小説『漂流のA(ゼロの使い魔二次)』
作者:権兵衛()

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第1章 青き春の章

第29話<喪死>






 「……昨日降らないと思ったら……」

 フラヴィは愛用のロッキングチェアから立ち上がると、窓の前に立ち、腕を組んで溜息をつく。空を覆う黒雲が、いつもより近くに降りて来ている気がした。大粒の雨が窓ガラスを叩き、館をノイズが包んでいる。

 「あーあ、もう。どんだけ降るんだよ」

 降り出した頃、娼館を見回り窓の閉め忘れがないかを確認した。そして自室に戻ってきた時にはもう、小雨は豪雨となり、親指ほどもありそうな雨粒を叩き付けてきていた。
 昨日、昼の間に、ストールを用意していた。これ以上寒くなるなら、上着も必要かも知れないと思いつつ、フラヴィは踵を返し、部屋の外へと出る。一応は彼女も娼婦なのだが、最近では裏方に回ることが多く、もう随分と客を取っていなかった。その為、部屋は娼館一階の端にある。
 ざぁざぁと、凄まじい大雨だった。雨樋によって運ばれてきた水が、ポンプのように勢いよく噴き出している。

 (……そういや、あいつら、傘持ってなかったけど。流石にもう、役所には着いてるだろうし……)

 肩に掛けたストールを少し引き上げ、事務棟に渡ると、フラヴィの前から二人がやって来た。いや、正確には一人が歩き、もう一人は猫のように襟を持ち上げられている。

 「こっ、こらっ、いい加減に離せっ」
 「出来ん相談だ」

 じたばたと暴れるアニエスを片手で持ち上げているのは、大男のスルト。時折少女の踵が彼の脇腹や腹に当たっているが、びくともしない。

 「……何してんだい、あんた等」

 その光景に思わず頬を緩めながら、フラヴィが尋ねた。彼女に気付いたアニエスは、憮然として大人しくなる。スルトが立ち止まり、それに答えた。

 「こいつが、一人で脱け出そうとしていた」
 「違う、加勢に行くだけだ」
 「加勢?」

 アニエスの反論にフラヴィは首を傾げ、スルトは溜息混じりに首を振る。

 「言っておくけどな、私にだって、切り札くらいあるんだぞ」
 「切り札って?」
 「それは言えない」
 「……言えないのが切り札でもあるが、言う価値の無い切り札もある。お前のは後者だろう」
 「決めつけるなっ」

 アニエスは自分をぶら下げるスルトの腕を掴み、乾物のように吊されたままぐるりと振り向くと、もう片方の手で彼の顔に人差し指を突きつける。

 「だいたいだな、スルト。前々から言いたかったころがある」
 「何だ?」
 「いいか、私はな、この組織の初期メンバーなんだぞ。ベル君、ナタン兄、私の順だ! バルシャですら、私の後輩なんだ! にもかかわらず何だこの態度はっ、もっと先輩に敬意を払え!」
 「では先輩、どうか大人しくお待ちを。昼飯の時間まで、お昼寝でもされてたら宜しいんじゃないですか」
 「おいこらっ、厄介払いか! 待てっ」

 また暴れ出したアニエスだが、相変わらずスルトの精神も肉体も動じはしない。そのまま猫の子を連行するかのように廊下を渡り、階段を上がっていった。
 暫く二人を見送っていたフラヴィは、ふと振り返ると、彼等とは逆に娼館の奥へと進む。客も雨が降らない内に全員朝帰りを行い、ただザアザアと、雨の音がやたらに響いていた。

 「なぁ、姉御ぉ」

 そしてそんな中、寝間着をだらしなく着崩したギャエルが、フラヴィを見つけて話しかけてきた。口を開けて大あくびをする彼女のはだけた胸元に、いくつか口吸いの赤い跡が残っている。ボサボサの髪を掻きむしりながら、彼女は再びあくびをした。

 「何だいあんた、だらしない」
 「別にいいだろ? 昨晩の客、もう、しつっこいくせに下手クソでさぁ……。“気持ちいい? ねぇ、気持ちいい?”とか聞くなっつーに」
 「……成長したじゃないか。野良猫の頃のあんたなら、客の胸ぐら掴んで罵ってただろうに」
 「むぅ」

 からかうように言うフラヴィに口をとがらせ、ギャエルはしゃがみ込む。下着すらつけておらず、股の付け根まで見えた。

 「ああもうっ、そんな格好してんじゃないよ。ナタンやバルシャが見たら何て言うか」
 「まぁまぁ、二人とも出かけてるんだろ?」

 ナタンとバルシャの外出の理由を知るのは、娼婦の中ではリリーヌだけである。まさかイシュタルの館の存亡を賭けたものだと、そこまで気付ける者はいないだろう。
 それ以上反論する気も起きず、フラヴィは軽く天井を見上げ、それから首を振った。

 「あ、そうだ」

 当初の目的を思い出したのか、ギャエルは跳ねるように立ち上がると、左右を見回す。

 「クーヤなんだけどさぁ、知らない?」
 「あの爺さんがどうかしたのかい。確か昨日の夜は、マノンの部屋だった筈だけど……」
 「気分直しに一発ヤリたかったんだけど、見つからないんだよ。マノンも、起きたらいなかったって言うしさぁ」
 「…………」

 あの不敵な老人のどこに、女二人を相手にする精力があるのか……それも疑問ではあるが、そもそもその正体からして得体が知れず、アクセルが保証人になっているのみ。あの異常に疑り深く、滅多に他人を信用しない少年が、初対面で心を許したとなれば、それは何よりの信頼にも思えるが、それにしても少々迂闊すぎるのではないかと思う。自分に吸血鬼の血が混じっていたように、あの老人も、実は純粋な人間ではなく亜人の類なのではないかと、そんな疑問が浮かぶのも当然と言えた。
 しかし、それら世間体を気にしたような常識を取っ払って見ると、フラヴィの奥底には何故か、クーヤに対する奇妙な信頼感があった。アクセルの血を吸収する時のような、身体が洗われていくような清浄感とはまた別種のもの。包容力、とでも表現すべきなのだろうか。心が満たされていくような、暖かい気持ち。

 (……ま、いくら男に飢えてよーが、あんな爺さんを相手にしようとは思わないけど)

 どこへ行ってしまったのかと、ギャエルは彼方此方を見回している。勿論、それで見つけられるわけも無い。

 「とにかく、諦めてさっさと寝な。見かけたら、あたしが伝言しといてやるから」
 「……うーん」

 不承不承頷き、ギャエルは大人しく階段を上っていった。ちゃんと下着くらいつけなよと、その背に捨て台詞のように投げかけると、フラヴィはまた窓を見る。

 「……喧しい天気だよ、まったく」

 誰に聞かせるでもなく呟き、彼女はまるで追い払おうとするかのように、雨雲を睨んだ。








 執政庁の門の下で雨宿りする、急拵えの守備隊の靴は、既に泥で埋まっていた。ブーツの内側にまで染み込んでくる雨水は、少し動かせば音を立てるほどであり、耐え難い不快感を与えてくる。

 「…………」

 彼等の先頭に立つリーズは、じっと、顔を前に向けていた。
 最近街でよく見かけるようになった、貝殻の羽織の男が、ずぶ濡れのまま、門の外側に立っている。視線も動かさなければ、顔にかかる髪をのけようともしない。まるで死体が立っているようだったが、真一文字の傷の上にある、二つの目だけがぎらぎらと光っていた。その視線が向けられているのは、リーズの方向。しかし、彼の視線は彼女を擦り抜け、執政庁の奥へと向けられていた。
 身じろぎもしない弓の男は、主の帰りを待つ忠犬のように、ただ静かにそこにいた。リーズの背後の守備兵たちが、ボソボソと何事か話している。彼等の視線は、さながら幽霊を目の当たりにした時のようなそれだった。
 彼が手に持つ弓、それに射られる矢が、一体どこへ向かうのか。その視線に気圧されていることを自覚しながら、リーズはそれでも、バルシャから目を離そうとはしなかった。

 一方のバルシャだが、彼が弓を持って来たのは、合図の矢を射る為である。中に花火が仕込んであり、豪雨ではあるが、イシュタルの館への合図としては十分に機能してくれるだろう。勿論、少女達を逃がす時の為の。
 残りの矢は、ナタンが帰って来なかった時の為だ。守備隊を何人相手にすることになろうが、絶対に、矢は一本だけ残す。そして残ったその矢を、絶対に、ラヴィス子爵の額に突き立てる。

 “その時”を待つ両者は、今はただ、豪雨の中で待つことしか出来なかった。








 ブロードソードが振り上げられる。高々と屹立し、さながら断頭台の刃のように、一直線に振り下ろされてくるであろうそれを予感。その予感に晒された大抵の人間がそうするように、ナタンも手に持ったブロードソードで受けようとする。
 しかし、ローランの剣は雨粒のように真っ直ぐには落ちなかった。さながらツバメのように弧を描き、ナタンの足を狙う。ナタンは密かに鼻で嗤うと、床を蹴って跳躍し、右足でローランの顎を蹴り上げようとする。が、ローランは身を引いてそれを避け、更に一足跳び下がった。

 「……基本は、心得ているようですね」
 「ハッ。この程度でお褒めに与れるとは、光栄でございます……とでも言えばいいのか?」

 ローランが剣術使いだということは、ナタンも知っていた。アクセルの祖父を、盗賊から守ったと伝えられるほどの腕だということも。
 振り下ろすと見せかけて足を斬り飛ばす、傭兵の剣術。以前は、アクセルにもその手で散々にやられてしまったものだが、流石にもう、易々と斬られてしまわない為の動きは出来るようになった。

 「……聞かせろよ、ローラン」

 跳び下がったローランを追わず、ナタンは口を開く。

 「何で裏切った?」
 「裏切ってはおりません。私は初めから、ラヴィス子爵の麾下にあります」

 恐らくは、アクセルの祖父を助けたあの時からか。少なくともその頃から、ローランはラヴィス子爵家に仕えていた。

 「……で、どこまでだ?」
 「どこまで……とは?」

 ローランは軽く首を傾ける。
 客に対する顔でも、今までアクセル達に接してきた顔でも無い。ナタンが初めて見る、敵意を含んだ冷酷な表情。己の心を殺して人の命を奪う、殺人者の顔だった。

 ナタンは床を蹴り、飛び込むようにしてローランに斬りかかる。ローランは腰を沈め、それを真正面から受けた。重なった刃が、悲鳴に似た金切り声を上げる。

 「アクセルが黒幕だってことは、当然報告したんだろうが……。テファのことは? フラヴィのことは?」
 「ああ……それは流石に、言えるわけもありません」
 「そうか、なら良い」

 刃がするりと離れ、ナタンの剣が回った。ローランも手首を回し、脇腹へと襲いかかる刃を防ぐ。一度剣を引いて身を沈め、ナタンは喉を狙って突きを繰り出すが、ローランは独楽のように回転すると、懐の内側へと入り込んだ。

 「ぐっ」

 回転した勢いのまま、柄頭で腹を打たれ、ナタンの歯の間から呻きが漏れる。距離を取ろうと退がる彼を許さず、ローランは再び身体を半回転させながら、彼の頭上へと剣を振り下ろす。それを弾き、ナタンは尻餅をつきながら後転、そして立ち上がり剣を構え直した。

 「……面白かったか? 滑稽だったか?」
 「…………」
 「大人にばれてるとも知らず、無邪気に自分の城作りに精を出す子どもを見てるのは」
 「無邪気……とは言えないでしょう」
 「まぁ確かにな」

 ナタンは軽く笑みを漏らすと、手に持った剣を握り直す。ローランも、今度は真横に構え直した。

 「……不幸な男だ」
 「そりゃ、誰のことだ?」
 「ちょうど今、私の目の前にいますね」

 視線を強めながら、ローランは続ける。

 「そうやって剣を持つことなく、一生を終えることも出来たでしょうに」
 「…………」
 「商人バルビエの金、子爵の息子アクセル・ベルトランの権力、傭兵メンヌヴィルの武力……その全ては、偶然に手に入ったもの。それはさながら、子羊に大鹿の角を与えるにも似ています。角を持とうが、子羊は子羊。角を得ることは、幸運ではなく不幸なのです」
 「つまりそりゃ、ボスの俺が力不足だってことか」
 「はい、言うまでもなく」

 まるでそれを証明しようとするかのように、ローランは飛び出した。先ほどまでとは一転して、突撃のような迫力がある。

 「ざけんなっ、ジジイ!」

 怒声と共に心を奮い立たせ、ナタンも斬りかかる。ローランの攻撃を弾き、自分の剣を彼に食い込ませようとするが、逆に刃が肩を掠めた。
 刃が激突するたびに、指に震えが来る。身体のどこかに、火かき棒を押しつけられた痛みが走る。

 (くそっ、だめだ……)

 若さと体力で勝っていようが、剣の腕と経験値は、ローランが圧倒していた。
 振り下ろそうとした刃を受け止められ、がら空きになった胴体に前蹴りを受ける。ナタンは咄嗟にその勢いを利用すると、大きく跳び下がった。
 ローランは追ってこない。流石に息が続かなかったのか、肩を静かに上下させていたが、ここで斬りかかればまた、こちらが一方的にダメージを重ねることになるだろう。
 手や足の所々に感じる、火傷のような痛み。今までも散々に感じてきた痛みだが、何故か今回は、それに耐えるのにも苦労する。

 (……本物の、自分より強いヤツとの殺し合いか……)

 殺される可能性が高い、その緊張感が、徐々に余分に体力を消耗させている。

 「……少々、剣の腕には自信があります」
 「今更かよ……」
 「そしてあなたを上回る私の剣でも、メイジには勝てませんでした。それほどに、メイジと非メイジとの差は大きいのです」

 火の玉を放ち、風の刃で襲い、土のゴーレムを操り、水で傷を癒す。いやそれ以前に、レビテーションで持ち上げられてしまえばまず抵抗できない。そんな相手に剣一振りで挑むなど、正気の沙汰ではなかった。
 アクセルがあっさりと殺して見せた傭兵メイジも、ローランにとっては手も足も出ない怪物。

 「確かに、現在、あなたの組織は強大な力を有していると言えます。こんな片田舎に不釣り合いな、ね。……何故あなたが駄目なのか、はっきり言いましょうか」
 「……是非聞きたいね」

 口にたまっていた血を吐き捨て、ナタンは口元を拭う。

 「野望、です」
 「……野望?」
 「金を手に入れたい、いい女を抱きたい、上等の服を着たい、他人を跪かせたい、尊敬されたい、恐れられたい……その欲望が、なさすぎます。聖職者にでもなったつもりですか? それとも正義のヒーロー? 予言……いや、断言しましょう。あなたは近い将来、部下にボスの座を逐われる」

 ローランは剣を持ち上げ、その切っ先でナタンを指し示した。

 「折角の武力も、治安維持の為だけに使うのなら宝の持ち腐れ。裏組織であるからには、のし上がらなければなりません。そしてそれを実現させる強い野望が、あなたには欠如している。それは何故か……。あなたはたまたま、本当に偶然に、その座に納まったに過ぎないからです。他の、例えば通りを歩いている酔っ払いにすら、あなたの代役は務まります。あれほどの人材を抱えていながら、潰す方が難しいのですから」

 図星だと感じたのか、ナタンは視線を伏せる。更に、ローランは重ねた。

 「野望とは、つまり夢。組織に、現状維持など許されません。常に夢を見、常に上昇し、常に拡大しなければならない。ボスの夢に、部下達も夢を見るのです。……奴隷市場の掌握によって、クルコスの街の裏の鼎立は崩壊しました。何故、その勢いのまま、クルコスの裏を支配しようとしなかったのです? あなたには、夢が無い。荒くれどもの上には立てない、善良な平民なのです。アクセル・ベルトランはそんなあなたを引き上げ、強引にトップに据えてしまった。あまりにも、残酷に過ぎる仕打ちだと……私は思います。言うなれば、あなたは被害者でしょうね。貴族の息子の気紛れによって、人生を狂わされた哀れな……」

 そこまで言って、ローランは気付いた。いつの間にか、ナタンが顔を上げていることに。

 「……一つ聞きたい」

 彼の視線に、ローランの肌が静かに粟立った。
 ナタンの変化を、ローランは見逃していた。先ほどまでは一飲みにさえ出来てしまいそうな若造であったのに、いつの間にか、巨大になっている。こちらが押し潰されてしまいそうな程に巨大なそれは、精神の具象化だった。まるで、濁流に晒され続けた盤石のように泰然としている。果たして自分に動かせるのかと、そんな疑問が頭を掠めた。

 「いい女を抱きたい……金が欲しい……いい服を着たい……。その程度か?」
 「…………どういうことでしょうか?」

 ローランは、父親が大嫌いだった。
 決して自分では勝てそうにない存在だという、その絶対性を、何よりも嫌悪して憎悪した。
 父親と相対する時、いつもローランは、ちょうど今と同じように、歯を食いしばる。カチカチと、音を立ててしまわないように。

 「ヤクザ者のボスってのは、皆……その程度の野望でやって行けるのかってことだよ」

 ローランは、思わず目を見開く。
 ナタンがまるで、枯れ木でも捨てるかのように、ブロードソードを傍らに放り投げていた。

 「じゃあ、俺の勝ちだな。俺の野望は、そんなものよりずっと……デカイんだから」

 静かに、身を沈める。そして目は、真っ直ぐ、ローランの顔を睨み付ける。身体は、倒れるように前のめりに。
 ローランが剣を構え直そうとした瞬間、ギリギリまで引き絞られていた矢のように、ナタンは放たれた。倒れかけた身体を起こしつつ、顔はローランに向けられたまま、一直線に。
 一人の男が、自分の全てを以って、真正面からぶつかってくる。避ければ確実に敗北すると、ローランは直感した。避けてしまえば、恐らくもう、自分では彼を殺せない。
 避けられないならば、突きで確実に殺すべきだった。しかしそれを選べなかった時点で、ローランは既に敗北していた。振り上げた剣で、ナタンの頭を割ろうとする。

 「!?」

 しかし振り下ろした剣は、ナタンの髪にも届かなかった。レバーのように回転しながら出された彼の腕に、刃が深々と食い込んでいる。刃は、骨で止められていた。

 「おおおおおおっ!」

 痛みに打ち勝つため、そして力を振り絞るため、ナタンは吼える。ローランはただ、その咆吼を目で見ているしかなかった。
 ナタンの額が、ローランの顔面に衝突する。鼻の奥底から鉄臭い臭いが広がり、ローランは反射的に目を閉じたまま大きく仰け反った。両の鼻から血が吹き出す。ナタンは無事な片手を伸ばし、ローランの襟首を掴むと、引き寄せつつ再び顔面に額をぶつけた。
 解放されたローランの身体が、人形のように床に崩れ落ちる。顔を顰め、呻きながら鼻を手で覆う彼の耳元に、ブロードソードが突き立てられた。

 「悪い、ローラン……。俺はもう、とっくに、お前より強くなってたようだ」

 突き立ったブロードソードによりかかり、左腕を鮮血で染めたナタンは、そう言いながらローランの顔を覗き込む。

 「勿体ないぜ、ローラン。何で、ベルを選ばなかった? あいつに信頼されるなんて、これでもう、二度と無いだろうに」
 「…………」

 ローランは無言のまま、そっと、瞼を開けた。ナタンは大きく溜息をつきながら、背を伸ばす。そして呆れたような笑顔になると、床のローランに右手を差し出した。

 「そろそろ、聞かせてくれねぇか? ラヴィス子爵が、イシュタルの館を潰したい理由を……」
 「悪いが、それは出来んな」

 ハッと、ナタンは振り向いた。ローランのものではない、新しい声が聞こえた。背後を振り向くと、アクセルと同じ髪の色の貴族が、こちらに杖を向けている。
 振り向いた瞬間、自分の身体が揺れた。その理由を探ろうと視線を下げたナタンの視界に、光が入る。
 黒い服だった為、出血に気付くのに、二秒ほどかかった。胸にコインほどの大きさの、小さな穴が穿たれている。

 (ああ……。マジックアローか)

 彼は思わず笑ってしまう程冷静に、そう判断した。








 「……え?」

 バシャバシャと、泥の跳ねる音が近づいてきていた。伝令か何かだと思っていたリーズは、突然フードを取り去った小柄な人影に、それだけしか言えなかった。

 「アクセル・ベルトラン……今、戻った」

 事務報告のように無機質に、アクセルはそう告げた。
 ひどい有様だった。髪は乱れ、顔には泥がこびり付いている。それだけではなく、ボロボロに破れた服の所々に、模様のように血液が染み込んでいた。雨粒が洗い流したことを考えても、相当に出血していたのだろう。傷は全て治癒の魔法で塞いでいるが、その幼い身体の消耗は、火を見るより明らかだった。

 「わ、若様……?」

 確認するようにリーズが尋ねるが、アクセルは振り向き、バルシャを見ていた。目を見開く彼に、リーズにはわからないよう、軽く視線を返す。そしてすぐに前を向くと、守備隊の中に割って入った。

 「若様っ」

 慌ててリーズが追い縋る。何故こんな状態で帰還したのか、それよりも先ず、アクセルを止めるのが先だった。

 「お父上のご命令で、入ってはならないと! そ、それに、この二人は……?」

 同じく泥だらけの、二人の男。

 「ハンスだ」
 「マルセルだ」

 二人とも、事も無げに言うと、アクセルの後に続こうとする。

 「若様っ」

 再びアクセルを止めようとしたリーズだが、ぐいと、信じられない程の力で胸元を掴まれ、引き寄せられる。斜めになった彼女の顔に、アクセルは無表情のまま言った。

 「父上の一大事に、息子が助っ人を連れて戻った、それだけだ。邪魔をするな」

 ただ、それだけ。それだけの言葉で、リーズは何も言えなくなった。
 迫力だけではない。アクセルは、他人の襟を捕まえて引き寄せるような、乱暴な真似はしない。その上、こんな冷たい表情など見せたことはない。

 驚愕で何も出来ず、ただ呆然と立ち尽くす彼女の脇を擦り抜けつつ、アクセルは外套を脱ぎ捨てた。残る二人も、それぞれ雨水を吸ったマントを泥の中に放り捨てる。

 「あーあ、休みてぇ」

 試しにマルセルが弱音を吐いてみるが、アクセルは完全に無視した。そして三段ほどの石段を飛び越えると、庁舎の中へと走る。

 「まあ、さっさと終わらせようか」

 マルセルの背を軽く叩き、ハンスも駆け足になった。

 中庭を囲む回廊を走り抜け、人の気配を探る。森を突っ切った時の、野獣のような勘は未だ続いており、三人の気配はすぐに感じ取れた。
 食堂だった。

 「……っ、ナタンっ!!」

 肺が、口から飛び出そうになる。名を呼びながら、アクセルは転がり込むように、目的の場所にたどり着いた。

 うち捨てられたように転がった剣、突き立てられた剣。その傍に倒れるローラン。壁際に立つ、久方ぶりの父親。後方から、二つの駆け足が聞こえてくる。
 もはや立つこともままならず、床に膝をつくアクセルに、ナタンが振り返った。

 「ああ……ベルか」

 アクセルの顔が歪んだ。それを揶揄するかのように、反対にナタンは笑う。

 「その……すまねぇな」

 そんな顔をするなと叫ぼうとしたアクセルの声は、掠れて形にならなかった。
 疲労だけが理由ではない。少年の指が震え、顔は益々歪み、唇は必死に言葉を紡ごうとして藻掻く。
 ナタンは悪事を見られた子どものように、困った笑顔を作っていた。

 「俺な、ほら、これ……もう……死ぬんだ」

 胸に空いた傷を指さし、そう呟いた後、ナタンは笑顔のまま、アクセルの目の前で崩れ落ちた。


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