が広がっていくのを、背筋の震えで感じていた。未知の場所に踏み出す、少年らしい冒険心が、体中に広がっていく。
 王都トリスタニアは、あの二つの街などとは比べ物にならないほどだ。アルビオンのことを白の国とも呼ぶそうだが、このトリスタニアにこそ相応しいのではないか……そう思える。真っ白な石造りの建物が建ち並び、それらが太陽の光に照らされて、白磁の器のような光沢を放っていた。
 弱小国家のトリステインの首都ですらこれ程ならば、ガリアやゲルマニアといった大国はどれ程なのか……と、未だ見ぬ都市に心を躍らせるが、しかしそれらも、ほんの一瞬のことだった。今のアクセルに、童心に酔うような余裕など無かった。
 帰りの時間も考え合わせれば、残り五日。それまでに、何とかしなければならない。
 しかし、その“何とか”の内容すら、未だはっきりとは定まっていなかった。

 (……欲を出しすぎた……かな)

 もう何度、そんなことを考えてしまったのだろうか。
 誰一人として殺さず、八方丸く収まるハッピーエンド……そんな夢物語のような未来は、か細い亀裂の奥にちらつく、幻のようなものだったのかも知れない。しかし、例えそうだとしても、手を伸ばさずにはいられなかった。

 アクセルの表情の曇りは、レオニー子爵の目には、身体的な顔色の悪さにしか映らない。

 「まぁ、思い切り楽しめばいい」

 そう言いつつ、少年の肩を叩く。
 今回のアクセルの王都訪問は、治療という名目もあった。軟禁状態で、食事すら受け付けなくなったアクセルには気分転換が必要だと、レオニー子爵直々にリーズを説得したのだ。リーズも、今後争いが起きそうなゼルナに置いておくよりは、王都にいて貰った方が良いのではないかと考え、決断した。

 門を抜け、街の中へと入ったところで、馬宿に馬車を預ける。アクセルとレオニー子爵が並び、その後を、荷物を持った従者が続いた。

 「……どんな方なんですか?」

 アクセルは緑髪を揺らしながら、軽く顎を上げ、隣のレオニー子爵を見上げる。

 「ん、マザリーニ枢機卿殿か? まぁ、そうだな……」

 ふむ……と上下の唇をずらし、どこか虚空に視線を彷徨わせた彼は、やがてぽつりと漏らした。

 「枢機卿らしからぬ……と言えばいいかな。いや、別に、悪い意味では無いんだ」

 マザリーニ枢機卿……その名は、アクセルにとって信頼できる人物のそれだった。
 勿論、実際に顔を合わせたこともないし、原作当時のように今は未だ、それほど有名でも無い。
 信頼できると判断した理由は、ただ、原作の物語を知っているから……それだけだ。
 我ながら何と脆い理由かと、アクセルは自嘲したくなる。既に物語は、大きく書き換えられているかも知れないというのに。
 しかし、流石に彼の政治能力まで失われている筈は無いだろう。現在のトリステイン国王崩御から、アンリエッタ覚醒イベントまでの数年間、国の政治を一手に取り仕切っていた凄腕が、マザリーニ枢機卿だ。
 今抱えている問題が、アクセルにはどうにもならない事態である以上、アクセルより優れた人物に手を借りるしか無い。

 (問題は、どうやって渡りをつけるか……だけど)

 理想は、マザリーニが現在頭を悩ませている問題を、メイジである自分が解決してやり、それによって恩を売る、というものだが、そうそう都合良くはいかないだろう。

 (……今、俺が出来ることを最大限に引き出すしかないな)

 アクセルはそう思いながら、ふと開いた掌に精神を集中させ、魔力の渦を作り出してみた。

 「……しかし、政治の才能は私などよりも上だな」

 どうやらレオニー子爵の話を、多少聞き逃してしまっていたらしい。慌てて自らを戒め、アクセルは相づちを打った。

 「元々、ロマリアからやってくる枢機卿などは、始祖ブリミルの教えを伝えるための、ただのお飾りなのだ。せいぜいが、式典を監督したり、ブリミルの教えに反した行為が無いかを見張る役。あまり政治に関わらせたくは無いが、異端と見なされるのも厄介なので、どの国も、腫れ物扱いさ。しかしそんな中、マザリーニ枢機卿殿は抜群の才能をお持ちだ。惜しむらくは、未だその才能を周囲が認めていない点なのだが……」

 まぁ数年後には、イヤでもその才能を引っ張り出され、鳥の骨とあだ名されるほどにやせ細る羽目になるのだが……本人にとってどちらが幸せなのだろうかと、ふとアクセルは考えた。

 昼も大分回っていたので、昼食を取ることになった。
 向かったのはチクトンネ街にある居酒屋、『天使の箱舟』亭。店名の意味は、従業員の女の子達だろう。確かに、見目麗しき乙女達が、甲斐甲斐しく客の相手をしている。少々店内の老朽化が激しい感もあったが、それを気にするような客は来ないらしい。調度品はなかなか立派なものが揃っており、それなりのステータスのある人物達がやって来るのだろう。

 (……ん?)

 ふと、アクセルは気付いた。
 元々この世界の食堂など、酒を備えていない方が珍しいので、食堂より寧ろ居酒屋という呼称が似つかわしく、そこへ子どもを連れて行くのは問題ではない。
 気付いたのは、席の半分ほどを埋める客が男ばかりで、そのうちの何人かが、女の子と共に二階へと上がっていくことだった。

 (……ひょっとして、ここ、売春宿か?)

 それこそ問題ではないか、と内心思いながら、しかしなるべく顔には出さず、アクセルは平然としていた。

 「いい店だろう?」

 どこか下品な笑みを浮かべ、隣のレオニー子爵が囁いてくる。うぶな少年の顔を赤面させたいらしいが、それも自分を元気づけようとしてのことだろうと、アクセルは好意的に受け取った。

 「そうですね、皆さん美しい方ばかりで……」
 「私の行きつけでな、ここは。トリスタニアに来ることがあれば、必ず立ち寄るようにしているのだ」
 「へぇ」

 気のない返事をしつつ、アクセルは考える。
 何故、このトリスタニアの売春宿が認められて、ラヴィス子爵領のイシュタルの館が認められないのだろう、と。チクトンネ街は確かに下世話な店が多い地区だが、そんなもの、人が集まる場所であれば自然と出来てしまう筈だ。だからこそ見逃される。
 しかし、それ以上考えると、また出口のない迷路へと我が身を投げ込んでしまいそうで、自重する。

 アクセルが頬を染める場面でも期待していたのか、レオニー子爵は「やはりまだ早かったか」と、残念そうな顔をする。

 「あらあら、お久しぶりですわ。フィルマン様」

 年を食った老婆が、レオニー子爵の名を呼びながら近づいてくる。

 「ああ、久しぶりだな、女将。景気はどうだ?」
 「さてそれが、なかなか思うようには、ねぇ。最近は、妙な連中が現れるようになりましたし」
 「……妙な連中?」

 女将に案内され、レオニー子爵とアクセルは、席の一つを囲む。それほど忙しいわけでもないのか、女将はレオニー子爵の隣に腰掛けた。

 「そうなんですよ。店を守ってやるから、金を渡せって……」
 「ただのゴロツキではないか。“初物食い”として貴族の間に名を馳せた“箱船亭”にしては、随分と弱気だな」

 そこでようやく女将は、アクセルへと目を向ける。レオニー子爵の子どもとでも思っていたらしいが、それにしては顔が似ていないことにやっと気付いた様子だった。

 「ところで、フィルマン様。こちらは?」
 「初めまして。アクセル・ベルトラン・ド・ラヴィスです」

 アクセルは形ばかりの挨拶をする。暫く目を瞬かせていた老婆は、挨拶を返すことすら忘れたように、レオニー子爵を見上げて首を傾げた。

 「まさか……この子の初物を?」
 「バカ言っちゃいかんよ、女将。ただ昼食を摂りに来ただけだ」

 何で九歳児をそんな目で見るんだ、と辟易するアクセルだが、勿論顔には出さない。あくまでも、無知で無垢な子として振る舞おうと思っていた。
 昼食は、すぐに運ばれてきた。アクセルの食欲も大分回復しているので、久しぶりに肉を堪能する。さっさと皿の上のものを平らげていく少年に、レオニー子爵はひとまず安心した。

 「さて、私はこの後、マザリーニ枢機卿殿にお会いするのだが……本当に君も来るのかね? ここらには、遊ぶ場所もたくさんあるぞ」
 「ありがとうございます。でも、ゼルナではリーズが頑張っているというのに、僕だけ遊ぶのはどうかと……。だからせめて、少しでも勉強しておきたいんです」

 アクセル自身、歯の浮くような台詞だったが、殊勝な少年だとレオニー子爵は感じ入ったらしい。そうか、と、まるで我が子が言ったかのように嬉しげに、アクセルに向かって微笑んだ。

 昼食を終え、店の外に出たアクセルは、軽く伸びをする。元々狭い通りが入り組んでいる中、ここは更に裏街であるチクトンネ街。頭上を見上げると、建物に押しやられた窮屈そうな青空があり、彼自身も息苦しさを覚えた。

 「……? 坊ちゃん、あれ、何でしょう?」

 そう尋ねてきたのは、傍らの従者だった。両手を上に上げたまま、示された方向へと視線を移す。酒場の隣の、大人が両手を広げれば通せんぼできるような、非常に狭い路地。そこの物陰で、影が動いた。

 「ん、何だろ?」
 「あっ、坊ちゃんっ」

 従者が止める間もなく、アクセルは単純な好奇心に引っ張られ、路地へと踏み入る。薄汚れた石畳を踏みしめながら、ゴミ箱の奥に座り込む、一人の人間を発見した。
 身体に纏う精霊により、メイジであることに気付く。貴族の格好こそしていないが、路地裏には似合わぬ清潔感ある服装で、まさしく掃き溜めの鶴、といった感じだった。
 年齢は、若くは無い。四十ほどの女性だった。黒髪に、銀縁の眼鏡。その奥の、閉じられていた双眸がすぅと開き、アクセルと同じ青い瞳が、アクセルのそれを射抜くように見つめた。

 「大丈夫ですか?」

 アクセルがそう尋ねたのは、その女性の左肩が血で染まっていたからだ。女性はそっと、放っておけとでも言うように、首を横に振った。

 「……どうなされた?」

 会計を済ませたレオニー子爵に、従者が知らせたのだろう。アクセルの背後から様子を覗き込んできた彼は、同じく女性の怪我を見ると、痛々しそうに顔を顰めた。

 「とりあえず、手当を……」
 「ご親切、痛み入ります。ですが、どうぞ……私のことは構わずに」

 そこでようやく、彼女は口を開いた。話すことすら億劫らしい。やはり、相当に消耗しているようだ。アクセルは構わず杖を抜き、治癒の魔法でその傷を癒した。治癒が得意ではないレオニー子爵は、素直に感心し、力無い手で杖を払いのけようとした彼女も、子どもとは思えない魔法の練度に、驚いたように目を見開く。

 「……放っておいてくださいと、申しましたのに」

 呆れるように、女性は溜息をつく。

 「そんな大変そうな状況で、他人を気遣えるなんて……あなた、いい人ですね」

 そう言って、笑って見せるアクセルの胸には、打算があった。
 三つの可能性がある。この女性がマザリーニの味方である可能性、逆に敵である可能性、どちらでもなく無関係である可能性。それら全てを考え合わせた上で、彼女を助けることにしたのだ。
 味方なら、恩を売ることが出来る。敵なら、差し出すことが出来る。最後の、そして一番可能性の高い、無関係の女性であったとしても、この女性個人に恩を売ることは、無意味な行動では無いだろう。

 ふと、アクセルは上を見上げる。狭い空を、人影が横切った。

 「……申し訳ありません、既に巻き込んでしまったようですね」

 座り込んでいた女性も、同じく、上を見ていた。

 「追われている、と?」

 レオニー子爵の問いに、彼女は力無く首肯する。アクセルは目を閉じ、周囲に意識を巡らせた。果たして、緊張状態のメイジの反応が、広く薄く伸ばした魔力から伝わってくる。一つや二つではなく、十を超えていた。

 (……包囲されている)

 既に、アクセルもレオニー子爵も、この女性の味方と見なされているらしい。アクセルは跪き、彼女と視線を合わせた。

 「あの、どこか安全な場所はあります?」
 「…………」

 暫く無言だったが、全てが手遅れだと悟ったらしい。彼女は一つ溜息をつくと、ぐいと額の汗を拭った。

 「王城の中……あそこまで行けば、彼等も手出しは出来ないでしょう。私が囮になって差し上げたいところですが、既に精神力が枯渇しています。夜に紛れて、と言いたくても、その時間は無さそうですね」

 どうするか、と、アクセルは考える。
 チクトンネ街の路地裏という、不慮の事故があっても不思議ではない場所。相手は、こちらを殺すつもりでかかってくるだろう。相手の数も実力もはっきりせず、通常の魔法だけでは相手が出来そうにない以上、逃げの一手しかないのだが、どうやって王城まで逃れるべきか。
 王城の中、と彼女が指定したということは、この女性はやはり、それなりの地位を持つ重要人物。助けられた後に得られる利益を考えれば、益々死なせるわけにはいかないのだ。

 (素早くは動けない。土地勘も無いから、敵を撒くのは不可能。一旦どこかに逃げ込んで……っていうのも、他人の迷惑を顧みないガキって感じで、印象悪いな)

 アクセルはふと顔を上げると、レオニー子爵を振り向く。

 「この状況、逃げた方がいいですよね?」

 九歳児にどうやって事態を説明しようか悩む彼に、先手を打つ形で尋ねた。子爵は安心したように頷く。

 「で、アクセル君。何か名案でも浮かんだのか?」
 「公示人に化けるのはどうでしょう。ちょうど、荷物の中に僕のヴァイオリンがあります」
 「……名案だな。おいっ、女将に化粧道具を借りて来い。それと、最新の布告だ。新しいものだぞ」

 レオニー子爵が背後の従者に命じ、アクセルはマントと上半身の衣服を脱ぎ去ると、荷物の中のヴァイオリンと入れ替えた。
 ほどなく、従者が化粧道具の詰まった箱を抱えて戻ってくる。それを開き、アクセルが顔と上半身に白粉を塗りたくっていると、従者から王城よりの布告を受け取ったレオニー子爵が、うっと呻いた。

 「どうかしましたか?」
 「……何ということだ。来月から、酒の値段を上げるそうだ」
 「余裕ですね」

 呆れ返るアクセルに向かって、レオニー子爵はふっと笑みを見せる。

 「何だか、面白くなってきてな。……しかし、アクセル君。随分と化粧道具の扱いに慣れているようだが……」
 「…………気のせいでしょう」

 この女性が何者で、どんな理由で追われているのか、それは未だわからない。レオニー子爵は尋ねようとはせず、アクセルも同じく。悠長に名乗りあっている余裕が無いのも確かだが、それもまた、アクセルの打算だった。助けるのは家名によってではなく、傷つき困っている女性だからだと、彼女に印象づけるために。

 「おい、アクセル君。どうしよう」
 「え?」
 「私は楽器は出来ないし、そもそも持ってない。しかも口下手だぞ」
 「ああ、大丈夫だと思います。その布告を、繰り返し読んでおいて貰えば」

 あまり識字率の高くないハルケギニアにおいて、公示人は必要不可欠な存在だった。彼等はチンドン屋と同じく仮装し、楽器を打ち鳴らし、字が読めない人々に向けて宣伝を行う。その顧客は、場末の酒場から王室にまで及んでいた。

 体中にペイントを施したアクセルは、ヴァイオリンで賑やかな曲を奏でながら、踊るように先頭を切る。その後ろから、従者の着替えを羽織り、のったりと布告文を朗読するレオニー子爵が続き、従者と眼鏡の女性は、その隣を歩いた。

 (……うまいな)

 レオニー子爵は素直に感心する。この目の前の少年の母親が、音楽に秀でていることは知っており、アクセルが楽器を演奏出来るのは不思議なことでは無いのだが、それでも彼の腕前には驚いた。
 布告文を読む声を邪魔する程ではなく、しかし賑やかさを感じさせる、適度な音量。

 忽ちにして、通りに鳴り響く音楽を聞きつけた人々が顔を出し、子ども達が群がる。公示人の音楽は、言ってみれば無料で聞ける演奏であり、たちどころに見物客が壁を作った。
 演奏しながら、アクセルは相変わらず周囲に意識を巡らせている。

 (どうか、諦めてくれよ)

 見物客である老若男女は、壁であり、目撃者でもある。決して大通り以外を歩くつもりは無いし、群がる子ども達は王城の門までついて来るだろう。こんな目立つ状態で攻撃を仕掛けては来ない筈だが、それも絶対では無いのだ。

 (……退いたか)

 密かにこちらを追いかけているメイジたちの緊張状態は、緩和されていた。魔法を使う様子が無いところを見ると、どうやら諦めてくれたらしい。
 もうすぐ、チクトンネ街を出る。そうすれば、更に観客は増えるだろう。

 その時だった。アクセルは、メイジたちの緊張が、再び高まっていくのを感じ取った。

 アクセルの警戒は、そのメイジが持つ精神力の流れを読み取るというもの。勿論、大まかにしかわからないが、魔法を使おうとしているのかどうかは判断できる。

 (馬鹿な、無関係な人間が多いここで?)

 アクセルは、自身の認識の甘さを悟った。もしも彼女が敵にとって、想像以上に邪魔な存在であれば、強襲も考えられる。

 「うっ」

 彼女の呻き声が聞こえた。続いて、倒れ伏す時のくぐもったような音。
 アクセルが演奏を止め、振り返るのと、観客の一人が悲鳴を上げるのは同時だった。

 (……バカか俺はっ)

 俯せに倒れる彼女の背には、矢が突き立っている。メイジの攻撃は魔法だけという固定観念に囚われていた己に毒づき、振り向きざまに走り出した。
 狭い通りは忽ちにして、阿鼻叫喚の渦に覆い尽くされたが、人々の逃げる方向は決まっている。倒れた彼女から……つまりアクセルたちから離れる方向。人垣はあっという間に無くなり、公示人に扮した一行は格好の的となった。レオニー子爵が連れてきた従者も、彼女と荷物を放り出して既にどこかへ消えている。

 感じる精神力の高まりは、弓を引き絞る集中。それが解放される時、矢が飛んで来る。

 (……!)

 アクセルは女性の傍に立つと、ヴァイオリンを振り回した。振り切った時には、ヴァイオリンは矢に貫かれている。

 「アクセル君っ、こっちだ!」

 レオニー子爵は彼女を引きずり、傍らの酒場の軒下に逃げ込んだ。ヴァイオリンをその場に放り捨て、石畳を蹴り、アクセルは転がってその場を脱出する。

 (ハイリスクハイリターン……か)

 そんな単語が浮かんだ。次の……三本目の矢は飛んで来ない。
 アクセルは腰を屈めたまま、彼女の傍に駆け寄った。背中に刺さった矢は、そこまで深くは無いようだ。が、このままにしておくわけにもいかない。
 ポケットに入っていたハンカチを取り出すと、それを団子にし、か細い息を吐き出す彼女の口元に示した。

 「矢を抜きます。いいですか?」
 「…………」

 彼女はさながらヤジロベエか何かのように、微かに、何度か首肯を繰り返すと、丸めたハンカチを銜える。アクセルはその彼女の背に足を乗せると、両手で矢の鏃近くを掴み、根菜のように一息に引き抜いた。一度、大きく身体を反らした彼女は、すぐに力を抜くと、鼻で荒い呼吸を繰り返す。その傷跡に、また治癒を施し、アクセルは溜息をついて彼女の傍らに尻餅をついた。

 「……どうしましょう」

 何とはなしに、反対側のレオニー子爵に尋ねてみる。しかしそこでアクセルは、この小柄な男が、荒事を苦手とすることに気付いた。
 焦点の定まらない目……その視線は虚空を泳ぎ、小柄な身体を微かに震わせている。どうやら、こちらの声にも気付いていないようだ。
 レオニー子爵にかかっていた、自己陶酔の魔法は切れている。彼は今、至って正常な、彼本来の頭脳を取り戻していた。
 アクセルは、己の感覚が麻痺していたことを悟った。この状況、冷静でいられる方がおかしいのだ。見ず知らずの女性を助けようとしたことで、同じメイジに命を狙われるなどという展開、一体何人の貴族が経験したというのか。
 それに比べ、この状況でも取り乱さないこの女性は、一体何者なのだろう。烈風カリンの他に女性軍人がいる可能性も低く、となれば裏の仕事に手を染める没落メイジか。しかしそれにしては、彼女が纏う雰囲気は由緒正しい貴族のそれである。王城に逃げ込める身分であるならば、尚更だ。

 アクセルは、先ほど頭に浮かんだ“見捨てる”という選択肢を、静かに片隅へ押しやった。益々、死なせたくは無かった。

 (追撃は未だ無し……か。いくら何でもこうやって騒ぎになった以上、敵は早くに片付けようとするだろう。守備隊が来るまでどのくらいだ? それまで守備に回るのは……無理だな。三人の中で、まともに戦えるのは多分俺一人。レオニー子爵は……)

 ちらりと、彼に目を向ける。

 「に、に、逃げなければ……」

 ちょうど、独り言のように呟くレオニー子爵と目が合った。流石に、九歳児ですら落ち着いていることに気付いたのか、彼は震えを止める。いや、無理矢理に押し込もうとしているようだった。
 アクセルは再び、周囲に意識を巡らせる。風のメイジの才能によって、感じることが出来た。徐々にこちらへと近づいてくる敵たちを。

 「……下水道……」

 その呟きが、彼女の湿った喉の奥から聞こえてきた。アクセルは急いで這いつくばり、耳をその口元に寄せる。

 「何です?」
 「下水道……。そこに……逃げれば……」
 「…………」

 その考えが、アクセルに無かったわけではない。一度は思いついておきながらそれを却下した理由は、初めて入る場所であることの他に、彼女の消耗にあった。いくら傷を塞いであるとはいえ、怪我人をそんな不衛生な場所に連れ込むわけにはいかない。
 そして、その判断を察したかのように、彼女は力無い笑みを浮かべて見せる。

 「あなた方、二人なら……逃げられます。ここまで、ありがとうございました……。あとは私が、決着を……」
 「立てもしないクセに、何を言ってるんですか。大丈夫です、すぐに守備隊が来ます」
 「……来ません」
 「そんなわけないでしょう。白昼堂々、あれだけの目撃者の中、人が襲われてるんです。なのに……」
 「正確には……通常より遅れます……。守備隊に命令を出す筈の人間は……ここでこうして、身動きが取れないんですから……」
 「!? じゃあ……貴女は……」
 「こんな有様ですが……チクトンネ街区の護民官です」

 アクセルは覚悟を決めた。杖を握り直し、静かに精神力を高める。

 その時、通りを風が通り抜けた。

 「……!?」

 風属性の精神力の純度が高ければ高いほど、扱いが難しくなり、威力が跳ね上がるのは、アクセル自身が実験済みである。
 そしてその風の純度は、アクセルが扱えば間違いなく自爆するであろう程のものだった。

 (……敵が……)

 次々と、敵の立ち去る気配が届いた。彼等は目的が果たせぬことを知り、退却を選んでいた。
 その判断をさせた人間が、通りの向こうから歩いてくる。
 服装は、貴族のもの。マントを羽織り、顔には鋼鉄の仮面。長い桃色の髪を自らの風で靡かせながら、あらゆる障害が排除されたそこを、何の気負いもなく進む。

 (まさか……)

 そう思いつつも、アクセルは杖を構えた。しかし、背後に守る彼女は、アクセルの裾をくいと引っ張ると、静かに首を横に振った。

 「……ご無事ですか? ヴィーヴィー殿」

 鉄仮面の下から凛と響いたのは、女性の声。

 「ええ……。ありがとう、カリン」

 ヴィーヴィーと呼ばれた彼女はそう呟くと、安堵したかのような微笑みを浮かべる。
 アクセルの全身から吹き出す冷や汗が、剥がれた白粉と共に、白濁した雫となって身体の上を滑り落ちた。



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