小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第25話<邂逅質>






 マザリーニ枢機卿の邸宅は、トリスタニアの高級住宅街、モンシャラン街にある、その地区の中では比較的小さな家だった。繁華街であるチクトンネとは、中級住宅街であるフォッソワイヤール街を挟んでいる。
 王城での事務を終えて帰宅したマザリーニは、客の数が倍に増えたことをメイドから聞かされた。
 レオニー子爵がラヴィス子爵の息子と共に来訪するのは、既に手紙で知っている。着替えもせずに応接間に向かったマザリーニが目にしたのは、ソファに腰掛けるレオニー子爵に、本棚の前をうろついている少年。そして予定外の来客、テーブルを囲んでいる二人の女性は、二人ともマザリーニにとって旧知の人間だった。
 一人は、ラ・ヴァリエール公爵夫人のカリーヌ・デジレ。もう一人は、かつて魔法衛士隊の隊長代理を務めたこともある、現チクトンネ街区護民官の、ヴィヴィアン・ド・ジェーヴル。

 「……お待たせして、申し訳ない」

 マザリーニのその声で、本棚を眺めていたアクセルは振り返った。

 年齢は、三十を少し過ぎた頃か。想像していたよりも、がっしりとした体付きのように見える。壮年、という言葉を体現したかのような雰囲気を持ち合わせており、必要以上の虚栄も卑下も無い。アクセルは、怜悧な戦国武将、という印象を持った。

 「おお、お邪魔しております。マザリーニ枢機卿殿」

 ソファから立ち上がったレオニー子爵は、大袈裟な身振りで挨拶すると、がっしりと握手を交わす。小柄な彼と並べば、より一層、マザリーニの長身が際立った。

 「ようこそいらっしゃいました、レオニー子爵。それで、そちらが?」

 マザリーニは微笑を浮かべ、アクセルに目を向ける。その視線には何の敵意も感じられず、ただ幼い子どもに対する慈愛だけがあり、多少後ろめたさのようなものを覚えながらも、アクセルは礼儀正しくお辞儀をした。

 「初めまして、マザリーニ枢機卿殿。ラヴィス子爵が第一子、アクセル・ベルトラン・ド・ラヴィスと申します」
 「これはご丁寧に。疲れているでしょう。狭い我が家ではありますが、どうぞ、ご実家のようにおくつろぎ下さい」
 「はい、ありがとうございます」
 「いや、しかし驚きましたぞ」

 そう言いながら溜息をつくレオニー子爵、彼の視線の先には、優雅に紅茶のカップを持ち上げるカリーヌ・デジレがいた。カップの取っ手に絡みつく、白くほっそりとした指には、妖艶なそれとはまた違った種の色気がある。

 「武名の誉れ高き烈風カリン殿が実は女性で、しかも今では、ラ・ヴァリエール公爵夫人であらせられたとは……」
 「レオニー子爵殿」

 カリーヌは顔を動かさず、横目でレオニー子爵を捕らえた。その視線はさながらマジックアローのように、彼の心臓を射抜く。レオニー子爵の背中に、冷や汗が滲み出た。

 「それを明かしたのは、ヴィヴィアン殿の命を救って頂いたことへの礼儀です。サイレントすら使わずにそのようなことを仰るのは、些か軽率に過ぎるのではありませんか」

 語調こそ静かではあったが、短刀の刃を首筋に這わせているかのような、静かな迫力があった。いや、殺気とすら言える。軽率である、というのは、烈風カリンの正体が知られるということに対してではなく、それを知ったレオニー子爵に、命の危険があるということを示しての言葉だった。
 トリステインの伝説を前にして、先ほど襲撃された時以上の恐怖を感じるレオニー子爵を救ったのは、呆れたようなマザリーニの手拍子だった。カリーヌの視線が、今度はマザリーニに移る。

 「ラ・ヴァリエール公爵夫人。我が家での荒事は勘弁願えませんか」
 「……わかっています」

 カリーヌは目を閉じ、持ち上げたままだったカップに唇を触れさせた。彼女とて本気ではなく、脅しというよりも注意のようなものだ。もっとも、彼女にとってはそうでも、された方はたまったものではない。

 「……失礼致します。少々、疲れまして……」

 安堵の吐息を漏らすと、レオニー子爵はこれ以上の墓穴を掘らないよう、そそくさと応接間を後にした。
 マザリーニは続いて、アクセルに目を向ける。すると、それまで黙っていたヴィヴィアンが口を開いた。

 「マザリーニ枢機卿。私は、その子とレオニー子爵に命を救われました」
 「ほう、左様ですか」
 「賊に受けた傷を二度も癒してくれて、更には自らの命を賭して守ってくれたのです」
 「それはそれは……」

 マザリーニは片膝を付き、アクセルの肩に手を置いた。

 「ヴィヴィアン殿を救って下さり、このマザリーニ、感謝のしようもありませんぞ」

 力強い手だった。

 「いえ、そんな……。それにあの矢傷は、僕の失敗でしたし……」
 「そんなことはありません。未だお若いのに、その覚悟、知恵、魔法。どれを取っても、正しく一級品。私も見習うべきですね」

 お世辞も入っているのだろうが、傍らから褒めちぎってくるヴィヴィアンに、アクセルは頭をかく。公示人に化けるというアイディアも失敗し、結局は通りがかりの烈風カリンに助けられたのだが、考えてみれば、最後まで逃げなかったことは賞賛できた。しかし、もしもヴィヴィアンがマザリーニの敵だった場合、彼女を裏切ってマザリーニに引き渡そうとも考えていたので、やはり後ろめたい。

 「では、今夜はこの小さな英雄のために、ささやかながら歓迎の晩餐といきましょう。アクセル殿、お疲れでしょう。どうぞ、それまでごゆっくりと。メイドに案内させます」

 マザリーニは小さな銀製のベルを鳴らし、メイドを呼びつける。どうやら、自分がここにいると都合が悪いようだと敏感に察したアクセルは、素直にそれに従い、応接間を後にした。
 少年が退室した直後、カリーヌは杖を抜くと、サイレントの魔法を使った。その時ヴィヴィアンは、ちらりとマザリーニの方に視線を向けたが、彼は首を左右に振って否定する。ヴィヴィアンが襲われた理由について、カリーヌにも黙っていた方がいいと、マザリーニはそう判断した。

 「さて。これで一安心」

 二人の視線での会話に気付かないカリーヌは、杖を太腿の上に置く。

 「聞かせて頂きましょうか。ヴィーヴィー殿が何故、命を狙われたのか」

 マザリーニとヴィヴィアンの予想通り、カリーヌは関わる気満々だ。それでこそカリーヌなのだが、今、彼女に関わらせるのは色々と都合が悪かった。

 「……。聞いてどうなさるおつもりだ? また烈風カリンとして、杖を振るわれるおつもりですか?」
 「場合によっては」
 「お止め下さい」

 マザリーニは溜息混じりに首を振る。その仕草が癪に障ったのか、カリーヌの視線が鋭さを増した。それに気付くマザリーニだったが、反対に、穏やかな口調で語る。

 「たかが蝋燭の火を消すのに、烈風は必要ありません。かえって燭台を倒し、無闇に火を広げてしまう恐れもあります。どうか、ご安心を。幸いなことに、烈風を求める程の大火事は起きていませんので」
 「蝋燭だと侮っている内に、身動きが取れない程囲まれることもあるでしょう。今回はたまたま私が通りかかったから良かったものの、そうでなければ、ヴィーヴィー殿とこうして紅茶を飲むこともありませんでした」

 そう、今回ヴィヴィアンが命を拾ったのは、偶然の重なりである。
 もしもあのまま誰にも気付かれずに路地裏にいれば、いずれ発見されて止めを刺されていただろうし、アクセル達が時間を稼いだからこそ、カリーヌの偶然に間に合った。

 (さて……。どう言って丸め込もうか)

 マザリーニが口を開こうとした時、かちゃりと、音が鳴った。叩き付けるのではなく、その場の注意を自らに向けさせる為の音。カリーヌもマザリーニも、揃ってヴィヴィアンの方を向いた。

 「カリン」

 若干、トゲを含ませた声だった。

 「つまりお前はこう言いたいのだろう。私程度の力では、みすみす殺されるのがオチだと」

 その声に、カリーヌはイヤでも昔を思い出さざるを得ない。かつて、彼女の指揮の下で戦っていた自分を。

 「それはつまり……このヴィヴィアン・ド・ジェーヴルを、己の身すら守れない、か弱い女として見ていると……そういうことだな」
 「いえ……それは……」

 道理がどうこうではない。絶対服従の対象である上官が一つだと言えば、ハルケギニアの月ですら一つとなる。
 伝説の軍人、烈風カリン。彼女は規律を重んじるが故に、自らもその規律に従うしかない。それが長所であり、短所であった。

 「……ふざけるなぁっ!!」

 鉄槌の如く振り下ろされたヴィヴィアンの拳が、カップと皿を粉々に砕いた。カリーヌがそれにビクリと身体を震わせたのは、相手がヴィヴィアンだからである。

 応接間に、沈黙が横たわる。鉄槌を振り下ろしたまま、そして一言叫んだままだったヴィヴィアンは、やがて荒々しく立ち上がると、ズカズカと窓の前まで移動する。そのまま腕を組み、カリーヌ達に背を向けた。
 ヴィヴィアンは、拗ねていた。幼子のように。童子のように。それもまた、道理などではなく、純粋な感情からくる行動。ヒステリーなどと同じく、思わず取ってしまう行動。そしてそんな純粋な行動だからこそ、説得する言葉などなく、時間経過しか解決策は残っていないのだ。
 どうしようかと迷っているカリーヌの耳元で、マザリーニがそっと囁く。

 「あの、カリーヌ殿。どうか、この話はまた改めて、ということに。私も今回の一件で、敵の本質を大分見ることが出来ました。もう、ヴィヴィアン殿の命を危険にさらすような真似は致しません。ですので、その、どうか……今日のところは……」

 相手が格下であれば、カリーヌもお構いなしに、無理矢理にでも追求するだろう。しかし、彼女は自分自身よりも、ヴィヴィアンを一段高い場所に据えている。強引に出られる筈もなく、彼女はそっと立ち上がると、ヴィヴィアンの背に別れを告げた。

 「…………カリン」

 ヴィヴィアンは背を向けたまま、退室しようとするカリーヌの背に声を掛ける。

 「トリスタニアには、どのくらい滞在する予定?」
 「一週間ほど、でしょうか……」
 「そう」

 それきり、彼女は再び無言。もしもの時には、ちゃんと自分を頼ってくれるのではと、カリーヌはそう解釈することにした。
 カリーヌが退室し、応接間にはマザリーニとヴィヴィアンの二人が残される。マザリーニが溜息をつきながらソファに腰を下ろすと、ヴィヴィアンも振り返り、彼の傍に近づいた。

 「……ありがとうございます。彼女を説得するのは、些か骨が折れますので」
 「いいえ」

 ヴィヴィアンは軽く微笑みを浮かべながら、マザリーニの隣に腰掛ける。マザリーニは背を曲げ、足の上で頬杖を付いた。更に組んだ両手を、口元を隠すようにくっつける。
 ヴィヴィアンは軽く眼鏡を押し上げた。

 「少々、カリーヌ……彼女に悪い気もしますが」
 「仕方ないでしょう。彼女は公爵とは違い、政争などには向きませんから。……しかし、まさかボーフォール伯爵が……ここまでするとは。申し訳ありません、ヴィヴィアン殿。完全に私の読み違いです」
 「仰らないで下さい」

 深々と頭を下げるマザリーニに、ヴィヴィアンは急いで首を振る。

 「原因は、私の油断ですから。……しかし、ボーフォール伯爵は既に老齢。巷では清貧の名が高く、高潔な人物とされているのに、何故……」
 「老齢だから、ということも考えられます。老いた者がかかる病、とでも言いましょうか。彼には跡継ぎとなる子どもはなく、妻もいない。何も無いのです。そして、何もないことに気付いてしまった。残された時間は残り僅か。生きた証を、何とかこの世に残したい……」
 「その為に、私を?」
 「ええ。今、チクトンネの護民官である貴女が亡くなれば、恐らく前任のボーフォール伯が就くことになるでしょう」
 「……。例えば……」

 ヴィヴィアンは再び眼鏡を押し上げた。こちらを向いたマザリーニに、その青い瞳の視線を重ね、軽く首を傾げる。

 「私が怖じ気づいた振りをして、護民官の職を辞任すれば……」
 「ボーフォール伯爵の目的は果たされ、もう貴女を害そうなどとはしなくなるでしょうな」

 マザリーニも、ヴィヴィアンが己の保身の為だけにその案を出したわけではないことは、十二分に理解している。ボーフォール伯爵は老齢であり、下手に争うよりは一時の権力を与えてやる方が……という考えは、ある意味人道的な情けであるとも言えた。
 それが手っ取り早い解決策であるとは認めても、マザリーニはその提案を却下した。

 「それも、成功しないでしょうな」
 「何故です? 私の名誉の為とでも?」
 「いいえ。この問題の厄介な所は、ボーフォール伯爵に確たる目的が無いところなのです。ただ漠然と、何かを成したいと思っているだけで。チクトンネ護民官が一番手に入りやすそうだ、という理由だけで、貴女を狙ったのです。確かに貴女が辞職すれば、ボーフォール伯爵の目的は果たされたことになります。しかしまた、すぐに次の行動に移るでしょう。ただ、漠然とした欲望を満たそうとして」
 「…………」
 「失礼である事は承知の上で言います。貴女には、囮餌であって欲しい。貴女を護民官の座から引きずり下ろす、という目標に集中している内は、ボーフォール伯は他の事には目を向けないでしょうから」
 「……酷い男」

 先ほどのカリーヌに対する演技とは違い、ヴィヴィアンは本気で拗ねた。ほんの一瞬、二十歳前の小娘の声であったような気がして、マザリーニは思わず目を丸くすると、隣の彼女を見る。言葉とは裏腹に、ヴィヴィアンはどこか楽しげに笑っていた。
 マザリーニは一つ咳払いをすると、再び思索の姿勢に戻る。

 「……ですが、それもあまり長く続けば、諦めて他の行動に出るでしょう。時間が無いということは、伯爵自身が一番理解している筈ですから」

 今、マザリーニが恐れているのは、ボーフォール伯爵が狂人の如き破れかぶれの暴挙に出ることである。それは大乱の元となるやも知れず、また他国につけ込む隙を与えることにもなりかねない。
 トリスタニアが抱える爆弾の一つをどう処理するのか、それがマザリーニの急務である。
 彼は溜息をつくと、ピンと人差し指を立てた。

 「……早々に、退場願いたいものだ……」

 トリスタニアの表舞台から、そしてこの世から、である。

 「私が選びましょうか?」

 朽ちた要人を排除する裏方には、ヴィヴィアンも若干心当たりがある。しかし、マザリーニは静かに首を振った。

 「今、ボーフォール伯爵は“疾風怒濤”を抱えています。生半可な者では、逆に貴女が危ない。……さて、どうするか」

 そう呟いたきり、マザリーニは目を閉じる。本格的に思索に入る構えだ。
 しかし数秒後、彼は

 「ひぇやっ!?」

 という奇妙な声と共に、バネ仕掛けの人形のように立ち上がった。両手を背中に回し、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、衣服を乱す。背中から追い出された数個の氷が、音もなく絨毯の上に転がった。

 「な……何を……!?」

 犯人は言うまでもなく、片手で杖を弄びながら、クスクスと笑っているヴィヴィアン。初対面の頃は、マザリーニも彼女を真面目な女性と思っていたのだが、意外に悪戯好きなのだ。今のように、思案中に背中に氷を突っ込まれる事も、過去何度かあった。

 「ゲストをほったらかしにするホストがどこに? ああ、ここにいましたね」
 「…………」

 マザリーニは恨めしそうな顔でヴィヴィアンを睨むが、勿論、彼女は動じない。彼は衣服を整えると、改めて、ソファの上に座り直した。警戒しているらしく、腰を捩ってヴィヴィアンを真正面から見る。

 「それにしても、彼の治癒は見事でした。トライアングルにも引けを取りませんよ。あのような将来有望な水メイジがいるとは、我が国もまだまだ安泰でしょうね」
 「ああ、アクセル殿か。彼は風のラインですよ」
 「え?」

 聞き間違いであると半ば断じて、ヴィヴィアンは聞き返した。しかしすぐに、その考えを否定する。

 「マザリーニ枢機卿。確か貴方は、あの子とは初対面では……」
 「ええ、初対面です。ですが、ラヴィス子爵の息子となれば、その程度の情報は集めております。何ヶ月か前、ラヴィス子爵から領地の代官に任命された、九歳のラインメイジ。……それほどまでに貴女が賞賛するのならば、風と水の両方に、高い相性を持つメイジなのでしょう」

 いつしかマザリーニの視線は、虚無となっていた。どこを見ているわけでもなく、ただ、眼球が開かれているだけ。その眼球から送られてくる情報は、脳内で至極どうでもいい情報として仕分けされ、うちやられた。彼は今、自らの思考の内側に入り込んでいた。
 九歳でラインクラスというのは、確かに才能の発露と言える。しかし、ラヴィス子爵は息子のその才能を素直に喜ぶだろうか。マザリーニは、子爵は喜ばないだろうという結論に達した。現在のラヴィス子爵に、そんな才能は寧ろ不都合な場合が多いのだ。
 確かに、子どもの成長を喜ばない親などいない。ラヴィス子爵も、自らの一人息子であるアクセルに、魔法の力を磨くななどとは言えないだろう。

 (……だから、か?)

 勉強のため、領地持ちの貴族がその子弟を代官に任ずるのは、それほど珍しいことでは無かった。もっとも大抵の貴族はラヴィス子爵と違い、代官に任せきりなどせず、自身が後ろから監督する。
 ラヴィス子爵は、息子に代官として失敗して貰いたがっている……あまりにも穿ちすぎた予想だが、マザリーニはそれを笑い飛ばせなかった。

 「……もう一度、いっときましょうか」
 「のあっひゃぁっ!?」

 いつの間にか背後に回っていたヴィヴィアンにより、マザリーニはまた飛び跳ねる羽目になった。








 応接間を後にしたカリーヌは、ふぅと溜息をつくと、そのままマザリーニ邸の玄関へと向かった。ヴィヴィアンを狙う者については、放っておくことも出来ないが、とにかく今は大人しく引き下がる方がいい。ヴィヴィアンは決して無茶をするような性格では無く、またマザリーニも、責任感の強い男だ。あの二人がはっきりと警戒する以上、そうそう不幸な未来も起こり得ないだろう。
 考えてみれば、ヴィヴィアンの怒りも尤もなのだと、カリーヌはそう省みた。かつてはどうであれ、今のカリーヌはラ・ヴァリエール公爵夫人。余計な首を突っ込む筋合いは無い。
 しかし、もしもヴィヴィアンが殺されるような事があれば、その時は思うままに烈風で薙ぎ倒す……と、既に結論は出ていた。
 勝手知った邸宅の中、案内も無用とばかりに颯爽と扉を開けた時、一陣の風が吹いた。カリーヌの桃色の髪が、風に梳かれてふわりと広がる。軽く髪を整えようとした彼女は、風が運ぶ、小鳥の囀りを聞いた。

 「…………?」

 そしてすぐに、それが囀りではなく、笛の音色であることに気付く。
 扉を閉めたカリーヌは、そっと石畳を下り、音色の源である裏庭に向かった。普通なら、無視する。それをしなかったのは、普通では無かったから。
 花々が作る道を超えて、裏庭に回ってみると、その正体が明らかとなる。小さな人工池の傍の岩に腰掛け、白銅のフルートを奏でる一人の少年がいた。その正面の岩には、先ほどその少年の案内を仰せつかったメイドが腰掛け、目を閉じたまま音色に聞き入っていた。
 カリーヌは傍らの、幻獣を模した石灯籠に寄り添うように立ち、その光景を眺める。
 やがて演奏が終わり、アクセルはフルートから唇を離した。

 「素晴らしい音色ですね」

 カリーヌが進み出たのは、その時だった。慌てて立ち上がるメイドに釣られ、アクセルもフルートを手に腰を浮かせる。

 アクセルはそっと、心の中で苦笑いをした。

 先ほど彼女の、高純度の魔法を見せられたせいか、どうも畏怖を拭いきれない。風の精神力が爆薬であるとすれば、それを薄める無属性の精神力は、導火線や制御装置の役割を果たす。勿論、純度が高ければ高いほど、単純に威力は上がるのだが、コントロールする余地が無くなる。通常の魔法の行使が補助輪付きだとすれば、このカリーヌは手放し運転が可能なのだ。
 そして、アクセルのようにそれを視認によってではなく、茫漠たる感覚として会得している彼女は、やはり並外れた才能の持ち主と言えた。

 「いえ……母に言わせれば、まだまだだそうで」

 アクセルは愛想笑いでカリーヌを迎える。その彼女が、仕事をサボっているメイドに尋問、又は精神的な拷問紛いの詰問を行う前に、少年は急いで口を開いた。

 「ありがとう、長々と聞いてもらって。どうだった?」

 カリーヌの静かな気迫に怯えていたメイドは、助け船を得たとばかりに、アクセルに向き直る。

 「あ、あの、その……とても、気持ちのいい音色でした」
 「そう。良かった」

 アクセルは目を閉じ、笑った。

 「ごめんね、引き留めて。戻っていいよ」
 「は、はい。失礼します」

 アクセルと、そしてカリーヌに直角のお辞儀を行い、メイドは早足で逃げ去った。
 カリーヌは、先ほどメイドが腰掛けていた岩に座る。アクセルはヒヤリとしたが、平静を装ってフルートを撫でる。

 「……美しく、そして不思議な音色でしたね」
 「音楽療法です」
 「……?」
 「あのメイドは、どうやら疲労が溜まっていたようで。ほんの気休め程度ですが、音楽には、人を癒す効果がありますから」

 音色に自らの精神力を込め、風に乗せ、対象の体調に作用させる。娼婦達の生理痛を少しでも軽減させるために、アクセルが確立しようとしている発展途上の技術。出来れば、一つの学問の体系として作り上げたいと考えていた。
 しかし、それもまた、結局は自分一人でしか使えないものなのかも知れない。効果が出るのは、自分が大切だと思っているもの、好意的に見ているものに対してだけという、ある意味現金な技術だった。
 だが、音楽が人に及ぼす影響は古来から言われており、誰かを想って調べを紡ぐのは……俗に言う、心を込めての演奏は、決して無意味なものではないだろう。精神力を操るメイジであれば、尚更に。

 カリーヌは再び、口を開いた。

 「治癒が、お得意で?」
 「あはは……。実はよく怪我をするので、その度に自分で治していたら、自然と……」
 「怪我ではなく、病気を治療したことは?」

 その質問に、アクセルは驚く。

 今、カリーヌの脳裏に浮かんでいるのは、次女カトレアの顔なのだろう。

 (まさか……そこまで切羽詰まっていると?)

 初対面の九歳児にすら……ほんの僅かであるとはいえ、望みを繋いでしまうのかと、アクセルは愕然とする。
 そもそも病気の治療は、怪我の治療よりも難しい。アクセルも、イシュタルの館直属の水メイジから少々話を聞いただけで、その勉強は始めていない。カトレアを治療することは、確かに大きな利益をもたらすことにはなるが、未だその時期では無いのだ。
 咄嗟にアクセルの口から出た言葉は、否定だった。

 「病気……ですか。それはまだ無いですね。そもそも、僕の属性は風ですし……水メイジのようにはいきませんよ」

 考えてみれば、ラ・ヴァリエール公爵は水のスクウェアクラス。医者ではなく軍人だとしても、治癒に深い関わりを持つ水属性を極めた存在。その彼がどうにも出来なかった病気に……更に言えば、原作でも治っていなかったあれに、一体誰が手を出せるというのか。

 「そうですか……」

 カリーヌの顔色が、僅かに曇った。やはり、カトレアの治療は難航しているらしい。彼女の表情に、些か罪悪感のようなものを感じながらも、アクセルは無言だった。声を掛けるべきか決めかねている間に、カリーヌはそっと立ち上がる。

 「それでは、失礼します。またお会いしましょう、アクセルさん」
 「あ……は、はい、わかりました。お気を付けて、ラ・ヴァリエール夫人」

 出来ることなら、あまり会いたくないのが本音だった。そう考えると、王都に来て早々、自分は失敗してしまったのかも知れないと、アクセルは俯く。
 見ず知らずの女性を、命を賭して助ける勇気……それをカリーヌが評価し、アクセルを勇者と見なし、記憶に留めれば……。

 (巻き込まれるかも……)

 カリーヌの末の娘にして、原作主人公のルイズのピンチがあれば、アクセルも引っ張り出されることになるかも知れない。

 (参ったなぁ……)

 銀色に輝くフルートを肩に乗せ、大きく、深々と溜息をついた。

 しかし……と思い直す。それは所詮は、未来のこと。まだまだ先のこと。
 今、足を踏み外してしまえば、その未来すら無くなる。未来を恐れることすら出来なくなる。

 (結局、今の一歩が大事ってことか)

 岩から腰を上げ、背を反らして大きく伸びをする。黄昏色の夕日に顔を顰め、軽く息を吐き出すと、無理矢理に気持ちを入れ替えた。

 (隙を見て……応接間に仕掛けた“アレ”、回収しないとな)

 アクセルの表情が、黄昏の中に沈んだ。



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