第1章 青き春の章
第26話<邂逅蜂>
応接間の本棚に並ぶ、数々の本。子ども向けの童話から、教養本、歴史書、辞典まで、様々な種類のそれらが、規則正しい姿で眠りについていた。応接間であることを考え併せると、客人用のものであるのかも知れない。
書物だけでは無い。魔法の蓄音機もあった。きちんと本棚の中に寸法を採られ、ぴったりと納まっている。
その傍らに、貝殻が置かれていた。大人の掌に収まるほどの、巻き貝の殻。飾られている食器や小物類に紛れて、ひっそりと、目立たぬように。持ち上げると、ちゃぽんと内部の水が揺れる音がする。
「…………」
アクセルはそっと、その腔の出口に、波の声を聞くかのように耳を押し当てた。するすると貝殻の表面をさすり、やがて微かに聞こえてきた話し声に集中する。
内部の水は周囲の音を記録し、保存する。魔法の蓄音機に使用されている技術の応用だが、勿論それほど性能が高いわけではなく、壊れかけのラジオのようにポツポツと雑音が軋む。
「……ボーフォール伯爵か」
アクセルは貝殻を離すと、それをポケットに仕舞い、ぽつりと呟いた。その名を忘れぬよう、心に留める。
背後で、ドアが開く音がした。
「あ……こちらでしたか、アクセル様。失礼致しました」
昼間、部屋を案内してくれたメイドだった。深々と頭を下げる彼女の動きは、あの時よりも元気そうに見える。
「お食事の用意が出来ました。ダイニングルームまでご案内致します」
「うん、ありがとう」
まるでそれまでの表情を塗り潰すかのように、アクセルはにっこり笑って見せた。
足跡のない雪原のように新品の、真っ白なテーブルクロスが広げられ、料理を乗せた銀食器が並んでいた。マザリーニ、ヴィヴィアン、レオニー子爵、そしてアクセルの四人がダイニングに揃うと、晩餐が始まる。枢機卿の食卓だからだろうか、常の貴族の晩餐よりも肉は少なく、代わりに穀物や野菜が多い。
マザリーニが始祖ブリミルへの感謝の祈りを捧げ、晩餐が始まった。
「……れすかられぇ」
そして三十分後には、レオニー子爵の舌が回らなくなる。
昼間、命を拾った感動がまだ続いているのか、がばがばとワインを呷り、たちまちにして顔を赤くした。レオニー子爵と晩餐を共にした経験のあるアクセルだが、その時は恐らく、子どもの前なので酒を控えていたのだろう。どうやら元々酒に強くは無いらしく、ワインを一杯飲み干す前に酔っ払ってしまったことにも驚いたが、そこからが長かった。据わった目で、給仕にワインを注がせる。
既に酔ったレオニー子爵を何度も見ているマザリーニは、平然と彼の相手をしていた。
「あれはれぇ、ころ子らんれふよぉ……」
先ほどからずっと、蓄音機のように延々と同じことを喋っており、そして繰り返すたびに言語が理解不能なものへと変貌している。
しかし、話題は全く変わらず。鉄道のアイディアは、本当はアクセルのものだった、ということである。
(いつもなら、止めてくれって叫びたくなるけど……)
この時ばかりはアクセルは、自分を宣伝する存在に感謝していた。まず、マザリーニに興味を持って貰わなければ、何も始まらない。彼の中での自分を、もっともっと、興味深い存在へと押し上げねばならない。
しかし、面映ゆかった。普段、貴族としては決して全力など出さず、お飾りとして見られることに努め、コケかシダのようにひっそりとしていた己に、突然スポットライトが浴びせられたような気分だ。
更には、マザリーニもヴィヴィアンも、ちゃんとアクセルを褒めるのである。
(褒められるって、こんなむず痒いものだったっけ)
体中を掻きむしりたくなるような、しかし不愉快ではない気分。頬が紅潮するのを感じるアクセルだったが、その顔色はマザリーニとヴィヴィアンの目には、幼子の微笑ましい光景として映っていた。
そしてついにレオニー子爵が酔い潰れ、使用人達の手を借りて寝室に向かった。
(……まだか……)
アクセルが望むのは、マザリーニとの一対一の密談。この場には給仕もおり、未だ腹を割った話など出来ないのは勿論なのだが、それ以上に気がかりなのは、ヴィヴィアンの存在だった。彼女が果たして信用できる人物なのか、その判断が出来ない以上、密事を漏らすわけにはいかない。
もたついている内に、晩餐は終わってしまった。
そしてその頃には、焦りを覚えていたアクセルは、ある決断を下していた。
その二人には、足音が無かった。衣擦れの音も無かった。
いや、無いというよりは、その音を周囲の人間が知覚することは無かった。
勿論、物音は隠せても、その姿形を隠すことは出来ず、彼等二人の方向へと目を向ければ、皆がその姿を認める。
しかし、既に日も暮れ暗闇が蔓延る中、月明かりに照らされるその姿は、ひどく曖昧なものだった。
二人は、忙しなくそこかしこの通りを駆け回る衛士達にも、こそこそと裏通りを渡る間男にも悟られることは無く、進んでいく。
「あ?」
二人の内、背の高い男は首を右に捻りながら、声を漏らした。サイレントの魔法によって、その声は周囲に漏れることは無いが、前を歩く男の耳には届く。灰色の髪の男は、不可解な声を漏らした連れを振り向こうとしたが、やはり止めたらしく、その代わりに口を開いた。
「どうした」
「いや、今、そこを何か……子ども?」
「こんな夜更けにか?」
「ああ、うん。やっぱり見間違いかも。大きい猫か何かかな」
「猫……ねぇ……」
灰色髪の男は、わざと聞こえるような大きさで、鼻で嗤った。背後の大男は、少しムッとしたようで、ぼってりとした唇をへの字に固める。その表情を知ってか知らずか、灰色髪の男は更に重ねた。
「怖じ気づいたんなら、帰って寝てろ」
「……いや……けどな、ハンスの兄貴。もし、“烈風カリン”を相手にすることになったら……」
「それは無いだろう。烈風カリンに直接会ったことは無いが、集めた情報によれば、こんな政争には向かない人間だ。マザリーニもヴィヴィアン・ド・ジェーヴルも、好んであんな爆弾を使おうとは思うまい」
「でもよぉ、万が一ってことも……」
「俺はそれでも構わん」
前を歩くハンスの言葉に、後ろを歩くマルセルは、ああ、ついにこの兄貴は自信過剰が過ぎて、取り返しの付かない脳味噌になってしまったのだと絶望する。
「俺は疾風、ヤツは烈風。どちらが勝とうが、風の勝利は揺るがない」
ハンスは得意げにそう言った。マルセルも、どちらにしろ風の負け、などと反論してしまう程、命を軽んじてもいなければ空気が読めないわけでもないので、結局はそれきり口を閉ざす。
「おお、今度は本当に猫だな」
ハンスがそう言った通り、黒猫が目の前を横切った。
二人はやがて、モンシャラン街のマザリーニ邸へと至る。
ブリミル教の枢機卿に、正面切って喧嘩を売るような愚か者はおらず、警備もひどく脆弱だった。ハンスとマルセルは軽く壁を越えると、庭を突っ切り、アンロックで扉を開け、さながら帰宅のような穏便さで侵入を終える。
マルセルは二階へと向かい、ハンスはそのまま一階を進んだ。
途中で遭遇した使用人が、二人。
しかしその二人とも、自分が何と出会ったのか、何をされたのかという疑問すら持つ間も無く、静かにその場に倒れ伏し、寝息を立てる。
最後に、一人、メイドがいた。赤子を抱くようにワインを抱え、廊下を歩いていく。その背中を見守るハンスに、彼女は気付かない。
客人の為、応接間までワインを運ぶように命じられたメイドだった。
「ご主人様、ワインをお持ち致しました」
「ああ、入りなさい」
ドアの外で許可を貰い、彼女は華奢な指先をノブに這わせ、慎重に回す。客人の前で、ワインをうっかり落としでもしてしまうことが、どれ程の失態なのかよく理解していた。
しかし、ドアを開け、応接間の光が漏れ出したところで、彼女があれほど大事に抱えていたワインは、するりと抜け出す。自分の手から、何者かによってワインが抜き取られた事を悟ると同時に、メイドは強烈な睡魔に抗えず、その場に膝をついた。
「やあ……こんばんは」
ワインの瓶を片手で回し、それを肩に預けながら、ハンスはメイドの務めを引き継ぐかのように、応接間の中へと滑り込む。
中にいたのは、ソファに腰を下ろしているマザリーニ枢機卿と、その傍らに立つヴィヴィアンの二人。
闖入者による彼等の動揺は、ともすれば見逃してしまいそうな程に微かだったが、ハンスの目には十分なそれだった。
「抜いてもいいぞ。無駄だがな」
真っ先に動いたのは、ヴィヴィアンだった。腰から愛用の杖を引き抜き、ハンスへと向ける。しかし、突如として風が暴れ、彼女の右肘を強かに打った。
「ッ……!?」
腕があらぬ方向へと向き、無理な動きを強制された関節が声のない悲鳴を上げる。その痛みを堪え、再びハンスへと杖を向けようとする彼女の動きは、マザリーニの主観でもあまりに隙だらけだった。
“疾風”の二つ名は、彼の風の魔法を表すものでもあるが、本来は、相手より初動が遅れながら、それでも行動を追い抜くことが出来る迅業を指していた。
ヴィヴィアンの右腕を封じたハンスは、間髪入れず、二発目のウィンドブレイクを放つ。
「うっ」
くぐもった呻き声と共に、ヴィヴィアンの足は床から離れ、その身体は背後の白柱に叩き付けられた。
「さて、こんばんは」
ヴィヴィアンが失神してしまえば、マザリーニがこの場で出来ることなど無い。
ハンスは軽く手を振り、マザリーニにソファに腰掛けるよう促すと、自らも向かいのソファの手摺りに尻を乗せ、左手のワインをテーブルの上に置いた。
「初めまして、だ。マザリーニ枢機卿殿」
「……“疾風怒濤”か」
「その通り。俺たちを用心棒だと勘違いしている奴らも多いようだが、生憎と、守るのは苦手でな。こうやって攻めるしか能が無い」
烈風カリンが出現したという情報は、十二分に相手への牽制になると、そう判断していたマザリーニにとって、全く予想外の事態だった。一度は失敗したその日の夜に、再び、しかも枢機卿の邸宅に攻め込むなど、まともな考え方をする者であればあり得ない。
(いや……しかし……どういうことだ?)
失敗したという事実は、既に過去のものである。マザリーニは、勝手にワインの中身を呷り始めたハンスから目を離さないまま、その思考を巡らせた。
そもそもが、おかしい。
ボーフォール伯爵の狙いが護民官の地位ならば、例えばヴィヴィアンが不慮の事故で亡くなるか、職務を続けられる状態に無くなれば、自然とその後釜として転がり込んでくるだろう。その為に伯爵の手下は、昼間ヴィヴィアンの暗殺を謀ったのだ。しかし、ヴィヴィアンがこうして失神している今、何故ハンスは彼女を殺そうとしないのか。マザリーニが見ているからだというのならば、それこそ本末転倒、初めからこの屋敷に攻め込んだりしない。
「兄貴、こっちは終わったぜ」
開け放たれたままの扉から、長身の男が入ってきた。それほど筋肉質でも無いが、服の上からでも分かる、適度に引き締まった身体は、荒削りの木像を連想させる。
「ああ、ご苦労」
ハンスは振り向かずに言うと、そのまま後ろ手に、ワインの瓶を差し出した。マルセルは右手で受け取り、二口ほど中身を飲み込むと、それを傍らのブリミル像の足元に置く。
「使用人の他には、おっさん一人。レオニー子爵だな」
「待て」
報告を受けたハンスは、ぐいと腰を捻り、背後を振り向いた。それが隙ではないことは、マザリーニも理解している。
「もう一人、ガキがいただろう」
「いや? 一通り探したけど、他には猫の子一匹いなかったぜ。多分、帰ったんじゃねぇの?」
「そうは思えん。……客室の準備は? 食事の形跡は?」
「おお、成る程」
「それすら確認していないのか」
「けど、たかがガキ一匹だぜ?」
「お前よりは利口だ」
ハンスは身体を戻し、再びマザリーニと向き合った。その直後、マザリーニは口を開く。
「ボーフォール伯爵の狙いは何だ?」
具体的な名を出しての、問い。
「ん、そうか。聞きたいなら、教えてやってもいいぞ」
ハンスのその言葉によって、マザリーニは覚悟を決めた。
顔も隠さず、ボーフォール伯爵との繋がりも否定しない。それはつまり、マザリーニもヴィヴィアンも、二人とも殺される予定であることを示す。それが分かれば、次の、何故今は生かされているのか、という疑問に移れる。
ハンスはソファにきちんと腰を下ろし、頬杖を突くと、右手の杖をくるくると弄び始めた。マザリーニは腰を曲げ、身を乗り出すようにして話を聞く姿勢を取る。マルセルは一人、気絶したままのヴィヴィアンを後ろ手に、腰に束ねていた縄で巻く。
「清貧伯……俗界の聖者……そう呼ばれた者が、得難いその名を捨てる時は、実を取る時だ。伯爵が求める実とは、チクトンネ街、フォッソワイヤール街、モンシャラン街……王都トリスタニアの下流、中流、上流を代表する三区画。その全ての護民官となること」
「まるで、フロワサール伯だな」
「その通り。三つの区画の護民官を兼任するなんて離れ業をやってのけたのは、伝説の貴族、フロワサール八臂伯ただ一人。下らねぇだろ? 俺だってそう思う。けどな、あの伯爵は、本気で、八臂伯の再来になりたいと思ってやがる」
「出来る筈も無いだろう。あの当時は、有能な人間は粗方戦争にかり出されていて、極端に人材が枯渇していた。だからこそ、フロワサール伯は三十代の若さで、三席の護民官を兼ねることが出来たのだ。有能な人材がきら星の如く、とまではいかずとも、現在の王都は、そこまで人材が不足してはいない」
マザリーニは真っ向から否定した。命が惜しくないわけでも無く、生き延びることを諦めたわけでも無いが、今はただ、好奇心が勝っていた。
「まぁ、そりゃそうだな。お役に就けずに喘いでいる貧乏貴族も、山ほどいることだし」
ハンスは両肘を広げ、背中を一層クッションに沈めると、見下ろすような視線をマザリーニに向ける。
「……けどな、さっきも言ったが、うちの伯爵は本気だ。本気ってのは、命を賭けてるってことだ。命を賭けてるってことはつまり、自分の全てをフルに活用して、持ってるものを洗いざらい、一点にBETするってことだ。知ってるか? 酒の不作を理由に、酒の値段が上がり始めてる。ああ、勿論、未だ上がっちゃいねぇ。しかし、布告は出された。ボーフォール伯爵は、人脈を総動員するぞ。酒の値段は、これから絶対に上がる。それも、前代未聞の勢いでな。数少ない楽しみを奪われた民衆の不満は、一気に高まる。そうすると、どうなるよ。反乱が起きるか? 泣き寝入りか? それとも」
「闇の市場が立つな」
「その通り。酒だけじゃねぇ、ボーフォール伯爵の力の及ぶ、あらゆるものの値が上がる。一度闇の市場が成立すれば、あとはもう、広く深く進化していく」
「そして経済が混乱し、状況が悪化すれば、護民官になりたがる人間もいなくなる。槍玉に上げられ、生け贄にされるのは目に見えているからな。そこで、ボーフォール伯爵が一気に全てを仕切り、事態を鎮圧し、名声を得る……と」
「当たりだ」
「出来ると思っているのか、そんなことが。都合良く」
「わかってねぇなぁ」
マザリーニの強い、叱責のような視線をせせら笑うかのように、ハンスは軽く口角を吊り上げ、灰色髪を根本から小指で梳いた。
「賭けなんだよ、結局は。孤独なじいさまの、人生最後の大勝負だ。俺だって、失敗するだろうとは思う。が、成功する可能性だって低くはねぇ。何しろ老先短いんだ、よって怖いモノ無しだ」
綿密に計算された、勝率九割超えの完全な謀略ではなく、失敗する可能性も十分に孕んだ陰謀。しかしそれだけに、マザリーニはその厄介なギャンブルに臍をかむ思いだった。何しろボーフォール伯爵は、安全策を取っていない。負ければそれまでと、了解してしまっている。そんな相手に、しかもこの状況に至ってしまった今、どう対応すればいいのか。
清貧の名は、既にボーフォール伯爵の中で、何の意味も持たないただの言葉と化しているらしかった。
「あ、そうだ、兄貴」
「ん?」
マルセルが思い出したように声を上げ、ハンスは首を伸ばすような形で、マザリーニの向こうの弟分を見た。
「結局、あのガキは放っといていいの?」
「ああ、いいんだいいんだ。マザリーニさん、アンタも教えてくれなくていいぞ」
「……まぁ、兄貴がそう言うんならいいけど。無害なんだろ?」
「とんでもない」
「え?」
どう考えても聞き間違いだと、マルセルは己にそう言い聞かせる。しかし、ハンスの表情を見て、ああまただと、ある種の諦念のようなものをどこかで抱えながら、顔を引きつらせた。
「あのガキは、猛毒だ。人間に突き立った矢を躊躇いなく引っこ抜くなんて、恐ろしい度胸してやがる。昼間の襲撃の時、例えヒロイックな自己陶酔にどっぷり漬かってたことを差し引いても、あの冷静さは賞賛に値するぞ」
「じゃ、じゃあ追いかけないと」
「わざわざ追いかけなくても、潜んでるんじゃないか? この屋敷のどこかに……」
ハンスは顔を動かさないまま、ちらりと視線を天井に向け、そこから左右にメトロノームか何かのように動かした。
怪談話を聞かされた後のようなマルセルは、急いで背後を振り向いたり、天井を見上げたりと、挙動不審のままオロオロと揺れている。その様子が滑稽だったのか、ハンスは一度下を向き、囀りのような笑い声を漏らした。
「暗殺くらい、軽くやってのけそうなガキだったなぁ。枢機卿と護民官を抑えたくらいで安心してたら、後ろからグッサリやられるかもな」
「……俺もう、帰りてぇんだけど。帰って寝たいんだけど」
「いいじゃねぇか。あのガキは風のメイジ。対する俺も風のメイジ。つまりはどっちが勝とうが、風の勝ちだ」
「……この仕事が無事に終わったら、もうコンビ解消しようぜ、兄貴」
虎は死して皮を残し、人は死して名を残す
有名な言葉である。そしてそれは、ボーフォール伯爵家の家訓の一つでもあった。
ボーフォール伯爵は、今年、ちょうど六十を迎えた老人だった。ガリア貴族だった曾祖父がトリステインに移ってから、長い年月が流れ、今ではトリステインでも屈指の貴族として知られ、護民官の他、財務官を務めたこともある。かつては妻も息子もいたが、二人とも相次いで病で亡くなり、それからは再婚することも無く、ずっと一人だった。縁談は勿論多く、ガリア王国からも申し出があったが、亡き妻を偲び、結婚指輪を二人分嵌めていた。
(……バカらしい)
ボーフォール伯爵は、テーブルの上の肉を素手で掴む。こんがりと焼かれた鶏の足は、勿論油でベタベタだが、構わず口に寄せ、かぶりつく。白くなった髯が油にまみれ、蝋燭の灯りでテラテラと光っている。そのままガツガツと、山賊や荒くれがするように食いちぎり、肉が無くなれば、骨を啜った。
妻が亡くなってから喪に服し、後妻を受け入れなかったのは、思えば偲んでいたからでは無い。それが正しいと思っていたからだ。一人が寂しくなっても、その頃にはもう皆遠慮して、縁談を持ち込む者はいなかった。それからの三十年、性欲を持て余しても、世間体を気にして娼館へ行く度胸も無く、ずっと一人で処理してきた。娼婦を呼ぶことも出来たが、その娼婦の口からあらぬ事を漏らされてはと、そればかり恐れていた。
(バカらしい)
しゃぶり終えたチキンの骨を、からんと、皿の上に投げ捨てる。パリパリに焼けていたあの香ばしい皮を懐かしむように、伯爵は掌を広げ、べっとりと塗られた油を舐め取った。
今までの自分では想像することすら罪悪に感じていた、下賤の民の食べ方。しかしそれが、今までの人生の中で間違いなく、最も美味な食事だった。手が汚れるのが、何だというのか。髯が汚れるのが、一体何だというのだ。手を汚さずにする食事に、一体、どれだけの価値があるというのだろう。
性欲を隠した。食欲を律した。その二つの代替として、名誉を欲した。
孤児院への寄付、貧民への炊き出し……身分を隠して街へと出、ボーフォール伯爵への賞賛、感謝を盗み聞き、密かに微笑んだ。
貴族に対しても、金に困っていれば二つ返事で貸してやった。金を貸した者と借りた者、その立場の違いを肌で感じ、そして自分がその上位に立つのだと実感した時、大声で快哉を叫びたくなる衝動に襲われた。
(それで、何を得た?)
隠居し、年金暮らしになった時、不幸な事にふと、ボーフォール伯爵は振り返ってしまった。家督を継いでから今までの、自らの足跡を。
人は死して名を残す……。このまま死ねば、どんな名が残るか。
弱き民を救けた聖人? 財に固執せず、バラ撒くように貸し与えた清貧? 一人目の妻が死んで以来、一度も女と交わらなかった聖者?
「ふざけるな、ふざけるな、ボーフォールよ」
既にその家名で呼べるのは、己一人。ついに、自分の血を残すことは無かった。養子を迎えるつもりは無い。
このまま死ねば、財産は全て国庫へと吸収される。子がないのだから当たり前だが、隠居する前に、既にその為の手続きは終えていた。そしてその事実が、より一層、ボーフォールの名を高めることになった。
「そんな名に、何の価値がある」
ボーフォール伯爵は、ぐっと、拳に力を込めた。健康のためには粗食が最上であるとの教え通り、もう何十年もそれを旨としてきたが、それを止めてから驚くべき事に、五体には沸々とした血潮が通い、若々しいとすら言えるような活力が漲った。
(今まで、人生の、何と多くを無駄にしてきた事か)
それに気付いた瞬間を、伯爵自身は覚醒と直感した。自分は決して、他人の評判を気にするような、敬虔なブリミルの信徒などでは無い。もっと荒くれた、奔放な者なのだと。
思い浮かぶのは、曾祖父の時代、あの動乱の時代より伝えられる、国を内側から守護した伝説の護民官、フロワサール伯爵。戦火に動揺する貧しき者、働く者、富める者、全ての民を鎮撫し、また王城にて前線の諸将たちを支えるという、四面八臂の活躍をした男。
幼い頃から憧れていた彼こそが、彼の名声こそが、結局自らが最も欲するものだったと、そう気付いてしまった。
彼の名声を得る為には、まずやはり、三つの護民官を兼任しなければならない。フォッソワイヤール街区は既に陥落し、残るはモンシャラン街区、チクトンネ街区の二つ。
(虎は死して皮を残し、人は死して名を残し……そして私は死して、フロワサール伯爵と並び称される、英雄となる)
狂気じみていることは、伯爵自身、自覚していた。以前の彼なら懺悔し、自室に引きこもり、始祖ブリミルに必死に許しを請うていただろうが、今の伯爵にはただ、熱病のような情熱があった。
(モンシャラン街も、そろそろ陥落するだろう……。あとは、“疾風怒濤”が邪魔者を消し、そしてその“疾風怒濤”すら処理すれば……)
食事を終えたボーフォール伯爵は、上着を脱いだ。痩せていた身体には肉が付き、酒によってほんのり赤く染まっている。自らの手が、何よりも逞しく、いかなる障害をもはね除けるような、頼もしいものに思えた。
その手が、寝室のドアを開く。
「…………」
天蓋付きのベッドには、一人の少女がいた。服装から、平民であることが分かる。膝を抱え、大きなベッドの上で、その小さな身体を震わせていた。
「……恐れることは無い。少々、痛いだけだ」
部下が調達してきた、どこかの平民の娘。捜索願が出されれば、ボーフォール伯爵の耳にも届くだろう。その母親は、一体、どんな顔をするだろうか。必死に縋り付いてくるか、ただ泣き叫ぶか。
タガさえ外してしまえば、あとは簡単だった。支援していた孤児院に行くたびに、笑顔で出迎えてくれたとある少女の面影が、伯爵の脳裏にちらつく。その顔が、どうしても、想像の中でも歪まない。一体どうすれば歪むのか、知りたかった。それは至極簡単であり、絶望させればよく……。
(何故、あの時……私は、実行しなかったのだろうな)
ずっと、思っていた。欲していた。考えてみれば簡単なのだ、楽しんだ後、口を封じればいい。そうすれば、惨めに一人で自慰に耽ることも無かっただろうに。
床から足を離し、ベッドに上った伯爵は、両手両足を支柱にして、少女の上に覆い被さる。既にその少女は観念したのか、それとも予め聞かされていたのか、ぎゅっと目を閉じ、声も出さずに震えていた。
「ごめん」
口づけようとした伯爵の耳に届いた、一言。
思わず聞き返そうと口を開いた瞬間、何かが口の中に飛び込んできた。それがその少女の拳であることを知り、深い皺が刻まれた伯爵の顔が、より一層歪む。
少女は空いていた方の手で、伯爵の首筋に、針のようなものを突き刺した。
食べたばかりのチキンが逆流し、伯爵の二つの鼻孔から、そして拳で塞がれた口の隙間から、饐えた臭いと共に零れ出す。しかしそれでも怯まず、少女は拳をねじ込んでいた。焦って引き離そうとする伯爵の両手を、或いは蹴り飛ばし、或いは殴りつけ、掴み……やがて老人は、無言の肉の塊となった。
「……チッ、そっちかよ」
ハンスのその呟きは、忌々しさと、どこか賞賛にも似た驚嘆を含んでいた。
再び、新しくスリープクラウドをヴィヴィアンにかけたマルセルは、暫し呆然と立ち尽くしていたが、やがて支えを失ったかのように、背後の白柱に寄り掛かった。
マザリーニはすぐに驚きを納めると、怜悧な瞳で客人を見つめる。
開け放たれた応接間の扉の前で、アクセルはただ、静かに立っていた。
「……っふぅーっ……」
ハンスは溜息をつきながら、立ち上がる。灰色髪をガシガシと乱暴に掻きむしりながら、アクセルの前まで歩むと、軽く右手を出した。アクセルも逆らわず、その右手に、二つの指輪を乗せる。乗せられた指輪を、それぞれ左右の手で摘み上げ、ハンスは値踏みするかのように、隅々まで見つめた。
「確かに。ボーフォール伯爵の結婚指輪……のセットだな。噂じゃ、センズリの時にも外さなかったらしいが、これが外れてるってことは……」
「……殺した」
言い終えずにこちらに目を向けるハンスの後を引き継ぎ、アクセルは静かに唇を開く。
「ふっ、ふざけんなっ」
それまで柱にもたれていたマルセルは、さながら精神の平衡を保とうとするかのように、辛うじて、かすれた叫び声を上げた。
「屋敷に、どれだけ傭兵が残ってると思ってんだ! ててっ、テメェみてぇなガキなんざ、二秒で塵だぞっ、塵!」
「……残って無かっただろ?」
「えっ!?」
ハンスはアクセルに問い、アクセルは頷き、マルセルが顔を引きつらせる。
「あの爺さんの家に残ってたのは、せいぜい、三人か四人ってとこか」
「な……何でだよ、兄貴!?」
「そりゃ勿論、ここでマザリーニ枢機卿とヴィヴィアン・ド・ジェーヴルを殺した俺たちを、屋敷の外で待ち伏せて殺すためだろ」
「はぁっ!?」
「何だ、おい。枢機卿を殺しておいて、生きてるつもりだったのか、お前は」
ハンスが心底呆れたといった様子で弟分を眺めるが、マルセルは歯をガチガチと鳴らした。寒気でも恐怖でも無く、あまりの状況に脳が追いつかず、言うべき言葉が見つからない。
しかしようやく口を開くと、大股でハンスへと歩み寄った。
「じゃ……じゃあ俺ら、殺されるってのか!?」
「心配するな。伯爵が死んで、今頃は慌てて逃げ帰ってるだろう。例え束になってかかってきても、“疾風怒濤”の敵じゃねぇ。どちらにしろあんな小物どもじゃ、何も出来んよ。精々、金目のものを手にして逃げるくらいだ」
「……けど、本当に……伯爵は……」
「マルセル、お前はチェスを知らんのか? ナイトの高飛び、ポーンの餌食と言って……いや、何か違うか? まぁ、ともかくだ。キングがポーンに殺られてしまうのは、自然の道理。雇い主が死んだのなら、もう俺たちは用無しだ。お望み通り、解消するか? “疾風怒濤”を」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるハンスに、マルセルは先ほどの自分の言葉を思い出す。そして顔を真っ赤にすると、ちらりとマザリーニを盗み見ながら、ぶるぶると首を振った。
「ふっふふふざけんなっ! 兄貴、一人で逃げるつもりか!」
「いやぁ、残念だ。まぁ確かに、俺は悪い兄貴分だもんなぁ。お前に色々と、酷い事も言ってしまったし。安心しろ、お前が望むなら、俺はもう金輪際関わることは無いぞ」
ハンスと、そしてマルセルのやり取りから感じられる余裕は、彼等のメイジとしての実力に裏打ちされたものだった。
ついに音を上げて、ハンスのズボンに縋り付くマルセルと、相変わらずのらりくらりとかわし続けるハンス。黙っていたアクセルは、己の存在を認識させる為に、だんっと靴を鳴らした。二人ともほぼ同時に、緑髪の少年に目を向ける。
「二人は“疾風怒濤”なのか?」
「違うさ。元・“疾風怒濤”だ。俺は“疾風”のハンス、こっちの可哀想な元弟分が、“怒濤”のマルセルだ」
「兄貴、頼むよ! 許してってば!」
「……知り合いの元傭兵に、聞いたことがある」
「何をだ?」
アクセルは一度瞬きをすると、ハンスを見上げた。
「最強の傭兵の条件を攻撃力だとするなら、最強は“疾風怒濤”だろう……そう言っていた」
「ほぉ……。それだけか?」
ハンスは腕を組むと、生え始めていた顎髭を撫でる。アクセルは言葉を重ねた。
「最も恐るべきは前者、“疾風”の抜き撃ちだとも言っていた。蛇が草を払うよりも早く杖を抜き、抜けば既に勝負は決している。もしも“疾風”を倒したければ、この世から風属性そのものを無くすしかない、と。または、失われた“虚無”の属性を復活させるしかないと……」
「そいつは素晴らしい傭兵だな。ただ残念ながら一つ、間違っている。最後だ。例え虚無が来ようが、俺の風は、それを哀れな伝説へと追い戻してしまうだろう」
(“疾風怒濤”の舵取りは“疾風”、そして“疾風”の舵取りはゴマすり……。スルトが言ってた通りだな、こりゃ)
喜んだふり、ではない。ハンスは本気で、心から気分を良くしている様子で、わしわしとアクセルの頭を撫でた。
「まぁ、お前も風属性だろう? 心配するな、俺のように……とまではいかなくても、なかなか優秀に育つだろうさ」
「1000エキュー出す」
「……は?」
頭を撫でられている子どもの言葉には聞こえず、ハンスも流石に、首を傾げて聞き返す。
「次の雇い先は決まってるのか? いや、決まっていてもいい。僕に雇われてくれ」
「……子爵の息子が出せる額かぁ?」
「二階の、僕の客室にある荷物。その中の、ヴァイオリンケースの内側を切り裂けば、首飾りが入っている。骨董品としての価値も高い。人によっては、もう200エキューほど上乗せする筈だ」
ハンスの目も、マルセルの目も、シビアな傭兵のそれに変わっていた。ハンスに促され、マルセルは駆け足で二階へと向かう。詳しく聞こうとしたハンスだったが、アクセルは彼に背を向け、未だ無言の男の元へと向かった。
ヴィヴィアンの縄を解き、彼女の身体をソファに横たえたマザリーニの耳にも、一部始終は届いているだろう。どうやら、アクセルを待っていてくれたようだ。
「マザリーニ枢機卿……」
「さて。今日は忙しくなる。ボーフォール伯爵の後始末もしなくてはならない。しかし……その前に」
マザリーニは振り向くと、不意に柔らかい表情を作り、頭を下げる。
「ありがとう。どうやら君は、私たちの命の恩人だ」
まずは、感謝。命を救われたのは事実だ。しかしだからと言って、一切を不問にすることなど不可能だった。今のアクセルには、夕食の席で見せたあの可愛げなど見当たらず、静かな決意がある。冷静に、人を一人、はっきりとした意志で暗殺してしまえる程の。
ラヴィス子爵の、いや、ラヴィス子爵家の特性を知っているマザリーニだったが、アクセルにはそれとはまた別種の、さながら鈍い光沢のような、冷たい特異性が感じられた。
しかし、再び怜悧な表情に戻り、頭を上げたマザリーニは、思わず目を見開く。
アクセルは両膝を尽き、手を揃え、そして額を床に押し当てていた。
「マザリーニ枢機卿……。どうか、助けて頂きたいのです」
少年は土下座したまま、絞り出すような、重々しい慟哭に似た声で訴えた。
「……なぁ、兄貴」
「何だ?」
「本当によかったのかね? あんなガキに雇われて」
「……首飾りに狂喜乱舞してた野郎が、よく言う」
がたんっと馬車が揺れ、マルセルの尻が浮く。隣のハンスは、その尻を軽く小突いた。こちらに目を向けたマルセルの前で、彼は深く溜息をつく。
「後始末は、枢機卿が引き受けてくれるってんだ。俺たちがいたら、かえって邪魔なんだよ」
「ふーん……」
納得したのかしていないのか、マルセルは閉じた口の奥から返事をする。そしてふと思い出したように、後ろを振り向いた。
急いで調達した馬車は、客馬車では無い。荷物を運ぶための、質素な造りのものに、急拵えの幌をテントのように張っただけだ。
そして、その客室……いや、荷台には、少々の荷物とアクセルがいた。胡座をかき、虚ろな目をしたまま膝に手の甲を乗せる少年に、王都を出発してから寸分も動いていないのではないかと、マルセルは不気味に思う。
それ以上見てはいけないのではないかと、根拠のない自制を覚え、御者台の彼は再び前を向く。
「マルセル」
「ひゃいっ!? あ……いや、何だ?」
まるで萎縮してしまっている様子のマルセルに、ハンスは密かに笑いをかみ殺した。アクセルは相変わらず虚ろな目のまま、唇のみを動かす。
「くどいけど、全速力だ。全速力で、ラヴィス子爵領、ゼルナの街へ向かってくれ」
「あ、ああ……」
パシィッと、馬の背に鞭が弾ける音が響いた。甲高い嘶きと共に、馬車は速度を増す。
「…………」
アクセルはそっと、瞼を閉じる。
(ゼルナの街は栄えてはいけない……か)
脳裏に蘇る、マザリーニ枢機卿の言葉。
時間が惜しい。風竜を借りることが出来なかったのも痛い。
(……大丈夫だ。ろくな準備も無かったのに、ボーフォール伯爵の暗殺に成功。ほぼ理想通りに、マザリーニ枢機卿に恩も売れた。今、俺は幸運だ。行動は全て、プラスの方向へと続いている)
アクセルは目を閉じたまま、天を仰ぎ、神やそれに近い、あらゆるものに祈った。
(だから……俺の幸運よ。せめて、次の行動だけでいい。どうかそれまで、保ってくれ)