小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第28話<相思>







 「ふぅむ」

 ハンスはだんだんと濃くなってきた顎髭を指の腹で撫で、後ろを振り向いた。

 「これは、メイジの仕業だな」

 ラヴィス子爵領の北東へと延びる街道は、ゼルナの街へと至る最短ルートでもある。
 そしてその街道は、大量の土砂によって塞がれていた。両脇は山林であり、その間に切り込むようにして街道が続いている。その穴を塞ぐようにして聳える土砂は、明らかに人為的に運ばれてきたものだった。
 既に馬車は捨て、アクセル、ハンス、マルセルの三人はそれぞれ騎乗している。ハンスは手綱を引いて馬首を巡らせると、アクセルへと近づいた。

 「それでどうする? お坊ちゃん。もう夜は明けるとはいえ、こんな深い森を突っ切るんだとすれば、危険は変わらない。隣のレオニー子爵領の傭兵ギルドが壊滅したそうだが、山賊化した傭兵も、勿論ここらにまで流れてきているだろう」
 「突っ切る」

 少年の即答に、ハンスは小気味良さげに肩を震わせる。

 「やめといた方がいいと思うぜぇ」

 マルセルは手綱を離し、両手を組み合わせて大きく伸びをしてから、憚ることもなく大あくびをして見せた。トリスタニアからここまで、ほとんど休み無く馬を走らせ、流石に疲労が溜まっている。
 マルセルを睨むような目で振り向くアクセルだったが、その目もまた、真っ赤に充血していた。髪は乱れ、服や顔には乾いた泥がこびりついている。
 マルセルは再び大口を開け、涙を滲ませながらあくびをした。そしてついでとばかりに軽く尻を鞍から浮かせ、太鼓のような音と共に放屁する。

 「俺ら“疾風怒濤”は、攻撃しかしねぇ。お前の安全まで保障は出来ねぇよ。盗賊を退治してこいってんなら話は別だが、お前を盗賊から守りながら山越えなんて、無理無理無理……」
 「マルセルっ!」

 ハンスが怒鳴ったのは、勿論、弟分の態度の悪さ故では無い。その怒鳴り声がマルセルの脳内で処理された時には既に、矢は、彼の騎乗する馬の首に突き立っていた。
 苦しげな嘶きと共に馬が倒れ、マルセルは転げ落ちる。ハンスとアクセルは咄嗟に頭を下げ、二人も転げ落ちるようにして馬の腹に身を隠したが、彼等の馬にも次々と矢が突き刺さり、一頭はあらぬ方向へ走り出し、もう一頭は地面に座り込んでしまった。
 そして間髪入れず、土砂の上から、森の中から、何人もの人影が姿を見せる。その時に聞こえてきた怒声によって初めて、包囲されていることが判明した。

 「待ち伏せかっ」

 土砂の上から滑り落ちてくる傭兵の顔面に、軽くジャブのように『ウィンドブレイク』を放ちながら叫ぶハンスだが、その顔にさしたる狼狽は無かった。土砂がメイジによるものだと知った時、ほとんど反射的に、伏兵という言葉が頭の片隅に生まれていた。

 「だぁっ、畜生っ、畜生がっ」

 襲撃者たちの鬨の声を跳ね返そうとするかのように、マルセルの怒りの叫びが走り抜ける。深海のような誰彼の中、人の姿はただ影としてしか見えず、アクセルとハンスはその叫びの源へと走り寄った。
 背中合わせになり、円陣を組んだときには既に、三人とも杖を構えている。襲撃者達は全方位から、包囲するように近づいていた。

 「だから……俺らは、守りは苦手だってのに」

 マルセルが吐き捨てた。
 ハンスは弟分の言葉に強い共感を覚えながら、『ストーム』の魔法で飛来した矢を逸らす。
 アクセルは構えた杖を動かさずに、背中合わせの二人の名を呼んだ。

 「ハンス、マルセル」
 「何だ、泣き言か?」
 「ここで解散する。集合場所は、ゼルナの街の東地区、イシュタルの館。聞けばすぐにわかる筈だ」
 「……はぁ?」

 驚愕ではない。何かの聞き間違いか、またはただの間違いだと、不審に思って聞き返す。しかしそれでも少年は、動揺したような素振りを見せなかった。

 「つまり、ここで一旦お別れってことか? ゼルナで落ち合う?」
 「そうだ」

 再び、上空から矢が襲いかかる。今度はアクセルが風で防いだ。

 「成る程、お前を守らなくていいなら好都合」

 ハンスは軽く笑みを漏らしながら、しかし冷徹な声で告げる。

 「だがな、俺たちが素直に従うと思うか? わざわざ山越えせずとも、ここで帰れば、俺たちは丸儲けなわけだが」

 このままゼルナに向かうために山越えを選ぶか、それとも反転して引き返すか。そのどちらが安全で容易かは、今更言うまでもなかった。
 そしてそのような未来を示して見せたのは、ハンスの優しさでも何でもない。“疾風怒濤”の二人は本気で、その選択肢を考慮に入れていた。

 「それは無いだろう」

 相変わらず、アクセルは動揺を見せない。そのことが何となく、ハンスの癪に障った。

 「“疾風怒濤”は、傭兵ギルドに所属しない、フリーランスの傭兵なんだろう? 保証人がいない“疾風怒濤”にとって、前払いで金を渡されながらバックレるのは自殺行為だ」
 「この場の全員の口を封じれば、残念ながら死人に口なしだが?」
 「そんな荒技をするくらいなら、素直に従ってくれ。それに、今更マザリーニ枢機卿を殺しに戻るつもりか?」
 「……ふんっ」
 「あーあー、もう、つくづく可愛げのねぇガキだこと」

 ハンスは鼻で笑い、マルセルはぼやくように天を仰いだ。

 「生きてゼルナに辿り着けたら、イシュタルの館にいる、バルシャかクーヤに従ってくれ」
 「バルシャにクーヤ、ね……」
 「じゃあ……頼んだっ」

 言うべき事を言うと、アクセルは駆け出す。その途端、周囲の襲撃者達にも変化があった。

 「いたぞっ、こっちだっ!」

 誰かの野太い声が放たれる。駆け出したのは、アクセルのみ。ハンスもマルセルも動いてはいない。そして襲撃者の矛先は、真っ先に、一人になった少年へと向けられた。

 (知っていたのか、あのガキ……自分がターゲットだと)

 ただ孤立した者から狙ったのではない。襲撃者たちが狙うのは、一番背の低い、あの少年だった。風の魔法で土煙を巻き上げ、それに隠れながら森へと向かうアクセルの背を見送りながら、ハンスはそう結論付けた。

 「で? どうすんの、兄貴」

 襲撃者達は粗方、アクセルを追って行ってしまった。残った者も何人かいるが、いずれもやる気は無いようで、牽制するようにマジックアローを放ってくる。

 逃げるなら逃げろ……そう告げられているようだった。

 「どうする……とは?」
 「いやほら、結局あのガキにつくの? それとも帰る?」
 「なぁ、マルセル。気付いたか?」
 「え、何を?」

 質問の応酬に初めて答えたのは、ハンス。

 「ここまでほぼ休みなしで馬を飛ばした。しかしあの小僧は、まだあれだけ動ける」
 「……確かに」
 「そこまでなら、ただの元気な子どもだ。だが、あいつの魔法の実力はラインクラスでありながら、トライアングルやスクウェアと遜色ない風読みが出来る。これはどういう理屈だ?」
 「いや……俺に聞かれても」

 答えられる筈が無い質問をされ、困惑するマルセルだったが、兄貴分が出した結論がどちらかは、はっきりとしていた。

 「俺は……あの小僧よりも強い、あの小僧に勝てるメイジは、山ほど知っている。だがな、マルセルよ。あいつと同じメイジは、一人として知らない。あの小僧を失うのは、大いなる風の、大いなる損失だ」
 「……了解」

 ハンスに続き、マルセルも杖を構え、精神力を高める。

 「なぁに、簡単だ」

 ハンスは笑った。

 「あの小僧を追いかけるヤツらを追いかけ、後ろから始末すればいい。あの小僧は前から始末するだろう。それだけだ」

 夜明けだった。東から覗き出た太陽が、周囲をオレンジに染め上げる。それと共に、ハンスの兇悪な笑みが露わとなった。
 そして“疾風怒濤”は一陣の風となり、森へと向かう。彼等を囲んでいた僅かばかりの傭兵達は、既に引き裂かれ、その屍を晒していた。








 一人の男が、椅子に腰掛ける。
 その椅子は、例えば国王が使者に謁見を許した時のような、例えば王女が肖像画を描かせる時に腰掛けるような、その類のものではない。アームチェアーだ。装飾も無く、デザインも古風。ただ、良質のライカ欅を使い、皮張りは水牛。座り心地の良い、無骨な威厳を感じさせる椅子だ。
 その椅子に、一人の男が腰掛ける。その男の服装もまた、余計な装飾など無い。色は黒か、灰色がいい。地味とも言えるような服だ。その男は足を組み合わせ、左拳を握り、左の肘掛けで頬杖をつき、身体もわずかに左に傾けている。右手は、そっと前に差し出されている。
 そして、誰か……これは誰でもいい。例えば、部下でも。例えば、商人でも。その誰かは、跪き、その右手を受け入れ、忠誠を誓う。畏怖を示す。敬愛を伝える。椅子に腰掛けた男は、ただ、当たり前のようにその想いを受け取る。

 自分はその光景を、その部屋の壁際……いや、窓際。もしくは、椅子の後ろから眺めている。

 いつしかアクセルの頭には、マフィア映画の一場面そのものの、そんな光景が浮かんでいた。

 決まらなかったのは、椅子に腰掛ける男の顔。それは若きアル・パチーノであることも多かったが、大抵の場合、靄がかかったようにぼんやりとしていた。
 試しに、鏡で見た自分の顔を当てはめてみたことがある。しかしそれは、あまりにもそぐわなかった。一体どんな顔を、誰の顔を当てはめればいいのか、まるでジグソーパズルの残る一つのピースを探すように、アクセルはずっと考えていた。

 (俺じゃ……駄目なんだ)

 狭い木立の間、一人の傭兵が、剣を真っ直ぐに突き出してくる。狙いは、足。アクセルは軽く地面を蹴ると、その白刃に左足を置き、右足の爪先で傭兵の顎を蹴り上げた。
 何本か、矢が襲いかかる。マントを掠め、たった今蹴り上げた傭兵のこめかみに突き立つが、アクセルに血を流させるには至らなかった。

 (矢は……まだあるのか。『フライ』は使わない方がいいな)

 初めは遠くに、ぼんやりと感じる脅威。それは近づくにつれ、はっきりと輪郭が出来、そして肌を刺すように脅す。

 (……頭か)

 アクセルが足を曲げ、頭を下げると、木の幹に矢が刺さった。立ったままだったなら、左耳から右耳へと綺麗に突き抜けていたかも知れない。
 振り向きながら、矢が飛んで来た方向へ『マジックアロー』を四発放ち牽制、そして再び森の奥へと走り出した。

 (“椅子に腰掛ける男の顔”は……もう、換えがきかないんだ)

 空想の中の男の顔に、初めてナタンを当てはめてみた時、あの時はただ違和感がなさそうなだけだった。しかしあの時以来、もう、他の誰かの顔を試すことは無くなった。ナタンの顔は急激になじんでいき、今ではあの空想の光景を思い浮かべるだけで、彼の顔が現れる。
 本当に彼は、そこまでの男になるのか。それは分からない。しかし、既に変更が出来ないのは事実だ。“椅子に腰掛ける男”は、“椅子に腰掛けるナタン”になってしまっていた。

 (……死ぬなよ。死んでくれるな、ナタン。お前が、必要なんだ)








 ひゅひゅんっ

 二振りの剣が、風を縫う。襲いかかる二筋の白刃は、メイスによって甲高い音と共に弾かれた。

 「ふんっ」

 弾かれた勢いを利用し、身体を回し腰を捻る。背を見せて攻撃を誘い、そしてナタンは剣を寝かせて並べると、スルトの首と腰を狙い、叩き付けた。しかしスルトは誘いに乗らず、膝を曲げて上の刃をかわし、メイスを立てて下の刃を防ぐ。甲高い音だった。
 ナタンの脳裏に、何度か聞いた、女の悲痛な悲鳴が蘇る。続いて、それを聞くたびに沸き起こる不快感を連想する。そしてその隙を見破られ、彼が気付いた時には既に、スルトは肩から突っ込んできた。

 「っ……!!」

 身長も体重も、スルトの方が一段上。助走をつけた突撃ではなく、押し出すような体当たりだったが、それでもナタンの身体は人形のように弾き飛ばされ、数メートル後方の杉の幹に衝突した。

 「げほっ」

 そのまま杉の根本に座り込み、咳き込む。スルトは暫く、未だ彼の両手から離れていない双剣を眺めていたが、やがてメイスを腰に納めると、ナタンに近づいて右手を差し出した。
 そして初めて、ナタンは剣の柄から指を解き、その手を掴んで引き起こして貰う。

 「……だよなぁ。体当たりもあるよなぁ、そりゃ」

 引き起こされながら、ナタンは感心したように、何度も頷いていた。スルトは呆れたように首を振る。

 「常々思うが、ナタン」
 「ん?」
 「お前は、自分の身体を囮にし過ぎる。実戦では、相手は一人だとは限らんぞ」
 「うーん」

 自覚があったらしく、ナタンは自嘲するような曖昧な笑みを作ると、首の後ろを掻いた。

 「駄目だ、どうしても、怪我したらベルに治してもらえばいい……そんな風に考えちまって」
 「いない人間を頼ってどうする。それに、あいつの治癒の魔法を一般だと思うな。俺から見ても、少々異常なレベルなのだ。まぁこれは、治癒が苦手な俺の贔屓目かも知れんのだが……」

 擦り傷どころではない、裂傷や骨折ですら、アクセルは瞬く間に治してしまう。その腕前は見事なものだが、こうやって周囲の人間に、怪我というものをただの痛みだと錯覚させてしまうのは、副作用と呼んで差し支えないだろう。

 ナタンは二振りの剣を鞘に納めると、スルトの言葉に応えないまま、軽く柄頭を掌で払った。
 太陽は出ていない。どんよりと、緩やかに滴り落ちてきそうな程に重厚な黒雲が、青空を満遍なく塗り潰していた。夏とは思えないくらいに肌寒い。

 「……一雨くるな」

 ナタンに続いて事務棟に入る直前、スルトは独り言のように漏らした。

 地下の風呂で汗を流した後、ナタンは自室へ向かった。待っていたフラヴィが、無言のまま鏡台を指し示す。貴族の婦人が使うような、上等な化粧台で、何故アクセルがこれをナタンの部屋に備えたのか、理由を聞いてみたことがある。その時アクセルは、見た目を気にしろと、そんな風な事を言っていた。
 今までほとんど使わなかった椅子を引き、鏡の前に腰を下ろす。フラヴィは櫛を手にすると、ナタンの髪を梳いた。

 「アンタ、結構くせっ毛なのに、櫛の通りはいいね」
 「そうか? 初めて言われたな、そんな事」

 他愛もない会話。それを、どこか名残惜しそうに交えながら、フラヴィはナタンの髪を、丁寧な手つきで梳かし、少量の香油を染み込ませる。。肩まで伸びた髪が、彼女の手によって軽く纏められ、後頭部で結われていくのを鏡越しに眺めつつ、ナタンは人差し指でさっと眉を撫でた。

 「よっし、出来た、漢前っ」

 満足のいく出来だったらしく、フラヴィは掌でバンッとナタンの背を叩き、彼を立ち上がらせる。

 「んじゃ、あたしはこれで」
 「ああ、ありがとう」

 ナタンが言い終わる前に、フラヴィはドアを閉めていた。
 昨夜から、やけに肌寒い気がする。今にも降り出しそうな雨雲に覆われた空と相俟って、理由の有無に関わらず落ち込んでしまいそうな天気だったが、ナタンは鼻歌と共にクローゼットを開いた。
 ほんの数ヶ月前までは想像も出来なかった、着るものを選ばなくてはならないという贅沢。稽古の時の運動着から礼服まで、実に様々の服がハンガーを枕に眠っていた。ナタンは浴衣を脱ぎ、肌着を装備すると、革製の黒ズボンを穿き、金のバックルのベルトを通す。そして選んだ上着もまた、黒だった。その選択はほとんど無意識のものだったが、言い換えれば、ナタンの内側の顕現でもあった。

 「……よし」

 ナタンは上着のボタンを留め終え、ぽとりと呟く。そしてドアを開け、事務棟から娼館へと渡り、娼館の入り口で革靴を履くと、外に出た。

 ざっ……と、靴が土をはね除ける音が重なる。

 「行ってらっしゃいませ」
 「「「行ってらっしゃいませぇぇ」」」

 一人が言った後、男達の、野太い声が重なった。
 イシュタルの館、及びその周辺の治安維持に従事する“貝殻”達、総勢43名。揃いの貝殻紋の羽織を纏う男達が、ナタンの道を作るように、二列に並んでいた。メイジと非メイジの混合、誰も彼もが荒事に長けた屈強な男達。その彼等が、身分としてはただの平民であるナタンの前で、一斉に頭を下げる。

 「おう」

 それに臆すでもなく、尊大に構えるのでもなく、ナタンは軽く右手を挙げた。

 「んじゃあ……行ってくる。後はよろしくな」

 返事をするために、再び、男達の野太い声が上がった。
 ナタンは微笑むと、彼等の間を颯爽とした足取りで歩いていく。男達も無言のまま、彼を見送った。男達の列が途切れた頃、ナタンはふと立ち止まり、視線を上へと向ける。足下にはベニティエの泉、そしてその視線の先には、イシュタルの像があった。
 アクセルが作ったイシュタルという名の女神像は、門ではなく、娼館の方を向いていた。アクセルは娼婦の守護神だと言っていたが、成る程確かに、客を迎えるためではなく、娼婦を見守るための女神なのだろう。彼女は今日も変わらず、イシュタルの館を見守っていた。

 「……またな」

 そっと、ナタンは一言呟き、女神像から離れると、門に向かう。そこで更に、待ち受けている者がいた。その姿を認めた時、思わずナタンは立ち止まる。

 「どうしたんだ、バルシャ」

 ラヴィス子爵が予想を遙かに超える速度で帰還していたことに愕然とし、絶望感からか卒倒しかけたバルシャだったが、彼はまだ休もうとはしなかった。
 バルシャはズボンに半袖のシャツという、普段着そのものの服装だったが、背には矢筒を背負い、左手に長弓を握っていた。

 「……参りましょう」

 彼は静かにそう告げると、背を翻し、歩き出す。ナタンも若干駆け足になると、バルシャの隣に並んだ。
 二人揃って、通りを歩く。イシュタルの館へと至るその道の両脇には、手頃な価格の娼館や、それに関連した店が建ち並んでいた。もはや東地区は、ほんの数ヶ月前のゴミ溜めとは無縁である。

 「ラヴィス子爵に呼ばれてるのは、俺一人だぜ?」
 「ええ、あなた一人です。武器も持たず、一人で来いと」

 夜明け頃、イシュタルの館にはラヴィス子爵からの招待状が届けられた。そしてそれは、召喚状と呼んでも差し支えない。イシュタルの館の主人に、執政庁まで来るようにと、要約すればそれだけだった。

 「まぁ、あれだ。何か説教くらいされるだろうが、いきなり殺されるなんてことはねぇだろ」

 それが楽観過ぎる考えだとは、ナタン自身も感じていた。しかしそれでも彼は、身に寸鉄すら帯びてはいない。
 バルシャは何も言わなかった。

 この街の裏の顔役とはいえ、それはあくまで非合法な顔。ナタンはあくまで、平民なのだ。そしてこの世の平民の命は、塵芥にも等しい。大義名分などあろうが無かろうが、貴族であるラヴィス子爵は何の躊躇も束縛もなく手を下せる。

 寒気すら感じさせるような曇り空の下、二人は無言のまま、通りを歩く。

 「あら、イシュタルの旦那さん」

 風俗街を抜ける頃、そう言ってナタンを呼び止めたのは、一人の恰幅の良い女将だった。彼女が顔を出している扉の上には、“ヘビイチゴの館”の文字がある。更にその看板の上、二階の窓の手摺りから、化粧をした女が手を振っていた。

 「よう、ジュリーの姐さん」

 ナタンも挨拶を返し、二階の女にも手を振り返す。

 「お散歩ですか?」
 「まぁ……そんなところだな。景気はどうだ?」
 「お陰様で、と言いたいところですけどねぇ。昨夜、予約を入れてくれてたお客さんが全員来なかったんですよ。まったく、こっちは折角料理や酒を奮発してたってのに」
 「そりゃ災難だったな。何でも、北東の街道が土砂崩れで通れないらしい」
 「あらっ、本当ですか!?」

 目を丸くする女将に、ナタンは黙って頷く。女将は顔に手を当て、曇り空を仰いだ。

 「あーあー、何てこったい。それじゃウチは、商売上がったりじゃないか。ただでさえ領主様が不在で、ガキや小娘が街を仕切ってるってのに」
 「おいおい、そういう事、大きな声で言うもんじゃねぇよ」
 「いいんですよ。どうせお貴族様なんかが、こんな時間にここに来るわけも無いですし」

 吐き捨てるように言われたその言葉に、ナタンは密かに苦笑する。それを押し隠すかのように咳払いし、彼は再び微笑を浮かべて見せた。

 「まぁ、心配すんな。またウチのモンに、何とかするように言っとくよ」
 「あらまぁ、いいんですか? そんな事をしたって、どうせお役人も、礼も言わなければ金も払いはしませんよ」
 「アンタ等が商売あがったりってことは、ウチだって商売あがったりなんだ。黙ってたって、道が通れるようになるわけでも無し」
 「そりゃそうですけどねぇ」

 女将は口を尖らせ、まだ何か愚痴を言いたげだったが、店の奥からの彼女を呼ぶ声に応え、大声で返事をする。そしてナタンに別れを告げた後、彼の脇に佇むバルシャにも声を掛けた。

 「ああそうだ。残りモンで悪いんだけどねぇ、バルシャさん。料理や酒が余っちゃって、大変なんだよ。折角だし、良ければ貰ってくれないかねぇ?」
 「いや……俺は……」
 「おう、そうか。そんじゃ、有り難く頂いとくよ。ありがとな」

 断ろうとしたバルシャの前に割り込み、ナタンは満面の笑みで答える。反対しようとしたバルシャだが、女将はさっさと店の中に戻ってしまった。

 「んじゃ、またな。ペラジー」

 再び歩き出そうとしていたバルシャが振り向くと、ナタンが二階の女に手を振っているところだった。ペラジーと呼ばれた女も笑いながら手を振り返し、そのまま店の中へと戻った。
 バルシャにナタンが追いつき、二人はまた、石畳の上を歩き出した。そして数歩も歩かない内に、バルシャはそっと尋ねる。

 「……お知り合いですか?」
 「あ、ジュリーの姐さんか? ほらこの前、客を奪った奪わないで喧嘩になりかけた店があっただろ。そん時の仲介で、助けてくれたんだ。いやぁ、流石に娼館の女将だけの事はあるぜ。どっちが嘘ついてんのか、スパッと見抜いちまって……。そうだ、知ってたか? あの女将さん、昔、フラヴィとも喧嘩したことがあって、そん時も……」
 「あの、ペラジーという女は?」
 「え、ああ、あの娘か。先月くらいだったっけなぁ。ウチの女の子が足りなくなった時に、ジュリーの姐さんが助っ人に寄越してくれたんだ。客のご機嫌を取るのは、はっきり言って苦手なんだが、面白い話を山ほど知ってるんだ。場が白けそうになると、すかさず話題を変えたり……いやぁ、見事なもんだった」

 まるで自らの手柄話を語るかのように、ナタンは楽しげに話してみせる。
 しかし、街の中央、噴水の広場まで差し掛かったところで、ふとナタンは黙った。怪訝そうにバルシャが横を向けば、彼は頭をかきながら、横目でバルシャの顔を見ている。

 「……なんですか?」

 そう尋ねられたナタンは、暫く言いにくそうにしていたが、やがて愛想笑いを浮かべながら口を開いた。

 「いや、ひょっとして、こんな話はつまんなかったか?」
 「…………」

 心底呆れたような顔で、バルシャはナタンを見つめる。その表情に、ナタンは思わず怯んでしまった。

 「……ボスが、手下の顔色を窺ってどうするんですか」
 「え、いや、だって。むっつり黙っちまったから」
 「寧ろ私は、この状況でそんな風に振る舞えるボスに、尊敬の念すら抱いていますよ」
 「……なぁ、バルシャ。ひょっとしてそれって、皮肉ってヤツか」
 「ええ、そうです」

 誤魔化そうとすらせずに、バルシャははっきりと言ってのける。それに益々怯んだように、ナタンは顔を歪めて見せた。

 「……あ、ほら」

 バルシャの肩を叩き、ナタンはもう片方の手で噴水を示す。普段は人々がその縁に、休憩や待ち合わせの間に腰掛けているが、天気のせいか、今は人一人いなかった。そもそも、街を歩く人々からして少ない。

 「……噴水ですね」

 バルシャの無機質な感想に辟易しながら、ナタンは続けた。

 「言ったっけ? ここなんだよ。俺が、ベルと初めて会ったのは」
 「噴水の前で、ですか。運命的ですね」
 「いや、実際は、あいつが俺を見つけたんだけどな」

 ナタンの指がすっと動き、ローランのホテル“初月の館”を指し示す。

 「あそこ、ローランのホテルだろ? 俺、ベルには気付かず……って言うか知らずに、あの路地に入ってったんだよ。それをベルが追いかけたんだ」
 「路地裏で、ベルさんと会ったので?」
 「ああ、そうだ。俺がボコボコにされてるところに、ベルが助けに来てくれたんだ」
 「それはそれは」
 「まぁ、俺をボコボコにしたのはアニエスなんだけど」

 ぶほうっ、と、革袋が破裂するような音が響いた。バルシャが俯き、右手で顔を覆っている。
 ナタンはその顔を覗き込もうとした。

 「おい、今、吹き出しただろ」
 「……っ……」

 バルシャはそれには答えず、長弓を握ったままの左腕をぶんぶんと振って、ナタンの顔を遠ざける。それでもしつこく迫ってくる彼に耐えきれなかったのか、突然走り出した。

 「おいっ、ちょっと、待てよ」

 慌ててナタンも後を追う。
 走り出したと言っても、全力ではなく、駆け足程度だ。忽ち追いついたナタンがバルシャの襟を掴むが、彼は身を捩って逃れる。するとナタンは更に、矢筒に手を伸ばす。それから再びバルシャが逃れているうちに、いつの間にか二人は、噴水広場から執政庁へ至る道を随分と進んでいた。

 「……ふうっ」

 ようやく表情を落ち着けたのか、バルシャは顔を上げ、息を吐き出す。ナタンも軽く額の汗を拭いながら、彼の隣に並んだ。

 「っつーか、バルシャ。笑い過ぎだろ。そんなに滑稽だったのか」
 「すみません。場面を想像したら、つい……。しかし、何でそんなことに?」
 「……バルビエって商人に、家族を皆殺しにされてな。その敵討ちの途中だった」

 バルシャは息をのんだ。
 そのことを、知らなかったわけではない。ローランからも聞かされていた。しかし元々家族がいなかったバルシャにとって、その痛みを想像することは出来ても、理解することなど不可能だった。
 育ての親の死すら、バルシャはあっさりと飲み込んでいた。怒りが湧かなかったわけではないが、非合法な世界に生業を得た者の宿命だと、スムーズに納得することが出来た。
 しかし今、実際、ナタン自身の口から告白され、そしてその彼の声が明らかに色気を失っていたことに、自分が踏み込んではならない場所をバルシャははっきりと感じ取っていた。

 「……それは……」

 彼の記憶には、ナタンにかけるべき言葉が存在しない。
 言い淀むバルシャに、ナタンはフッと、短く笑って見せた。

 「まぁ、気にすんな。俺自身、気にしてねぇわけじゃねぇが……最近、ようやく、な。こうやって、誰かに話せるくらいになったんだ」

 いつの間にか、ナタンの歩みは早まっている。バルシャは少し慌てて、彼の後ろに続いた。

 「……なぁ、バルシャ」
 「はい」
 「さっき、女将さんが料理を勧めてくれた時、断ろうとしたろ? ああいうの、やっぱ、素直に貰っとくべきだと思うぜ」
 「……しかし、我々は、あのような見返りを求めるわけではありません。食うに困っているわけでも無いのです。それに、どこかで歯止めをかけなければ、いつかは、なし崩しに……」
 「あれはな……一種の、税金みたいなもんだ」
 「税金?」

 バルシャは怪訝そうな顔をすると、更に歩みを早め、ナタンの隣に並ぶ。

 「領主は下々から税金を吸い上げて、下々に対して責任を持つんだろ? それは、俺らも一緒じゃねぇか? 普段から相談に乗って、それで時々、ああやって贈り物を貰う。俺はな、それは別に、間違ったことじゃ無いと思う。……金を受け取れとは言わねぇよ。けど、ああやって料理を貰ったり、飯屋のオヤジに昼飯を奢ってもらったり、そういうのはあっていいと思うんだ。俺らが皆を助け、皆が俺らを助ける。それが本当に、受け入れられるってことで……この街で、この街と生きていくってことじゃねぇかと思う」
 「……何故、今、そんな話を?」
 「さぁ、何でだろな」

 バルシャの詰問のような口調には、多分に危惧が含まれていた。しかし、その彼の心配を宥めるかのように、ナタンは軽い口調で空惚ける。

 「死ぬつもりは……無いんですよね」
 「当たり前だ。俺だって、死にたいとは思ってない」
 「……なら、いいです」

 空の色がより一層、その暗さを増すかのように灰色雲を重ねた頃、二人は執政庁に辿り着いた。そして庁舎へと至る門の前に、守備兵たちが並んでいる。その先頭には、少女と呼んでも差し支えないような年齢の、女メイジが立っていた。

 「止まりなさい」

 ナタンに杖を向け、リーズは言い放つ。
 彼女は悪い女ではないと、アクセルはそう言っていた。そしてそれは、ナタンも同感である。

 「召喚したのは、たった一人の筈だが?」

 努めて男のような口調を使うその姿が、どこかアニエスと重なった。ナタンは背後のバルシャを振り返り、首を振ってみせる。

 「この後、狩りにでも行こうかと話していましてね。勿論、コイツは連れて行きませんよ。私一人で、子爵様にお会いします」

 ナタンのその言葉を保障するかのように、バルシャは何歩か後退った。

 長弓と矢筒を携えているのは問題だが、たった一人が弓を持って暴れたところで、守備兵達との戦力差は歴然。注意しなければならないのは、どこからか執政庁に侵入しようとする伏兵であると判断し、リーズも特に追求はしなかった。
 そして何より、リーズや守備兵たちは、ラヴィス子爵から勝手な真似はするなと釘を刺されている。事実、現在執政庁舎の内部には、子爵一人しかいなかった。

 「それでは……お邪魔します」

 リーズのディテクトマジックにより、非武装であると認められた後、ナタンはそっと、右拳を上空に向けて突き出しながら、門の内側に消えていく。

 バルシャはただ、その背を見つめていた。








 ナタンにとっては意外なことに、たった一人で執政庁の中へと通された。信用されたと取れば聞こえはいいが、何しろここへ来たのは一度だけ。案内も無しに歩き回れるほど記憶してはいない。

 (前の時は、ローランが一緒だったんだよなぁ。……いや、っつーかこれ、どこ行けばいいんだ?)

 一度リーズたちの所まで戻り、案内を請うのも間抜けな気がした。大声を張り上げてみようかと思った時、石造りの床に白墨で、矢印が描かれているのを見つけた。その先を目線で追うと、やはり次の矢印があり、それが奥へと続いている。

 (何だこりゃ、横着だな……。こんな手の込んだ演出するくらいなら、案内を寄越せばいいのに)

 いや、そもそも白墨で床に矢印など、子どもの道案内と変わりが無い。無骨な石造りの床に描かれた白い矢印など、うっかりすれば見逃してしまいそうで、ナタンはふて腐れながらも、注意深くそれを辿っていった。
 矢印は中庭の回廊をぐるりと回り、一階の、裏庭に面した部屋に出る。窓から見える裏庭は、訓練場らしい。更に奥には、焼け落ちた建物が見えた。恐らくあれが、かつての守備隊の宿舎なのだろう。
 そのまま訓練場へと下りることも出来たが、矢印は外へは向かず、大部屋の奥を示していた。ナタンはそっと、矢印以外の床を見回す。所々、斑点のように床が真新しくなっており、テーブルや椅子が置かれていたことがわかる。どうやら、この部屋は食堂か何かで、物は粗方仕舞い込んだのだろう。物置に入りきらなかったのか、壁際にいくつか、粗末なテーブルと椅子が重ねられていた。

 ナタンは立ち止まる。

 矢印の終着点に、円が描かれている。そしてその床の円の内側に、無造作に一振りの剣が放置されていた。そこらの武器屋で手に入れられるような、数打ちのブロードソード。

 拾え、ということなのだろう。しかしナタンは、躊躇った。手にした途端、その辺りに隠れていた人間が姿を現し、あらぬ罪を着せてくるかも知れない。非武装でここまで入れたのなら、ただ拾えというだけではなく、使えということでもありそうだった。

 「剣を拾いなさい、ナタン」

 突如として、名を呼ばれた。誰しもが、咄嗟に背後を振り向く状況。しかしナタンは、それをしなかった。
 声が続く。

 「あなたは、不運だ。何も知らなければ、何もしなければ……よりにもよって、ゼルナの東地区に手を差し伸べたりしなければ……ただの、家族を皆殺しにされた哀れな男として、同情されながら生きていくことが出来た」

 かつんと、靴音が響いた。ナタンは振り向かない。

 「あなたは、不幸だ。アクセル・ベルトラン……あの魔性の少年に魅入られた、不幸な男だ。こうしてとうとう、取り返しの付かない場所へと至ってしまった。もう、引き返すことなど出来ない。ここは墓場であり、墓穴だ。あなたはただ、そこに落ちるしかない」
 「随分と……余裕な事言ってくれるな」

 振り向かないまま、ナタンは返した。

 「生き急ぐは、若者の特権。そしてその対価を払わせるのは、大人の責務」
 「じゃあ、爺さん。死に急ぐアンタには、この俺が、その対価を払わせてやろうじゃねぇか」

 ナタンの爪先が、剣の下に差し込まれ、そして彼の手へと柄を運ぶ。左手で鞘を握り、右手で柄を握り、一息に振り抜く。その弧を描く切っ先に導かれるようにして、ナタンはついに、背後の男を振り向いた。

 「剣を拾え……そう言ったのはアンタだぜ。取り返しの付かないのは、アンタの方じゃねぇか?」
 「ああ、何てことだ。イシュタルのナタンよ。あなたは、剣を抜いてしまった。それで自害すれば……まだ、救いがあったろうに」

 ローランは右手を顔に乗せ、嘆くように天井を見上げた。彼の骨張った左手には、ナタンのそれと同じ、ブロードソードが握られている。

 降り出した雨が、静かに、裏庭の土を染め上げていった。



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