小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第27話<前夜>







 かつて、一人の司祭が言っていた。

 年老いれば年老いるほど、人は欲望を捨てていく。愚かしく、下劣な心を少しずつ少しずつ削り取り、欲望に凝り固まった衣を脱ぎ去っていく。そしていよいよ死が訪れる時、今までの中の人生できちんと、欲望からの決別を果たした人間は、あらゆるものから祝福を受け、永遠の安らぎに包まれながら、静かに眠りにつくことが出来る。生きるということは老いるということであり、そして老いるということは、欲望という苦しみとの決別の禊ぎなのだ。

 「……っつーのを、数年前、村に来た司祭が言ってたわけだ。その時は、よく意味がわからなかったが、子供心に感心したぜ。あの、ブランツォーリ……だっけか。何で同じ司祭で、こんな差があるんだろうな?」
 「ほぉ、いい話じゃねぇか」

 目を閉じ、うんうんと、クーヤはしきりに頷く。感心しているというよりは、面倒な話をされて適当に受け流していると言うべきだ。ナタンは、まるで自分が口喧しい母親にでもなったような気がして、絨毯の上に座り込んだまま、少し俯いて溜息をついた。
 ナタンに比べれば低背のクーヤだが、彼の顔は、座り込んだナタンより更に低い位置にあった。そして、床と直角の方向を向いている。ナタンと同じく、絨毯の上に平べったく座るマノンの太腿に頭を乗せ、彼女が口元へ運んでくれるブドウの玉を悠々と待ちながら、クーヤは実に不遜な態度を崩さなかった。

 「そして爺さん。もう十分生きただろうに、あんたは何で、そんな欲まみれなんだ?」
 「……ンフフフフ」
 「あ、こら、もう。ボスもいるのに」
 「聞けよ」

 マノンの部屋だった。ギャエルは現在、客の相手をしている。
 クーヤは顔の皺を一層深くして、好色な笑みを浮かべつつ、マノンのスリットから掌を差し込み、スカートの中に侵入させ、直接に太腿を撫でた。一応は拒むマノンだったが、その反応は茶番そのものだ。
 あくまで仮の決定だが、クーヤは相談役という肩書きを得ていた。とはいえ、特に何かをするでもなく、主にギャエルとマノンの二人とイチャつくか、酒を飲んでいるくらい。
 ナタンはちらりと、マノンを盗み見た。
 ギャエルもマノンも、二人とも仕事で手は抜いていないそうだ。寧ろ、客からの評判は前以上。二人でクーヤを取り合うなどということも無い。

 (取りあえず、得体の知れない爺さんではあるな)

 何の答えにもなってはいないが、ナタンはそう結論付けた。そのようにして疑問を打ち切ると、ある意味で、最も好奇心を促される疑問が再浮上する。何となく、それを聞くのは早すぎる気がした。しかしナタンは、ぎこちない動作を滑らかにしようとするかのように、軽くワインで口を湿らせると、ちろりと舌先で唇を濡らし、唸りのような声を漏らした。

 「爺さん。あんたとベルは、初対面だよな?」
 「うん? おお、そうじゃが」
 「ベルは何で……」

 そう言いかけて、どのように尋ねるのか、それが全く意識の外であったことに気付く。ナタンは再び唸った。
 クーヤはごろりと寝返りを打ち、マノンの柔らかな太腿から頭を離すと、胡座をかいて座り込んだ。マノンがそっと、彼の慎ましくも頼もしい肩に両手を乗せ、もたれるように頭を預ける。クーヤが唇を開いた。

 「ワシは、ずっと遠いところで生まれた。風竜ですら辿り着けないような、遠い遠い場所……そこが、故郷だった。辿り着けるはずも無いこの地に辿り着き、これも運命かと、この地で生きる決心をした」

 まるで赤の他人の経歴でも説明するかのように、老人は淡々と言う。聞かれたから、そして黙っている理由も無いので答えている、ただそれだけのようだったが、ナタンの脳裏に、あの時の老人の姿がちらつく。平然とした語り口調は、裏を返せばこの話題が、この得体の知れない老人にとって、心を揺り動かさずにはいられない類のものであるからだと、そう考えてみれば、すっと喉の通りが良かった。

 「生きよう、生きようと頑張った。とにかく頑張ったさ、なぁ。受け入れて欲しい、信じて貰いたい、見捨てないで欲しい……。言ってしまえば、無理をしとった。周りに気に入られたくて、いい子であろうとしていた。しかし、無理は無理。いつまでも、重ねられるもんでもないわい。……孫がワシに言った最後の言葉、教えてやる。“おっ、おじいさん! 何を考えてるんですか! そんな、孫みたいな年の娘を相手に!”」

 裏声を使って、戯けたように言うクーヤだったが、ナタンは顔を引きつらせて思わず顎を引く。反対に、マノンは動じることもなく、クーヤの背中にしなだれかかったまま目を閉じ、呼吸の動きだけを見せていた。

 「まぁそれが、ワシの本性ってヤツじゃろうな。何年か前に、村でワシの葬式が行われてからは、自由気ままの渡り鳥よ」
 「……そうか」

 ナタンはただ一言、クーヤにそれだけ言うと、マノンに別れを告げて立ち上がる。
 満足したわけではないし、納得のいく答えを得られたわけでもない。ただ、クーヤという人物の本質に、ほんの少しだけ、指先程度は触れることが出来た気がした。そして、それ以上の追求は無理であることも悟った。

 マノンの部屋を出る。姿が映るほどピカピカに磨き上げられた木造の床を、斜めに渡り、窓から中庭を覗き込んだ。灯りによって微かに照らし出された、木陰の岩が見える。いつも、女装したアクセルがヴァイオリンを奏でている場所だ。勿論、日が暮れてからあそこで演奏することは無いし、そして現在、アクセルはここにはいない。しかしそれでも、ナタンはある筈の無いその姿を探そうとした。

 「…………」

 ナタンは踵を返し、一階へと下りる。事務棟へ続く渡り廊下を歩いた時、びゅぅっと、驚くほど涼しい風に包まれた。夏だというのに、鳥肌が立つ。感じたのは、悪寒とも呼べるようなものだった。

 「……っ」

 そして誰もいない筈の中庭から、その風に驚く、小さな声が聞こえる。
 彼はハッとして、中庭の石畳を踏み進んだ。アクセルの特等席とも言える、あの岩から、確かにその声は聞こえたのだ。四階からではわからなかったが、アクセルよりも大きな人影があることに気付く。
 誰かいるのか、そう声を掛けようとしたところで、あちらもこちらに気付いたらしく、人影は口を開いた。

 「ボス、こんばんは」
 「リリーヌか」

 岩から立ち上がり、歩み寄ってきた人影は、部屋着のままのリリーヌだった。ちょうど雲に隠れていた双月が蘇り、淡い月光で彼女を包む。月下に醜女無しと言うが、彼女の場合も逆効果になる事は無い。金色の髪が、砂金のような光を放っていた。
 今夜、彼女に客はいない。

 「降りませんでしたね、雨」
 「ああ……そうだな」

 絵になる、というのはこういう女のことなのかと、ナタンは漠然とそう思った。空を眺める仕草一つとっても、男の視線を離さない魅力がある。ナタンは意識して、彼女と同じ空に顔を上げた。千切られた雲が再び双月を隠し、リリーヌの輝きも潜まる。

 「……まぁ、あれだ」

 ナタンは人差し指を鉤のように曲げ、こめかみを掻くと、再び彼女に目を向けた。

 「いくら夏だからって、さっきみたいな風が吹いたりもするんだ。夜の散歩もほどほどにな」
 「あの娘達の様子はどうです?」
 「え?」

 唐突な質問に、彼は目を見開いて首を傾げる。二秒ほど間抜けな体勢のままだったが、リリーヌが言うのが誰なのかに思い至った。

 「……何でだろうな」

 ナタンは、今度は頭を掻きむしる。

 「なるべく秘密に、悟られないようにしてた筈なのに、やっぱり不安そうだ。考えてみれば、こんなに長い間、ベルがあいつらに会わなかったのは二度目。前の時は、大火傷を負った。やっぱ、漠然とした不安はあるんだろう。……アニエスは、前にも増して剣の修練に励んでる。マチルダも、しっかりしたもんさ。……問題は、ミシェルとテファ……いや、テファはマチルダがフォローしてるし……やっぱ、ミシェルだな。けど、ミシェルだって大したもんだぜ? 少しでも大人の負担を減らそうとしてくれてる」
 「……みんないい娘ね」
 「ああ、その通りだ。いい娘たちだ」

 そう言って笑うナタンの顔を、リリーヌはじっと見つめた。
 彼はこうやって、自分が褒められたわけでも無いのに、親しい人間が評価されれば、まるで自分のことであるかのように喜ぶことが出来る。その喜びは、或いは本人以上かも知れない。

 「……な、何だ?」

 リリーヌの視線に気付き、ナタンはたじろぎ、後退るように背を反らす。

 「何でもありません。それじゃ、ボス。私はもう戻ります」
 「おお、風邪ひくなよ。おやすみ」

 リリーヌと別れて後、ナタンは再び渡り廊下に戻り、事務棟へと上がった。事務室に戻れば、書類を広げ、それを眺めるバルシャがいる。仮眠程度でしか休んでいないらしく、普段ただでさえ鋭い視線が、一層鋭利になっていた。入ってきたナタンにも気付いていない。ナタンは水差しを持ち上げ、コップに注ぐと、それを恭しくバルシャに差し出した。

 「どうぞ」
 「おう」

 部下か女中が持ってきたとでも思ったのか、バルシャはぞんざいに受け取ると、一息に飲み干し、コップを突き返した。しかしようやく違和感を感じたらしく、首を回してから、目を丸くする。

 「あ、ボス。失礼しました」
 「いや。ご苦労様だ」

 ナタンはひらひらと手を振って応じると、バルシャの向かいのソファに腰を落とした。その心地よい反発に押し出されるようにして、天井を見上げた口から、年寄り臭い溜息が溢れ出す。

 「お疲れ様です」
 「お前ほどじゃねぇよ。……そろそろ、ベルは会えた頃か? その……枢機卿に」
 「マザリーニ枢機卿ですね」
 「ああ。有能なんだろ?」
 「ええ」

 書類のいくつかにサインしたバルシャは、それらを束ねてテーブルの上で整えると、端に押しやった。しかし彼の手は、またすぐに別の書類に伸びる。

 「通常、各国に派遣された枢機卿の給料は、ロマリアが負担するのですが……それとは別に、マザリーニ枢機卿はトリステインからも給金を得ています。あまり表に出てくる名前ではありませんが、国王か、或いは国王に近い人間にとっては、手放し難い人材のようですね」
 「そんなお偉いさんに、渡りをつける……ねぇ」
 「レオニー子爵が知り合いだそうですから、面会は容易でしょう。問題は、協力を得られるかどうかですが……。しかし狙いとしては、適当です。能力、人脈、権力、どれも申し分ない。ブランツォーリ司祭の一件すら揉み消せる人物です」
 「なるほどなぁ、それでか」

 枢機卿、という位階はナタンにとって馴染みのないもので、何となくブリミル教の偉い人間、その程度の認識しか無い。

 「あちらはベルさんにお任せしましょう。ラヴィス子爵の帰還まで、最短であと五日しかありません。こちらはこちらで、手は抜けません」
 「今、うちの状況は?」
 「イシュタルの内側の問題は、フラヴィ、そして私達が引き受けます。スルトには、ラヴィス子爵の帰り道である街道を遡って貰っています」
 「何でだ?」
 「イシュタルの館の利益の半分以上は……いえ、組織の収入の半分以上は、ラヴィス子爵領の外からの客が占めています。つまり、最大の街道である北東を封鎖されれば、組織の力は大きく減退することに……」
 「しかしよ、封鎖を力尽くで破壊なんて出来ねえだろ? いや、あいつならやれるけど」
 「あくまで、偵察のみです。北東街道の先には、クルコスの街があります。失業中の傭兵は安値で買い叩けるでしょうし、子爵が手勢を整えるのなら最適かと。あそこは、スルトの拠点でもありましたから。そこで情報収集を」
 「そうか……」

 一通り聞き終えると、ナタンは再び天井を仰ぎ、そっと瞼を閉じた。
 皆が皆、それぞれの役割を得て、この館を守るために動いている。ナタンもいつも通り、縄張りにある店のトラブルの相談に乗ったり、娼婦達の慰労に回ったりと、暇のない生活を送っていたが、それでも皆には及ばない気がした。自分一人だけ、いつも通りの仕事をしていて許されるのかと。

 「……しっかり休んで下さいね」
 「ん?」

 そのナタンの心を見透かしたように、バルシャは書類から目を離さず、そう忠告した。

 「ラヴィス子爵も、いきなり攻撃を仕掛けることは無いでしょう。その前に、何らかのコンタクトを取って来る筈です。その時、あなたは我々の顔として、子爵と相対しなければなりません」
 「……責任重大だな」
 「ええ。その通りです」

 下手に慰めることは無かった。ふにゃりとだらしない笑い顔を作るナタンだったが、彼こそが、このイシュタルの館の……そして、東地区を非合法にまとめる組織の体現者なのだ。

 「どうか、泰然と構えていてください。ボスとは本来、そうするものです」
 「わかったよ」

 ナタンは軽く右手を挙げて見せる。その右手は僅かに震えていたが、バルシャは気付かないふりをした。

 事務室を出て、伸びをした。出る時にちらりと時間を確認したが、そろそろ日付が変わる。しかしどうも、何故か眠る気にもなれず、ナタンは事務棟の階段に向かった。

 「ん?」
 「あ」

 階段を二階まで上ったところで、フラヴィと鉢合わせした。彼女の朝は遅く、夜は長い。皆、街は眠りにつく時間だというのに、フラヴィはまるでイシュタルの館そのものであるかのように、イシュタルの館と同じ時間で生活していた。
 元々、娼婦にしては色気の少ない服装だったのは、身体に混じる吸血鬼の本能がそうさせていたらしい。そして完全な裏方となった今では、色気のなさに更に拍車がかかっていた。

 「……寝かしつけてくれてたのか?」
 「まぁ、ね」

 歯切れ悪く返事をすると、フラヴィは片手に持った絵本を振った。アクセルは毎晩のように、ティファニアの為に絵本を読んでやっているそうだが、フラヴィはその代役に選ばれたらしい。

 「ありがとな」

 多忙な筈の彼女が、わざわざティファニアでも呼べるような位置にいたことは、つまり気に掛けていたということなのだろう。ナタンは微笑むと、若干照れくさそうに礼を言った。

 「いや、礼を言われるほどでも無いんだけどねぇ……」
 「ん?」
 「これ、ベルのヤツが書いたんだけど……どうも、大人が読み聞かせるのを前提にしてて……。文字を覚えたばっかりのあたしじゃ、ちょっとキツイんだよ。マチルダやミシェルに手伝って貰って、ようやくって感じ」
 「まぁ、あの二人は元貴族だからな。そりゃ、俺らみたいな下々の者とは、下地が違うさ」

 ナタンは冗談交じりに言う。フラヴィも釣られたように笑みを零したが、ふと、押し黙った。
 どうした、と問い掛ける代わりに、ナタンは待つ。

 「……文字を……覚えたんだよ、お陰様でさ」

 フラヴィはふと、窓の外に顔を向けた。娼館の灯火を眺めているようではあるが、本当は、ナタンと顔を合わせない為だった。

 「あたしだけじゃない、他の娼婦も……知ってる娘が、知らない娘に教えてやって……簡単な暗算まで……」
 「ああ」
 「だからさ、娼婦がダメだったとしても、他にいくらでも……見つけようと思えば、働き口くらい、見つけられるんだ」
 「……ああ」
 「元は、この街で野良猫の生活だったんだ。少しマシになって、あるべき場所に収まるだけさ。……一応、言っとくよ」
 「…………」

 フラヴィは真っ直ぐ、ナタンの瞳を見つめた。

 「このイシュタルの館が無くなっても、誰も死にはしないんだ」

 それは宣言であり、宣告であり……やはり、忠告であった。
 ナタンは驚いたように、目を見開く。そして階段を数歩ほど駆け下りると、手摺りから身を乗り出して一階に向けて怒鳴った。

 「おいっ、バルシャっ、大変だ! フラヴィが、俺に気を遣ったぞ!」
 「ま……真面目に聞けっ」

 フラヴィも跡を追うように駆け下りつつ、手摺りによじ登るナタンの尻を蹴飛ばした。彼女にとっては相当に手加減したものだったが、その衝撃は、ずしんと身体の奥にまで響く。
 苦笑いしながらナタンは階段に着地し、尻をさする。そして大きく、腹の底から溜息のように息を吐き出すと、軽く顔を傾け、フラヴィの方を向いた。

 「でもよ……気遣いは事実だろ?」
 「…………」
 「心配すんな、大丈夫だよ。命が危なくなれば、さっさと逃げ出すさ」
 「別に、あんたの命を心配してるわけじゃ……」
 「ツンデレ乙」
 「つん……え? 何だって?」
 「ベルから教わった。東方じゃこんな時、そう言うのが礼儀らしい」
 「そうなのかい?」
 「そうなんだとさ」
 「ふぅん」

 そこで、二人揃って言葉が途切れる。
 そうやって静寂が訪れると、微かに、娼館から賑やかな声が聞こえてきた。酔った客の笑い声、何かを囃し立てる娼婦達の、息の合ったかけ声、そして音楽。

 「いつまで……続くんだろうね」

 フラヴィはそう言うと、ナタンとすれ違い、階下へと降りていく。ナタンは再び手摺りから身を乗り出し、彼女の白銀の後ろ髪に向かって、囁くような声を落とした。

 「いつまでも、だろ」

 その言葉を鼻で笑う代わりに、首を傾げトントンと、フラヴィは絵本の角で肩を叩いた。

 再び二階に戻り、廊下を歩く。もう寝ているかも知れない子ども達を起こさないよう、極力足音を殺し、ナタンは滑るような足取りで、散歩を再開した。
 そして、角を曲がる時。ハッとして息を呑み、つま先立ちになり、背を反らして強制的に停止する。

 「…………」

 まるで潜むようにして、俯き、壁を片手で押すように立つアニエスがいた。もう片方の手には、木剣を握っている。
 ナタンも暫く無言で、アニエスの頭頂部を見下ろしていたが、やがて、その彼女の頭から、一筋の……蜘蛛の糸のようなものが垂れ下がっているのに気付く。粘性を持つそれは、地獄の囚人を助けるかのように、真っ直ぐに下へ下へと伸びていった。

 「…………おい」
 「ふひゃえふぁっ!?」

 寝起きの第一声は、聞いたこともない音だった。
 顔を上げたアニエスは、顎を濡らす唾液を袖で拭い去ると、瞬きしながら左右を見回し、すぐにナタンを見上げる。

 「あ……何だ、ナタン兄か」
 「何してんだ、こんな所で。子どもはもう寝ろ」
 「見回りだよ」

 寝惚け眼のまま、アニエスは胸を張った。ナタンはちらりと、彼女が片手に持つ木剣に目をやりながら、呆れたように息を吐き出す。

 「その、まぁ、あれだ。とにかく、そろそろ寝ろ。朝飯に間に合わなくても知らんぞ」
 「……そういうわけにもいかないさ」
 「何でだ?」
 「皆が頑張っている」

 大人達の間の雰囲気から、子どもは子どもなりに、何か不吉な予感を感じているのだろう。目を擦り、欠伸をかみ殺し、アニエスは軽く頬を叩いた。

 「ベル君だって、ただの旅行じゃないんだろう? ここが一大事の時に、一人だけ遊びに行けるような子どもじゃない。だから私が、ベル君の分まで、ここを守る」
 「……生意気言ってんじゃねぇよ」

 この少女は時折、信じられない程に勘が良い。一丁前に女としての第六感を備えているアニエスに密かに驚きつつ、ナタンは彼女の頭を少し乱暴に撫でた。

 「お前が今守るのは、イシュタルの館じゃない。マチルダ、テファ、それにミシェルの三人だ」
 「だから、ここを守ることがひいてはあの三人を……」
 「焦るな」

 頭を撫でる手を止め、ぽんぽんと、小さな肩を叩く。

 「ベルの代役ってんなら、ベルが大切にしているものを守れ。イシュタルの館を守るのは、大人たちの仕事だ。ベルは、全部を自分一人でしようとしたか?」
 「…………」
 「それに、あんまり心配すんな。今の問題が失敗しても、死ぬわけじゃない。ただ、ちょっと、他の街にお引っ越しするだけだ。そりゃ、今までのようにベルとは会えなくなるが……それも、永久ってわけじゃない。さ、いいから寝ろ寝ろ。どんな屈強な戦士だって、眠気には勝てねぇさ。よく寝て、身体を休めて、飯食って……今より強くなれ」
 「わかった……。いつか、立ったまま眠れるようになるぞ、私は」
 「ううーん、そうか。一体何をわかったのかさっぱりだが……楽しみにしてるぜ」

 ナタンがアニエスの背を押し出すと、彼女は素直に、ベッドへと向かった。その姿が寝室に消えるまで見送り、ナタンは首を何度か傾け、最後に一つ欠伸をする。

 (眠気を移されたか?)

 一度欠伸が出てしまえば、二度、三度と出た。そろそろ休むべきだと判断し、ナタンは一階へ下りる。雨は降らなかったが、曇り空の為か、心地よく涼しい眠りを得られそうだ。
 そう思いながら自室に戻ったナタンは、思わず叫びそうになった。

 「……夜分遅く、しかも無断での入室、申し訳ありません」

 丁寧に謝罪するのは、ローランだった。
 街の名士である彼が、大手を振って娼館に出入りするわけにはいかない。よって来訪の時は、今回のようにお忍びであることが常であったが、窓から侵入というのは初めてだった。どうやら、バルシャにすら知られていないらしい。

 「あんまり、驚かせねぇでくれ……変な汗かいちまった」

 ナタンが掌で顔を仰ぎながら言うと、ローランは再び謝罪した。

 「で……何か飲むか? 確かワインが」
 「いえ、すぐにお暇します。……単刀直入にお聞きします。この館、畳むおつもりは?」
 「ねぇなぁ」

 ナタン自身が驚くほどあっさりと、即答することが出来た。
 ローランの意見を、ナタンも、考えなかったわけではない。このままイシュタルの館に固執するあまり、犠牲者を出しては元も子もないのではないかと。そうなるくらいなら、綺麗さっぱりと全てを終わらせ、子爵に無条件降伏を行うべきではないかと。

 しかし……最終的な結論は、ほんの数分前に出ていた。

 「やっぱ……それは、出来ねぇんだ。確かにそれなら、一滴の血も流れねぇだろう。けど、それでも……俺は……最後まで、ここを捨てることは出来ない」
 「そうですか……。よくわかりました。では、失礼致します」
 「早ぇな!?」

 思わず突っ込みを入れたナタンに、ローランはそっと、微笑みを見せる。その笑みに、覚えがあった。あの時、アクセルが貴族の長男だと初めて知った後、昼の酒場で、三人で宣誓の杯を交わした時、あの時と同じ顔だった。

 「あなたにそこまでの覚悟があるならば、私も、すべき事があるのです」
 「何だよ、そりゃ」
 「秘密です」

 微笑んだまま言うローランに、ナタンは拗ねたように頭をかく。

 「ったく……クーヤといいアンタといい、老人は秘密ばっかだな」
 「クーヤ……?」
 「いや、何でもねぇ、こっちの話だ。まぁともかく、気を付けて帰ってくれよ」
 「ええ……。よい夢を」

 最後にそう言い残すと、ローランは窓を飛び越え、曇り空の闇夜に融けた。
 取り出しかけたワインを元の棚に戻し、ナタンは窓の枠を掴み、空を見上げる。真っ黒い闇に、ほつりほつりと、イシュタルの館の灯火が揺らいでいた。








 「…………ふぅ」

 バルシャは身体を倒し、ソファの上に寝そべると、目を閉じて目頭を抓む。瞼の奥から、じぃんと、反響のようなものが伝わってきた。
 どういうことだ、と……何度考えても、答えが出ない。
 壁際の時計の、振り子の規則正しい音。微かに聞こえる、客と娼婦の喧騒。目を閉じていれば、実に様々の音が聞こえてきた。

 (娼館は、街の風紀を乱す? 馬鹿馬鹿しい。そんな理由、どう考えてもあり得ない。イシュタルの館は、あらゆる面で……目に見える成果も、見えない成果も、ちゃんと出しているんだ。その利益を見れば、娼館という汚点など、十分に懐に納められる筈だ。では何故、イシュタルの館を潰そうとする? 清貧でも気取るのか? まるで……。まるで……? そうだ、まるで……このゼルナの街が変化することを嫌うような……)

 ドアが開き、ハッとして、バルシャは跳ね起きた。

 「……スルトか」

 旅装のままのスルトが、ドアの前に立っている。報告を聞こうとソファから足を下ろし、テーブルの上の書類をまとめ始めたところで、バルシャは異変に気付いた。スルトの表情が、固い。

 「どうした、スルト。何があった」

 彼は固い表情を崩さず、じっと瞼を閉じていた。しかし、やがて光を失った目を開くと、次いでその鉛のように重々しい口を開く。

 「悪い知らせだ。北東の街道だが、既に塞がれている。偶然の災害に見せかけてはいるが、魔法によるものだ」
 「……そうか」

 予想の範囲内だった。客の流入が制限されたのは、確かに痛い。しかし、蓄えが無いわけではない。それに、クルコスへの道を塞いだことで、相手がクルコスへの逃亡を完全に阻止できると考えているなら、付け入る隙がある。もっともそれは、最悪の、逃亡の時の話だが。
 対応しようと地図に向かうバルシャだが、未だスルトが立ち尽くしていることに気付いた。

 「……その様子だと……」

 組んだ腕にぎゅっと力を込め、バルシャはショックに備える。

 「悪い知らせが……まだありそうだな」
 「ああ」

 スルトが黙っているのは、バルシャの為だった。彼に、今以上のショックを与えて良いのかと、そう考えている。そしてそれを察したからこそ、バルシャは一言、

 「言え」

 そう命じた。
 スルトは一度溜息をつくと、また、重々しい口を開く。

 「ラヴィス子爵だが……」
 「そうだ、ラヴィス子爵……。いや、ちょっと待て。今、北東街道が塞がれたと言ったな」

 薄い微睡みの中にあったバルシャの脳が、急激に冷えていく。

 「つまり……」
 「ああ、そうだ。……ラヴィス子爵は、既に、このゼルナにいる」

 スルトがそう告げた途端、はっきりとした意識を保っていながら、バルシャはその場に崩れ落ちた。



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